或る災難:12スレ目752

「お兄さん、桐乃知りませんか?」

 あやせからそんな電話が掛かってきたのは、夕刻。俺が自分の部屋でエロゲーを嫌々やっていた時だった。

「ん? 家には帰ってきてないが、どうした?」

 あやせの声色が、いつになく真剣味を帯びているので、俺もディスプレイから目を外し、電話に集中する事にした。

「いえ、ちょっと桐乃と一緒に買物をしてたのですが、少し目を離した隙に桐乃が消えてしまいまして……」

 あいつは子どもか。

「何か他に興味惹かれるものがあって、ふらふらと行っちゃったんじゃないか?」
「確かにそれも有り得るんですけど……、その場合でも暫くすれば戻ってきますし、その、携帯に掛ければ出てくれるんですが」

 有り得るのかよ、とのツッコミは心の中でしておく。

「今回は携帯にも出てくれない、と?」
「はい。というより、最初は呼び出し音が鳴ってたのですが、切られてしまいまして。今は電源が落とされているようですね」

 ふむ。あいつが電源を切る、ねえ。確かにエロゲーに集中している時とかは、たまに電源を切ったりしているようだが、果たしてあやせと買い物に出ていて、
そこで敢えて電源を落とす事は有り得るだろうか。……仮にメルルに完全武装した加奈子にでも遭遇でもして、加奈子に頼まれれば落とす可能性もあるだろうが、
余り現実的ではないか。

「分かった。俺からもちょっと掛けてみるわ」
「お願いします。特に怒らせた覚えはありませんが、わたしからの着信を拒否っている可能性もありますから」

 少し悲しそうに言うあやせ。安心しろ、着信拒否っている場合の応答メッセージは、電源が切れている時のそれじゃねえ。
それを他ならぬあやせに着信拒否された俺は学んでいる。

「大丈夫だっての。んじゃ、後でな」
「……お兄さん」
「ん?」
「今回、何か嫌な予感が、するんです。……桐乃を、どうか、お願いします」

 結果、桐乃には電話が繋がらなかった。そりゃ当然だ。電源を切っているのだから、俺からの着信だけ届く、なんて事は無かった。ただあやせが嘘を付いてない、
という証明にしかならなかった。
 まあ、たまたま電池がなくなって電源が落ちてしまっている、という可能性も充分考えられるし、別に大騒ぎする程の事じゃなく、
放っておけば自然と家に帰ってくるんじゃないかと思える。

 なら、何故、俺は今、こうやって大通りをあいつを探して走り回っているのだろうな。
 桐乃に電話が繋がらない事を確認した後、あやせにその結果を伝える為に電話を掛けた。
 この時も別に大事だと考えてなくて、どちらかというと不安がっているあやせに桐乃の代わりに謝罪をしてやって、そして不安さを取り除いてやろうという
目的だった筈だ。
 だが、俺があやせに切り出した言葉は、全く違った。

「あやせ。……桐乃と何処ではぐれた?」
「▲○□商店街です。あそこに桐乃がお気に入りの小物店がありまして」

 近所か。今は殆ど寂れてしまっていて、余り人気が無い商店街だ。
 嫌な予感が、する。

「分かった。ちょっと探してくる」
「お願いします。わたしも今、北側を探しています。お兄さんは家方面を探しながらこちらに向かってきてください。はぐれたのは5分程前です」

 なるほど。桐乃が家に帰ろうとしている可能性を考慮してか。適切な作戦だ。やれやれ、迷子捜索作戦、実行してやりますかね。

「おう、任せろ」

 というあやせとのやり取りをこなして、今、俺はこうやって走り回っている訳だ。
 あの電話から、既に30分。家に居たお袋にも、妹が帰ってきたら俺に連絡をくれるように伝えてある。未だに電話が無い事から、まだ家には帰ってない。
 あやせとも何度か連絡を取ったが、未だに見つけられてないとの事。
 当初の予定の、商店街から家までの間の捜索はもう終わっていて、結局見つからなかった。なので商店街を中心に、
桐乃がいそうな場所をひたすら見て回っている訳だが、まるで見つからない。

「くそ、何処行ったんだ、あいつは」

 嫌な予感だけが、どんどん増幅されていく。空が段々と暗くなっていく。太陽が完全に沈んだらもう手遅れな気がして、俺の気だけがどんどん焦っていく。
 ……心辺りは既に全て捜索した。だが見つからない以上、別の可能性を考慮する必要がある。つまり、桐乃が自ら失踪したのではなく、
誰かに連れて行かれた可能性だ。
 あいつはあれで、外見はとても魅力的な女性だ。身内の贔屓目じゃない事は、ファッション雑誌で活躍している事から、分かる。となれば、
不埒な事を考えた連中が、あいつを連れ去るなんて事も充分有り得るんじゃないか? あやせが防犯ブザーを持っているのも、
自分の魅力とそしてそれによる危険性をしっかりと把握しているからだ。だが桐乃が防犯ブザーとかを持っている所を見たことがない。
自分の魅力はしっかりと把握している癖に、そういう所には意識が弱いんだ、あいつは。



「くそっ! 見つけたら説教してやる、そんで防犯ブザーを持たせてやる!」

 あいつに馬鹿にされようと、防犯ブザーを持たせるという決意を固めながら、俺は駆けまわる。正直、もう体力的には限界だった。30分も全力疾走しているのだ。
足は立っているだけでガクガクしてくるし、呼吸もできているんだかできてないんだが分からないような有様だ。
 だが、俺の足が止まる事は無かった。

 どれだけ、探しまわっただろうか。
 もう太陽は、その身体の殆どを地面に隠してしまっていて、夕方が終わり、夜を迎えようとしていた。未だに、桐乃は見つけられていない。
 流石に体力の根を使いきってしまった俺は、近くの壁に持たれ掛かるようにして、休息していた。
 あやせはまだ探しているんだろうか。だとすれば、そろそろ帰らせる必要がある。これであいつまで失踪された日には、目も当てられない。
……正直に言えば、それであっても探して欲しかった。だが、……無理をさせる訳にも行かない。決意を新たに、あやせへと電話を掛ける。
 呼び出し音が鳴り響く間も無く、あやせが出た。

「あやせ、どうだ、見つかったか?」
「いいえ。そう言うという事は、まだそちらも見つかってないんですね」
「ああ。……あやせ。もう空も暗くなってきた。おまえは家に帰って――」

 そうあやせに伝えようとしたタイミングで、桐乃の声がした気がした。

「お兄さん、何を言ってるんですか! この状態で家に帰れる訳がないでしょう!」

 あやせの怒鳴り声が遠くで聞こえる。自然、携帯電話を耳から離していた。そして周囲を見渡す。
 周囲に人気は無い。寂れた倉庫街。だが辺りが暗くなって分かったが、一つの倉庫に電気がついている。そこの入り口には、男が二人立っているが、
どれも若い格好をしていた。警備員にしては格好が、全然らしくない。
 耳を澄ますと、その男二人が話している内容が、微かに聞こえた。

「……った…、兄…兄貴って…っせ…な、…の女」
「ほんとっ…ね。見て…れはすっげえ…が、性格……対…にすっげえ…よ…」
「ああ。った…、リ…ダーも妙な女に…をつけ…もんだぜ」

 ―――。
 気付いた時、俺は二人を黙らせていた。
 頬と腹が痛い。殴られたのだろうか、分からない。ただ、俺の足元で、二人が呻き声を上げて倒れている。手が痛い。だがそれよりも俺は倉庫の中を気にしていた。
音を気付かれただろうか。それなりに騒いでしまった気がする。だが、幸いにして倉庫の壁は厚そうだ。扉の前でさえ、中の声が微かにしか聞こえない。
という事は逆も然り。こちらの音は殆ど聞こえてないという事だ。
 ……中で幾ら騒いでも周囲に気付かれる事が、無い倉庫か。

 ギリッ、無意識に歯を噛み締める。そして、扉の隙間から、中を覗く。
 隙間からだけじゃ倉庫の全容は掴めないが、中々の広さがあるようだ。隙間から見るだけでも、男の姿が複数見える。十人は超えていそうだ。
中には、金属バットのようなものを見ている奴も見つけられる。
 そしてその中心で、男が一人の女を押さえつけていた。
 カッ、と視界が真っ赤に染まる。知っている、その女を俺は知っている。

 両手に力を篭めて俺は扉を開く。重い扉、だがそんな事はどうでも良かった。
 俺の考えている事は唯一つ。
 俺の妹から、その薄汚ねえ手を離せ。

 扉が、開く。すると、一斉にその集団がこっちを向く。
 推定通り、十数人。どれも高校生ぐらいの男だ。同じ髪の色が無いんじゃないかというぐらいに、各々髪を染めている。
一見して、不良と分かる格好をしているそいつらは、突然の闖入者に、怒気と殺気を向けていた。
 不思議と、恐怖は無かった。俺はその空間に、そのまま足を踏み入れる。無論、桐乃に向かってだ。近づくにつれて、桐乃の姿がしっかりと見える。
この集団では珍しく、髪を染めてない、だが一目でヤバそうだと分かる男が、桐乃を抑え込んでいる。……まだ桐乃の服は、乱れていない。
だからといって何もされてないと判断するには早計だが、少し安堵する。少なくとも、何かされたという確定では、無いからだ。

「おい、テメエ! なにもんだコラ! 誰の許可を得てここに入ってきてんだァッ!?」

 連中の一人が騒ぎ出す。しかし、ガン無視。視線すらくれてやる必要がない。
 ただ、妹の元へと歩いて行く。
 桐乃も、俺の存在に気付いたようだ。目が驚きに見開かれている。
 俺は桐乃に声を投げる。

「ったく。この迷子が。くそ探したぞ。……ほら、帰んぞ」

 場にそぐわないぐらい、普通の口調で、普通の音量で。俺は桐乃に話しかける。

「なっ……あ、あんた、状況分かってんの!? な、なんでここに……つか、に、逃げて!」

 妹が理解不能な事を言っている。訳が分からない。逃げる? 何を言ってるんだ。
 ここで逃げられる筈が、無いだろう。



「……おい、オマエ、なにもんだ?」

 桐乃を押さえつけていた男が、その体制のまま、俺へと話し掛けてくる。無視しても良かったんだが、その拘束が邪魔だった。だから俺は返事代わりに、殴りかかる。

「……なにもんだ、って聞いてんだが?」

 俺の全力の拳を簡単に受け止めて、男は鋭い目付きで俺を睨む。だがそんな目付き、妹の切れたときの方が、数倍怖いな。

「……そいつの、兄貴だ」

 俺は、質問に答える。黒髪の男は、それで状況を察したらしい。ニヤリと不敵に笑み、嗤う。

「ハッ――、これがその『兄貴』ってやつか! ハハッ! 兄貴が助けに来る、なんてほざいてるからどんだけ屈強な奴が来んのかと思ってたが、全然喧嘩慣れしてそうにねえ、ショボイ野郎じゃねえか! おい、兄貴? 大丈夫か、ションベンちびってねえか? ほら、尻尾巻いて帰れよ」
「……。桐乃、リアに勝てるか?」

 目の前で俺を嘲笑う男を睨みつけながら、俺は桐乃に言う。
 俺のその言葉に、桐乃は一瞬、呆然としていたが、直ぐに意図を悟ったらしい。ちらりと俺の背後を見る。しかし、桐乃は、「で、でも」と口を動かした。
 言わんとしている事は分かる。俺をここで置いていく事は出来ないとでも言うつもりなのだろう。だが、それは余計なお節介だ。

「けっ、ホントかよ。また負けるんじゃねえのか? ちげえってなら証明して見せろ」

 ただその言葉だけを返す。

「ついでに、救助要請、頼むわ」

 桐乃は俺の言葉を聞き、それでも一瞬迷った後、瞳に決意を宿した。あたしに任せて、と瞳が語る。俺はその瞳をちらりと横目で確認する。
 黒髪の男が俺の視線に気付き、桐乃へと視線を向ける。
 その瞬間を狙って、俺は全力で男へとハイキックを放った。

「……ぐっ!」

 それが見事、男の顔面へと当たった。見たか、あやせ仕込み。それを合図に桐乃が身体を起こし、その起こした反動をそのまま、推進力に変えて、疾走する。

「なっ!」

 黒髪の男が、慌てた様子で桐乃を掴もうとする。逃げる事ぐらいは想定していた筈だ。
 桐乃と出口の間にさり気なく身体を割りこませていた。だが、想定外だったのが、桐乃の脚力だろう。瞬きの間に、身を起こし、そして一気に疾走したのだ。想定よりもずっと早く。
 だからその手が宙を掴むのは必然だった。
 また周囲の連中も、想定外だったのだろう。事態をニヤニヤとしながら見つめていた連中が、慌てて桐乃を掴もうとするも、速度をガンガンと上げていく桐乃は、俺が歩いてきた道が塞がる前に、一気に駆け抜けていく。まるで疾風の如く。
 考えられる想定外は、2つ。桐乃の脚力。そして、こんな状況で全力疾走が出来るという事。
 手馴れてそうなこいつらなら、こういう場面、恐怖に彩られた人間が、全力を出せない事を知っているだろう。足元がもつれて転ぶ様さえ見たことがあるかも知れない。
 だが桐乃は、全く躊躇するまでもなく、全力で駆け抜けていった。俺の挑発が、少しは効いたのだろう。普段の仲の悪さも、こういう時は役に立つ。
 数人が、そんな桐乃を追いかけようとしているのを気配で感じ、俺は大声を張り上げる。

「ハッ――、おいおい、あのクソ女のケツを追いかけようっての? 趣味わりいな、つか、わりいけどアイツ、既に俺のだから。何度も何度も兄とエッチして、もう数えきれねえぐれえじゃね? んで病気持ち。んな危険なオンナを追いかけようってんだから笑えちまうよな――」

 精一杯憎たらしく、嗤ってやる。

「ホント、バッカじゃねえの?」

 周囲の殺気が膨れ上がる。へっ、上等だぜ。俺の本気を見せてやるぜ。




 全力で、走る。それが、今のあたしに出来る精一杯。
 いつもは走っていると途中で頭が真っ白になって、そして凄く心地よくなる。あたしにとって都合の悪い現実を出しぬいたような気分が味わえて、この瞬間だけ、あたしは開放された気分になる。
 けど、今は違った。気持ちだけが焦っていく。もっと早く前にと、焦ってしまう。罪悪感と焦燥感でごっちゃになって全然気持ちよくならない。

「くっ、なんだっての!」

 それでも足を止まらせない。走る。兄貴に証明してみせる。そして――一秒でも早く、兄貴を助けに行かなきゃ!
 カバンは置いてきた。持ってくる余裕なんて無かった。というかどこにあるか分かんなかったし。だから、あたしは走りながら、助けを呼べる手段。公衆電話を探していた。
 背後はまるで気にしていなかった。誰かが追いかけてくるなんて、想定してなかった。だってあたしの足に追いつく人間なんていないし、……兄貴が、俺に任せろという表情をしていたから誰もあたしを追いかけさせないと分かっていた。普通に考えれば、十数人を相手に、そんな事が出来る筈が無いのに。
 つか、あいつ、馬鹿、ホント馬鹿、なんなの、なんでなんでなんで。
 涙が出そうになってしまう。走らないと行けないのに、口から嗚咽が出てしまう。駄目だ、考えちゃいけない。置いてきてしまった兄貴を、今は忘れる。そうしなくちゃ、引き返したくて堪らなくなってしまう。それじゃ駄目だ、あたしじゃ、兄貴を助ける事が出来ない。
 でも、思考が止まらない。ぐちゃぐちゃになる。いろんな葛藤があたしの中で渦巻く。走らなきゃ、走らなきゃ、走らなきゃ――。
 普段の練習が、あたしの足をもつれさせること無く進めてくれる。だがそれはとても、リアに勝てる速度じゃなかった。これじゃ、兄貴に証明出来ない。それは嫌だ。だから、走る。兄貴に見返す為に。証明する為に。
 恐らく、走ってまだ一分も経ってない所で、あたしは足を止めた。バテた訳じゃない。思考も呼吸も滅茶苦茶だったがたった1分走っただけで、バテてしまう程ヤワな鍛え方はしていない。ただ、視界の先に人が見えたからだ。それも自分の知っている人。こんな暗闇でも、ひと目で分かる。

「……あやせ!」
「桐乃!」

 そうそこに立っていたのはあやせだった。そしてあたしの姿を見つけるや否や直ぐに駆けつけて、抱きしめてくれる。孤独に震えそうだったあたしの身体は、温かい人の体温で癒された。
 だからだろうか、涙がぼろぼろとこぼれ落ちていく。

「あ、兄貴が、兄貴が……!」

 泣きじゃくりながら、必死で兄貴の現状を伝えようとする。
 あたしを見つけて喜色をあらわにしていたあやせの表情が、一気に硬くなる。

「お兄さん? お兄さんがどうかしたの?」
「あいつ、あたしを助け、て、今、何人も居るのに、あの馬鹿、囲まれて、あたしを、逃がして、今、今……!」

 駄目だ。思考が纏まらない。あやせに兄貴を置いて逃げたと思われてもいい。あたしとしては、兄貴を助ける為であってもそうは映らないだろうから。軽蔑されてもいい。それでもいいから、早く、現状を伝えたかった。

「状況は分かりました。桐乃、この携帯を使って」

 あやせがあたしに携帯を渡す。

「既に沙織さんと黒猫さんと麻奈実さんには声を掛けてあります。警察にも、要請は掛けてありますが、余り動いてくれていません。そんな深夜でもない為でしょう。ですが、こんな状況で動いてくれる警察の人をわたしは一人知っています。あいにく、連絡先を知らなかったのですが」

 あやせが言っている一人が、あたしには分かった。番号を調べるまでもなく知っている。

「……分かった、掛けてみる。ありがとね」

 あやせにお礼を言いながら、携帯を掛ける。その先は、当然、兄貴と同じぐらいに頼りになる、人物。
 あたしのお父さん、その人だった。




「ぐっ!」

 呻き声をあげて、地面に突っ伏す。その突っ伏す間でさえ、身体の至る所に衝撃が走る。
 周囲の連中が、聞き取れない勢いで、何らか罵倒を向けてくる。嘲笑するものも居る。いらっ、とは来るがどうしようもない。色んな方向からの暴力に、太刀打ち出来る筈もなかった。

「がっ! く、は……!」

 痛い。痛い。痛い。全身が焼けるように痛い。じんじんと熱を持った痛みが、無視しようとする俺に存在を主張する。
 痛みから逃れようと身体を起こすも既に腕に力が入らない。まるで自分の身体じゃないような感覚。自分の腕が、ただの重りにしか思えない。
 俺、死ぬのかな、と考えてしまう。
 痛いのに、痛いのに、徐々に痛みから遠のきそうになる。思考がどんどん冷静になっていく。まるで自分の身体と精神が分離していくような感覚。
 色んな事が、頭を駆け巡っていく。楽しかった、毎日。騒がしかった、毎日。ほとんどの場面に桐乃の姿が浮かんだ。桐乃……、あいつ、ちゃんと逃げれたかな。
 逃げれたなら、俺の人生、そんな悪くなかったと思えるのに。
 ゴメンな、桐乃。そんないいお兄ちゃんじゃなくてよ。でもさ、今、割と誇らしいんだ。だっておまえを逃がせただろう? 少しは兄らしく思ってくれたのかな。
 兄貴って、呼んでくれるのかな。

「り、リーダー! それ以上やったらいくらこいつでもヤバいって!」
「うっせええ!! 俺の顔面に蹴りをくれやがったんだぞ、コイツは! 死なす、ぜってえ死なす!」

 周囲が騒がしい。でも不思議と静かだ。もう、世界が閉じていこうとしているのだろうか。
 瞳を閉じたら、もう痛みから開放されそうだ。

「く、くっくっく! コイツをぶっ殺して、そして今度こそあのクソオンナを捕まえてやる、そして精神ぶっ壊して、便所扱いしてやんぜ、ははははっ! オレサマに歯向かった罰だ!」

 ……。

「あン?」

 俺の手が、そいつの足を掴む。

「ざ、けん、な……!」
「こいつ、まだ動けんのか!」
「死にぞこないが!」

 その手を、複数の暴力が引き剥がそうとする。
 なめんなよ? 死んでも離すものか。

「俺、の妹に、手を、出す、ん、じゃねえ」

 呪い殺すぞ、と睨みつけてやる。

「……!」

 複数の暴力が、一瞬止まった。ざわめきも、静まり返る。

「……、っ、けっ、なに凄んでんだ、っての!」

 その静まりを無かったようにしようと、黒髪の男が俺の手を蹴りあげたタイミングで、
 ガガガ、と扉が開く音がする。
 まさか、桐乃が戻ってきたのか? と、俺は目を見張る。
 周囲も扉の方へと目を向けているのが分かる。
 人が邪魔で、扉の方がまるで見れない。
 そして複数の人間の駆ける音。

「ッこんの……!」

 聞き覚えのある声。何故か頬が痛くなる。しかし、ここでありえない声だった。

「お、お兄さん、聞こえますかっ!」

 あ、あやせ……!
 な、ななな、なんでおまえがここに!
 暴力が止まっているのもあって、俺は無理やり身体を起こし、声の方を見やる。
 そこには、華麗なるハイキックを決めて、速攻で一人をノシているあやせの姿があった。



「ふっ……どうやら、貴方達、本気で死にたいようね。良いわ、私の本当の力、魅せてあげるわ」

 目を赤く光らせて、異様な雰囲気を醸し出している姿も居る。黒猫だ。というか、おまえ、戦闘能力皆無だろ、今直ぐ逃げろって!
 直ぐに捕まってしまうだろうという俺の予想に反して、周囲はそれなりにビビっているらしい。黒猫に近寄ろうとしない。そして、黒猫がなにやらをぶつぶつと唱えながら、一人の男に手を向ける。
 この状況でハッタリをかませるなんてどんだけ度胸が座ってんだ、と俺が半ば感心した所、異変は起きた。
 黒猫がその男に手を向けると同時、男はびくっと後ろに飛び退いた。ビビりすぎだろ、と思った所で、ガィン! と轟音が鳴り響く。呆気に取られている俺の前で、男のひぃ、という情けない悲鳴が聞こえた。男の今しがた居た空間に砂煙が上がっている。そして、その場所をよく見ると、鉄骨がその場に突き立っていた。上を見るに、幾つもの鉄骨が置かれておりそこから落ちてきたのだろうと推測出来る。

「…………、ふ、ふっ。こ、これが私の力よ」

 嘘つけ! どう考えてもおまえの腰が引けてるわ! つか、嘘だよな、ホントに? た、偶々だよな?
 俺が違う意味で戦慄していると、また違う声が響く。

「ほっほお、流石は黒猫氏。見直しましたぞ!」
 見直す場面じゃねえだろ、ビビれよ、自分の友達がよう分からん力を発揮してんだからさ!
「ですが、拙者も負けておりませぬ。見よ、この力を!」

 そう言って、手にしていたモデルガンを男の集団に向けた。そして銃口を引く。
 モデルガンから何かが飛び出し、男の集団の前で何かが弾けた。映画で聞くような音よりはもっと乾いた音ではあったが、銃声のような音に似ていた。
 も、モデルガンだよな?
 全力で引いている俺。沙織がωな顔を向けて、頷く。いや、モデルガンじゃねえだろ、それ!
 ヤダよ、友達が犯罪で捕まんの!?
 大いに連中がビビっている。そりゃそうだろう。数として、以前連中のが上回っているが、質が違う。明らかに異質な三人組だった。
 だが、ビビってはいるものの、女連中だと甘く見ている部分もあるのか、一気に取り押さえれば、どうにかなると考えているのか、男達の行動がじりじりとしたものに変わる。
 くそ、もうこの場に桐乃は居ねえよ、早く逃げろ!
 そう叫びたくても、声が出る程に身体は回復していなかった。
 そして、そこに新たな声がした。

「きょうちゃん? あ、居た。もう、探したんだからねー?」

 余りにも場違いな声。間延びした、俺をどこまでも安心させてくれる声。

「ま、麻奈実」

 そう、この声は麻奈実だった。全身から力が抜けていくのが分かる。この険悪な殺気立った戦場で、そこから一歩も動いていないのに、今だってその場にいるのに、この安堵感はなんだ。

「まったく。だめだよ、こんな場所に一人で来ちゃ。ちゃんと、冷静になって、大人の人を連れてくるの。分かった?」

 周囲なんてまるで見えてないかのように、麻奈実は真っ直ぐ俺へと歩いてくる。
 周囲の連中も、呆気に取られたように動きが止まっている。
 連中の視線を一身に受けながら、しかしその全てを受け流し、麻奈実はゆっくりと俺の元へと辿り着く。

「あーあ。ひどい怪我。痛いでしょ。もう、本当、男の子はこれだから」

 わたしの弟も、よく怪我してくるよ、と言いながら、俺の頬を撫でてくる。
 それだけで、俺の目から涙が止まらなかった。

「……ま、麻奈実」
「うん。何? ……きょうちゃん。よく頑張ったね。あとは、任せて?」

 麻奈実にどうこう出来る連中じゃない筈だ。こいつは完全にそういう戦闘能力的な何かは持ってない。運動だって得意じゃないぐらいなのだ。なのに、何故だろう。もう既にどうにかなる事が俺には分かっていた。だって、俺は知っている。こいつは、本気で怒ることはない。けど、本気で怒った時、どれほど恐ろしいのか。

「……きょうちゃんを、こんな目に遭わせたのは、あなたたちですね?」

 麻奈実は、静かに周囲に声を投げかける。
 声を向けられた連中は、動揺しながらも、頷く。

「なら、わたしはあなたたちを許しません。ぷんぷん」
 場違いな台詞。でも、自然にその言葉は周囲に溶け込んで、
「だから、罪を償ってください」

 そう言い放った。同時、倉庫の扉が更に開け放たれる。
 半開きだった扉が、完全に開かれ――。
 そこに立つ、複数の大人の姿。一見して分かる。どれも警察官の格好をしていた。
 そしてその中心に立つ、何故か着流しを来ている、まるで極道さながらの姿。
 余りに鋭い眼光を放ちながら、その男は俺を視線で捉えると、言った。

「この馬鹿息子が。こういう時は、初めに警察を呼ぶものだ。一人で突っ込んでいくなど、愚の骨頂」
 そう言うと、しかし口の端を上げて、言葉を続ける。
「だが、よく桐乃を逃した。それでこそ、俺の自慢の息子だ」

 ……ああ。桐乃、ちゃんと逃げ切れたんだな。
 そして、最強の味方を呼んできてくれた。
 俺の意識が、急速に遠のいていく。これで、全て大丈夫だと確信して、気が抜けた。
 親父が、指示が飛ばす。一斉に、警察官が野郎連中を取り押さえていく。
 あやせも黒猫も沙織も、怪我はないみたいだ。
 頭に、温かい手の平を感じ、俺は安堵する。
 俺、頑張ったよな?

「うん。きょうちゃんは、頑張ったよ」



 それから、次の日。
 俺は病院のベッドで目を覚ました。
 目を覚ました時、麻奈実と黒猫が居て、俺の顔を覗き込んでいた。
 俺が目を覚ました事に、麻奈実は素直に喜びを表し、黒猫は静かに笑っていた。
 さっきまで、あやせが居た旨、これから沙織が来る旨を教えて貰った。
 ……桐乃は、来てないのか。
 べ、別に妹に来て欲しかった訳じゃない。ただ、無事な妹の姿をしっかりと見て安心したかった。
 沙織もやってきて、30分程話して、そろそろ面会時間も終わるとの事で、皆が、帰っていった。
 それなりに怪我を負っていたようだが、骨折というレベルのものはなく、一週間程度の入院で済むらしい。
 妹が見舞いに来ないなら、俺が本当の意味で安心出来るのはまだまだ先だな、と思っていた所で、ドアが開いた。

「……具合、どう?」
「……そっちも、どうだ。なんか、されなかったか?」

 開いたドアの先、そこには俺が会いたかった人物が立っていた。いつも通り、垢抜けた格好。ひと通り見た所、怪我はなさそうだ。

「別に……。あ、あんたが助けてくれたから。何もされてない。ちょっと、手首が痛いぐらい、カナ?」
「そうか……。手首、見せてみろよ」
「う、うん」

 桐乃は、俺の寝ているベッドの横まで来て、俺に手首を見せる。若干、赤い。未だに後が残っているという事は、結構痛いんじゃないだろうか。

「おい、桐乃、どうせ病院に居るんだからちゃんと医者に見て貰えよ? 痛いだろ?」
「う、うっさい。大丈夫だって。あたしは、怪我なんてしてない。そういう事なの」
「どういう事だよ」
「いいの、あたしが良いって言ってんだから、納得しなさい。分かった?」
「へいへい」

 ったく、人が心配してんのに。まあ、明日には跡が消えてそうな感じだし、大丈夫だろうとは思う。つか考えてみれば、昨日の状況からして、既に簡単な診察は受けているのかも知れないしな。
 ああ、そうだ。言おうとした事があった。

「桐乃、ありがとな」
「へっ……!? え、なにが?」

 俺の台詞が予想外だったのだろう、きょとんとした顔を向けてくる。

「いや、親父呼んでくれただろ。助かったわ」

 あれ以上の助っ人は無いだろう。色んな意味で。

「べ、別に礼を言われる事じゃないでしょ。つか、礼を言うのは、……あたしの方だし」

 顔を背けて、桐乃は呟く。

「あ、ありがとね」
「お、おう」

 素直な桐乃の謝罪を聞いて、少し照れてしまう。
 別にこいつに礼を言われたくてやった訳じゃないが、嬉しく思う。
 本当、良かった。こいつとこうして話せる事ができて。
 それだけで、今回の苦労は全部チャラになる。


 病院の扉を背にしながら、兄妹の珍しい素直な会話に耳を傾ける。
 素直だけど、全部は晒していないわね。
 彼が病院に運ばれたその日、付きっきりで面倒を見てた癖に。
 泣きじゃくりながら、断固としてその役目を他の人に譲らなかった癖に。
 十数人に囲まれて、死ぬほど怖くて、虚勢も持ちそうになくて、そこにやってきてくれた彼の姿を見て、凄い安堵した癖に。
 十数人居るのに躊躇せず自分の元に歩いてきてくれた事が、とても嬉しかった癖に。
 ……本当、莫迦よね。そして、彼はきっと今回の自分は駄目だったと反省するのでしょう。
 貴方以外の誰が、十数人に囲まれていた状況から、あの女を無傷で助け出せると想っているのかしら。
 私だって、同じ状況ならそれでも足を踏み入れたかも知れない。けど、無傷で助け出せるとは到底思えない。
 足だって竦んでしまうし、そんな躊躇いもなく入り込めるとは思えない。
 ……その点で言うと、あの狂戦士も躊躇なく入っていったわね。
 桐乃のためじゃなく、その兄の為に。まさか、あの女……。
 ……。まあ、仕方ない、のかしら。
 彼が、妹の為に無様に駆けずり回る姿を、彼女も見てきたのでしょうから。
 ふっ、いいわ。ライバルは多いほど、燃えるってものよ。
 そう考え、私は病室を後にする。本当は、花瓶の水を変えようと思っていたのだけど。
 二人の時間を邪魔する程、野暮ではないしね。
 全く。そうね。あの男を助けようとした皆の姿を思い浮かべて、私はこう思う。
 この作品に名を付けるとしたら、こうかしら。


 親友の兄貴が、こんなに格好いワケがない。

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最終更新:2012年06月24日 07:11
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