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***SS35-1 午前六時半。私はいつも、これくらいの時間からエプロンをつけて朝食作りを始める。 今日のメニューは、ご飯、みそ汁、卵焼き、ほうれん草のおひたし、そして塩鮭というかなりオーソドックスな朝食だ。 とはいえ、近頃の過程の食生活は破綻しているとか何とかテレビでよく見るから、その点に関しては私はちゃんとしているほうだろう。 むしろ、こんなしっかりとしたものを朝から食べられて、私の相方は大いに果報者だ。 まさしくりっちゃんさまさま、と大げさに感謝してほしいくらいだけれど、生憎私の相方、つまり旦那様はまだ夢の中だ。 まあ、こんな時間に起きていることの方が珍しいので、とっとと二人の寝室に向かう。 朝食の用意をし終わって、旦那を起こしに行くのは、もうとっくに習慣となっていた。 最初のころは、憂ちゃんはこんなに大変だったのか、と彼女の妹の苦労をしみじみと感じたものだったけれど、今では特に苦に思わない。 「……完璧に、唯に毒されたなあ」 私の頬に自然に笑みが浮かぶ。唯と一緒にいることに慣れ切って、むしろそれが心地よくて、当然のように感じていることを自覚している。こういうときに、夫婦ってこんな感じなのかな、と考える。あ、夫婦じゃなくて、婦妻か。 寝室に辿りついて、開口一番。 「こらー、唯! おーきーろー!」 寝室にはダブルベッドが一つあって、いつもそこで唯と私は一緒に寝ている。 ベッドの上で、唯はむずむずと動きながら、「んむ……りっちゃーん、おいでえ~」なんて私が寝ていたスペースに手を伸ばしながら、寝言を言っていた。りっちゃんはここにいる。つうか、むしろお前がリビングに来い。 「お・き・ろっつうの! いつまで寝ぼけてんだよ?」 少し強めに言うと、唯がようやく覚醒したように大きく体を動かした。ゆっくりと体を起して、ドアのところに立っている私を見る。 「……なーんだ、夢かぁ」 失礼なことに、私を見るなりがっかりした声を上げて、またベッドに沈もうとする。 おいおいおい! なんだとはなんだ! せっかく起こしに来てやったのに! 私はずんずんとベッドに歩み寄り、唯が被った毛布をはぎ取る。すると、唯はびくっとして、大きい目をさらに大きくして、私を見た。 「おおおおきいいいいろおおおおおおお!」 唯の耳元で叫んでやると、「っわあああ!」とうめき声を上げて、飛び上がった。そそくさとベッドから下り、私をびくびくと見つめる。 起きられるじゃんか。まったく。手間かけさせて。 「お、おきました!」 「ん、ならよろしい。ほら、顔洗ってこい」 らじゃー! と敬礼を返し、唯はそそくさと寝室を出ていこうとする。 まったく、こういうところは、変わってないんだからな。 ふと、気になったことがあって、唯の背中に声をかける。 「唯、さっき見た夢って、どんなのだったんだ?」 聞くと、まさに洗面所にいこうとしていた唯は、パッと振り向いて、にへら、としまりのない笑みを浮かべる。……なんか、予想がついた。 「え、へ、へ。あのねえ、りっちゃんがねえ、私に裸でしがみついて、すっごく甘えてきたんだよお」 ほー。ほおお。 「『唯が欲しい、唯とずっと一緒にいたい』っていってねえ、もーう、すんごくかわいかったんだからあ」 ……唯、覚悟はいいな? 「それでりっちゃんを抱き寄せようと思ったら、エプロン姿のりっちゃんに邪魔されちゃったんだよね……ってうおあ!?」 「ばっかやろおお!」 唯に走り寄り、華麗なドロップキックを決めた。 唯はつんのめるように倒れたけど、いてて、と腰を押さえてすぐに立ち上がる。 付き合ったころから受けているからか、唯も耐性が身についてきたみたいだ。 「ふざけんな! 勝手にお前のエロ夢に私を登場させるなよ! それで『なーんだ』っていったのかこんちくしょー!」 「えええ、だってえ~、本当にいいところだったから」 「あほ、ばか、トロ唯! さっさと顔洗ってこい!」 しっしっと追い払うように手を動かすと、唯は、はたと気付いたように、意地悪な笑みを浮かべた。 「……なんだよ」 「……りっちゃん、ヤキモチ?」 「ぁあん!?」 「安心してよ。昨夜のりっちゃんも、夢の中のりっちゃんに負けないくらい、可愛かったから!」 ぷちん、と何かが切れる音がした。 「大体さあ、確かに私は寝坊しちゃうかもしれないけど、でも、それはりっちゃんにもちょっと責任あるからね」 ぶちぶち、とまた切れる。 「昨夜だって、なかなかりっちゃんが寝かせてくれなくて……うう~ん、眠いよお」 ぶちぶちぶちぶちぶちっ。 「もう、りっちゃんたら、お・さ・か・ん……」 「だあああ! おっまえが勝手にサカってただけだろ! 早く顔洗いやがれええ!!!」 鬼の形相で吠えると、唯は今度こそ青ざめて、そそくさと洗面所に向かった。 「鬼嫁だよ、鬼嫁がいるよ!」という嘆きが聞こえた気もするけど、気にしない。あの、どあほが悪いんだからな! 唯がぐちゃぐちゃにしたベッドを直しながら、ふとシーツを見る。 「……洗濯機、回すか……」 昨夜のことを思い出しそうになって、熱をもった頬をとっさに手で覆った。 「わあ! お~!!」 身支度を素早く終えた唯が、食卓にきて歓声を上げた。 そりゃそうだろ。これだけ完璧な朝食が揃っているんだからな。 ふふん、どうだ、と鼻高々に私がつつましい胸を張ると、唯が空気をぶち壊すような言葉を放り込んできた。 「今日は、パンの気分だったかも……」 言い終えると同時に、私はすぐに唯にチョーキングを決めた。 なんって、妻不孝な奴だ。 「ご、ごはん好きです。ごはん食べます」 「よろしい。っつか、日本人ならごはんだろ」 「1・2・3・4・ご・は・ん~♪」 調子に乗って歌い出す唯の頭をぺチリと叩くと、唯はえへへ、と笑って、行儀よく「いただきます」と手を合わせた。 唯の、こういうところが好きだ、とふとした拍子に想う。 いいかげんなようで、ちゃんと相手を想っているところ。 それは、りっちゃんも同じだよ、って前に唯にいわれたから、私たちは似た者夫婦なのかもしれない。 「おいしいい! どうやったら、こんな風に作れるの?」 「唯には無理だなー。やっぱり、りっちゃんの天才的センスがないと」 「むう、がんばるもん!」 「期待せずに、待ってるよ」 そんな軽口をたたき合いながら、私たちはぺろりと朝食を平らげた。 私は、いわゆる専業主婦ってやつだ。家事は嫌いじゃないし、近所の人たちともうまくやれているから、寂しいとかつまんないとか、あんまり感じない。 ローンで買ったこの一軒家に唯と一緒に住む前は、専業主婦にあまりいいイメージをもっていなかった。でも、唯と住むなら、自動的に家事をやるのは私になるから、なりゆきでそうなったけれど、意外に毎日は充実していた。 休日には唯とギターとドラムでセッションするのが楽しいし。暇を見つけて澪やムギ、梓とかと会ったりするし。 唯は、会社に行って、何とか働けているようだ。そこそこ忙しいようで、残業とか、休日出勤がないわけじゃないけど、それでも、私と話す時間は毎日つくってくれていた。 仕事はできるというわけじゃなく、上司に怒られるのはしょっちゅうだ、といっていたけれど、それでも元気に毎日出社するから、それなりにがんばっていて、可愛がられているんだろう。 総合的に見て、私は幸せだと思う。波風立つことなんて、皆無といってもいい。 このままこの日々が続けばいいな、続くんだろうな、と思っている。 「唯、八時十五分発の電車に乗るんだろ? 間に合うのか?」 「だーいじょうぶ……ってうわぁ!!」 「ばか、だからさっさとしろっていったのに」 唯はどたどたと音を立てながら、バッグを肩にかけ、パンツスーツの裾をはためかせて、玄関へと向かった。 ああ、こりゃ、またごみ当番は私になりそうだな、と息をつく。 「りっちゃん、ごみごめんね! 行ってくる!」 「こおのやろー、明日こそ早く起きろよ」 「うう、ごめん、あっ、りっちゃん!」 「ん?」 首をかしげると、唯が目をつぶって、唇をつき出した。 「いってきますのちゅー」 無言でばしり。朝だけで、何回唯に突っ込みを入れただろう。 「いたい! ひどいよりっちゃん!」 「そんな暇あるなら、ごみ置いてこいって話だろ!」 いいながら、唯の背中をぐいぐいと押し、玄関のドアを開けて、外に出す。 唯は口をとんがらせながらも、小さな門を抜け、ドア先に立っている私に手を振る。 「いってきまーす!」 「いいから走れ! 早く行け!」 無邪気な唯の声が大きかったから、照れ隠しにぶっきらぼうに言った。 唯はぶう、と不満そうにしながらも、すぐに駆けだして行った。 唯の姿が見えなくなるまで見送り、私はごみ袋を手に、ごみ置き場まで歩いて行った。 ごみ袋を置くと、近所の誰かの旦那さんらしいサラリーマン風の男性が、急いで置き、早歩きで駅の方向に向かっていった。 「そうだよな、最近の旦那っていうのは、これくらいはやるよな」 独り言をつぶやきながら、家へと歩いて行くと、二、三人の主婦の集団とすれ違った。 げっ、と心の中で思う。私は、大抵の近所の主婦たちと上手くやれていると思うけれど、このベテラン主婦集団だけは、なんとなく苦手だった。 挨拶だけして、そのまま通ろうと思ったけれど、呼び止められた。 「田井中さん……でよかったかしら?」 「……あ、はい。おはようございます」 リーダー格っぽい天然パーマのおばさん主婦が、尊大な感じで話しかけてくる。 「あなたが、いっつもごみ置いてるの?」 「あ、いえ、えと、旦那が置いてくれることもあります」 「でも、いつも大体あなたよね」 「っ、は、はあ……ま、まあそうかもしれないですねえ」 人のごみ置くところを、毎回チェックしてんのかよ、と気味悪く思う。 「だめよ、甘やかしちゃ。最近の夫っていうのは、ごみ置きは最低限してるんだから」 「で、ですよねー、気をつけまーす。あはは……」 乾いた笑いを最後に、今度こそ家に戻ろうとしたとき、後ろからひそひそ声が聞こえてきた。 「でも、旦那っていってもね……」 「夫、ともいえないし……」 「若い人の恋愛って、分かんないわねえ」 何を言っているのか、分かる気もしたけれど、完全にシャットアウトして、家に急いだ。 気にしない。世の中、色んな考え方の奴がいるから。 それでも、幸せばかりだった私と唯の日々に、ちくりとケチがついたような気がして、少し不愉快だった。 朝の嫌な気分を振り切って、午後からは買い物に出かけた。 最初は迷ったりもしたけれど、ここの商店街の道は、もう慣れたものだ。たまに楽器店やスタジオを見つけるたびに、唯と一緒に行ったりもしている。 私は、馴染みの肉屋の前で足を止め、じっと肉を吟味していた。 すると、店の奥から、これまた馴染みの肉屋のおっちゃんがやってきて、私に二カッと笑いかけた。私も、笑顔で会釈をする。下手に自分で選ぶよりは、専門家に見つくろってもらった方がいい。 「奥さん、こんにちは! 今日はいい肉が入ってるよ!」 毎回、奥さん、と呼ばれる。そのたびに、くすぐったいような、照れくさいような気持ちが広がる。自分の、今の幸せを実感できているみたいで、嬉しくなるのだ。 「んー、どれがおすすめ?」 「そうだな、この黒毛和牛が、安く入ってるなあ。あとは、んー」 「じゃあ、それにする。……旦那に、元気つけてもらいたいし」 人前で、旦那、と呼ぶことに嬉しさを感じる。まあ、あの主婦集団の前で言ったのは、ノーカウントだけど。 「あいよお! これは、うまいぞお! 旦那も精ついちゃうかもなあ!」 「つってもなー、もともと元気だから別にいいような気もするけど……まあいいや」 「おっほう、ノロケかい? お・さ・か・んだねえ」 にやにやとしながら、おっちゃんは素早く肉を包んでいく。 唯、お前の言葉、おっちゃんと同じレベルだぞ。まったく。 「ばかいうなっつうの。ていうか、いまどきお盛んって」 「あっはっは。毎度! またよろしくなあ」 手を振るおっちゃんにお辞儀をし、私は家へと向かう。 おっちゃんは、旦那が女であることを知らないだろうけれど、それでも朝の嫌な気分は、すべてなくなった。 ビニール袋を下げながら、今日はステーキにしようかな、と軽くなった心で考えていた。 遅い。今日は、ずいぶん遅い。 大抵いつも残業で、帰ってくるのが八時くらいだから、それにぴったりと間に合うようにりっちゃん特製のビーフステーキを作ってやったというのに。 もう、時計は十時を過ぎていた。ビーフステーキはラップをして、唯が帰ってくるのを今か今かと待っている。 「……食べちゃおうかな」 いつも私は、唯と一緒に夕食を食べる。唯の食べる姿を見るのが好きだし、昼間はほとんど会話をメールで済ませているから、こういうときにいろいろ直接話す時間を作りたいのだ。 唯も、嬉々として仕事やいろんなことを話して、風呂に入って、で、ちょっといい雰囲気になったときは……まあ、昨夜みたいなことをするわけだけど。 「でもなあ」 唯も、食べながら私と話すのを楽しみにしていることを知っているから、そんな唯の気持ちを無駄にしたくはない。 まあ、いいか。一回ぐらい、夜中に食べて、脂肪ついちゃっても。 そう思って、暇つぶしにテレビをつけようとすると、ぴんぽんとインターホンが鳴った。 私は、急いで駆けだす。 「はい」 『えへへ、私』 受話器を耳に当てると、唯特有の幼い声が聞こえてきた。 ドアを開けると、少し疲れたような、でもいつものように笑っている唯が立っていた。 文句の一つも言ってやろうと思ったけれど、すぐにどうでもよくなった。 「おかえり、外寒いだろ」 「ただいまっ、マフラーしてたから平気だよ」 唯は、赤い手編みのマフラーを指さしながら答えた。付き合っているときに、唯がおねだりしたので、わざわざ私が編んでやったマフラーだ。それがいたく気に入ったらしく、寒いときには必ず巻いてくれていた。思わず、笑みがこぼれる。 「あれ? 朝行くときは、巻いてなかっただろ?」 「ふふふ、バッグに忍ばせておいたんだよ。寒いときに、りっちゃんマフラーは必須だからねっ!」 思わず和やかな空気になりかけたが、向こうにラッピングされたビーフステーキを見て、ぽかりと唯の頭を小突く。 「うわあん、いたあい」 「いたあい、じゃなくて、なんかいうことは?」 その言葉に、唯は食卓を見て、うつむいた。 「遅くなっちゃって、ごめんなさい」 殊勝な態度に、怒っているのがばからしくなって、ふっとほほ笑む。 「遅くなるのは、仕方ないだろ。仕事なんだし。そうじゃなくて、連絡ぐらいしろってこと。昼には余計なメールを送ってくるくせにな」 「ひ、ひえっ、余計!?」 「まー、こっちも暇つぶしになるし? 別にいいけどな」 言って、私は夕食の皿を電子レンジに入れて、温め始める。 後ろから、わあい、今日はステーキだ! と無邪気に喜ぶ唯の声が聞こえてくる。 「これ、りっちゃんがいってたお肉屋さんの?」 「そうそう。今日のおすすめだって。早く食べよーぜ」 最後に、ステーキの皿二つを電子レンジに入れると、唯が、うつむきながらもじもじとしていた。 「どうした?」 「あ、あのね」 唯が眉をハの字にして、私を見る。 「りっちゃん、今日みたいな日は、先に食べちゃってていいよ?」 おそるおそる、といった口調の唯に、はっ、と笑う。 「いーよ、大したことじゃないし。ま、連絡はしてほしいけどな」 「でも、りっちゃんがせっかくつくってくれたステーキが、冷めちゃったし」 「だあから、連絡さえすれば、間に合うようにつくるから。ほれ、とっとと食べる」 「また、これくらい遅くなること、あるだろうし」 「いいって。連絡はしろよ。まあ、あんまり遅くなるようだったら、私も腹減るし、食べる。それでいいだろ?」 私の言葉に、ゆっくり頷く唯の手を引いて、食卓につかせた。 「いただきます」 「……うん、いただきます」 私に続いて、唯が復唱した。 温めなおしても、ステーキは美味しくて、さすがにおすすめだな、と言うと、りっちゃんの腕とお肉屋さんの目利きのコラボがよかったんだよ、とわけわかんないことを唯は言った。 「ゆーめのっ、夢の、コラボレーション♪」 「調子にのるな」 こつ、とまた唯の頭を小突き、切ったステーキを口に入れる。唯も、もくもくと食べながら、仕事の話をして、私を笑わせた。 「まーた、ドジったのか?」 「うう、コピー太が言うことを聞かなくなっちゃって」 「いや、お前の操作ミスだろ。……ていうか、まさか会社でコピー太って言ってないよな?」 「え? 言ってるよ?」 「まじか! 周りはなんか言ってる?」 「最初はね、えっ、て感じだったけど、だんだん周りの人もコピー太っていうようになってきたんだよお」 「気付け! 誰か、おかしいことに気付け! 感染してるぞ!」 「ええ~、りっちゃんひどーい」 話しながらふと、あ、そうだ、と切り出す。 「唯、今日残業で遅くなったんだよな、まーた叱られたか?」 「……う、ん。そうだよ。えへへ、だめだなあ私」 「自分でいってりゃ世話ないな。ま、めげずにがんばれ」 「……うん」 微妙に、間があったことが気になったけれど、大したことじゃないだろ、とスルーした。 「このお肉、美味しいね。うふふ、精がついちゃうわん」 いやだから、お前の言語センス、おっちゃんと同レベルだから。 「でも唯、今日はエロいことなしな」 「っ! え、ええ!? なんで?」 声を張り上げて驚く唯に、ふん、と意地悪い笑みを見せる。 「連絡もなしに、こんな遅くまで叱られた罰だ、罰」 「ええ、いいよ、っていったくせに~」 「夕食抜きになんなかっただけ、感謝しろ」 「りっちゃんの鬼嫁!」 「第一さ、一応残業してきて、疲れてるだろ?」 本音を向けると、唯は感動したように、りっちゃん……ときらきら目を向けてきた。 けど、すぐにしまりのない顔になる。 「でもね、疲れてる時の方が、燃えるんだよ! ってうぼわっ!」 「どこのエロ親父だ、お前は! さっさと寝ろ!」 「せめて、お風呂! お風呂だけでも一緒に……」 「ごちそうさまっと。さー、皿洗い」 「りっちゃんの鬼畜!」 「どっちがだよ!」 そのあと約束通り、風呂は別々にして、二人で床に入った。 ふと、今朝のことが頭を過ぎって、ぎゅっとかたく目をつぶった。 すると、唯の腕が体に回されて、そのまま唯の体に引きつけられ、強く抱きしめられた。 「……唯」 「……ふふ、これくらいなら、いいよね?」 唯の顔は見えなかったけど、でも、優しく微笑んでいるような気がした。 約束通り、唯はエロいことはしてこなかったけど、朝までずっと抱きしめてくれていた。 唯の腕の中は、あったかくて、柔らかくて、いい匂いがして。 すごく安心して、ぐっすりと眠れた。 大丈夫、唯とだったら。 嫌な気分も、唯が全部消してしまったようだった。 翌日からも、私と唯の、慌ただしい朝は続いた。 唯をベッドから引っ張り出して、朝ごはんを食べさせて(一回、パンにしてやったら、「朝って、ごはん食べたくなるよね」と抜かしやがったので、頬をつねってやった)、 やっぱり時間ぎりぎりになって、「ごめんね」といいながらもごみを捨てに行けず、猛スピードで、それも騒がしく家を出ていく。 この繰り返しだったけど、いつものことと思えば、それなりに慣れてくるもので、ごみ置きもほぼ毎回私が行っていた。 そのたびに、少し白い目で見られたり、何かこそこそと言われるのは嫌だったけれど、唯と話していれば、自然にリセットできた。 だから、今まで以上に唯の帰りを待ち望むようになった。 だから、あの日以来、唯の帰りが極端に遅くなっているのが気にかかった。 八時どころか、この前のように十時、十一時が当たり前になって、一度は日をまたいだときもあった。 きちんと言い含めていた甲斐あって、何時に帰るかしっかりとメールはするようになったけれど、 唯と話す時間が減っていることの実感は日に日に積もっていった。 朝は朝で慌ただしいから、ゆっくりと話す余裕がない。 仕事だからしょうがないけれど、それでも忸怩たる思いがあった。 唯は、いいかげんに見えても、相手のことを想って行動できる奴だから。そういうところに、惚れたんだから。 だから、唯があまり話す時間を作れないことに、少しの不満と不安があった。 退屈だなあ、と思った。いつも当たり前にあると思っていた唯との触れ合いが減ると、こうも空虚感を覚えるものなのか。そういえば、エロいことも……最近していない、かも。 唯が疲れている、と思うから、私も言いだせないし。 家事をやって気を紛らわそうとしたり、澪やムギ、梓たちと会って色々話したりしても、どうしても埋められなかった。 なんか、なんか嫌だな、これ。 こんな不安定な状態だったから、あっけなく私の心も崩れてしまったのかもしれない。 今日も唯は、慌ただしく家を出ていった。 自分の当番なのに、ちゃんとしなくてごめんね、と行き際に言って、駅へと向かった。 いただきます、と言ってくれたし、美味しそうに食べていたし、起きるときも軽口程度の会話は交わせたけど。 それでもやっぱり、気持ちが沈む。 私はごみ袋を手に持って、歩き始めた。 今日も遅くなるのかな。 残業続きで疲れているだろうし、なんか胃に優しいものでもつくってやろっかな。 唯は、私が支えてやんないと。妻だし、さ。 少し元気を出して、夕食のメニューを考えながらごみ置き場までやってきた。 するとそこには、珍しいことに、私より早くあのベテラン主婦組がいた。 何か、嫌な予感がしたけれど、軽く会釈をして、ごみ袋を置く。 早く帰ろう。洗濯して、掃除して、買い物に行って……。 「またあなたがやってるの?」 鋭い声が飛んできた。私は、思わず振り返ってしまった。 「え、あ、まあ、そうです」 答えると、ふーん、と何か嫌な含みを持たせた口調で言った。 なんだよ、言いたいことがあるなら言え。 「旦那さん、よっぽどお忙しいのね」 「んー、そうみたいですね」 皮肉めいた言葉も、何とか受け流す。 「へえ、そうは見えないんだけどねえ」 私は、リーダー格の主婦の女の方を向いた。 「いや、忙しいみたいですよ。別に、私も置きに来るのは面倒じゃないですし」 「あはっ、本当に忙しかったら、あんなに騒がしく家を出ていかないでしょうよ」 その言葉に、私は顔を上げる。 「だって旦那さん、いつもあなた、田井中さんに背中を押されるようにして出ていくじゃない。単に、しっかりと起きていないだけでしょ? それでごみ置きくらいできないっていうのは、ただの甘えよ」 ……こいつ、いつも私たちの様子を見てんのか。 気味が悪くて、背筋が冷たくなる。 「あなたたち、新婚さんでしょ? そういうのは、最初にびしっといってやらないと、これからずるずるそうなっていくわよ、どんどんだめになっていくの」 「もう、手遅れかもしれないけどね。私だったら嫌だわ、そういう人」 「もしかして、忙しい、っていうのも、仕事ができないからどんどんやることが増えていってるんじゃないの? なんか、そういう人がいると、こっちにまで影響しそうでちょっとねえ」 三人が間髪をいれずに唯をなじっていく。 一理あることはあるかもしれないけど、そんなの私たちの勝手だ。 私は、唯にいうべきことはちゃんといってるし、こいつらに言われる筋合いはない。 「そういう人、連れ合いに選ぶ田井中さんもちょっと、どうなのかしらね」 「早いとこ、しっかり更生させてね。見ていると、いらいらするのよ」 「どうかしら。慌ただしいってことは、夫婦間の会話もあんまりないんじゃない?」 ずきっと、図星をさされた。 何も言わない私に追い打ちをかけるように、さらに三人は続ける。 「あらー、かわいそうに。せっかく家を買ったのにねえ」 「ローンを返すために、ただ働くだけが役割じゃないわよね、夫は」 「そうね、近頃は家事とか育児とかもやって当然だって言うし……あっ」 リーダー格の主婦が、わざとらしく口に手を当てた。 「ごめんなさいねえ。育児は、必要ないものね」 「えっ、どういうこと、どういうこと」 脇にいるやせぎすの主婦が、はしゃいだようにリーダーの主婦の方を向く。 「だって、ほら、ねえ、女性同士じゃ、子供なんて生まれないしねえ」 「あ、そうね。表札の名字も、別々だものね、同姓婚って禁じられてるし。旦那さんは平沢でしょ?」 「え、女性同士だったの。じゃあ、夫婦でも何でもないじゃない、単なるルームシェアっていうものかしら?」 知っていたくせに。唯が、女だということを。 体が、がちがちと震えて、動かない。 「ねー、実際にいるのね、そういう人たち。理解できないわ、何が楽しいのかしら」 「想像できないわ。それで、妻とか、旦那とか……なんかね」 「そういうのって、一瞬の気の迷いでしょ。熱病。どうせすぐ飽きて、普通に男性とくっつくものなんじゃないの?」 分かっていた。普通に、受け入れられる人間なんて、少ないということくらい。 分かっていて、どんと構えているつもりだったのに、それでもどんどん心が削られていく。 「もう破綻するんじゃない? 会話がないって、結構致命傷だもの。それに、あんなだめな感じの人じゃ、どっちみちね」 「だめな人ほど、あっちこっちに気持ちが行くし」 「家を買うの、もう少し待てばよかったのにねえ」 三人は好き勝手に言い散らし、ふふん、と鼻息荒く横を通り過ぎていった。 私はうなだれたまま、しばらくそこから動けなかった。 お前らに何が分かる。唯の、何を知っているんだよ。女同士の、私たちのこれまでの関係の何が分かるっていうんだ。 唯は旦那だし、私は妻だ。そんなの、当たり前だ。 心の中ではいくらでも言えるのに、悔しくて悔しくてしょうがなかった。 なのに、それらの言葉を口に出して言えなかったのは。「何をそんな、くだらない」と笑い飛ばすことができなかったのは。 心の中で密かに感じていた色んな心配や不安を、言い当てられたような気がしたから。 気丈だと思っていた自分が、こんなにもろいなんて、知らなかった。 机に突っ伏したまま、かなりの時間が過ぎた、と思う。 昼ごはんは、とてもじゃないけど食べられなかった。このままじゃいけないと思って、何とか体を動かして、夕食を作り、七時に出来上がった。 いつもは、唯が帰る時間に合わせて作っていたけど、何か体を動かしていなければ、気がまぎれなかったから、特に何も考えずに黙々と料理をしていた。 作ったら、すぐに食べた。初めて一人で食べる、夕飯だった。 唯に悪いな、という気持ちは、少しはあった。でもそれ以上に、とにかく口に入れなければ、もたなくなると思った。 食べ終えたら、暇で、何もすることがなかった。 何でだろう。昨日までは、そんなことを感じなかったのに。 唯と一緒に食べたり、話すことを楽しみにしていれば、いくら遅くなったって待つのは苦じゃなかった。 ふつふつと、朝の悪意のある言葉が、蘇ってくる。 唯をバカにし、私たちを否定した言葉。 私は、頭を振って、その考えを消そうとした。 やめろ。こんな風に悩んでたら、ますますあいつらの思うつぼじゃんか。 それでも、どんどん心が苦しくなってくる。 どれくらい頭を抱えていたんだろう。不意に、インターホンの鳴る音がした。 ゆっくりと立ち上がり、受話器を手に取る。 「……はい」 『わたしだよー』 ふと時計を見ると、十一時を回っていた。 唯のお気楽そうな声に、ピクリと何かが刺激された。 ドアを開けると、そこには、いつもと同じように、少し疲れながらもにこにことしている唯の姿。 今まではそれに癒されていたはずなのに、少し、気に障った。 「……おかえり」 「ただいまー。うふふ、おなか減っちゃったあ」 私を通り過ぎて、唯はリビングへと入って行った。食卓にラップされた皿があるのを見て、唯がん? と声を上げる。 「あれ、先に食べたんだね」 「……ああ」 「そっかあ。メールしたんだけど……」 「……別に、先に食べたっていいだろ」 投げやりな私の口調に、唯が目を丸くする。 何やってるんだ、私。 「……え、あ、うん。そうだよ、そうだよね」 「先に食べてていいって言ったのは、唯だろ。こっちだって、疲れてるんだよ」 「う、ん。ごめんね、ちょっと気になって言っただけだから」 こちらをうかがいながら、気遣う唯の声。 唯の顔から、いつもの笑みが消えている。 こんな顔させて、どうするんだ。 何言ってるんだよ、私。 それでも、私の中にどんどん嫌な気持ちが生まれていく。 「り、りっちゃ、りっちゃん」 唯が、おろおろしながら私を見ている。 頬を何かが伝っているのを感じて、私は初めて自分が泣いていると分かった。 馬鹿だ。泣き叫んでる子供かよ、私。 唯がそっと手を伸ばしてきたけど、それを避けるようにして、私は席を立った。 「……もう、寝る」 それだけ言い残し、すぐさま部屋に行き、ベッドに飛び込んだ。 パジャマに着替えもせず、そのまま眠りたかった。 唯は、追いかけてこなかった。追いかけても無駄だと思ったんだろう。 しばらく物音がしなかったけれど、かちゃ、かちゃという食器の音がして、夕飯を食べてくれているんだろうと分かった。それから、水を流す音。いつもは私がしている皿洗い。慣れない手つきで懸命にしているに違いない。そして、水音が止まった。 唯が、ベッドに来てくれないかな、と思った。急に、唯に抱きしめてほしくなった。 こんな、鬱屈とした気分を打ち消すぐらい、強く、強く。 散々に言っておいて、都合のいいことを考える自分が嫌になる。 でも、唯に抱きしめてもらったら、色んな事がどうでもよくなるんだ。そうすれば、また普通の私に戻れるから。いちいちあんなことで、くじけたりなんて、しないから。 だから、早く来てよ。 ――それでも、唯は来なかった。 隣がいないベッドは、それだけで、寒かった。 [[SS35-2]]へ
***SS35-1 午前六時半。私はいつも、これくらいの時間からエプロンをつけて朝食作りを始める。 今日のメニューは、ご飯、みそ汁、卵焼き、ほうれん草のおひたし、そして塩鮭というかなりオーソドックスな朝食だ。 とはいえ、近頃の過程の食生活は破綻しているとか何とかテレビでよく見るから、その点に関しては私はちゃんとしているほうだろう。 むしろ、こんなしっかりとしたものを朝から食べられて、私の相方は大いに果報者だ。 まさしくりっちゃんさまさま、と大げさに感謝してほしいくらいだけれど、生憎私の相方、つまり旦那様はまだ夢の中だ。 まあ、こんな時間に起きていることの方が珍しいので、とっとと二人の寝室に向かう。 朝食の用意をし終わって、旦那を起こしに行くのは、もうとっくに習慣となっていた。 最初のころは、憂ちゃんはこんなに大変だったのか、と彼女の妹の苦労をしみじみと感じたものだったけれど、今では特に苦に思わない。 「……完璧に、唯に毒されたなあ」 私の頬に自然に笑みが浮かぶ。唯と一緒にいることに慣れ切って、むしろそれが心地よくて、当然のように感じていることを自覚している。こういうときに、夫婦ってこんな感じなのかな、と考える。あ、夫婦じゃなくて、婦妻か。 寝室に辿りついて、開口一番。 「こらー、唯! おーきーろー!」 寝室にはダブルベッドが一つあって、いつもそこで唯と私は一緒に寝ている。 ベッドの上で、唯はむずむずと動きながら、「んむ……りっちゃーん、おいでえ~」なんて私が寝ていたスペースに手を伸ばしながら、寝言を言っていた。りっちゃんはここにいる。つうか、むしろお前がリビングに来い。 「お・き・ろっつうの! いつまで寝ぼけてんだよ?」 少し強めに言うと、唯がようやく覚醒したように大きく体を動かした。ゆっくりと体を起して、ドアのところに立っている私を見る。 「……なーんだ、夢かぁ」 失礼なことに、私を見るなりがっかりした声を上げて、またベッドに沈もうとする。 おいおいおい! なんだとはなんだ! せっかく起こしに来てやったのに! 私はずんずんとベッドに歩み寄り、唯が被った毛布をはぎ取る。すると、唯はびくっとして、大きい目をさらに大きくして、私を見た。 「おおおおきいいいいろおおおおおおお!」 唯の耳元で叫んでやると、「っわあああ!」とうめき声を上げて、飛び上がった。そそくさとベッドから下り、私をびくびくと見つめる。 起きられるじゃんか。まったく。手間かけさせて。 「お、おきました!」 「ん、ならよろしい。ほら、顔洗ってこい」 らじゃー! と敬礼を返し、唯はそそくさと寝室を出ていこうとする。 まったく、こういうところは、変わってないんだからな。 ふと、気になったことがあって、唯の背中に声をかける。 「唯、さっき見た夢って、どんなのだったんだ?」 聞くと、まさに洗面所にいこうとしていた唯は、パッと振り向いて、にへら、としまりのない笑みを浮かべる。……なんか、予想がついた。 「え、へ、へ。あのねえ、りっちゃんがねえ、私に裸でしがみついて、すっごく甘えてきたんだよお」 ほー。ほおお。 「『唯が欲しい、唯とずっと一緒にいたい』っていってねえ、もーう、すんごくかわいかったんだからあ」 ……唯、覚悟はいいな? 「それでりっちゃんを抱き寄せようと思ったら、エプロン姿のりっちゃんに邪魔されちゃったんだよね……ってうおあ!?」 「ばっかやろおお!」 唯に走り寄り、華麗なドロップキックを決めた。 唯はつんのめるように倒れたけど、いてて、と腰を押さえてすぐに立ち上がる。 付き合ったころから受けているからか、唯も耐性が身についてきたみたいだ。 「ふざけんな! 勝手にお前のエロ夢に私を登場させるなよ! それで『なーんだ』っていったのかこんちくしょー!」 「えええ、だってえ~、本当にいいところだったから」 「あほ、ばか、トロ唯! さっさと顔洗ってこい!」 しっしっと追い払うように手を動かすと、唯は、はたと気付いたように、意地悪な笑みを浮かべた。 「……なんだよ」 「……りっちゃん、ヤキモチ?」 「ぁあん!?」 「安心してよ。昨夜のりっちゃんも、夢の中のりっちゃんに負けないくらい、可愛かったから!」 ぷちん、と何かが切れる音がした。 「大体さあ、確かに私は寝坊しちゃうかもしれないけど、でも、それはりっちゃんにもちょっと責任あるからね」 ぶちぶち、とまた切れる。 「昨夜だって、なかなかりっちゃんが寝かせてくれなくて……うう~ん、眠いよお」 ぶちぶちぶちぶちぶちっ。 「もう、りっちゃんたら、お・さ・か・ん……」 「だあああ! おっまえが勝手にサカってただけだろ! 早く顔洗いやがれええ!!!」 鬼の形相で吠えると、唯は今度こそ青ざめて、そそくさと洗面所に向かった。 「鬼嫁だよ、鬼嫁がいるよ!」という嘆きが聞こえた気もするけど、気にしない。あの、どあほが悪いんだからな! 唯がぐちゃぐちゃにしたベッドを直しながら、ふとシーツを見る。 「……洗濯機、回すか……」 昨夜のことを思い出しそうになって、熱をもった頬をとっさに手で覆った。 「わあ! お~!!」 身支度を素早く終えた唯が、食卓にきて歓声を上げた。 そりゃそうだろ。これだけ完璧な朝食が揃っているんだからな。 ふふん、どうだ、と鼻高々に私がつつましい胸を張ると、唯が空気をぶち壊すような言葉を放り込んできた。 「今日は、パンの気分だったかも……」 言い終えると同時に、私はすぐに唯にチョーキングを決めた。 なんって、妻不孝な奴だ。 「ご、ごはん好きです。ごはん食べます」 「よろしい。っつか、日本人ならごはんだろ」 「1・2・3・4・ご・は・ん~♪」 調子に乗って歌い出す唯の頭をぺチリと叩くと、唯はえへへ、と笑って、行儀よく「いただきます」と手を合わせた。 唯の、こういうところが好きだ、とふとした拍子に想う。 いいかげんなようで、ちゃんと相手を想っているところ。 それは、りっちゃんも同じだよ、って前に唯にいわれたから、私たちは似た者夫婦なのかもしれない。 「おいしいい! どうやったら、こんな風に作れるの?」 「唯には無理だなー。やっぱり、りっちゃんの天才的センスがないと」 「むう、がんばるもん!」 「期待せずに、待ってるよ」 そんな軽口をたたき合いながら、私たちはぺろりと朝食を平らげた。 私は、いわゆる専業主婦ってやつだ。家事は嫌いじゃないし、近所の人たちともうまくやれているから、寂しいとかつまんないとか、あんまり感じない。 ローンで買ったこの一軒家に唯と一緒に住む前は、専業主婦にあまりいいイメージをもっていなかった。でも、唯と住むなら、自動的に家事をやるのは私になるから、なりゆきでそうなったけれど、意外に毎日は充実していた。 休日には唯とギターとドラムでセッションするのが楽しいし。暇を見つけて澪やムギ、梓とかと会ったりするし。 唯は、会社に行って、何とか働けているようだ。そこそこ忙しいようで、残業とか、休日出勤がないわけじゃないけど、それでも、私と話す時間は毎日つくってくれていた。 仕事はできるというわけじゃなく、上司に怒られるのはしょっちゅうだ、といっていたけれど、それでも元気に毎日出社するから、それなりにがんばっていて、可愛がられているんだろう。 総合的に見て、私は幸せだと思う。波風立つことなんて、皆無といってもいい。 このままこの日々が続けばいいな、続くんだろうな、と思っている。 「唯、八時十五分発の電車に乗るんだろ? 間に合うのか?」 「だーいじょうぶ……ってうわぁ!!」 「ばか、だからさっさとしろっていったのに」 唯はどたどたと音を立てながら、バッグを肩にかけ、パンツスーツの裾をはためかせて、玄関へと向かった。 ああ、こりゃ、またごみ当番は私になりそうだな、と息をつく。 「りっちゃん、ごみごめんね! 行ってくる!」 「こおのやろー、明日こそ早く起きろよ」 「うう、ごめん、あっ、りっちゃん!」 「ん?」 首をかしげると、唯が目をつぶって、唇をつき出した。 「いってきますのちゅー」 無言でばしり。朝だけで、何回唯に突っ込みを入れただろう。 「いたい! ひどいよりっちゃん!」 「そんな暇あるなら、ごみ置いてこいって話だろ!」 いいながら、唯の背中をぐいぐいと押し、玄関のドアを開けて、外に出す。 唯は口をとんがらせながらも、小さな門を抜け、ドア先に立っている私に手を振る。 「いってきまーす!」 「いいから走れ! 早く行け!」 無邪気な唯の声が大きかったから、照れ隠しにぶっきらぼうに言った。 唯はぶう、と不満そうにしながらも、すぐに駆けだして行った。 唯の姿が見えなくなるまで見送り、私はごみ袋を手に、ごみ置き場まで歩いて行った。 ごみ袋を置くと、近所の誰かの旦那さんらしいサラリーマン風の男性が、急いで置き、早歩きで駅の方向に向かっていった。 「そうだよな、最近の旦那っていうのは、これくらいはやるよな」 独り言をつぶやきながら、家へと歩いて行くと、二、三人の主婦の集団とすれ違った。 げっ、と心の中で思う。私は、大抵の近所の主婦たちと上手くやれていると思うけれど、このベテラン主婦集団だけは、なんとなく苦手だった。 挨拶だけして、そのまま通ろうと思ったけれど、呼び止められた。 「田井中さん……でよかったかしら?」 「……あ、はい。おはようございます」 リーダー格っぽい天然パーマのおばさん主婦が、尊大な感じで話しかけてくる。 「あなたが、いっつもごみ置いてるの?」 「あ、いえ、えと、旦那が置いてくれることもあります」 「でも、いつも大体あなたよね」 「っ、は、はあ……ま、まあそうかもしれないですねえ」 人のごみ置くところを、毎回チェックしてんのかよ、と気味悪く思う。 「だめよ、甘やかしちゃ。最近の夫っていうのは、ごみ置きは最低限してるんだから」 「で、ですよねー、気をつけまーす。あはは……」 乾いた笑いを最後に、今度こそ家に戻ろうとしたとき、後ろからひそひそ声が聞こえてきた。 「でも、旦那っていってもね……」 「夫、ともいえないし……」 「若い人の恋愛って、分かんないわねえ」 何を言っているのか、分かる気もしたけれど、完全にシャットアウトして、家に急いだ。 気にしない。世の中、色んな考え方の奴がいるから。 それでも、幸せばかりだった私と唯の日々に、ちくりとケチがついたような気がして、少し不愉快だった。 朝の嫌な気分を振り切って、午後からは買い物に出かけた。 最初は迷ったりもしたけれど、ここの商店街の道は、もう慣れたものだ。たまに楽器店やスタジオを見つけるたびに、唯と一緒に行ったりもしている。 私は、馴染みの肉屋の前で足を止め、じっと肉を吟味していた。 すると、店の奥から、これまた馴染みの肉屋のおっちゃんがやってきて、私に二カッと笑いかけた。私も、笑顔で会釈をする。下手に自分で選ぶよりは、専門家に見つくろってもらった方がいい。 「奥さん、こんにちは! 今日はいい肉が入ってるよ!」 毎回、奥さん、と呼ばれる。そのたびに、くすぐったいような、照れくさいような気持ちが広がる。自分の、今の幸せを実感できているみたいで、嬉しくなるのだ。 「んー、どれがおすすめ?」 「そうだな、この黒毛和牛が、安く入ってるなあ。あとは、んー」 「じゃあ、それにする。……旦那に、元気つけてもらいたいし」 人前で、旦那、と呼ぶことに嬉しさを感じる。まあ、あの主婦集団の前で言ったのは、ノーカウントだけど。 「あいよお! これは、うまいぞお! 旦那も精ついちゃうかもなあ!」 「つってもなー、もともと元気だから別にいいような気もするけど……まあいいや」 「おっほう、ノロケかい? お・さ・か・んだねえ」 にやにやとしながら、おっちゃんは素早く肉を包んでいく。 唯、お前の言葉、おっちゃんと同じレベルだぞ。まったく。 「ばかいうなっつうの。ていうか、いまどきお盛んって」 「あっはっは。毎度! またよろしくなあ」 手を振るおっちゃんにお辞儀をし、私は家へと向かう。 おっちゃんは、旦那が女であることを知らないだろうけれど、それでも朝の嫌な気分は、すべてなくなった。 ビニール袋を下げながら、今日はステーキにしようかな、と軽くなった心で考えていた。 遅い。今日は、ずいぶん遅い。 大抵いつも残業で、帰ってくるのが八時くらいだから、それにぴったりと間に合うようにりっちゃん特製のビーフステーキを作ってやったというのに。 もう、時計は十時を過ぎていた。ビーフステーキはラップをして、唯が帰ってくるのを今か今かと待っている。 「……食べちゃおうかな」 いつも私は、唯と一緒に夕食を食べる。唯の食べる姿を見るのが好きだし、昼間はほとんど会話をメールで済ませているから、こういうときにいろいろ直接話す時間を作りたいのだ。 唯も、嬉々として仕事やいろんなことを話して、風呂に入って、で、ちょっといい雰囲気になったときは……まあ、昨夜みたいなことをするわけだけど。 「でもなあ」 唯も、食べながら私と話すのを楽しみにしていることを知っているから、そんな唯の気持ちを無駄にしたくはない。 まあ、いいか。一回ぐらい、夜中に食べて、脂肪ついちゃっても。 そう思って、暇つぶしにテレビをつけようとすると、ぴんぽんとインターホンが鳴った。 私は、急いで駆けだす。 「はい」 『えへへ、私』 受話器を耳に当てると、唯特有の幼い声が聞こえてきた。 ドアを開けると、少し疲れたような、でもいつものように笑っている唯が立っていた。 文句の一つも言ってやろうと思ったけれど、すぐにどうでもよくなった。 「おかえり、外寒いだろ」 「ただいまっ、マフラーしてたから平気だよ」 唯は、赤い手編みのマフラーを指さしながら答えた。付き合っているときに、唯がおねだりしたので、わざわざ私が編んでやったマフラーだ。それがいたく気に入ったらしく、寒いときには必ず巻いてくれていた。思わず、笑みがこぼれる。 「あれ? 朝行くときは、巻いてなかっただろ?」 「ふふふ、バッグに忍ばせておいたんだよ。寒いときに、りっちゃんマフラーは必須だからねっ!」 思わず和やかな空気になりかけたが、向こうにラッピングされたビーフステーキを見て、ぽかりと唯の頭を小突く。 「うわあん、いたあい」 「いたあい、じゃなくて、なんかいうことは?」 その言葉に、唯は食卓を見て、うつむいた。 「遅くなっちゃって、ごめんなさい」 殊勝な態度に、怒っているのがばからしくなって、ふっとほほ笑む。 「遅くなるのは、仕方ないだろ。仕事なんだし。そうじゃなくて、連絡ぐらいしろってこと。昼には余計なメールを送ってくるくせにな」 「ひ、ひえっ、余計!?」 「まー、こっちも暇つぶしになるし? 別にいいけどな」 言って、私は夕食の皿を電子レンジに入れて、温め始める。 後ろから、わあい、今日はステーキだ! と無邪気に喜ぶ唯の声が聞こえてくる。 「これ、りっちゃんがいってたお肉屋さんの?」 「そうそう。今日のおすすめだって。早く食べよーぜ」 最後に、ステーキの皿二つを電子レンジに入れると、唯が、うつむきながらもじもじとしていた。 「どうした?」 「あ、あのね」 唯が眉をハの字にして、私を見る。 「りっちゃん、今日みたいな日は、先に食べちゃってていいよ?」 おそるおそる、といった口調の唯に、はっ、と笑う。 「いーよ、大したことじゃないし。ま、連絡はしてほしいけどな」 「でも、りっちゃんがせっかくつくってくれたステーキが、冷めちゃったし」 「だあから、連絡さえすれば、間に合うようにつくるから。ほれ、とっとと食べる」 「また、これくらい遅くなること、あるだろうし」 「いいって。連絡はしろよ。まあ、あんまり遅くなるようだったら、私も腹減るし、食べる。それでいいだろ?」 私の言葉に、ゆっくり頷く唯の手を引いて、食卓につかせた。 「いただきます」 「……うん、いただきます」 私に続いて、唯が復唱した。 温めなおしても、ステーキは美味しくて、さすがにおすすめだな、と言うと、りっちゃんの腕とお肉屋さんの目利きのコラボがよかったんだよ、とわけわかんないことを唯は言った。 「ゆーめのっ、夢の、コラボレーション♪」 「調子にのるな」 こつ、とまた唯の頭を小突き、切ったステーキを口に入れる。唯も、もくもくと食べながら、仕事の話をして、私を笑わせた。 「まーた、ドジったのか?」 「うう、コピー太が言うことを聞かなくなっちゃって」 「いや、お前の操作ミスだろ。……ていうか、まさか会社でコピー太って言ってないよな?」 「え? 言ってるよ?」 「まじか! 周りはなんか言ってる?」 「最初はね、えっ、て感じだったけど、だんだん周りの人もコピー太っていうようになってきたんだよお」 「気付け! 誰か、おかしいことに気付け! 感染してるぞ!」 「ええ~、りっちゃんひどーい」 話しながらふと、あ、そうだ、と切り出す。 「唯、今日残業で遅くなったんだよな、まーた叱られたか?」 「……う、ん。そうだよ。えへへ、だめだなあ私」 「自分でいってりゃ世話ないな。ま、めげずにがんばれ」 「……うん」 微妙に、間があったことが気になったけれど、大したことじゃないだろ、とスルーした。 「このお肉、美味しいね。うふふ、精がついちゃうわん」 いやだから、お前の言語センス、おっちゃんと同レベルだから。 「でも唯、今日はエロいことなしな」 「っ! え、ええ!? なんで?」 声を張り上げて驚く唯に、ふん、と意地悪い笑みを見せる。 「連絡もなしに、こんな遅くまで叱られた罰だ、罰」 「ええ、いいよ、っていったくせに~」 「夕食抜きになんなかっただけ、感謝しろ」 「りっちゃんの鬼嫁!」 「第一さ、一応残業してきて、疲れてるだろ?」 本音を向けると、唯は感動したように、りっちゃん……ときらきら目を向けてきた。 けど、すぐにしまりのない顔になる。 「でもね、疲れてる時の方が、燃えるんだよ! ってうぼわっ!」 「どこのエロ親父だ、お前は! さっさと寝ろ!」 「せめて、お風呂! お風呂だけでも一緒に……」 「ごちそうさまっと。さー、皿洗い」 「りっちゃんの鬼畜!」 「どっちがだよ!」 そのあと約束通り、風呂は別々にして、二人で床に入った。 ふと、今朝のことが頭を過ぎって、ぎゅっとかたく目をつぶった。 すると、唯の腕が体に回されて、そのまま唯の体に引きつけられ、強く抱きしめられた。 「……唯」 「……ふふ、これくらいなら、いいよね?」 唯の顔は見えなかったけど、でも、優しく微笑んでいるような気がした。 約束通り、唯はエロいことはしてこなかったけど、朝までずっと抱きしめてくれていた。 唯の腕の中は、あったかくて、柔らかくて、いい匂いがして。 すごく安心して、ぐっすりと眠れた。 大丈夫、唯とだったら。 嫌な気分も、唯が全部消してしまったようだった。 翌日からも、私と唯の、慌ただしい朝は続いた。 唯をベッドから引っ張り出して、朝ごはんを食べさせて(一回、パンにしてやったら、「朝って、ごはん食べたくなるよね」と抜かしやがったので、頬をつねってやった)、 やっぱり時間ぎりぎりになって、「ごめんね」といいながらもごみを捨てに行けず、猛スピードで、それも騒がしく家を出ていく。 この繰り返しだったけど、いつものことと思えば、それなりに慣れてくるもので、ごみ置きもほぼ毎回私が行っていた。 そのたびに、少し白い目で見られたり、何かこそこそと言われるのは嫌だったけれど、唯と話していれば、自然にリセットできた。 だから、今まで以上に唯の帰りを待ち望むようになった。 だから、あの日以来、唯の帰りが極端に遅くなっているのが気にかかった。 八時どころか、この前のように十時、十一時が当たり前になって、一度は日をまたいだときもあった。 きちんと言い含めていた甲斐あって、何時に帰るかしっかりとメールはするようになったけれど、 唯と話す時間が減っていることの実感は日に日に積もっていった。 朝は朝で慌ただしいから、ゆっくりと話す余裕がない。 仕事だからしょうがないけれど、それでも忸怩たる思いがあった。 唯は、いいかげんに見えても、相手のことを想って行動できる奴だから。そういうところに、惚れたんだから。 だから、唯があまり話す時間を作れないことに、少しの不満と不安があった。 退屈だなあ、と思った。いつも当たり前にあると思っていた唯との触れ合いが減ると、こうも空虚感を覚えるものなのか。そういえば、エロいことも……最近していない、かも。 唯が疲れている、と思うから、私も言いだせないし。 家事をやって気を紛らわそうとしたり、澪やムギ、梓たちと会って色々話したりしても、どうしても埋められなかった。 なんか、なんか嫌だな、これ。 こんな不安定な状態だったから、あっけなく私の心も崩れてしまったのかもしれない。 今日も唯は、慌ただしく家を出ていった。 自分の当番なのに、ちゃんとしなくてごめんね、と行き際に言って、駅へと向かった。 いただきます、と言ってくれたし、美味しそうに食べていたし、起きるときも軽口程度の会話は交わせたけど。 それでもやっぱり、気持ちが沈む。 私はごみ袋を手に持って、歩き始めた。 今日も遅くなるのかな。 残業続きで疲れているだろうし、なんか胃に優しいものでもつくってやろっかな。 唯は、私が支えてやんないと。妻だし、さ。 少し元気を出して、夕食のメニューを考えながらごみ置き場までやってきた。 するとそこには、珍しいことに、私より早くあのベテラン主婦組がいた。 何か、嫌な予感がしたけれど、軽く会釈をして、ごみ袋を置く。 早く帰ろう。洗濯して、掃除して、買い物に行って……。 「またあなたがやってるの?」 鋭い声が飛んできた。私は、思わず振り返ってしまった。 「え、あ、まあ、そうです」 答えると、ふーん、と何か嫌な含みを持たせた口調で言った。 なんだよ、言いたいことがあるなら言え。 「旦那さん、よっぽどお忙しいのね」 「んー、そうみたいですね」 皮肉めいた言葉も、何とか受け流す。 「へえ、そうは見えないんだけどねえ」 私は、リーダー格の主婦の女の方を向いた。 「いや、忙しいみたいですよ。別に、私も置きに来るのは面倒じゃないですし」 「あはっ、本当に忙しかったら、あんなに騒がしく家を出ていかないでしょうよ」 その言葉に、私は顔を上げる。 「だって旦那さん、いつもあなた、田井中さんに背中を押されるようにして出ていくじゃない。単に、しっかりと起きていないだけでしょ? それでごみ置きくらいできないっていうのは、ただの甘えよ」 ……こいつ、いつも私たちの様子を見てんのか。 気味が悪くて、背筋が冷たくなる。 「あなたたち、新婚さんでしょ? そういうのは、最初にびしっといってやらないと、これからずるずるそうなっていくわよ、どんどんだめになっていくの」 「もう、手遅れかもしれないけどね。私だったら嫌だわ、そういう人」 「もしかして、忙しい、っていうのも、仕事ができないからどんどんやることが増えていってるんじゃないの? なんか、そういう人がいると、こっちにまで影響しそうでちょっとねえ」 三人が間髪をいれずに唯をなじっていく。 一理あることはあるかもしれないけど、そんなの私たちの勝手だ。 私は、唯にいうべきことはちゃんといってるし、こいつらに言われる筋合いはない。 「そういう人、連れ合いに選ぶ田井中さんもちょっと、どうなのかしらね」 「早いとこ、しっかり更生させてね。見ていると、いらいらするのよ」 「どうかしら。慌ただしいってことは、夫婦間の会話もあんまりないんじゃない?」 ずきっと、図星をさされた。 何も言わない私に追い打ちをかけるように、さらに三人は続ける。 「あらー、かわいそうに。せっかく家を買ったのにねえ」 「ローンを返すために、ただ働くだけが役割じゃないわよね、夫は」 「そうね、近頃は家事とか育児とかもやって当然だって言うし……あっ」 リーダー格の主婦が、わざとらしく口に手を当てた。 「ごめんなさいねえ。育児は、必要ないものね」 「えっ、どういうこと、どういうこと」 脇にいるやせぎすの主婦が、はしゃいだようにリーダーの主婦の方を向く。 「だって、ほら、ねえ、女性同士じゃ、子供なんて生まれないしねえ」 「あ、そうね。表札の名字も、別々だものね、同姓婚って禁じられてるし。旦那さんは平沢でしょ?」 「え、女性同士だったの。じゃあ、夫婦でも何でもないじゃない、単なるルームシェアっていうものかしら?」 知っていたくせに。唯が、女だということを。 体が、がちがちと震えて、動かない。 「ねー、実際にいるのね、そういう人たち。理解できないわ、何が楽しいのかしら」 「想像できないわ。それで、妻とか、旦那とか……なんかね」 「そういうのって、一瞬の気の迷いでしょ。熱病。どうせすぐ飽きて、普通に男性とくっつくものなんじゃないの?」 分かっていた。普通に、受け入れられる人間なんて、少ないということくらい。 分かっていて、どんと構えているつもりだったのに、それでもどんどん心が削られていく。 「もう破綻するんじゃない? 会話がないって、結構致命傷だもの。それに、あんなだめな感じの人じゃ、どっちみちね」 「だめな人ほど、あっちこっちに気持ちが行くし」 「家を買うの、もう少し待てばよかったのにねえ」 三人は好き勝手に言い散らし、ふふん、と鼻息荒く横を通り過ぎていった。 私はうなだれたまま、しばらくそこから動けなかった。 お前らに何が分かる。唯の、何を知っているんだよ。女同士の、私たちのこれまでの関係の何が分かるっていうんだ。 唯は旦那だし、私は妻だ。そんなの、当たり前だ。 心の中ではいくらでも言えるのに、悔しくて悔しくてしょうがなかった。 なのに、それらの言葉を口に出して言えなかったのは。「何をそんな、くだらない」と笑い飛ばすことができなかったのは。 心の中で密かに感じていた色んな心配や不安を、言い当てられたような気がしたから。 気丈だと思っていた自分が、こんなにもろいなんて、知らなかった。 机に突っ伏したまま、かなりの時間が過ぎた、と思う。 昼ごはんは、とてもじゃないけど食べられなかった。このままじゃいけないと思って、何とか体を動かして、夕食を作り、七時に出来上がった。 いつもは、唯が帰る時間に合わせて作っていたけど、何か体を動かしていなければ、気がまぎれなかったから、特に何も考えずに黙々と料理をしていた。 作ったら、すぐに食べた。初めて一人で食べる、夕飯だった。 唯に悪いな、という気持ちは、少しはあった。でもそれ以上に、とにかく口に入れなければ、もたなくなると思った。 食べ終えたら、暇で、何もすることがなかった。 何でだろう。昨日までは、そんなことを感じなかったのに。 唯と一緒に食べたり、話すことを楽しみにしていれば、いくら遅くなったって待つのは苦じゃなかった。 ふつふつと、朝の悪意のある言葉が、蘇ってくる。 唯をバカにし、私たちを否定した言葉。 私は、頭を振って、その考えを消そうとした。 やめろ。こんな風に悩んでたら、ますますあいつらの思うつぼじゃんか。 それでも、どんどん心が苦しくなってくる。 どれくらい頭を抱えていたんだろう。不意に、インターホンの鳴る音がした。 ゆっくりと立ち上がり、受話器を手に取る。 「……はい」 『わたしだよー』 ふと時計を見ると、十一時を回っていた。 唯のお気楽そうな声に、ピクリと何かが刺激された。 ドアを開けると、そこには、いつもと同じように、少し疲れながらもにこにことしている唯の姿。 今まではそれに癒されていたはずなのに、少し、気に障った。 「……おかえり」 「ただいまー。うふふ、おなか減っちゃったあ」 私を通り過ぎて、唯はリビングへと入って行った。食卓にラップされた皿があるのを見て、唯がん? と声を上げる。 「あれ、先に食べたんだね」 「……ああ」 「そっかあ。メールしたんだけど……」 「……別に、先に食べたっていいだろ」 投げやりな私の口調に、唯が目を丸くする。 何やってるんだ、私。 「……え、あ、うん。そうだよ、そうだよね」 「先に食べてていいって言ったのは、唯だろ。こっちだって、疲れてるんだよ」 「う、ん。ごめんね、ちょっと気になって言っただけだから」 こちらをうかがいながら、気遣う唯の声。 唯の顔から、いつもの笑みが消えている。 こんな顔させて、どうするんだ。 何言ってるんだよ、私。 それでも、私の中にどんどん嫌な気持ちが生まれていく。 「すごい、疲れてるんだね、りっちゃん」 「……見りゃ分かるだろ」 「ご、ごめんね」 座ったまま動かない私を見て、萎縮して小さくなった唯は、ラップをされた皿をもって電子レンジに向かった。ぴ、ぴ、と電子音が聞こえる。 料理も、温めるのも、ほとんど私がやってきたから、唯は家の電子レンジの操作に慣れていない。試行錯誤しながら何とかやろうとしている気配が伝わってくる。 唯、大皿のやつは、二分くらいに設定して、他の小鉢はまとめて温めるんだぞ。 ほら、みそ汁も温めないと。一応、いつもどおり上手く出来たつもりだからさ。 言葉にしようとしても、一向に口から出てこない。 「り、りっちゃん。あのね」 少し温めすぎた大皿を食卓に置きながら、唯が探るように声をかける。 「明日、私帰り遅くならないかもしれないんだ」 唯は全部の食器を置いて、席についた。 唯は、この空気を変えようとしているのか、いつもみたいに明るく話そうと努めていた。 「ううん、頑張って絶対早く帰るよ、だからね、明日――」 「じゃあ、何で今まで遅かったんだよ!」 気付いた時には、大声で唯にあたっていた。 「……り、りっちゃん?」 「頑張れば、早く帰れるんだろ!? だったら、今まで何してたんだよ!」 仕事に決まってんだろ、何言ってんだよ、私。 「お前が仕事できないから、ぐだぐだ働いているから、だめな奴だから、叱られたり、無駄な残業が増えてるんじゃないのかよ!?」 唯が、ちゃんと頑張っていること、知ってるよ。 「仕事がだめなうえに、ちゃんとした生活しようとしないし、いろんなとこ私任せにしてるし!」 やめろ、やめろ。 そうは思っても、自分の本音とはかけ離れた言葉が、次から次へと出てくる。 「……自分だけ、気楽な顔して、人のことほっといて。私が、どれだけ頑張って、どんな思いしてるかなんて、考えてないだろっ……!」 朝に、あいつらにぶつけてやりたかった胸のむかつき。 受け流せばいいのに。ちゃんと、自分の中で、消化するべきなのに。 唯を見た途端、ふいにそれが破裂していく。 「り、りっちゃ、りっちゃん」 唯が、おろおろしながら私を見ている。 頬を何かが伝っているのを感じて、私は初めて自分が泣いていると分かった。 馬鹿だ。泣き叫んでる子供かよ、私。 唯がそっと手を伸ばしてきたけど、それを避けるようにして、私は席を立った。 「……もう、寝る」 それだけ言い残し、すぐさま部屋に行き、ベッドに飛び込んだ。 パジャマに着替えもせず、そのまま眠りたかった。 唯は、追いかけてこなかった。追いかけても無駄だと思ったんだろう。 しばらく物音がしなかったけれど、かちゃ、かちゃという食器の音がして、夕飯を食べてくれているんだろうと分かった。それから、水を流す音。いつもは私がしている皿洗い。慣れない手つきで懸命にしているに違いない。そして、水音が止まった。 唯が、ベッドに来てくれないかな、と思った。急に、唯に抱きしめてほしくなった。 こんな、鬱屈とした気分を打ち消すぐらい、強く、強く。 散々に言っておいて、都合のいいことを考える自分が嫌になる。 でも、唯に抱きしめてもらったら、色んな事がどうでもよくなるんだ。そうすれば、また普通の私に戻れるから。いちいちあんなことで、くじけたりなんて、しないから。 だから、早く来てよ。 ――それでも、唯は来なかった。 隣がいないベッドは、それだけで、寒かった。 [[SS35-2]]へ

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