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81 : ◆lI.F30NTlM [sage saga]:2011/05/07(土) 23:01:30.75 ID:i+s/XXhoo
夏の東京は、夜になってもじっとり汗ばむほど暑い。いわゆる熱帯夜だ。
その上、視界には溢れんばかりの人、人、人。こんな光景を前にすると、体感温度はますます上昇する。
そんな喧騒の中、あたしは夜の銀座を一人で歩いていた。
社会人となって早二年。芸能関係ではなく、普通の企業(と言ってもかなりの大企業だが)に就職し、仕事もかなり覚えた。
大きくはないにせよ、それなりの仕事を任されるようになったこの時期、あたしは大きな問題を起こしてしまった。
仕事の基本はホウレンソウ、「報告・連絡・相談」だ。
そのうちの一つ、「連絡」を忘れると言う凡ミスを犯した。
なんとか解決は出来たものの、上司と一緒に関係者の皆様にお詫びし、恥を忍んで協力をお願いした。
ラッキーだったのは、嫌な顔はされつつも、いろんな人があたしに協力的だったこと。
けれど、ここ一週間は残業の毎日。休日だって返上だ。おかげで心身ともに疲れ果てていた。
そして今日、この一件からやっと解放された。明日は休日なこともあり、あたしは一人で夜の街に繰り出した。
ホッとしている気持ちも確かにある。けれど、あたしはミスを犯したことを気に病んでいた。こんなときは、一人で静かに飲みたい。
最初に行ったのは、よく利用する居酒屋。これが失敗だった。
夏休みに入ったこともあり、店内には会社帰りのサラリーマンやOLだけでなく、学生もいた。
酒を飲んでは笑い、周囲に騒音を撒き散らす。いつもは気にしないことなのに、このときはひどく腹が立った。
そして、やたらと絡んでくるナンパども。こっちの了解も得ずに近付き、下心を隠そうともせず、下卑た笑顔を浮かべて話しかけてくる連中。
我慢の限界だった。あたしのチョイスミスも原因だが、今日はなぜか静かに飲めない日だった。
だから、あたしは早々に勘定を済ませ、銀座にやってきたのだ。こういうときは、バーが良い。
「さて、どこに行こうか……」
一口に「バー」と言っても、その店舗数はかなり多い。
バーテンダーも、バー・スプーンやミキシンググラスを普通に使う、いわゆるオーセンティック(正統派)なバーテンダーもいれば、
ボトルやシェイカー、グラスなどを用いた曲芸的なパフォーマンスによって、カクテルを作り提供するフレアバーテンダーもいる。
もっとも、銀座にいるバーテンダーは前者がほとんどだろうが。
特に有名なのは「バー・K」の葛原隆一さん、「バー・東山」の東山稔さんだが。
行く店を決めかねているあたしの目に、とあるビルが映った。ここって確か……。
各フロアの表示板を見ると、8Fにバーが入っている。名前は『バー・南』。ここも有名店だ。
「ここにしようかな……」
このバーのオーナー、南浩一さんも有名なトップバーテンダーの一人。安心して飲めるだろう。
けれど、なぜか気が進まなかった。どうしてかなんて、あたし自身もわからない。
どうするか悩みながら目線を下ろすと、B1Fにもバーの店名が表示されていた。
『バー・イーデンホール』。こっちは聞いたことがない。
「よし。ここにしよう」
行き先は決まった。あたしは地下に続く階段を、一歩一歩降り始めた。
ーーーーーーーーーーーー
重厚感のある木製のドアを開けると、店内には木製のカウンターと椅子が数脚。その向こうには、若いバーテンダーが立っていた。
この人、少し前に雑誌で見たことがある……。
名前は確か――佐々倉溜。
ヨーロッパの有名なカクテルコンテストで優勝、パリのラッツホテルでチーフバーテンダーをしていたんだっけ。
この人が作るカクテルは「神のグラス」と呼ばれてるとか。いわゆる「天才」というやつ。
「いらっしゃいませ」
店内に他のお客さんはいなかったので、あたしは適当な席に座った。
佐々倉さんはおしぼりを差し出しながら、注文を訊いてきた。
「ご注文は?」
「『モヒート』。今夜は暑いから」
「かしこまりました」
注文を受けた佐々倉さんはミントの葉を数枚用意し、それを潰しにかかった。
潰したミントをシェイカーに入れ、砂糖、ライム、ラムを加えてシェイク。
中身を一旦グラスに注ぎ、そこに大き目のクラッシュドアイスと新しいミントの葉を加える。
「どうぞ。『モヒート』です」
「ありがとう」
たくさんの氷と、透明なカクテル。緑色のミントとライムが目にも涼しい一杯だ。
あたしはグラスを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
「美味しい……」
「ありがとうございます」
ミントの爽やかさが心地良い。それなのに、苦味や渋味は感じられない。
まるで夏の日差しの下、潮風に吹かれてるような、そんな気さえしてくる一杯だ。
「とても夏らしい一杯ですね。じめっとした日本の夏とは大違いだけど」
「キューバ・ハバナが発祥の地ですから、そのせいかもしれません。かのヘミングウェイも、キューバにいた際は、
バー・ボデギータのモヒートを愛飲していたそうです」
「へぇ」
ヘミングウェイか。あたしも、その名前と「老人と海」という著書のタイトルは知っている。読んだことはないけど。
後世にまで残る作品を残した彼も、やはり「天才」なのだろう。
あたしは時間をかけて、かの天才も愛したカクテルをゆっくりと飲み干した。
「さすが『神のグラス』。美味しかったです。次はお任せしてもいいですか? できれば、すこし甘口なものを」
「かしこまりました」
佐々倉さんはしばらく考え込み、やがて瓶を三本取り出した。
それらをシェイカーの中に順々に注ぎ、シェイク。カクテルグラスに、薄紫色の液体を注いだ。
「どうぞ。『ブルー・ムーン』です」
ブルー・ムーン、青い月か。滅多に起こらないこと、ありえないことなんて意味もあるけど。
ありえないこと。そう、あたしがあんな凡ミスを犯すなんてありえないこと。いや、あってはならないこと。そう思っていた。
けれど、実際には起こった。そのせいでいろんな人に迷惑をかけた。
自分を天才だとは思っていないけど、努力を怠ったことは無かった。だから、成果も上げられた。
ミスを犯したこともあったけど、あの時は兄貴が助けてくれた。
でも、あたしはもう社会人なんだ。自分の尻拭いは、自分でしなければいけない。兄貴の助けは、もう当てにしてはいけない。
今回のことは無事に解決できた。次からは、こんなことにならないよう気をつければいいだけ。
それだけなのに、なのに……。
あたしは未だに、あの小さなミスを引きずっている。
それを吹っ切りたくて、一人で飲みに来たのに。なんでこんなに思いつめているんだろう。
「あの、お客様? お気に召しませんでしたか?」
「え?」
気が付くと、佐々倉さんが心配そうな顔でこっちを見ていた。
ちょっと長い時間、考え込んでいたようだ。
「ごめんなさい! なんでもないんです。……いただきます」
バツが悪くなったあたしは、さっきからそのままだったブルー・ムーンを手に取り、口に運んだ。
これもすごく美味しい。初めて飲んだけど、ほのかな甘さが口の中に優しく広がっていく。
「美味しいです、これも」
「ありがとうございます」
たった二杯だけど、この人のすごさはわかった。
「神のグラス」は伊達じゃない。そう呼ばれるだけの腕前が、この人にはあるんだ。
「佐々倉さん。仕事で失敗したことって、ありますか?」
なんでだろう? 口を突いて出た言葉は、あたし自身が予期していないものだった。
愚問だ。こんなすごい人が失敗なんてあるはずないじゃない。そう思っていた。
「たくさんありますよ。恥ずかしくて、人には言えない失敗もあります」
「え?」
だから意外だった。本当に意外で、つい俯けていた顔を上げて、彼を見た。
佐々倉さんは照れくさそうに頬を掻いて、笑顔を浮かべていた。
「でも、『神のグラス』って呼ばれてるじゃないですか。パリのホテルでもバーテンダーをしていたほどなのに」
「確かに、そうお呼びくださるお客様もいらっしゃいます。ですが私自身、まだまだ修行不足と思う面も多々ありますし、
見習い時代はひどいものでした。私の兄弟子などは、今でも『あいつはまだまだだ』と言うでしょうね」
その言葉に、謙虚さや卑屈さは感じられない。佐々倉さんは本当にそう思っているし、彼の兄弟子という人もきっとそう言うのだろう。
こんなすごい人でも失敗はする。本当はいけないんだろうけど、あたしはその事実を聞いて、どこか安心していた。
「お客様。一つ、クイズをよろしいですか?」
「クイズ……ですか?」
「はい。例えば、仕事で絶対にミスをしない人がいます。どんな人か、おわかりになりますか?」
突然何を言い出すんだろう、この人は?
仕事で絶対にミスをしない。それはきっと、すごく優秀な人だ。
でも、今目の前にいるこの人も失敗はあると言う。じゃあ、どんな人が?
「私も、初めて師に問われたときはわかりませんでした。『そんな人、いるはずないじゃないか』。そう思いました。
それこそ、先程お出しした『ブルー・ムーン』と同じだと」
「それで、佐々倉さんの師匠はなんて答えたんですか?」
「正解は、『仕事をしない人』だと」
なによそれ。意地悪もいいとこじゃない。
あたしはそう思ったけど、佐々倉さんの顔は曇っていない。笑顔で、けれど目だけは何かを懐かしむような、そんな表情で続けた。
「師はこう言っていました。『ミスは人が生きている証拠。だからこそ、一生懸命に必死に努力して、その結果出たミスは勉強になる』と」
「一生懸命に、ですか」
「はい。『迷わないのは努力を忘れた奴だけ。だから、どんな天才も迷う。そして、迷うことでしか壁は破れない』。これは、私の兄弟子の言葉です」
「どんな天才も……」
「『モヒート』を愛したヘミングウェイも、十年間全く書けない時期があった。ちょうど、彼がキューバにいた頃です」
どんな天才でも失敗もすれば、迷うこともある。今のあたしのように。
けど、それは成長の過程。だから気に病むことは無い。大事なのは努力し続けること。佐々倉さんは、そう言いたいのだろうか?
仮にそうだとして、彼はあたしが落ち込んでいるってどうしてわかったんだろう? 直接話したわけじゃないのに。
「お客様。よろしければ、一杯作らせていただけないでしょうか?」
「カクテルですか?」
「はい。"魔法のカクテル"です」
「……じゃあ、お願いします」
魔法のカクテル。一体なんだろう?
佐々倉さんは瓶を三本取り出し、氷を入れたシェイカーの中に順々に注いでいった。さっきとは違い、今度は説明をしながら。
「オレンジジュース20ml、パイナップルジュース20ml、レモンジュース20ml。これをシェイク」
「え? でも、それじゃあ……」
「はい、ただのミックスジュースです。でも、この三つを完全に混ぜ合わせると、あるノンアルコールカクテルが出来上がります」
佐々倉さんはシェイカーをリズムよく振り、三つのジュースを混ぜ合わせていく。
シェイクをやめ、中身がカクテル・グラスに注がれる。出来上がったのは、淡い黄色のカクテルだった。
「どうぞ。『シンデレラ』です」
グラスを手に取り、口に運ぶ。
果物の甘さと、柑橘類の爽やかさが広がって、すごく美味しい。
「これが、"魔法のカクテル"ですか?」
「はい。『シンデレラ』のストーリーはご存知ですか?」
「ええ、もちろん」
継母とその連れ子である姉達に日々いじめられていたシンデレラ。ある日、お城で舞踏会が開かれ、姉達は着飾って出ていくが、シンデレラにはドレスがなかった。
舞踏会に行きたがるシンデレラを助けたのは、不思議な魔法使い。魔法のおかげで準備は整うが、その魔法は十二時になると解けてしまうものだった。
シンデレラは城で王子に見初められるが、約束の時間が迫り、慌てて退散した。そのとき、シンデレラは階段にガラスの靴を置き忘れてしまう。
王子は、靴を手がかりにシンデレラを捜し始め、やがてシンデレラを見つけ出し、彼女を妃とした。めでたしめでたし。
「バーというのは、魂の病院であり、魔法が使える場所なんです。王子様はお出しできませんが」
「魔法を?」
「様々な理由で魂が疲れ、傷付いた方々を、カクテルという魔法で癒す。そして、明日の活力にしていただく。それがバーテンダーの仕事だと、私は思っています」
「じゃあ、バーテンダーはお医者さんであり、魔法使いなんですね」
「はい」
いつものあたしなら、厨二病乙とか、なにを世迷言を、なんて思っただろう。
けれど、佐々倉さんの言葉は不思議とそう感じなかった。ただ、優しさだけが染み込んできて、あたしの心に広がっていった。
「ありがとう。あたしにも、その魔法が効いたみたいです」
「それはよかった」
佐々倉さんは、あたしが店に入ってきたときと同じ笑顔を浮かべていた。
彼の言葉と、カクテルの魔法が、あたしの中のもやもやを吹き飛ばしてくれた。もう大丈夫だ。
あたしは席を立ち、お勘定をお願いした。そのときに、名刺も一緒に差し出した。
「高坂さまですね」
勘定を済ませたあたしは、店を出るべく出口に向かった。
木製のドアに手をかけ、それを開ける前に一つだけ質問をして。
「また迷ったときは、来てもいいですか? 魔法をかけてもらいに」
「はい。もちろんです」
ーーーーーーーーーーーー
「もしもし、あやせ? 今、電話大丈夫?」
「うん……うん……。ごめんね、連絡できなくて。最近、少しゴタゴタしててさ」
「うん、もう大丈夫だから。あ、今度時間があるときに、一緒に飲みに行かない?」
「うん。銀座にね、美味しいお酒を出してくれるバーを見つけたの。そこに、あやせと行きたくて」
「うん。うん。お店の名前はね――」
「『イーデンホール』っていうの」
おわり
81 : ◆lI.F30NTlM [sage saga]:2011/05/07(土) 23:01:30.75 ID:i+s/XXhoo
夏の東京は、夜になってもじっとり汗ばむほど暑い。いわゆる熱帯夜だ。
その上、視界には溢れんばかりの人、人、人。こんな光景を前にすると、体感温度はますます上昇する。
そんな喧騒の中、あたしは夜の銀座を一人で歩いていた。
社会人となって早二年。芸能関係ではなく、普通の企業(と言ってもかなりの大企業だが)に就職し、仕事もかなり覚えた。
大きくはないにせよ、それなりの仕事を任されるようになったこの時期、あたしは大きな問題を起こしてしまった。
仕事の基本はホウレンソウ、「報告・連絡・相談」だ。
そのうちの一つ、「連絡」を忘れると言う凡ミスを犯した。
なんとか解決は出来たものの、上司と一緒に関係者の皆様にお詫びし、恥を忍んで協力をお願いした。
ラッキーだったのは、嫌な顔はされつつも、いろんな人があたしに協力的だったこと。
けれど、ここ一週間は残業の毎日。休日だって返上だ。おかげで心身ともに疲れ果てていた。
そして今日、この一件からやっと解放された。明日は休日なこともあり、あたしは一人で夜の街に繰り出した。
ホッとしている気持ちも確かにある。けれど、あたしはミスを犯したことを気に病んでいた。こんなときは、一人で静かに飲みたい。
最初に行ったのは、よく利用する居酒屋。これが失敗だった。
夏休みに入ったこともあり、店内には会社帰りのサラリーマンやOLだけでなく、学生もいた。
酒を飲んでは笑い、周囲に騒音を撒き散らす。いつもは気にしないことなのに、このときはひどく腹が立った。
そして、やたらと絡んでくるナンパども。こっちの了解も得ずに近付き、下心を隠そうともせず、下卑た笑顔を浮かべて話しかけてくる連中。
我慢の限界だった。あたしのチョイスミスも原因だが、今日はなぜか静かに飲めない日だった。
だから、あたしは早々に勘定を済ませ、銀座にやってきたのだ。こういうときは、バーが良い。
「さて、どこに行こうか……」
一口に「バー」と言っても、その店舗数はかなり多い。
バーテンダーも、バー・スプーンやミキシンググラスを普通に使う、いわゆるオーセンティック(正統派)なバーテンダーもいれば、
ボトルやシェイカー、グラスなどを用いた曲芸的なパフォーマンスによって、カクテルを作り提供するフレアバーテンダーもいる。
もっとも、銀座にいるバーテンダーは前者がほとんどだろうが。
特に有名なのは「バー・K」の葛原隆一さん、「バー・東山」の東山稔さんだが。
行く店を決めかねているあたしの目に、とあるビルが映った。ここって確か……。
各フロアの表示板を見ると、8Fにバーが入っている。名前は『バー・南』。ここも有名店だ。
「ここにしようかな……」
このバーのオーナー、南浩一さんも有名なトップバーテンダーの一人。安心して飲めるだろう。
けれど、なぜか気が進まなかった。どうしてかなんて、あたし自身もわからない。
どうするか悩みながら目線を下ろすと、B1Fにもバーの店名が表示されていた。
『バー・イーデンホール』。こっちは聞いたことがない。
「よし。ここにしよう」
行き先は決まった。あたしは地下に続く階段を、一歩一歩降り始めた。
ーーーーーーーーーーーー
重厚感のある木製のドアを開けると、店内には木製のカウンターと椅子が数脚。その向こうには、若いバーテンダーが立っていた。
この人、少し前に雑誌で見たことがある……。
名前は確か――佐々倉溜。
ヨーロッパの有名なカクテルコンテストで優勝、パリのラッツホテルでチーフバーテンダーをしていたんだっけ。
この人が作るカクテルは「神のグラス」と呼ばれてるとか。いわゆる「天才」というやつ。
「いらっしゃいませ」
店内に他のお客さんはいなかったので、あたしは適当な席に座った。
佐々倉さんはおしぼりを差し出しながら、注文を訊いてきた。
「ご注文は?」
「『モヒート』。今夜は暑いから」
「かしこまりました」
注文を受けた佐々倉さんはミントの葉を数枚用意し、それを潰しにかかった。
潰したミントをシェイカーに入れ、砂糖、ライム、ラムを加えてシェイク。
中身を一旦グラスに注ぎ、そこに大き目のクラッシュドアイスと新しいミントの葉を加える。
「どうぞ。『モヒート』です」
「ありがとう」
たくさんの氷と、透明なカクテル。緑色のミントとライムが目にも涼しい一杯だ。
あたしはグラスを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
「美味しい……」
「ありがとうございます」
ミントの爽やかさが心地良い。それなのに、苦味や渋味は感じられない。
まるで夏の日差しの下、潮風に吹かれてるような、そんな気さえしてくる一杯だ。
「とても夏らしい一杯ですね。じめっとした日本の夏とは大違いだけど」
「キューバ・ハバナが発祥の地ですから、そのせいかもしれません。かのヘミングウェイも、キューバにいた際は、
バー・ボデギータのモヒートを愛飲していたそうです」
「へぇ」
ヘミングウェイか。あたしも、その名前と「老人と海」という著書のタイトルは知っている。読んだことはないけど。
後世にまで残る作品を残した彼も、やはり「天才」なのだろう。
あたしは時間をかけて、かの天才も愛したカクテルをゆっくりと飲み干した。
「さすが『神のグラス』。美味しかったです。次はお任せしてもいいですか? できれば、すこし甘口なものを」
「かしこまりました」
佐々倉さんはしばらく考え込み、やがて瓶を三本取り出した。
それらをシェイカーの中に順々に注ぎ、シェイク。カクテルグラスに、薄紫色の液体を注いだ。
「どうぞ。『ブルー・ムーン』です」
ブルー・ムーン、青い月か。滅多に起こらないこと、ありえないことなんて意味もあるけど。
ありえないこと。そう、あたしがあんな凡ミスを犯すなんてありえないこと。いや、あってはならないこと。そう思っていた。
けれど、実際には起こった。そのせいでいろんな人に迷惑をかけた。
自分を天才だとは思っていないけど、努力を怠ったことは無かった。だから、成果も上げられた。
ドジを踏んだこともあったけど、あの時は兄貴が助けてくれた。
でも、あたしはもう社会人なんだ。自分の尻拭いは、自分でしなければいけない。兄貴の助けは、もう当てにしてはいけない。
今回のことは無事に解決できた。次からは、こんなことにならないよう気をつければいいだけ。
それだけなのに、なのに……。
あたしは未だに、あの小さなミスを引きずっている。
それを吹っ切りたくて、一人で飲みに来たのに。なんでこんなに思いつめているんだろう。
「あの、お客様? お気に召しませんでしたか?」
「え?」
気が付くと、佐々倉さんが心配そうな顔でこっちを見ていた。
ちょっと長い時間、考え込んでいたようだ。
「ごめんなさい! なんでもないんです。……いただきます」
バツが悪くなったあたしは、さっきからそのままだったブルー・ムーンを手に取り、口に運んだ。
これもすごく美味しい。初めて飲んだけど、ほのかな甘さが口の中に優しく広がっていく。
「美味しいです、これも」
「ありがとうございます」
たった二杯だけど、この人のすごさはわかった。
「神のグラス」は伊達じゃない。そう呼ばれるだけの腕前が、この人にはあるんだ。
「佐々倉さん。仕事で失敗したことって、ありますか?」
なんでだろう? 口を突いて出た言葉は、あたし自身が予期していないものだった。
愚問だ。こんなすごい人が失敗なんてあるはずないじゃない。そう思っていた。
「たくさんありますよ。恥ずかしくて、人には言えない失敗もあります」
「え?」
だから意外だった。本当に意外で、つい俯けていた顔を上げて、彼を見た。
佐々倉さんは照れくさそうに頬を掻いて、笑顔を浮かべていた。
「でも、『神のグラス』って呼ばれてるじゃないですか。パリのホテルでもバーテンダーをしていたほどなのに」
「確かに、そうお呼びくださるお客様もいらっしゃいます。ですが私自身、まだまだ修行不足と思う面も多々ありますし、
見習い時代はひどいものでした。私の兄弟子などは、今でも『あいつはまだまだだ』と言うでしょうね」
その言葉に、謙虚さや卑屈さは感じられない。佐々倉さんは本当にそう思っているし、彼の兄弟子という人もきっとそう言うのだろう。
こんなすごい人でも失敗はする。本当はいけないんだろうけど、あたしはその事実を聞いて、どこか安心していた。
「お客様。一つ、クイズをよろしいですか?」
「クイズ……ですか?」
「はい。例えば、仕事で絶対にミスをしない人がいます。どんな人か、おわかりになりますか?」
突然何を言い出すんだろう、この人は?
仕事で絶対にミスをしない。それはきっと、すごく優秀な人だ。
でも、今目の前にいるこの人も失敗はあると言う。じゃあ、どんな人が?
「私も、初めて師に問われたときはわかりませんでした。『そんな人、いるはずないじゃないか』。そう思いました。
それこそ、先程お出しした『ブルー・ムーン』と同じだと」
「それで、佐々倉さんの師匠はなんて答えたんですか?」
「正解は、『仕事をしない人』だと」
なによそれ。意地悪もいいとこじゃない。
あたしはそう思ったけど、佐々倉さんの顔は曇っていない。笑顔で、けれど目だけは何かを懐かしむような、そんな表情で続けた。
「師はこう言っていました。『ミスは人が生きている証拠。だからこそ、一生懸命に必死に努力して、その結果出たミスは勉強になる』と」
「一生懸命に、ですか」
「はい。『迷わないのは努力を忘れた奴だけ。だから、どんな天才も迷う。そして、迷うことでしか壁は破れない』。これは、私の兄弟子の言葉です」
「どんな天才も……」
「『モヒート』を愛したヘミングウェイも、十年間全く書けない時期があった。ちょうど、彼がキューバにいた頃です」
どんな天才でも失敗もすれば、迷うこともある。今のあたしのように。
けど、それは成長の過程。だから気に病むことは無い。大事なのは努力し続けること。佐々倉さんは、そう言いたいのだろうか?
仮にそうだとして、彼はあたしが落ち込んでいるってどうしてわかったんだろう? 直接話したわけじゃないのに。
「お客様。よろしければ、一杯作らせていただけないでしょうか?」
「カクテルですか?」
「はい。"魔法のカクテル"です」
「……じゃあ、お願いします」
魔法のカクテル。一体なんだろう?
佐々倉さんは瓶を三本取り出し、氷を入れたシェイカーの中に順々に注いでいった。さっきとは違い、今度は説明をしながら。
「オレンジジュース20ml、パイナップルジュース20ml、レモンジュース20ml。これをシェイク」
「え? でも、それじゃあ……」
「はい、ただのミックスジュースです。でも、この三つを完全に混ぜ合わせると、あるノンアルコールカクテルが出来上がります」
佐々倉さんはシェイカーをリズムよく振り、三つのジュースを混ぜ合わせていく。
シェイクをやめ、中身がカクテル・グラスに注がれる。出来上がったのは、淡い黄色のカクテルだった。
「どうぞ。『シンデレラ』です」
グラスを手に取り、口に運ぶ。
果物の甘さと、柑橘類の爽やかさが広がって、すごく美味しい。
「これが、"魔法のカクテル"ですか?」
「はい。『シンデレラ』のストーリーはご存知ですか?」
「ええ、もちろん」
継母とその連れ子である姉達に日々いじめられていたシンデレラ。ある日、お城で舞踏会が開かれ、姉達は着飾って出ていくが、シンデレラにはドレスがなかった。
舞踏会に行きたがるシンデレラを助けたのは、不思議な魔法使い。魔法のおかげで準備は整うが、その魔法は十二時になると解けてしまうものだった。
シンデレラは城で王子に見初められるが、約束の時間が迫り、慌てて退散した。そのとき、シンデレラは階段にガラスの靴を置き忘れてしまう。
王子は、靴を手がかりにシンデレラを捜し始め、やがてシンデレラを見つけ出し、彼女を妃とした。めでたしめでたし。
「バーというのは、魂の病院であり、魔法が使える場所なんです。王子様はお出しできませんが」
「魔法を?」
「様々な理由で魂が疲れ、傷付いた方々を、カクテルという魔法で癒す。そして、明日の活力にしていただく。それがバーテンダーの仕事だと、私は思っています」
「じゃあ、バーテンダーはお医者さんであり、魔法使いなんですね」
「はい」
いつものあたしなら、厨二病乙とか、なにを世迷言を、なんて思っただろう。
けれど、佐々倉さんの言葉は不思議とそう感じなかった。ただ、優しさだけが染み込んできて、あたしの心に広がっていった。
「ありがとう。あたしにも、その魔法が効いたみたいです」
「それはよかった」
佐々倉さんは、あたしが店に入ってきたときと同じ笑顔を浮かべていた。
彼の言葉と、カクテルの魔法が、あたしの中のもやもやを吹き飛ばしてくれた。もう大丈夫だ。
あたしは席を立ち、お勘定をお願いした。そのときに、名刺も一緒に差し出した。
「高坂様ですね」
勘定を済ませたあたしは、店を出るべく出口に向かった。
木製のドアに手をかけ、それを開ける前に一つだけ質問をして。
「また迷ったときは、来てもいいですか? 魔法をかけてもらいに」
「はい。もちろんです」
ーーーーーーーーーーーー
「もしもし、あやせ? 今、電話大丈夫?」
「うん……うん……。ごめんね、連絡できなくて。最近、少しゴタゴタしててさ」
「うん、もう大丈夫だから。あ、今度時間があるときに、一緒に飲みに行かない?」
「うん。銀座にね、美味しいお酒を出してくれるバーを見つけたの。そこに、あやせと行きたくて」
「うん。うん。お店の名前はね――」
「『イーデンホール』っていうの」
おわり