春うらら:9スレ目887

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887 :◆Neko./AmS6 [sage saga]:2011/05/03(火) 20:30:00.56 ID:fK0gY2ago こんな筈じゃなかった。俺なりに頑張ってきたつもりだった。 夫として、家族の一員として精一杯尽くしてきたというのに……。 俺はテーブルに置かれた用紙を見つめながら、緊張と屈辱感に震えていた。 用紙には、はっきりと離婚届と印刷されている。 ご丁寧なことに必要事項は既に記入済みだし、妻の欄には捺印までしてある。 あとは俺が夫の欄に自分の名前と住所を記入し、最後に判を押すだけだ。 只それだけで、こんな紙切れ一枚で、俺とあいつの結婚生活に終止符が打たれる。 「……お義母さん……どうしても、別れなきゃいけないんでしょうか?」 「京介さん、私も主人も、よくよく考えてのことなの……  あなたと娘には、このさい別れて、人生をやり直す方が一番良いと思うのよ。  あなたたちはまだ若いのだし、幸いなことに子供もいないのだから……そうではなくて?」 あいつの実家から呼び出された時点で、話というのが何なのか大方の予想はついていた。 しかし、予想していたとはいえ、こうして目の前に離婚届を突き付けられると……。 俺に甲斐性がないことは、俺自身が一番分かっていた。 それでもあいつは俺の愛を受け入れ、俺と結婚してくれた筈なのに。 すべてはお義母さんの差し金で、あいつだって離婚までは考えてなかったんじゃ…… 「京介さんが納得できないというのは、私もそれなりに分かってはいるつもりよ。  でもね、今回のことは……離婚の件は、娘のあやせから言い出したことなの。  夫婦の間のことだから、他人がとやかく言うことではないけれど……  娘が不幸になると分かっているのに、親としてそれを見過ごすわけにはいかないわ。  それにあなたにも、あやせの夫としての責任があったのではないかしら?」 俺はあやせの両親に対して、まったく頭が上がらなかった。 今から三年前のこと、俺は大学の卒業をまじかに控えても就職先が決まらず、 当時あやせと交際していた俺を気遣って、彼女の親父さんが世話を焼いてくれたんだ。 あやせの親父さんは地元の議員で顔も広く、各方面にもそれなりのツテがあった。 俺は、大学を卒業すると同時にあやせと結婚した。 あやせにとっては学生結婚になっちまったが、彼女がそれを強く希望したんだ。 頑張ろうと思った。あやせのためにも、そして、俺なんかのために骨を折ってくれた 親父さんのためにも。……しかし、現実はそう甘いもんじゃなかったよ。 あやせの親父さんが東奔西走して、やっとのことで紹介状を書いてくれたその会社は、 某一流企業の関連会社の下請けと取引のある、社長を含めて社員三人の小さな会社だった。 その会社にとって、俺は数年ぶりの新入社員だということで大歓迎された。 社長さんは奥さんの尻に敷かれ、いつも怯えているような人だったけど、 俺を家族の一員のようにして温かく迎え入れてくれた。 たしかに、社長以外は専務の奥さんと経理部長の娘さんだけなんだから、 俺以外は家族ってわけなんだよな。 会社勤めを始めて一ヶ月なんてもんは、瞬く間に過ぎちまう。 初めての給料日、俺はあやせに何か買ってやろうと思い、朝から落ち着かなかった。 あやせもご馳走を作って待っていると言って、俺を笑顔で送り出してくれた。 片道一時間の自転車通勤、その日の朝は、ペダルを踏む俺の足も軽かった。 いつものように朝礼を終えて書類を確認すると、俺は取引先へと向かった。 俺はこの会社で初めての総合職として、毎日靴の底をすり減らして営業に駆けずり回った。 「ご契約の条件と内容は、これでよろしいでしょうか。  ……それでは、今後とも当社をどうぞよろしくお願いいたします」 この会社に入社して、初めて契約が取れた瞬間だった。 すぐにでもあやせに電話してこの喜びを伝えたかったが、俺はぐっと我慢をした。 こんなことくらいで有頂天になってちゃいけねえ。 この先も一件でも多く契約を取って、あいつを幸せにしてやらなくちゃ。 俺は胸ポケットに入れた携帯をスーツの上からギュッと押さえ、次の取引先へと急いだ。 その日はひと通りの取引先に顔を出した後、夕刻になって帰社すると、 社長の奥さんから給与明細の入った茶封筒を手渡された。 俺は経理部長の娘さんと軽く冗談を交わしながらさり気なく席を離れ、 薄暗い雑居ビルの廊下を突っ切ってトイレに入ると、封筒から給与明細を取り出した。 「……学生んときの、バイト代の方が多いんじゃねえのか?」 俺はタイムカードを押すと、重い足取りで帰路についた。 家で待っているあやせに、駅前の花屋でバラの花を一輪だけ買ってはみたものの…… 自転車のペダルが朝と比べるとどうしようもなく重かった。 帰宅してから俺は、給与明細の入った封筒とバラの花をあやせに差し出した。 あやせは封筒の方は受け取らず、バラの花だけを受け取った。 「お兄さんが汗水垂らして働いて得たものなんですから、  それは、お兄さんが全部使ってください。  わたしはお兄さんが買ってくれた、このバラの花だけで十分です」 あやせと結婚して本当に良かった。 何度も死ぬんじゃねえかと思うほど酷い目に遇わされようが、 コツコツとあやせイベントをクリアしてきた努力が報われた心地だった。 俺は妹の親友のあやせに初めて出会ったとき、一瞬のうちに恋に落ちた。 いわゆる一目惚れってヤツさ。 あやせの言うことなら、俺は何でも聞いてやった。 どんなに困難なことでも、あやせの笑顔が見られるならと一生懸命に頑張ったんだ。 しかし、どうしても思うようにいかなかったことが二つだけあった。 ひとつ目は就職、そして二つ目が…… 「お義母さん、京介です。……只今帰りました」 そうだよ、新婚だってのに、あやせとの新居が用意できなかったんだ。 俺の実家で、俺の両親と一緒に暮らすという選択肢は初めからなかった。 何しろ実家には、妹の桐乃がふてぶてしく居座っているんだからな。 もしも、俺の実家であやせとの新婚生活を始めようと思えば、 当然のこと、今までの俺の部屋が俺たち夫婦の部屋となるわけだ。 考えてもみろよ、隣の部屋には桐乃がいるんだぜ。 あやせとも話し合って、しばらくは彼女の家に厄介になることとなった。 一人娘のあやせを両親も、特にお袋さんの方は手元に置きたかったようだしな。 つまり俺は、サザエさんのマスオさん状態なわけさ。 執務室の重い扉を押し開けると、あやせのお袋さん、じゃなくてお義母さんは、 机の上の書類から眼を離し、無言で応接セットのソファーを指し示した。 口元に上品な笑みを浮かべてはいるものの、目が笑ってねえ。 俺は軽く会釈をしてから、ソファーに浅く腰を掛けた。 「京介さん、毎日お仕事ご苦労様です」 「い、いいえ……ぼ、僕なんか新人ですから、まだ右も左も分からなくて……」 「まあ会社勤めというものは、そういうものよ。そのうちに慣れるわ。  ……ところで、たしか今日は、京介さんの初めてのお給料日だったわね」 「は、はい、給与明細はこちらに――」 「いいえ、別に私に見せる必要なんてないのよ。  京介さんの通帳は、娘のあやせが管理しているのだから……そうでしょう」 何なんだよ、このプレッシャー……。 サザエさんのお袋さんのおフネさんは、マスオさんにもっと優しいじゃねえか。 まさかこの先、毎日の帰宅の挨拶に加えて、給料日イベントが加わるんじゃ……。 だけど、あやせと結婚できたんだから、これしきのこと我慢しなけりゃいけねえよな。 頑張って仕事して給料も上がれば、俺もアパートくらい借りられるようになるだろうし。 「京介さん、そろそろお夕食にしましょうか」 「は、はい。……それでは、僕は着替えてから食堂へ参ります」 あやせとの夢のような新婚生活を期待していた俺が甘かった。 それもこれも、俺に甲斐性がねえのが原因だから文句も言えねえけど。 俺の救いは、今も変わらぬあやせの天使のような笑顔と……言わせんな恥ずかしい。 891 : ◆Neko./AmS6 [sage saga]:2011/05/03(火) 20:32:12.63 ID:fK0gY2ago あやせと結婚してから、三年目が経過しようとしていたある日のことだ。 俺はマスオさん生活にも慣れ、会社での仕事もようやく軌道に乗ってきたというのに……。 いつものように仕事を終えて夕飯の買物をしてから帰宅すると、あやせは家にいなかった。 散歩にでも出掛けているんだろうと軽く考え、お義母さんの執務室をノックしてみると、 お義母さんも部屋にはいなかった。 議員を務めているお義父さんは、地方視察で帰宅は深夜になると聞いていたから、 そのとき家にいたのは俺だけだった。 「……メモくらい、置いて行ってくれてもいいじゃねえか」 俺は着替えを済ませてから日課になっている風呂掃除を終えると、 リビングのソファーに座って、ひとり缶ビールを飲んでいた。 普段なら夕飯前にビールを飲むことなんかねえけど、なんだか無性に腹が立ってきたんだ。 いくら安月給とはいえ、俺は一日も休むことなく会社勤めしてんだよ。 それなのにこの家の女共ときたら、お義母さんは県政モニターとかで年中家を開けるし、 あやせだって料理を作ってくれたのなんか、最初の一年目だけじゃねえか。 俺は、この家の住込みのメイドさんじゃねーよっ。 二人が帰宅したのは、俺が三本目の缶ビールを飲み干したときだった。 お義母さんは、リビングのソファーで缶ビールを飲んでいた俺を一瞥すると、 鼻で笑って自分の部屋へと引き揚げて行った。 あやせは哀しそうな眼差しで俺を見つめ、無言のまま俺の側に寄ってきた。 「あやせ、俺になんか用でもあんのかよ」 「…………お兄さん、あまり飲み過ぎると、身体に毒だと思いますよ」 「そりゃあ悪うござんしたねっ。……どーせ俺は、この家の使用人でござんすよ。  俺が身体を壊したら、風呂掃除も料理も、てめえらでやらなくちゃなんねーってか」 「お兄さん、わたしはそんなつもりで言ったんじゃあ……」 分かってはいた。あやせがそんなヤツじゃないってことはな。 すべては、あのクソババアの差し金だった。 俺とあやせが仲良くしていると、決まってあのクソババアは俺に用事を言いつけた。 同じことが何度も繰り返されりゃあ、いくらあやせだって母親に遠慮しちまうよ。 俺はその日、あやせの家を飛び出して実家へ帰った。 結婚して以来、俺はあやせの両親に遠慮して、一度も実家へ帰ったことがなかった。 まだ若いからと、あやせとの結婚に反対した親父やお袋に合わせる顔もなかったし、 何よりも妹の桐乃に会うのが怖かった。 桐乃から、一番の親友だったあやせを奪っちまったのは俺だもんな。 そんな俺を桐乃がどう思っているかなんて、想像するだけでも怖かった。 しかし、それらはすべて俺の杞憂に過ぎなかったと、帰ってみて初めて分かったよ。 あやせの家を飛び出してきた俺を、親父もお袋も温かく迎え入れてくれたんだ。 ちょうど夕飯時で、俺はお袋に急かされるままに手を洗い食卓についた。 久しぶりに食べるお袋のカレーは死ぬほど美味かったよ。 親父は相変わらずの無口だったが、晩酌をする口元が緩んでいたのが印象的だった。 俺が最も恐れていた桐乃は終始無言のまま、黙々とカレーを口に運ぶだけだった。 結局、帰宅してから夕飯が終わるまで、俺と桐乃が会話を交わすことは一切なかった。 仕方なく食器を流しに置いて、俺は荷物を持って自分の部屋へと階段を上がった。 俺は自分の部屋のドアを開けた瞬間、その場に立ち尽くした。 なぜかって、俺がこの家を出たときと、何一つ変わっちゃいなかったからさ。 綺麗に掃除はされてたけど、俺が残していったものはすべてそのままになっていた。 この部屋は俺が出て行ったときから、時間が止まってたんじゃねえかと思うほどだった。 すぐに俺は階段を駆け下りると、キッチンで洗い物をしていたお袋に礼を言った。 しかし、お袋の返答は、俺の予想を遥かに超えるものだった。 「京介、あんたの部屋はね、桐乃が誰にも触らせなかったのよ。  母親のわたしにもね。……あんたの部屋には、誰も入れさせないといって聞かなかったの。  そうじゃなかったら、今頃はとっくに物置になってたわ」 俺は溢れ出る涙を拭うこともなく、階段を駆け上がると桐乃の部屋のドアをノックした。 しばらくすると静かにドアが開かれ、不機嫌そうに桐乃が顔を出した。 喉元まで言葉が出掛かってるのに、久しぶりに桐乃の声が聞けるってのに…… 「……桐乃……ありがとな。俺……俺さぁ……」 桐乃は不機嫌そうな顔を作るのにも限界がきたらしく、頬をひくつかせながら俺に言った。 「お、お帰りなさい……バカ兄貴」 「……ああ……ただいま」 実家へ戻った日の夜、俺は久しぶりに自分の部屋のベッドで眠った。 翌朝、俺は数年ぶりにお袋に起こされて目が覚めた。 眠気まなこで周囲を見回すと、そこは永年住み慣れた懐かしい俺の部屋だった。 机の位置も、洋服ダンスの位置も、何もかもが俺の記憶通りだ。 只ひとつ違うことと言えば、カレンダーだけが新しいものに架け替えられている。 カレンダーに描かれた絵を見りゃ、誰がやってくれたかなんてすぐに分かる。 俺が家を空けていた数年の間、あいつは毎月この部屋に来ては一枚ずつカレンダーを捲って、 そして捨てていたんだろう。……いつ帰るとも分からねえ、そんなバカ兄貴のためにな。 「ところで京介、あんた会社はどうするの? 新しいところでも探すつもり?」 お袋の言うことはもっともだった。 いま勤めている会社は、元はと言えばあやせの親父さんのコネで入社できたんだしな。 今更どんな言い訳をしたところで、俺は新垣の家を飛び出して実家に帰っちまったんだから、 お義父さんだって内心穏やかじゃねえだろう。 「取りあえず出勤はするよ。無断欠勤なんかしたら信用を無くしちまうからな。  それに、取引先のお客さんにも迷惑を掛けたくねえし」 「京介が就活のとき着ていたスーツなら、クリーニングに出してタンスに入れてあるから、  今日はそれを着て行きなさい。……ワイシャツなんかもタンスの中にあるわ。  ……京介、あとで桐乃に、ちゃんとお礼を言っときなさいよ。  あんたがいない間に、桐乃が全部やっといてくれたんだからね」 そのことについては、昨夜寝る前にタンスを開けて分かっていた。 俺がいない間、桐乃がこの部屋に誰も入れさせなかったとお袋から聞いて、 誰がここまでやってくれていたかなんてな。 「ねぇ、京介。……あんた、あやせちゃんと結婚するよりも、  桐乃と結婚した方が良かったんじゃないの?」 笑えなかった。なんたって、俺も今、お袋と同じことを考えていたからさ。 それにしても、桐乃はなぜ俺のためにここまでしてくれるんだろう。 家族として一緒に暮らしていたときは、ことあるごと俺を邪険にしていたのにな。 離れて暮らしていたからなのか、それとも桐乃のヤツ……。 いつもより早めに会社に出勤すると、俺は早速社長に呼ばれた。 あやせのお袋さんが手を回したらしく、今回の一件は既に社長の耳にも入っていた。 俺は当然クビになるもんだと覚悟を決めていたが、社長は笑って不問に付してくれた。 会社に迷惑を掛けたならともかく、家庭の事情で社員をクビにしていたら、 零細企業なんか簡単に潰れちまうんだとさ。 それに、俺は唯一の総合職だし、今じゃ取引先からもご指名を頂戴するほどだ。 この会社の将来は、俺の双肩に掛かっているようなもんなんだと。 ざまあみやがれってんだよクソババア。 旦那が議員だか何だか知らねえが、てめえは只のクソババアじゃねえか。 あやせを産んでくれたことに感謝しちゃあいるけど、それ以外はクソババアなんだよ。 通販で化粧品を買い漁りやがって、その金だって元はと言えば市民の税金じゃねえか。 旦那は私利私欲もなく、地元のために尽くしているっていうのによ。 なーんてな。……それにしても、クビにならなくて本当に良かったよ。 だが、俺もこのままじゃいけないことくらい分かってはいる。 感情に任せて嫁さんの家を飛び出しちまうなんて、男のやることじゃねえよな。 あやせのことは今も愛しているし、俺がお義母さんの言いつけに従ってさえいれば……。 情けなくて涙が出るよ。こんな筈じゃあなかったのにってな。 午前中の得意先回りを済ませて公園のベンチでアンパンをかじっていると、 俺の携帯の着メロが鳴った。着メロからあやせだってすぐに分かったよ。 たった一日声を聞いていないだけなのに、その声には妙な懐かしさがあった。 しかし、あやせの声にどこか切羽詰っているような重苦しい雰囲気を感じ取って、 何となくいやな予感がしたんだ。 『お兄さんですか? あやせです……』 「……昨日は、すまねえことしちまったな。  おまえに何も言わずに家を飛び出すなんて、俺らしくもねえよな」 『いいえ、そのことはいいんです。  あの……今日会社が終わったら、家に来るようにと……母が申しています』 「………………分かった。今日は定時で上がれると思うから、まっすぐに行くよ」 俺はあやせとの電話を切ってから、牛乳と一緒にアンパンを飲み込んだ。 あのクソババアが今更俺に用なんて、大体想像がつくけどな。 その日は仕事を定時で切り上げ、憂鬱な気分であやせの家へと向かった。 応接室のテーブルを挟んで、俺とお義母さんとの間には重苦しい空気が漂っていた。 目の前に突きつけられた離婚届から眼を逸らし、俺はただ黙って床を見つめる。 「京介さん、私もね、別に暇を持て余しているわけではないのよ。  いつまでも黙っていないで、さっさと離婚届にサインをしてもらえないかしら。  そもそも私はね、あなたたちの結婚には反対だったのよ。  初めから、あなたが新垣家の人間として相応しいとも思えなかったしね」 口元に薄ら笑いを浮かべたクソババアに対して、俺は何の反論もできなかった。 就職にしろ、あやせとの生活にしろ、何もかも新垣家に世話になっている俺には 反論する余地なんかひとつもありゃしねえ。 俺はただ言われるままに、目の前の離婚届にサインをするしかねえんだろう。 テーブルに置かれた万年筆を無視し、俺は胸ポケットからボールペンを取り出すと、 離婚届の夫の欄に自分の名前を書こうと身を乗り出した。 まさにそのとき、応接室の扉が勢いよく開き、あやせが血相を変えて入ってきた。 「お兄さんっ! 本当にサインをするつもりですかっ!?  わたしは、お兄さんと別れたくなんかありません、そんなのいやですっ!」 あやせの澄んだ綺麗な瞳からは、大粒の涙が溢れ出ていた。 しかし、今のような甲斐性のない俺には、あやせの母親に逆らってまでして あやせとの結婚生活を続けることは困難だって目に見えている。 「あやせ、分かってくれ……。  今の俺には、おまえに洋服のひとつも満足に買ってやれねえ。  お義母さんのおっしゃるように、こうするのが一番――」 「お兄さん、わたしはそんな贅沢なことは望んではいません。  わたしが望むことは、いつもお兄さんがわたしの側にいてくれる、それだけなんです」 あやせのうそ偽りのない台詞を聞いて、俺の心は決まった。 やはり、裏で糸を引いていたのは、目の前のクソババアだったんじゃねえか。 俺はあやせをしっかりと抱き締めると、クソババアを思いっきり睨みつけてやった。 クソババアは憤怒の表情で立ち上がると仁王立ちになり、見る見ると膨らんでいった。 膨張するクソババアに俺とあやせは部屋の隅まで追い詰められ、 俺たちの運命もこれまでかと諦めかけた矢先、クソババアは大音響と共に爆発した。 俺は額にびっしょりと汗を浮かべ、肩で荒い息を吐きながら辺りを見回した。 悪夢っていうモンは、いつなんどき見るか分かったモンじゃねえよ。 座ったまま眠るとロクな夢を見ないって、いつだったか誰かに聞いたことがある。 見回せばいつもの部屋、いつもの家具、まったく変わり映えのない風景だ。 そして、俺がもっとも心安らぐいつもの…… 「お兄さん、それじゃあわたしは、お夕食のお買物に行って来ますから。  ……今日は、何か食べたいものとかありますか?」 台所で洗い物を済ませたあやせは、天使のような笑顔で俺にそう訊くと、 はにかみながらエプロンの裾で濡れた手を拭っている。 「あやせの好きなモンでいいよ。……ツワリが、まだ重いんだろ?  ところでさぁ、俺たちは結婚してから三年にもなるんじゃねえか、そうだろ。  いつまでも“お兄さん”って呼び方はおかしいんじゃねえのか?」 「そっ、そうですよね。……わたしたちは、もう誰が見ても夫婦なんですものね。  じゃ、じゃあ……あ、あなた――」 照れくさいのか、今にも消え入りそうな小さな声だった。 だけど、結婚して以来、あやせが俺のことを初めて“あなた”と呼んでくれた。 天にも昇る気分っていうのは、まさにこのことだと思ったね。 俺はこのまま天に召されようと地獄に落ちようと後悔はしねえ。 嗚呼いとしのラブリーマイエンジェルあやせたん。 西日の当たる六畳一間の和室、カセット式ガスコンロしかねえ小さなキッチン。 他にはトイレとユニットバスだけの、本当に安普請で小汚い小さなアパートだ。 電車が通過するたびに、地震かと思うほどアパート全体が激しく揺れる。 しかし、俺とあやせにとっては、これ以上望むべくもない愛の巣だ。 あやせとの結婚を目前にしていたあの頃、俺は憂鬱な日々を送っていた。 いわゆるマリッジブルーっていうものなんだろうな。 ずっと想い続けたあやせと結婚できるんだ、そう自分自身に言い聞かせていたんだ。 「お兄さん、トイレなんか共同でもいいじゃないですか。  お風呂だって三日に一度くらい銭湯に行かせてもらえれば、それで十分です」 あやせは当初、俺の安月給を慮ってそう言ってくれたんだろうが、 幾ら甲斐性のない俺でも、あやせにそんな惨めな思いはさせられねえだろ。 潔癖症のあやせが、風呂を三日に一度なんて耐えられるわけがねえ。 俺は死に物狂いで不動産屋を駆けずり回って、ようやく今のアパートを見つけた。 新婚生活が、こんな惨めなアパートからスタートするなんて夢にも思わなかったよ。 それでもあやせは、だるまクレンザーで台所の錆を落としたり、 すっかり日に焼けて変色しちまった畳に何度も雑巾を掛けてくれた。 あんなに綺麗だったあやせの手にアカギレを見つけたときは、俺は心底哀しかった。 「あやせ、幾ら拭いたって、それ以上は綺麗になんねえよ。  ……あとは俺がやっておくから、あやせは少し休んでいてくれ、な」 「お兄さんに、水仕事なんかさせられませんって。  これは妻であるわたしの役目なんですから。お兄さんこそ休んでいてください」 あやせはバケツで丁寧に雑巾をすすぐと、笑顔でまた畳を拭きだした。 その様子を部屋の隅で見ていた俺は、なぜだか涙が溢れて止まらなかった。 あやせがなぜ俺なんかと結婚してくれたかなんて、今更語るのも野暮ってモンだし、 それに正直言って俺自身も良く分からなかった。 それはそうとして、俺たちに待望の赤ちゃんができた。 あやせはエプロンを丁寧にたたみ、卓袱台の上にそっと置くと、 お腹に優しく手を当てながら俺を見つめてまた笑った。 「あなた、この前の検診のときに、桐乃に会ったんです。  桐乃の赤ちゃんも順調だって聞いて、わたしも嬉しくなっちゃって……。  生まれるのは二人ともまだまだ先のことなのに……ついベビー用品のお店へ行って、  二人であれこれ見てきたんですよ」 桐乃が結婚したのは今年の春だった。 大学を卒業するのを待って、結婚式を挙げたわけだが…… どう計算しても“できちゃった結婚”じゃねえか、ったく桐乃のヤツ……。 桐乃が俺に結婚すると告げてきたとき、正直言って俺は複雑な気持ちだった。 俺が桐乃を置いて家を飛び出し、勝手にあやせと結婚しちまったことは、 長い間お互いの心にわだかまりを残した。 しかし、結婚式の当日、花嫁衣裳の桐乃が俺に向かって言ったひと言が、 俺たちの間にあったわだかまりを消し去ってくれた。 「兄貴、長い間ありがとね。……これからも、ずっとあたしの兄貴でいてね」 桐乃は、世界で一番可愛い俺の妹だよ。 どこに出したって恥ずかしくねえ、最高の妹だ。 その桐乃が選んだ相手も最高のヤツだった。 俺と同い年だってのに、今や宝飾デザインの世界では知らねえ者はいないらしい。 見た目は頼りねえが、あいつならきっと桐乃を幸せにしてくれる。 それに比べて俺は……。 子供が生まれたら、いくらなんでもこの部屋じゃあ狭過ぎるよな。 せめて、もう一部屋は欲しいところだ。 「ところであなた、桐乃があなたのこと、とても心配していましたよ。  ……あのバカ兄貴、もしかしたら無理してるんじゃないかって。  わたしも、最近あなたが働き過ぎじゃないかって、とても心配なんです」 「そんなことねえって、誰だってこれくらい働いてるさ。  俺、もっと頑張って働いて、もうちっとマシなアパート見つけっから、な」 「あなた、わたしはそんな贅沢なことは望んではいません。  わたしが望むことは、いつもあなたがわたしの側にいてくれる、それだけなんです」 どこかで聞いたことのある台詞だったが、そんなことはどうでもよかった。 俺はあやせの笑顔が見られるなら、それだけで頑張ることができるんだ。 最近は仕事が忙しく、残業続きで疲れが溜まっているのは自分でも分かるんだがな。 「あっ、俺も買いたいモンがあるから、あやせと一緒に行くよっ」 「……あなた、言ってくだされば、わたしがついでに買ってきますけど」 「あやせのお腹の中には、俺たちの大切な赤ちゃんがいるんだからよぉ、  俺だっておまえのことが心配でしょうがねえんだ、察してくれよ。  すぐに支度すっから、ちっとばかし待っててくれ、な」 そう言って、俺は腰掛けていたドリームラブチェアから立ち上がった。 しかし、立ち上がった途端に血の気が引くような感覚に襲われ、 すぐにそれは急激な落下感へと変わった。 奈落の底へ突き落とされたような暗闇の中、全身を伝わる激しい痛み。 まさか、働き詰めの俺の身体に、何か異変が―― あと数ヶ月で、俺とあやせの赤ちゃんがこの世に生まれて来るんだ。 俺はまだ、死ぬわけにはいかねえんだよ。 もっともっと働いて、あやせと生まれて来る子供を幸せにしてやらなくちゃ。 近くで俺を呼ぶ声が聞こえる。……俺は、一体どうなっちまうんだ? くそう、身体が動かねぇ……。 「きょうちゃんっ、だいじょうぶ~?」 「高坂っ、おまえ何やってんだ? 新学期だってのに寝ぼけてんじゃねーよ。  春眠暁を覚えずってやつか? このぶぁーか」 俺は上半身を引き起こし、痛む肘や腰を摩りながら辺りを見回した。 そこには、すぐ後ろの席で心配そうな顔つきで俺を覗き込む麻奈実と、 前の席で腹を抱えて爆笑している赤城がいた。 一瞬にして現実に引き戻された俺。 三年生に進級し、幼馴染の麻奈実と親友の赤城とは、また同じクラスになった。 新学期が始まって最初の授業だってのに、いきなり自習になるとはな。 教室の窓際の席に座っていた俺は、春のうららかな陽射しに照らされ、 校庭に咲く桜を眺めているうちに居眠りをしちまったらしい。 それにしてもあやせのヤツ、夢の中でまで俺を弄びやがって…… 待ってろよっ! ラブリーマイエンジェルあやせたん! おまえとの結婚だけは、いつの日かきっと正夢にしてやるぜ。 俺は椅子に手を突いて立ち上がり、赤城に向かって不敵な笑みを浮かべてやった。 赤城は机をガタガタと揺らしながら、最近映画で見たっていう“あしたのジョー”の “丹下段平”の台詞を大声で叫んでいる。 しかし、この場をどう繕うかで頭が一杯の俺には、そんな赤城に付き合っている暇はねえ。 取りあえず、あやせの方は今度デートに誘って、一言文句を言ってやるしかねえだろ。 ふと、教室の窓から外を見下ろすと、一匹の黒猫が校庭を駆け抜けて行くのが見えた。 (完)
887 :◆Neko./AmS6 [sage saga]:2011/05/03(火) 20:30:00.56 ID:fK0gY2ago こんな筈じゃなかった。俺なりに頑張ってきたつもりだった。 夫として、家族の一員として精一杯尽くしてきたというのに……。 俺はテーブルに置かれた用紙を見つめながら、緊張と屈辱感に震えていた。 用紙には、はっきりと離婚届と印刷されている。 ご丁寧なことに必要事項は既に記入済みだし、妻の欄には捺印までしてある。 あとは俺が夫の欄に自分の名前と住所を記入し、最後に判を押すだけだ。 只それだけで、こんな紙切れ一枚で、俺とあいつの結婚生活に終止符が打たれる。 「……お義母さん……どうしても、別れなきゃいけないんでしょうか?」 「京介さん、私も主人も、よくよく考えてのことなの……  あなたと娘には、このさい別れて、人生をやり直す方が一番良いと思うのよ。  あなたたちはまだ若いのだし、幸いなことに子供もいないのだから……そうではなくて?」 あいつの実家から呼び出された時点で、話というのが何なのか大方の予想はついていた。 しかし、予想していたとはいえ、こうして目の前に離婚届を突き付けられると……。 俺に甲斐性がないことは、俺自身が一番分かっていた。 それでもあいつは俺の愛を受け入れ、俺と結婚してくれた筈なのに。 すべてはお義母さんの差し金で、あいつだって離婚までは考えてなかったんじゃ…… 「京介さんが納得できないというのは、私もそれなりに分かってはいるつもりよ。  でもね、今回のことは……離婚の件は、娘のあやせから言い出したことなの。  夫婦の間のことだから、他人がとやかく言うことではないけれど……  娘が不幸になると分かっているのに、親としてそれを見過ごすわけにはいかないわ。  それにあなたにも、あやせの夫としての責任があったのではないかしら?」 俺はあやせの両親に対して、まったく頭が上がらなかった。 今から三年前のこと、俺は大学の卒業をまじかに控えても就職先が決まらず、 当時あやせと交際していた俺を気遣って、彼女の親父さんが世話を焼いてくれたんだ。 あやせの親父さんは地元の議員で顔も広く、各方面にもそれなりのツテがあった。 俺は、大学を卒業すると同時にあやせと結婚した。 あやせにとっては学生結婚になっちまったが、彼女がそれを強く希望したんだ。 頑張ろうと思った。あやせのためにも、そして、俺なんかのために骨を折ってくれた 親父さんのためにも。……しかし、現実はそう甘いもんじゃなかったよ。 あやせの親父さんが東奔西走して、やっとのことで紹介状を書いてくれたその会社は、 某一流企業の関連会社の下請けと取引のある、社長を含めて社員三人の小さな会社だった。 その会社にとって、俺は数年ぶりの新入社員だということで大歓迎された。 社長さんは奥さんの尻に敷かれ、いつも怯えているような人だったけど、 俺を家族の一員のようにして温かく迎え入れてくれた。 たしかに、社長以外は専務の奥さんと経理部長の娘さんだけなんだから、 俺以外は家族ってわけなんだよな。 会社勤めを始めて一ヶ月なんてもんは、瞬く間に過ぎちまう。 初めての給料日、俺はあやせに何か買ってやろうと思い、朝から落ち着かなかった。 あやせもご馳走を作って待っていると言って、俺を笑顔で送り出してくれた。 片道一時間の自転車通勤、その日の朝は、ペダルを踏む俺の足も軽かった。 いつものように朝礼を終えて書類を確認すると、俺は取引先へと向かった。 俺はこの会社で初めての総合職として、毎日靴の底をすり減らして営業に駆けずり回った。 「ご契約の条件と内容は、これでよろしいでしょうか。  ……それでは、今後とも当社をどうぞよろしくお願いいたします」 この会社に入社して、初めて契約が取れた瞬間だった。 すぐにでもあやせに電話してこの喜びを伝えたかったが、俺はぐっと我慢をした。 こんなことくらいで有頂天になってちゃいけねえ。 この先も一件でも多く契約を取って、あいつを幸せにしてやらなくちゃ。 俺は胸ポケットに入れた携帯をスーツの上からギュッと押さえ、次の取引先へと急いだ。 その日はひと通りの取引先に顔を出した後、夕刻になって帰社すると、 社長の奥さんから給与明細の入った茶封筒を手渡された。 俺は経理部長の娘さんと軽く冗談を交わしながらさり気なく席を離れ、 薄暗い雑居ビルの廊下を突っ切ってトイレに入ると、封筒から給与明細を取り出した。 「……学生んときの、バイト代の方が多いんじゃねえのか?」 俺はタイムカードを押すと、重い足取りで帰路についた。 家で待っているあやせに、駅前の花屋でバラの花を一輪だけ買ってはみたものの…… 自転車のペダルが朝と比べるとどうしようもなく重かった。 帰宅してから俺は、給与明細の入った封筒とバラの花をあやせに差し出した。 あやせは封筒の方は受け取らず、バラの花だけを受け取った。 「お兄さんが汗水垂らして働いて得たものなんですから、  それは、お兄さんが全部使ってください。  わたしはお兄さんが買ってくれた、このバラの花だけで十分です」 あやせと結婚して本当に良かった。 何度も死ぬんじゃねえかと思うほど酷い目に遇わされようが、 コツコツとあやせイベントをクリアしてきた努力が報われた心地だった。 俺は妹の親友のあやせに初めて出会ったとき、一瞬のうちに恋に落ちた。 いわゆる一目惚れってヤツさ。 あやせの言うことなら、俺は何でも聞いてやった。 どんなに困難なことでも、あやせの笑顔が見られるならと一生懸命に頑張ったんだ。 しかし、どうしても思うようにいかなかったことが二つだけあった。 ひとつ目は就職、そして二つ目が…… 「お義母さん、京介です。……只今帰りました」 そうだよ、新婚だってのに、あやせとの新居が用意できなかったんだ。 俺の実家で、俺の両親と一緒に暮らすという選択肢は初めからなかった。 何しろ実家には、妹の桐乃がふてぶてしく居座っているんだからな。 もしも、俺の実家であやせとの新婚生活を始めようと思えば、 当然のこと、今までの俺の部屋が俺たち夫婦の部屋となるわけだ。 考えてもみろよ、隣の部屋には桐乃がいるんだぜ。 あやせとも話し合って、しばらくは彼女の家に厄介になることとなった。 一人娘のあやせを両親も、特にお袋さんの方は手元に置きたかったようだしな。 つまり俺は、サザエさんのマスオさん状態なわけさ。 執務室の重い扉を押し開けると、あやせのお袋さん、じゃなくてお義母さんは、 机の上の書類から眼を離し、無言で応接セットのソファーを指し示した。 口元に上品な笑みを浮かべてはいるものの、目が笑ってねえ。 俺は軽く会釈をしてから、ソファーに浅く腰を掛けた。 「京介さん、毎日お仕事ご苦労様です」 「い、いいえ……ぼ、僕なんか新人ですから、まだ右も左も分からなくて……」 「まあ会社勤めというものは、そういうものよ。そのうちに慣れるわ。  ……ところで、たしか今日は、京介さんの初めてのお給料日だったわね」 「は、はい、給与明細はこちらに――」 「いいえ、別に私に見せる必要なんてないのよ。  京介さんの通帳は、娘のあやせが管理しているのだから……そうでしょう」 何なんだよ、このプレッシャー……。 サザエさんのお袋さんのおフネさんは、マスオさんにもっと優しいじゃねえか。 まさかこの先、毎日の帰宅の挨拶に加えて、給料日イベントが加わるんじゃ……。 だけど、あやせと結婚できたんだから、これしきのこと我慢しなけりゃいけねえよな。 頑張って仕事して給料も上がれば、俺もアパートくらい借りられるようになるだろうし。 「京介さん、そろそろお夕食にしましょうか」 「は、はい。……それでは、僕は着替えてから食堂へ参ります」 あやせとの夢のような新婚生活を期待していた俺が甘かった。 それもこれも、俺に甲斐性がねえのが原因だから文句も言えねえけど。 俺の救いは、今も変わらぬあやせの天使のような笑顔と……言わせんな恥ずかしい。 あやせと結婚してから、三年目が経過しようとしていたある日のことだ。 俺はマスオさん生活にも慣れ、会社での仕事もようやく軌道に乗ってきたというのに……。 いつものように仕事を終えて夕飯の買物をしてから帰宅すると、あやせは家にいなかった。 散歩にでも出掛けているんだろうと軽く考え、お義母さんの執務室をノックしてみると、 お義母さんも部屋にはいなかった。 議員を務めているお義父さんは、地方視察で帰宅は深夜になると聞いていたから、 そのとき家にいたのは俺だけだった。 「……メモくらい、置いて行ってくれてもいいじゃねえか」 俺は着替えを済ませてから日課になっている風呂掃除を終えると、 リビングのソファーに座って、ひとり缶ビールを飲んでいた。 普段なら夕飯前にビールを飲むことなんかねえけど、なんだか無性に腹が立ってきたんだ。 いくら安月給とはいえ、俺は一日も休むことなく会社勤めしてんだよ。 それなのにこの家の女共ときたら、お義母さんは県政モニターとかで年中家を開けるし、 あやせだって料理を作ってくれたのなんか、最初の一年目だけじゃねえか。 俺は、この家の住込みのメイドさんじゃねーよっ。 二人が帰宅したのは、俺が三本目の缶ビールを飲み干したときだった。 お義母さんは、リビングのソファーで缶ビールを飲んでいた俺を一瞥すると、 鼻で笑って自分の部屋へと引き揚げて行った。 あやせは哀しそうな眼差しで俺を見つめ、無言のまま俺の側に寄ってきた。 「あやせ、俺になんか用でもあんのかよ」 「…………お兄さん、あまり飲み過ぎると、身体に毒だと思いますよ」 「そりゃあ悪うござんしたねっ。……どーせ俺は、この家の使用人でござんすよ。  俺が身体を壊したら、風呂掃除も料理も、てめえらでやらなくちゃなんねーってか」 「お兄さん、わたしはそんなつもりで言ったんじゃあ……」 分かってはいた。あやせがそんなヤツじゃないってことはな。 すべては、あのクソババアの差し金だった。 俺とあやせが仲良くしていると、決まってあのクソババアは俺に用事を言いつけた。 同じことが何度も繰り返されりゃあ、いくらあやせだって母親に遠慮しちまうよ。 俺はその日、あやせの家を飛び出して実家へ帰った。 結婚して以来、俺はあやせの両親に遠慮して、一度も実家へ帰ったことがなかった。 まだ若いからと、あやせとの結婚に反対した親父やお袋に合わせる顔もなかったし、 何よりも妹の桐乃に会うのが怖かった。 桐乃から、一番の親友だったあやせを奪っちまったのは俺だもんな。 そんな俺を桐乃がどう思っているかなんて、想像するだけでも怖かった。 しかし、それらはすべて俺の杞憂に過ぎなかったと、帰ってみて初めて分かったよ。 あやせの家を飛び出してきた俺を、親父もお袋も温かく迎え入れてくれたんだ。 ちょうど夕飯時で、俺はお袋に急かされるままに手を洗い食卓についた。 久しぶりに食べるお袋のカレーは死ぬほど美味かったよ。 親父は相変わらずの無口だったが、晩酌をする口元が緩んでいたのが印象的だった。 俺が最も恐れていた桐乃は終始無言のまま、黙々とカレーを口に運ぶだけだった。 結局、帰宅してから夕飯が終わるまで、俺と桐乃が会話を交わすことは一切なかった。 仕方なく食器を流しに置いて、俺は荷物を持って自分の部屋へと階段を上がった。 俺は自分の部屋のドアを開けた瞬間、その場に立ち尽くした。 なぜかって、俺がこの家を出たときと、何一つ変わっちゃいなかったからさ。 綺麗に掃除はされてたけど、俺が残していったものはすべてそのままになっていた。 この部屋は俺が出て行ったときから、時間が止まってたんじゃねえかと思うほどだった。 すぐに俺は階段を駆け下りると、キッチンで洗い物をしていたお袋に礼を言った。 しかし、お袋の返答は、俺の予想を遥かに超えるものだった。 「京介、あんたの部屋はね、桐乃が誰にも触らせなかったのよ。  母親のわたしにもね。……あんたの部屋には、誰も入れさせないといって聞かなかったの。  そうじゃなかったら、今頃はとっくに物置になってたわ」 俺は溢れ出る涙を拭うこともなく、階段を駆け上がると桐乃の部屋のドアをノックした。 しばらくすると静かにドアが開かれ、不機嫌そうに桐乃が顔を出した。 喉元まで言葉が出掛かってるのに、久しぶりに桐乃の声が聞けるってのに…… 「……桐乃……ありがとな。俺……俺さぁ……」 桐乃は不機嫌そうな顔を作るのにも限界がきたらしく、頬をひくつかせながら俺に言った。 「お、お帰りなさい……バカ兄貴」 「……ああ……ただいま」 実家へ戻った日の夜、俺は久しぶりに自分の部屋のベッドで眠った。 翌朝、俺は数年ぶりにお袋に起こされて目が覚めた。 眠気まなこで周囲を見回すと、そこは永年住み慣れた懐かしい俺の部屋だった。 机の位置も、洋服ダンスの位置も、何もかもが俺の記憶通りだ。 只ひとつ違うことと言えば、カレンダーだけが新しいものに架け替えられている。 カレンダーに描かれた絵を見りゃ、誰がやってくれたかなんてすぐに分かる。 俺が家を空けていた数年の間、あいつは毎月この部屋に来ては一枚ずつカレンダーを捲って、 そして捨てていたんだろう。……いつ帰るとも分からねえ、そんなバカ兄貴のためにな。 「ところで京介、あんた会社はどうするの? 新しいところでも探すつもり?」 お袋の言うことはもっともだった。 いま勤めている会社は、元はと言えばあやせの親父さんのコネで入社できたんだしな。 今更どんな言い訳をしたところで、俺は新垣の家を飛び出して実家に帰っちまったんだから、 お義父さんだって内心穏やかじゃねえだろう。 「取りあえず出勤はするよ。無断欠勤なんかしたら信用を無くしちまうからな。  それに、取引先のお客さんにも迷惑を掛けたくねえし」 「京介が就活のとき着ていたスーツなら、クリーニングに出してタンスに入れてあるから、  今日はそれを着て行きなさい。……ワイシャツなんかもタンスの中にあるわ。  ……京介、あとで桐乃に、ちゃんとお礼を言っときなさいよ。  あんたがいない間に、桐乃が全部やっといてくれたんだからね」 そのことについては、昨夜寝る前にタンスを開けて分かっていた。 俺がいない間、桐乃がこの部屋に誰も入れさせなかったとお袋から聞いて、 誰がここまでやってくれていたかなんてな。 「ねぇ、京介。……あんた、あやせちゃんと結婚するよりも、  桐乃と結婚した方が良かったんじゃないの?」 笑えなかった。なんたって、俺も今、お袋と同じことを考えていたからさ。 それにしても、桐乃はなぜ俺のためにここまでしてくれるんだろう。 家族として一緒に暮らしていたときは、ことあるごと俺を邪険にしていたのにな。 離れて暮らしていたからなのか、それとも桐乃のヤツ……。 いつもより早めに会社に出勤すると、俺は早速社長に呼ばれた。 あやせのお袋さんが手を回したらしく、今回の一件は既に社長の耳にも入っていた。 俺は当然クビになるもんだと覚悟を決めていたが、社長は笑って不問に付してくれた。 会社に迷惑を掛けたならともかく、家庭の事情で社員をクビにしていたら、 零細企業なんか簡単に潰れちまうんだとさ。 それに、俺は唯一の総合職だし、今じゃ取引先からもご指名を頂戴するほどだ。 この会社の将来は、俺の双肩に掛かっているようなもんなんだと。 ざまあみやがれってんだよクソババア。 旦那が議員だか何だか知らねえが、てめえは只のクソババアじゃねえか。 あやせを産んでくれたことに感謝しちゃあいるけど、それ以外はクソババアなんだよ。 通販で化粧品を買い漁りやがって、その金だって元はと言えば市民の税金じゃねえか。 旦那は私利私欲もなく、地元のために尽くしているっていうのによ。 なーんてな。……それにしても、クビにならなくて本当に良かったよ。 だが、俺もこのままじゃいけないことくらい分かってはいる。 感情に任せて嫁さんの家を飛び出しちまうなんて、男のやることじゃねえよな。 あやせのことは今も愛しているし、俺がお義母さんの言いつけに従ってさえいれば……。 情けなくて涙が出るよ。こんな筈じゃあなかったのにってな。 午前中の得意先回りを済ませて公園のベンチでアンパンをかじっていると、 俺の携帯の着メロが鳴った。着メロからあやせだってすぐに分かったよ。 たった一日声を聞いていないだけなのに、その声には妙な懐かしさがあった。 しかし、あやせの声にどこか切羽詰っているような重苦しい雰囲気を感じ取って、 何となくいやな予感がしたんだ。 『お兄さんですか? あやせです……』 「……昨日は、すまねえことしちまったな。  おまえに何も言わずに家を飛び出すなんて、俺らしくもねえよな」 『いいえ、そのことはいいんです。  あの……今日会社が終わったら、家に来るようにと……母が申しています』 「………………分かった。今日は定時で上がれると思うから、まっすぐに行くよ」 俺はあやせとの電話を切ってから、牛乳と一緒にアンパンを飲み込んだ。 あのクソババアが今更俺に用なんて、大体想像がつくけどな。 その日は仕事を定時で切り上げ、憂鬱な気分であやせの家へと向かった。 応接室のテーブルを挟んで、俺とお義母さんとの間には重苦しい空気が漂っていた。 目の前に突きつけられた離婚届から眼を逸らし、俺はただ黙って床を見つめる。 「京介さん、私もね、別に暇を持て余しているわけではないのよ。  いつまでも黙っていないで、さっさと離婚届にサインをしてもらえないかしら。  そもそも私はね、あなたたちの結婚には反対だったのよ。  初めから、あなたが新垣家の人間として相応しいとも思えなかったしね」 口元に薄ら笑いを浮かべたクソババアに対して、俺は何の反論もできなかった。 就職にしろ、あやせとの生活にしろ、何もかも新垣家に世話になっている俺には 反論する余地なんかひとつもありゃしねえ。 俺はただ言われるままに、目の前の離婚届にサインをするしかねえんだろう。 テーブルに置かれた万年筆を無視し、俺は胸ポケットからボールペンを取り出すと、 離婚届の夫の欄に自分の名前を書こうと身を乗り出した。 まさにそのとき、応接室の扉が勢いよく開き、あやせが血相を変えて入ってきた。 「お兄さんっ! 本当にサインをするつもりですかっ!?  わたしは、お兄さんと別れたくなんかありません、そんなのいやですっ!」 あやせの澄んだ綺麗な瞳からは、大粒の涙が溢れ出ていた。 しかし、今のような甲斐性のない俺には、あやせの母親に逆らってまでして あやせとの結婚生活を続けることは困難だって目に見えている。 「あやせ、分かってくれ……。  今の俺には、おまえに洋服のひとつも満足に買ってやれねえ。  お義母さんのおっしゃるように、こうするのが一番――」 「お兄さん、わたしはそんな贅沢なことは望んではいません。  わたしが望むことは、いつもお兄さんがわたしの側にいてくれる、それだけなんです」 あやせのうそ偽りのない台詞を聞いて、俺の心は決まった。 やはり、裏で糸を引いていたのは、目の前のクソババアだったんじゃねえか。 俺はあやせをしっかりと抱き締めると、クソババアを思いっきり睨みつけてやった。 クソババアは憤怒の表情で立ち上がると仁王立ちになり、見る見ると膨らんでいった。 膨張するクソババアに俺とあやせは部屋の隅まで追い詰められ、 俺たちの運命もこれまでかと諦めかけた矢先、クソババアは大音響と共に爆発した。 俺は額にびっしょりと汗を浮かべ、肩で荒い息を吐きながら辺りを見回した。 悪夢っていうモンは、いつなんどき見るか分かったモンじゃねえよ。 座ったまま眠るとロクな夢を見ないって、いつだったか誰かに聞いたことがある。 見回せばいつもの部屋、いつもの家具、まったく変わり映えのない風景だ。 そして、俺がもっとも心安らぐいつもの…… 「お兄さん、それじゃあわたしは、お夕食のお買物に行って来ますから。  ……今日は、何か食べたいものとかありますか?」 台所で洗い物を済ませたあやせは、天使のような笑顔で俺にそう訊くと、 はにかみながらエプロンの裾で濡れた手を拭っている。 「あやせの好きなモンでいいよ。……ツワリが、まだ重いんだろ?  ところでさぁ、俺たちは結婚してから三年にもなるんじゃねえか、そうだろ。  いつまでも“お兄さん”って呼び方はおかしいんじゃねえのか?」 「そっ、そうですよね。……わたしたちは、もう誰が見ても夫婦なんですものね。  じゃ、じゃあ……あ、あなた――」 照れくさいのか、今にも消え入りそうな小さな声だった。 だけど、結婚して以来、あやせが俺のことを初めて“あなた”と呼んでくれた。 天にも昇る気分っていうのは、まさにこのことだと思ったね。 俺はこのまま天に召されようと地獄に落ちようと後悔はしねえ。 嗚呼いとしのラブリーマイエンジェルあやせたん。 西日の当たる六畳一間の和室、カセット式ガスコンロしかねえ小さなキッチン。 他にはトイレとユニットバスだけの、本当に安普請で小汚い小さなアパートだ。 電車が通過するたびに、地震かと思うほどアパート全体が激しく揺れる。 しかし、俺とあやせにとっては、これ以上望むべくもない愛の巣だ。 あやせとの結婚を目前にしていたあの頃、俺は憂鬱な日々を送っていた。 いわゆるマリッジブルーっていうものなんだろうな。 ずっと想い続けたあやせと結婚できるんだ、そう自分自身に言い聞かせていたんだ。 「お兄さん、トイレなんか共同でもいいじゃないですか。  お風呂だって三日に一度くらい銭湯に行かせてもらえれば、それで十分です」 あやせは当初、俺の安月給を慮ってそう言ってくれたんだろうが、 幾ら甲斐性のない俺でも、あやせにそんな惨めな思いはさせられねえだろ。 潔癖症のあやせが、風呂を三日に一度なんて耐えられるわけがねえ。 俺は死に物狂いで不動産屋を駆けずり回って、ようやく今のアパートを見つけた。 新婚生活が、こんな惨めなアパートからスタートするなんて夢にも思わなかったよ。 それでもあやせは、だるまクレンザーで台所の錆を落としたり、 すっかり日に焼けて変色しちまった畳に何度も雑巾を掛けてくれた。 あんなに綺麗だったあやせの手にアカギレを見つけたときは、俺は心底哀しかった。 「あやせ、幾ら拭いたって、それ以上は綺麗になんねえよ。  ……あとは俺がやっておくから、あやせは少し休んでいてくれ、な」 「お兄さんに、水仕事なんかさせられませんって。  これは妻であるわたしの役目なんですから。お兄さんこそ休んでいてください」 あやせはバケツで丁寧に雑巾をすすぐと、笑顔でまた畳を拭きだした。 その様子を部屋の隅で見ていた俺は、なぜだか涙が溢れて止まらなかった。 あやせがなぜ俺なんかと結婚してくれたかなんて、今更語るのも野暮ってモンだし、 それに正直言って俺自身も良く分からなかった。 それはそうとして、俺たちに待望の赤ちゃんができた。 あやせはエプロンを丁寧にたたみ、卓袱台の上にそっと置くと、 お腹に優しく手を当てながら俺を見つめてまた笑った。 「あなた、この前の検診のときに、桐乃に会ったんです。  桐乃の赤ちゃんも順調だって聞いて、わたしも嬉しくなっちゃって……。  生まれるのは二人ともまだまだ先のことなのに……ついベビー用品のお店へ行って、  二人であれこれ見てきたんですよ」 桐乃が結婚したのは今年の春だった。 大学を卒業するのを待って、結婚式を挙げたわけだが…… どう計算しても“できちゃった結婚”じゃねえか、ったく桐乃のヤツ……。 桐乃が俺に結婚すると告げてきたとき、正直言って俺は複雑な気持ちだった。 俺が桐乃を置いて家を飛び出し、勝手にあやせと結婚しちまったことは、 長い間お互いの心にわだかまりを残した。 しかし、結婚式の当日、花嫁衣裳の桐乃が俺に向かって言ったひと言が、 俺たちの間にあったわだかまりを消し去ってくれた。 「兄貴、長い間ありがとね。……これからも、ずっとあたしの兄貴でいてね」 桐乃は、世界で一番可愛い俺の妹だよ。 どこに出したって恥ずかしくねえ、最高の妹だ。 その桐乃が選んだ相手も最高のヤツだった。 俺と同い年だってのに、今や宝飾デザインの世界では知らねえ者はいないらしい。 見た目は頼りねえが、あいつならきっと桐乃を幸せにしてくれる。 それに比べて俺は……。 子供が生まれたら、いくらなんでもこの部屋じゃあ狭過ぎるよな。 せめて、もう一部屋は欲しいところだ。 「ところであなた、桐乃があなたのこと、とても心配していましたよ。  ……あのバカ兄貴、もしかしたら無理してるんじゃないかって。  わたしも、最近あなたが働き過ぎじゃないかって、とても心配なんです」 「そんなことねえって、誰だってこれくらい働いてるさ。  俺、もっと頑張って働いて、もうちっとマシなアパート見つけっから、な」 「あなた、わたしはそんな贅沢なことは望んではいません。  わたしが望むことは、いつもあなたがわたしの側にいてくれる、それだけなんです」 どこかで聞いたことのある台詞だったが、そんなことはどうでもよかった。 俺はあやせの笑顔が見られるなら、それだけで頑張ることができるんだ。 最近は仕事が忙しく、残業続きで疲れが溜まっているのは自分でも分かるんだがな。 「あっ、俺も買いたいモンがあるから、あやせと一緒に行くよっ」 「……あなた、言ってくだされば、わたしがついでに買ってきますけど」 「あやせのお腹の中には、俺たちの大切な赤ちゃんがいるんだからよぉ、  俺だっておまえのことが心配でしょうがねえんだ、察してくれよ。  すぐに支度すっから、ちっとばかし待っててくれ、な」 そう言って、俺は腰掛けていたドリームラブチェアから立ち上がった。 しかし、立ち上がった途端に血の気が引くような感覚に襲われ、 すぐにそれは急激な落下感へと変わった。 奈落の底へ突き落とされたような暗闇の中、全身を伝わる激しい痛み。 まさか、働き詰めの俺の身体に、何か異変が―― あと数ヶ月で、俺とあやせの赤ちゃんがこの世に生まれて来るんだ。 俺はまだ、死ぬわけにはいかねえんだよ。 もっともっと働いて、あやせと生まれて来る子供を幸せにしてやらなくちゃ。 近くで俺を呼ぶ声が聞こえる。……俺は、一体どうなっちまうんだ? くそう、身体が動かねぇ……。 「きょうちゃんっ、だいじょうぶ~?」 「高坂っ、おまえ何やってんだ? 新学期だってのに寝ぼけてんじゃねーよ。  春眠暁を覚えずってやつか? このぶぁーか」 俺は上半身を引き起こし、痛む肘や腰を摩りながら辺りを見回した。 そこには、すぐ後ろの席で心配そうな顔つきで俺を覗き込む麻奈実と、 前の席で腹を抱えて爆笑している赤城がいた。 一瞬にして現実に引き戻された俺。 三年生に進級し、幼馴染の麻奈実と親友の赤城とは、また同じクラスになった。 新学期が始まって最初の授業だってのに、いきなり自習になるとはな。 教室の窓際の席に座っていた俺は、春のうららかな陽射しに照らされ、 校庭に咲く桜を眺めているうちに居眠りをしちまったらしい。 それにしてもあやせのヤツ、夢の中でまで俺を弄びやがって…… 待ってろよっ! ラブリーマイエンジェルあやせたん! おまえとの結婚だけは、いつの日かきっと正夢にしてやるぜ。 俺は椅子に手を突いて立ち上がり、赤城に向かって不敵な笑みを浮かべてやった。 赤城は机をガタガタと揺らしながら、最近映画で見たっていう“あしたのジョー”の “丹下段平”の台詞を大声で叫んでいる。 しかし、この場をどう繕うかで頭が一杯の俺には、そんな赤城に付き合っている暇はねえ。 取りあえず、あやせの方は今度デートに誘って、一言文句を言ってやるしかねえだろ。 ふと、教室の窓から外を見下ろすと、一匹の黒猫が校庭を駆け抜けて行くのが見えた。 (完)

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