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【Q】 1章
12月19日(月)
高坂家 キッチン
AM 6:50
雀が冬の庭先で朝の挨拶を交わしている中、家の中ではトントンと小気味よいリズムの音が響く。
その音を奏でているのは包丁とまな板だ。
台所には手慣れた様子でキャベツを細かく刻むお母さんと、
制服の上から青いエプロンを着たあたしが忙しなく手を動かしている。
ウインナーがフライパンの上でパチパチと音を立てて弾け、芳ばしい香りが食欲をそそる。
つい先程淹れたばかりのティーポットの蓋からは、美味しそうな湯気が上がっている。
あたしはそれらの匂いを堪能しながら、
トースターから良い具合に焼き色のついたパンをお皿へ取り出していく。
「これで全部準備できたわね。
それじゃあできたのからテーブルに並べていって頂戴。」
「はーい。」
あ母さんに言われて、既にお父さんが席についているテーブルの上に、
手際よくパンとサラダと紅茶を並べていく。
甚平を着たお父さんは新聞に目を落としながら、うむと満足気に目を細めて頷く。
「そういえば、あの子ったらまだ起きてこないのかしら。
桐乃、ちょっと部屋まで起こしてきてくれる?」
「ええー?しょうがないなぁ。」
お母さんが時計を見やり、まだ下に姿を現さない京介を起こすよう頼まれる。
普段なら、キモいから嫌だと断っていたであろうその申し出を、あたしは二つ返事で快諾する。
京介を起こしに行くなんて、すっごい新鮮だもんねー。
パタパタとクジラのスリッパの音を響かせながら、あたしは階段を1つ1つ上がっていく。
ジリリリリリリ……
京介の部屋からは目覚ましの甲高い音が廊下まで漏れ出していた。
目覚めの悪い兄を起こしにいくなんて、まさしくエロゲーのお約束じゃん。
そんな考えが頭に浮かび、そのシチュエーションに自分が立っていることで気分が高鳴る。
「京介!ほら、いつまで寝てるの?
もう朝だよっ。」
バタンッと扉を開けて部屋に入り、必死に鳴り続ける目覚まし時計の音を止める。
閉じ切られたカーテンをサッと開くと、朝日の光が冷えきった部屋に差し込まれる。
京介は頭まで布団に包まって眠っており、寝息に合わせて微かに布団が上下している。
「早く起きないと朝御飯冷めちゃうでしょ?
せっかく作ったのにぃ。」
「う…うう……ん。」
布団の上から体を揺すると、呻き声を上げながら京介が布団から顔を出す。
あたしが少し強引に布団を引っぺがすと、眠そうに目を擦りながらもゆっくりと体を起こす。
寝起きのせいか、寝ぐせがひどく、目も少し充血しているように見える。
「ん……。桐乃か、おはよ。
…いま、何時だ?」
「おはよう、寝ぼ介さん。もうすぐ7時だよ。
朝御飯の用意もできてるから、早く着替えて降りてきてね。」
半分以上瞼が開いていない状態で、今の時間を尋ねてくる京介。
少し茶化しながらそれに答えたあたしは、手早く用件だけ伝えると、
踵を返して扉の方へと足を向ける…
ギュッ
「―――えっ?」
すると、後ろから突然左手首を掴まれる。
それほど強い力で握られたわけではないが、あたしの動きを止めるには十分だった。
熱を帯びた手に驚いて振り替えると、京介の視線とぶつかる。
その瞳は大きく見開かれており、一瞬吸い込まれるような錯覚に陥る。
「ど、どうしたの京介?」
「あっ、いや、えっと……お、おはよう?」
「……ぷっ。もしかしてまだ寝惚けてるの?
それはさっき言ったじゃん。」
「え、あっ、そうだっけ?
はは、悪い。ちょっと寝起きでボーッとしてたみたいだ。」
不安げに問いかけると、京介はパッとあたしの手を放して疑問系でおはようと応える。
京介自身なぜあたしのことを掴んだのかわからない様子で、寝ぼけていたと謝ってくる。
「えっと、朝ごはんだったよな?
すぐに着替えて降りるよ。
悪いけど、先に行っててくれるか。」
「まだ寝惚けてるなら、あたしが着替えるの手伝ってあげよっかぁ?」
「ぶふっ!?お、おまっ、なに言ってんだ!
いくら兄妹でもそれはダメだろ!?」
あたしがわざと上目遣いになって訊ねると、
京介は一瞬で茹で蛸みたいに顔を真っ赤にしながら、駄目だ駄目だと断ってくる。
むぅ~、でもそこまで頑なに否定されるとなんかムカつくんですけど…。
「ふーんだ。そんなの冗談に決まってんじゃん。
ちょっと顔真っ赤にしすぎじゃない~?」
「――!ったく、朝から冗談きつすぎるぞ。
本当に着替えるから下降りててくれ。」
少し反撃の意味を込めて茶化してやると、揶揄われたと気付いた京介は、
若干肩を落としながらシッシッとあたしを追い払う仕草をとる。
ほんっと京介はシスコンだよねぇと笑いながら京介の部屋から退散する。
しかし、その笑顔とは対照的に、あたしの心の中には妙なモヤモヤが溜まっていた。
途中強引に明るい雰囲気へ持っていったが、
先程のどこか怯えを含んだ京介の瞳があたしの目に焼き付いていた。
「……何だったのかな?」
小さく呟いて2階を振り返るが、もちろん答えが返ってくることはない。
京介の不可解な行動が、あたしの心に小さな波紋を広げていく。
あたしは掴まれた左手首を見て、首を傾げながらリビングに戻っていった。
その後、着替えて下に降りてきた京介は普段と変わらない様子で食卓に着いた。
本当に桐乃の淹れた紅茶は美味しいなぁ、と嬉しそうな顔をする京介を見ている内に、
さっきのは何かの気のせいかなと、小さな疑念は自然と薄れていった。
それからは、お父さんがやっぱり俺も家に残っていたいと駄々をこねたことを除いて、
いつも通りとても和やかに朝食の時間は過ぎて行った。
ちなみに、お父さんの嘆願はお母さんにあっさり却下され、半泣きで仕事に出掛けて行った。
可哀相なので、帰ってきたらパパと言ってあげよう。
桐乃の通う中学
AM8:30
始業前の校内は生徒たちが友達同士楽し気に喋り合い、非常に賑やかな雰囲気を作り出している。
交わされる話題はクリスマスや正月の予定から受験、卒業の話など実に様々だ。
「あやせ、加奈子、おはよ。」
「あ、おはよう桐乃。」
「…ちーっす。」
教室の扉を開けて、既に登校していたあやせと加奈子に声をかける。
あたしのあいさつに、あやせはパッと顔を輝かせて応え、加奈子はなんとも素気ない返事をする。
2日しか顔を合せなかっただけなのに、随分と久し振りな気がする。
「桐乃がこんなに遅いのって珍しいね。
いつもなら私達より早いのに、何かあったの?」
「えっ…あれ、そうかなぁ?
えーと、そう!ちょっと朝の準備に時間がかかっちゃってさぁ。
バタバタしてたらこんな時間になっちゃったんだ。
…あっ、べ、別に京介とかは全く関係ないからね!?」
あやせからの当然ともいえる問い掛けに、あたしは壁に掛けられた時計を見遣ると、
後数分でチャイムが鳴るような時間だった。
今日は京介とギリギリまで喋ってたから、家を出るのが遅くなっちゃったんだよね。
京介に紅茶を何度か淹れ直してあげたりしたことも理由なのだが、
そんなことを正直に言えば、あやせからどんなことを言われるかわかったものではないと、
咄嗟に思いついた適当な言い訳を口にする。
その言い訳が更に墓穴を掘っていることには、桐乃自身全く気付いていないのだが…。
「ふーーーーーーーーん。
それは大変だったね、桐乃。」
「そうなんだぁ。あ、あははっ。」
あたしの強引な言い訳に、あやせは笑顔で苦労を労ってくれる。
しかし、その瞳からは半分光彩が失われており、背中には黒いオーラが見え隠れしている。
うぅ…。あやせのあの目は絶対信じてくれてないよぉ。
トラウマになりつつあるあやせのレイプ目から逃げるように、加奈子の方へ目を移す。
「……………。」
「……?」
いつもなら、
『へっ。どぉーせ、厚化粧すんのに時間掛けすぎたんだろww
素材が微妙だと化けるのも大変だよなwww』
などとおちょくってくる加奈子が珍しくだんまりを決め込んでいる。
そのことに疑問を感じ、加奈子へ話かけようとすると…
キーンコーンカーンコーン……
タイミング良く予礼のチャイムが教室に響き渡る。
それに合わせて、今まで騒がしかったクラスもバタバタと席に戻っていく。
「あ。ほらチャイム鳴ったよ?
すぐに先生来ちゃうし、あたし達も席に戻ろ?」
チャイムを格好のネタに、それじゃあまた後でねと2人から(主にあやせから)離れようとする。
すると、それまで一言も口を開かなかった加奈子が、ムスっとした表情であたしを呼び止める。
「…おい、桐乃。」
「ん?どうしたの、加奈子?」
「ちょっち昼休みに顔貸せよ。
なんだぁ、その…少し話があるからよぉ。」
「……?うん、わかった。」
また加奈子には珍しく、言い渋るような様子で昼に時間を作ってくれと頼んでくる。
加奈子の普段と全く異なる雰囲気に戸惑いつつ、その申し出に頭を縦に振る。
その時のあたしは加奈子の思い詰めた気持には全く気付くことができなかった。
況してや、この日にあたしの大切な人を失うとは想像すらできなかった。
【Q】 1章 完