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hSS4ぽつ、ぽつ。」(2011/02/02 (水) 17:02:42) の最新版変更点

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***hSS4 ぽつ、ぽつ。 滴が地面を叩く。 そのリズムがだんだんと速くなっていくのに危機感を覚えて、手に持っていた黄色い傘を開いた。 「やっべえな……」 ザーッという音とともに、頭上の傘に幾粒もの雨粒が落ちてきた。 雨は嫌いではないけれど、せっかくの楽しい休日にショッピングしているときに降られたら、憂鬱なことこの上ない。 とりあえず傘は持ってきて正解だった、と律は思う。 本当は、CD屋に寄って目当ての物を買いたかったけれど。 「これじゃあなあ」 CDが濡れたら嫌だし、雨のせいでなんとなく気分が沈んでしまったし。 雨、という言葉で、とあるのんびりギタリストを思い浮かべる。 いろいろな策を講じて、愛用のギター、ギー太を守ろうとしていた奴。 あいつなら。 唯なら、雨の日でも、明るく、朗らかなんだろうな。 律は、自分の顔が、緩んでいることに気がついた。 あぁまた、と律は思う。 最近、いつもこうだった。何かしらを唯に結び付けて、思い浮かべて、満足して、気付けば一人で笑っている。 「不審者かよ」 それでも、やめられなかった。あののんびり娘を思い出すと、とてつもなくあったかく、いとしい気持ちになれるのだから。 この気持ちに気が付いていないふりをしている。 いや、気がついてはいけないのだ、と思っている。 女同士だし。 唯が、この気持ちを知ったら、苦しむかもしれない。傷つくかもしれない。 それを見て律は、唯以上に苦しむだろう。 なら、これまで通りばかやって、ふざけあえる関係で。 ずっと、変わらずに一緒にいる方がいい。 それが、律の結論だった。 早く家に帰ろう。そう思って踵をかえした。 「りっちゃああああん!」 なんの雄叫びだよ。 聞き違えるはずのない、あの声。 「やっぱり! よかったぁ」 振り返ると、ずぶぬれの愛しきギタリストが満面の笑みを浮かべていた。 「お前は学習能力がないのかっ」 「イテッ。しょうがないじゃん、急に降ってきたんだよ」 「憂ちゃんは、傘持たせてくれなかったのか?」 「憂は、あずにゃんと純ちゃんちにお泊りですぅ」 ぷぅ、と口をとがらせる様に、思わず笑ってしまう。すると、唯もつられて笑いだした。 傘を忘れた唯を自分の傘に入れてやって、ぶらぶらと歩いている。 さっきまでは、傘があっても歩くのさえ億劫だったのに、そんな気分はどこかに消えていた。 唯がいるからだ。 悔しいけど、それは認める。むしろ、嬉しいのだけれど。 横の唯が、何かを思いついたように、あ、と声を上げる。 唯の方に顔を向けると、唯はにこっと笑って言った。 「ねぇ、相合傘だね」 いうなよ。我慢できなくなるだろ。 「何だよ、急に」 「うふふ、言いたくなったんだよ」 確実に、頬に熱が集まっている。やばい。 なんとか話題を変えようと、質問してみた。 「ゆ、唯は何で外出たんだ?」 「んー? なんとなく。ひまつぶしかな。りっちゃんは?」 「私は、CD買いに行こうと思ったんだ。でも、雨だし、諦め」 「えっ!? そうなの? じゃあ行こうよっ! 私、傘のお礼に探してあげるっ!」 「えっ、ちょ」 唯が律の手をとり、ぐいぐいと引っ張っていく。 律としては、このまま唯とぶらついているだけでよかったのだが。 それでも、握られた手に嬉しいと感じている自分の心には勝てなかった。 CD屋は、雨のせいか、客もまばらだった。もともと広い店だが、いつもより広く見える。 唯は来るのが初めてらしく、ほえー、とぽっかり口をあけてきょろきょろ見回していた。 「唯、来るの初めてか?」 「うん、知らなかったよ~、こんなお店。りっちゃんはよく行くの?」 「時々な。CD発売日とかさ。結構そろってんだぜ、ここ」 「穴場ってやつだね、えへへ、やったぁ」 唯は、にこにこと笑いながらこれ以上ないほどに喜んでいた。 そんなにCD屋を見つけて嬉しいのか、と思って聞いてみたが、ちょっと違うかな、という答えが返ってきた。 「だって、りっちゃんの穴場なんだよ。りっちゃんのこと、いろいろしっているつもりでいたけど、でも知らないこともあるなぁ、って。だから」 唯は一呼吸おいて、続けた。 「りっちゃんを、もっと近くに感じることができて、嬉しいよっ!」 息が止まった。そんな風に思っていてくれているなんて。 いや、と思い直す。 唯は多分、澪でも梓でもムギでも――同じように感じるのだ。嬉しい、と言って見せるのだ。 分かっている。それほどばかじゃない。じゃなかったら、とっくに思いを伝えて、玉砕しているはずだから。 「……おおげさなんだよ、このおバカ」 ごまかすように、唯の頭を小突く。 「あぁん! またぶった!」 「お前が悪いんだろっ!」 「悪くないもん! むしろ、りっちゃんが」 「私が、なんだってぇ?」 凄んでみせると、唯はわざとらしく、恐いよぉと両手で顔を覆って、ぷるぷると震えた。 これでいい。 りーどされっぱなし、振り回されっぱなしだった心が、ようやく落ち着いた。 唯とは、こうでなくちゃ。こうでなくちゃ、いけないんだ。 「おーい、いつまで芝居しているつもりだ?」 唯の肩を揺らしたけれど、反応がない。 どうしたものか、と思っていると、唯がぽつりとつぶやいた。 「……だって、もうすぐ卒業じゃん。その前に、いっぱいいっぱいみんなのことを知って、心の中に、ためておきたいんだ」 唯は、まだ顔を覆ったままだ。 「そうすればっ! 寂しくなーいもーんっ!」 唯は、何かを振り払うかのように、顔を上げて、万歳をした。 えっへへ、と笑ってみせる唯が、悲しかった。 やめろよ、そんな顔するな。 「唯、私は」 お前の心の中にしか、いられないのか? ずっと一緒にいられないのか? そう、言おうとした。 でも、声が出なかった。 「りっちゃん、りっちゃんの欲しいCD探そうよっ!」 そういうと、唯は私の手を引いて、走り出した。 私は思った。ずっと、こうしていたいって。こうしていられるって。 でも、唯には、その終わりが見えているのかもしれない。 いつも唯に、小学生か、とつっこみをいれているけれど、本当に子供なのは、むしろ。 「唯、洋楽のコーナーで探してくれよ」 私なのかもしれない。 「うん! なんて曲?」 「ふふふ、それはりっちゃん極秘スペシャルだ!」 「えー、教えてよ~」 だけど、子供で何が悪い? 唯とずっと一緒にいたいと思ってて何が悪い? 「分かった分かった。曲名は――」 だって、離れたくないんだから。 「残念だったね……」 CD屋からの帰り道。 行きの時と同じように、律と唯は、二人で一つの傘に収まっている。 ただ違うのは、唯の表情が沈んでいるということだ。 気にする必要なんてないのに、唯は、ごめんね、と謝り通しだった。 唯とふざけあいながら、洋楽CDを置いている一角にやってきた。 目当てのCDは隅に配置されていたが、POPがあるだけで、CDそれ自体は一枚もなかったのだ。 ああ、売れちゃったんだな、と律は思った。 まあ、次の機会にでも買えばいい。 唯に一声かけて、一緒に出口に向かおうとした時。 隣の唯は、眉を八の字にして、申し訳なさそうに律を見ていた。 驚いて、どうした、と言葉をかけると、ごめんね、という言葉が返ってきた。 何が何だか分からない。むしろ、謝るのはこっちだ。唯を無駄に付き合わせてしまった。 「私があんなにふざけていたから、その間に売り切れちゃったんだね……。りっちゃん、ごめんね」 なーにいってんだ、どこが唯のせいなんだよ。たまたまだろ。 私もふざけていたし、それで楽しかったし、だから変なとこ気にするなよ。 そうはいったけれど、唯の表情は晴れないままだった。 CD屋をでたあとも、ずっと俯いている。 嫌だな。唯の笑った顔が一番好きなのに。 「唯っ」 声を上げると、唯がこちらを見た。 一つの傘の中だから、思ったよりも距離が近い。 どぎまぎしながらも、律は唯に傘をもたせ、両サイドの髪をそれぞれつまんで、鼻の近くに寄せ、ひげっ! と笑って見せた。 唯はきょとんとしている。 まだ、これじゃ足りないか。 しゃれこうべっ! と、今度は言ってみた。 すると、唯は口をむずむずさせたかと思うと、弾けたように笑い出した。 「あはっ、あははははっ! りっちゃん、ギャグがコラボしてるぅ~。なにそれ、ふふふ~」 いつもの、見ている人をとろかすような笑顔だった。 それを見た律は、急に愛おしい気持ちがあふれてきた。 好き。好き。唯が好き。 いつか一緒にいられなくなるとしても。 唯の気持ちが、自分に向いていなくても。 「好き、なんだ」 思わず律は口を押さえた。自分は今、何と言ったのだ。 気持ちがあふれて、ついつぶやいてしまった。 「ん? りっちゃん、何か言った?」 幸いにも唯には聞こえていなかったらしい。 「……何でもないよ、おバカちゃん」 「むうぅ。教えてよ~、こうやって、相合傘をしている仲じゃんか~」 またこいつは余計なことを言って、心を振り回す。 「あーあ、今日唯に会わなかったら、こんなキツキツで傘をささなくてもよかったのになぁ」 「うぅ、それは」 隣で唯がいじける気配がする。 あぁ、またやっちゃった。 相合傘で、キツキツだなんて、窮屈だなんて、ちっとも思っていない。 むしろ、密着できて嬉しいのに。 照れ隠しで思ってもいないことを言っては、唯を傷つけている。 唯を好きになってから、いつもそうだった。 言いすぎじゃないか、って澪やムギに言われることもある。 でも。 いじけていたはずの唯は、元の明るい表情に戻って、たんたんと歩いていた。 唯は、いつだって気にせずに、優しく受け流してくれる。 律は、それに甘えていることを自覚していた。 不意に、唯の体が自分から離れているのに気がついた。 「何やってんだよ、濡れるだろ」 引き戻そうとすると、唯は困った顔をして振り向いた。 「え、だってキツキツでしょ」 「っ、ちが、いいからこっち寄れって」 「平気だよ、案外濡れないよ」 「――っ、唯っ!」 唯の腕を思い切り引っ張った。 だって、今にも唯が離れてしまいそうだったんだ。 いつか、この関係もこんな風に終わってしまうんじゃないかって。 嫌だ。 離れるなんて、絶対に嫌だ。 離れるなんて、絶対に許さない。 思いを込めて、唯を引き寄せた。 唯は、いとも簡単に、律の胸に飛び込んできた。 「りっちゃん……?」 律と唯は、向かい合っていた。 律がさす傘の中で、じっとお互いを見ていた。 律の手は、唯の手をつかんだままだった。 「りっちゃん、大丈夫?」 唯が、急に顔を近づけてきた。 律は、驚いて目を丸くする。 「どっか痛いの? 苦しいの? 辛そうな顔してるよ?」 唯は、さらに近づけて、おでことおでこを合わせた。 「……熱は、ないみたいだね」 自分の唇の前で、唯の唇が動いて、言葉を紡ぐ。 どこか甘い、いい匂い。 ほっとする温み。 唯のおでこが、離れていく。 律は、弾かれたように動いた。 唇を、唯の唇に押しつける。 「んんっ!?」 唯の驚いた顔が、目前にある。 それを見て、律はさらに強く押しつける。 唯の唇の肉感を、いっぱいに感じる。 すると、唯がもがいて、体を離そうとする。 逃すまいと律は、傘をもつ手を唯の肩に乗せ、動きを止める。 そして、唯の手をとらえていた手を唯の頬に添え、さらに唇を押しつける。 伝わる感触は、今確かにあるのに。あったかいのに。 これも、ただの思い出になってしまうんだろう。 唯は、きっと、こんなことも、「心の中にためて」終わりにするんだろう。 私との関係も。 だったらせめて、今だけはつながっていたい。 「……りっちゃ、んうっ!?」 唯の口が開いたのを見計らって、律は舌をねじ込んだ。 唯の舌先をつつく。 逃げようとする唯の舌に絡みつき、思い切り吸い付く。 甘い。いつも、アイスを食べているからか? 柔らかい唯の舌の感触に、病みつきになりそうだった。 舌をさらに進めて、唯の口内をくまなく味わう。 「……んっ、ん……」 はじめは抵抗していた唯の舌も、律が強引に愛撫するたびに、力が抜けて、今はされるがままになっていた。 律は、それがたまらなく愛おしいと思う。 雨音、歩く人々の足音。 二人の口付けは、黄色い傘の中に隠れて、行きかう人の誰にも気づかれない。 傘の中は、二人だけの世界だった。 ぴちゃ、くちゅっ、ぴちゃ…… 雨音に紛れて、別の水音が口から漏れていた。 律は、その音に酔いながら、なおも離そうとしなかった。 「……んっ、もうっ、だめっ!」 突然唯が律を突き飛ばした。油断していた律は、少しよろめいた。 「……ゆ、い……」 見ると、唯は真っ赤な顔で、俯きながら呼吸を整えていた。 大きく愛らしい目に、涙が浮かんでいた。 傷つけた――! 律は猛烈に後悔した。 ばかだ、最悪のばかだ。 「ゆ、い、ごめんっ! ごめんっ! ごめんなさいっ……!」 律はただひたすら頭を下げ続けた。 唯は俯いたまま、全く反応しない。 「……ゆいぃ………」 声を絞り出した。 唯の肩が上下している。まだ息が落ち着かないのだろう。 律は、唯の服の袖が、肩から濡れていることに気がついた。 律が傘をもったまま唯に突き飛ばされたせいで、唯にまともに雨が当たっていた。 袖が濡れて肩に張り付き、唯の白い肌がいつもよりなまめかしく見え、律はどきりとした。 律は頭を振って情欲を振り払った。 今、何を考えたんだ、私は。 律は唯の元に駆け寄り、傘をかざした。 それに気がついたらしい唯が、ゆっくり顔を上げようとする――。 唯は、なんというだろう。 私を、どんな目で見るのだろう。 いや、きっと。 その目に焼き付いているのは、恐怖と軽蔑――。 嫌い。触らないで。 そんなことをいわれたら、 嫌だっ!! 律は強引に唯に傘をもたせ、雨の中を走って行った。 唯の顔は見えなかった。 律は、ずぶぬれになりながら走った。 最悪だ。 バンド仲間を勝手に好きになって、欲情した、なんて――。 分かっていたのに。 このままの関係でいいって。 このままの関係じゃなければいけないんだって。 「私のバカヤロッ……」 悔しくて悲しくて零れ落ちた律の涙は、雨とともに流れていった。 あれほど楽しみにしていた三連休が、暗黒に変わった。 唯と会った土曜から一夜明けた日曜。律は、ぼんやりそんなことを考えていた。 三連休最後の日曜は、いつかのスタジオで五人集まって、練習することになっている。 せっかく借りられたのだから、さぼるなんて許されない。 さぼっても、また学校で顔を合わせることになるのだから。 いや、もう顔を合わせてもくれなくなるかもしれない。 傷つけたのだ、唯を。 苦い気持ちになる反面、唯の唇や舌の感触、白い肌を思い出し、顔と体が熱くなるのを必死で抑え込んだ。 ばかか、私は。 律にとっては忘れられない思い出でも、唯にとっては消し去りたい思い出だろう。 「心の中にためて」おきたくもないことだろう。 それどころか、今までの思い出から律を消し去り、初めから律をなかったことにしてしまいたくなるかもしれない。 律は、あの唯の言葉を聞いた時、心の中でしか生きられないのか、と思ったけれども、もしかしたら、唯の心の中ですら生きられなくなるかもしれない。 最初から、出会っていなかったかのように。 それぐらいのことをしてしまった。それは分かっている。 でも、もう、唯と笑いあえなくなるのかと思うと、胸が潰れそうなほどに痛くなった。 「何やってんだよ、律」 突然の声に驚いて振り返ると、ドアを開けた澪がいた。 「澪こそ、何だよ」 何とか、ちゃんとした声を出せた。 「メールしたのに、返事が来ないから、ちょっと来てみたんだよ」 おまけに、部屋から負のオーラがにじみ出ているし、と澪は付け加えた。 「何かあったのか?」 答えられるかよ。私と唯の問題だ。 そうは思ったが、このままの状態なら、どの道軽音部全体に迷惑がかかる。 律は、意を決した。 「……友達の、話なんだけどさ」 「友達?」 怪訝な顔をする澪に、頷いて見せる。 「友達から、ちょっとした相談を受けてさ、それで悩んで、メール返せなかったってわけだよ」 「友達」から聞いた話にするなんて、つくづく自分は姑息だと律は思った。 それでも、そうしなければ心が耐えられそうになかった。 「友達、か」 「……そう、だ」 「私にも話してみろよ。解決策が思いつくかもしれない」 澪が、意味深な表情で促す。 「……分かった」 律は、大きく息を吸い、吐き出して、それから話し始めた。 その友達には、好きな子がいるんだ。 大好きで、大好きだからこそ、今の関係が壊れるのが恐くて、気持ちを伝えられない。 しかも、同姓ってハンデもある。 だから、気持ちを伝えちゃいけない、このままずっと一緒にいられるだけでいい、そう思っていたんだ。 ある日、友達は、その子と会った。嬉しかった。 ちょっとした会話も、一緒にいる空気も、全部全部特別で、すげー愛おしかったんだ。 柄じゃないけど、そう思った。 私の穴場の店に連れて行ったら、その子は喜んだ。 喜ぶところも、なんか、可愛くて、眩しくて……。 あぁ、脱線しちゃったな、悪い。 何で喜んでいるのか聞いたら、私のことをもっと知ることができて、嬉しい、って。 でも、有頂天になれたのもそこまでだった。 もうすぐ卒業で、離れるかもしれないから、寂しくならないように、今のうちに思い出的なものを心にためておきたいんだと。 聞いた時、ショックだった。だってそうだろ? 私はそいつとずっと一緒にいたいと思っているのに、そいつは別れを覚悟しているんだ。 そいつの未来には、私の姿はないんだ。 ガキ臭いのは、分かっているよ。そいつの方が、私より大人な対応なんだろうし。 それでも、納得なんてできなかった。したくなかった。 ……好きなんだから。 離したくなかった。離れたくなかった。 せめて、そいつに私っていう存在を強く残したかったんだ。 気付いたら、キスしていた。 欲情しまくって、止まんなかった。離すのが恐くて、かなり深く口付けた。 そいつに突き飛ばされて、目が覚めたんだ。 泣いていたんだ、そいつ。 ばかなことをしたと思って謝ったけど、反応がなかった。 というよりむしろ、反応を見るのが恐かった。 嫌われたら……軽蔑されたら……そいつに私っていう存在を拒絶されたら……。 逃げ、たんだ。……卑怯だよな。でもそうじゃなきゃ心が死にそうだった。 今、会うのも、いや、そいつのことを想像するだけで、なんか辛いんだ。自分のせいなのにな。 でも、近々そいつと会わなきゃいけないんだ。それで、どうするか、って悩んでる――。 話し終わった律は、大きく息をついた。 澪は、じっと考え込んでいたが、ふと言った。 「律は、その子のこと、今でも好きなのか」 律は、鼻で笑った。 「当たり前だろ。じゃなきゃこんな悩まねえよ……」 大好きなあいつを思い出し、胸を熱くする。 昨日のことを思い出すと、確かに辛い。 でも、澪に話すうちに、心が整理され、少しずつ決心がわいてきた。 この辛さは、痛みは、唯が好きだから、感じるのだ。 なら、それを乗り越えなきゃいけない。 そして、唯に向き合わなければならないのだ。 「なら、それでいいと思う」 澪の言葉に、私は顔を上げる。 「好きだってことも、悩んでいることも、色んな思いを全部ありのままぶつけろよ。それが、一番律らしいと思う」 律は、こくりと頷く。 「律がそれほどまでに好きな子なんだったら、きちんと律のことを受け止めて、その子なりの答えを返してくれるよ」 「……おう」 そうだ。私は何をうじうじしていたんだろう。 唯は、私の騒がしいところも、意地悪なところも、弱いところも、全部全部受け止めてきてくれた。 だから、私もありのままを唯に伝えて――唯のありのままを受け止めるんだ。 たとえ、それがどんな返事であっても。 「そうだなっ、うん、そうだっ!!」 意気込むと、澪が呆れ気味に口を挟む。 「でも、無理やり……その、キス、したことへの謝罪はちゃんとしろよ」 「……分かってるっつうの」 「それともう一つ」 何だよ、と澪を見ると、澪は、含み笑いをしながら言った。 「『友達』から、いつの間にか『私』の話になっていったのは、スルーしとくよ」 「ぐえっ!!」 律が頭を抱えると、澪はからからと笑い始めた。 「ところで、誰なんだよ」 「スルーするんじゃなかったのかよ」 「律が自滅したんだろ」 律は、ため息をつき、唯を思い浮かべた。 さっきまではそれだけでも辛かったのに、今ではとても温かい気持ちで唯を思っていられる。 「……私のつくったハンバーグを、すんごく幸せそうに食べる姿が、可愛くてたまんない奴」 その時の唯の笑顔が浮かんで、律の頬は今にも緩みそうになる。 「はぁ!? もっと具体的に言えよ」 「わかんねえのかよ」 「わかるかよ」 はてなマークを浮かべる澪が、律には全く理解できなかった。 「……好きな食べ物は、アイス」 「なるほど、って……えぇーーーーっ!!!」 翌日、律は緊張しているような面持で、スタジオにいた。 リュックの中には、唯への謝罪を込めたあるものが入っている。 苦しみから吹っ切れたとはいえ、昨日の夜はあまりよく寝られなかった。 唯にすべてぶつけると決意したものの、小さな不安がぽつぽつとこみ上げてきて、目が完全に冴えたまま朝を迎えた。 家にいても余計に不安になると思い、早々に出発して、馬鹿に早い時間についてしまった。 スタジオは一日貸し切りにしているから問題はないものの、それでも一人でいる空間は、何とも居心地が悪い。 どうしたものか、と思って待っていると、何人かの足音が聞こえてきた。 どぎまぎしながら振り返ると、澪、ムギ、梓、の順番にやってきた。 集合時間五分前。さすがは、真面目な三人なだけある。 最後にドアを開けた梓が、閉めながら、「り、律先輩が……」とよく分からない呟きをしていた。 ムギも、「りっちゃんが一番乗りだなんて……天変地異かもしれないわね」と、失礼なことを言ってのけた。 ただ一人、澪だけは意味深な表情をしていた。律は、苦笑いを返した。 「遅いですね、唯先輩」 集合時間から十分過ぎたころ、ムスタングを肩にかけながら、梓が時計を見る。 「そうね、りっちゃんが一番に来ていたから、唯ちゃんもつられて来るかも、と思っていたのに」 ムギが言うと、澪も心配そうに呟いた。 「来ない、なんてことは……ないよな」 律は、どきりとした。 自分が抱えていた不安を、澪の言葉が抉るようだった。 来なかったら、どうしよう。 もう一生、あいつに気持ちをぶつけることも、あいつの気持ちを知ることも、できなくなってしまったら。 「――来るよ」 律の口から、言葉がこぼれた。 「来てくれなかったら、私は」 梓とムギが、首をかしげて私を見る。 来る、来て、唯。 「ごめんね~、遅れちゃったぁ~」 全員でドアの方に視線を向けると、唯が頭をかきながらスタジオに入ってきた。 一気に、律の胸の鼓動が、速くなる。 「遅いですよっ、唯先輩!」 「ごめんねぇ、あずにゃん」 「まあ、なにはともあれ、よかったよ」 「りっちゃんのいうとおり来てくれたわね、よかったわ」 ムギの言葉に、黙りこくった律以外のメンバーと言葉を交わしていた唯の目が、こちらを向く。 大丈夫、今度はそらさない。ちゃんと、唯の目を見るんだ。 真正面から見る唯の目は、大きく愛らしく、温かく、まっすぐだった。 「本当に遅れてごめんね、みんな。あと、りっちゃん、ちょっとついてきて」 えっ、と律が言うと、唯はまた律に目を合わせ、踵を返してドアを開け、スタジオの外に歩いて行った。律は慌ててリュックをつかみ、唯の後を追った。 まさか唯の方から声をかけられるなんて、思わなかった。 けど、何であっても、私は、思いを伝えると決めた。 歩く律の目に、もう迷いはなかった。 「……先に合わせていようか」 澪が梓とムギに言うと、二人ともゆっくりと頷いた。 スタジオを出ると、廊下があり、その端に階段の踊り場のような、空いたスペースがある。 そこに二人は立っていた。 律は唯の前に立ちながら、どう切り出そうか考えていた。 すると、唯はもっていたバッグの中を急に探り始め、中から黄色い紙袋を取り出した。 律はその一連の動きをじっと見ていたが、唯の持つ紙袋に見覚えがあった。 「りっちゃん、はい」 唯が、そっと紙袋を律に差し出した。 唯が「りっちゃん」と呼んでくれることに、喜びを感じた。 「開けていいか」 「うん」 唯の了承を得て、律は紙袋の中を探る。 見覚えがあるのも当たり前、それは、律のあの穴場の店でくれる袋だったから。 中に入っていたのは、 「……これ、私が探していた」 律と、そして唯が探すのを手伝ってくれた、あのCDだった。 「あとでお店の人に聞いたらね、そのCDの発売日、今日だったんだって。だから、さっき買ってきたんだぁ」 「……そうか、ありがとう。わざわざ、ごめん」 「ううん、喜んでくれてよかった」 そういって、唯は優しく微笑んだ。 自分はただ暗い気持ちに苛まれていただけなのに、唯は、こうやって、私のことを考えてくれたのだ。 あぁ、無理。やっぱり、お前のこと、思い出になんてしたくない。 「……そっかあ、だからあのとき、なかったんだなー」 「あのとき」という言葉に、唯の肩がびくっと揺れた。 律の目には、しっかりそれが映った。 くじけそうになる。でも、いわなきゃいけない。 「唯、ごめん」 ぽつりと呟かれた律の言葉に、またぴくりと唯は反応した。 「ごめん、何度言っても取り返せないだろうけど……ごめん」 そうっと唯が顔を上げた。少し、潤んだ目で律を見ている。 ぞくり、としたが、すぐに冷静になれた。 「……嫌、だったよな」 律は言い、自分のリュックに手を突っ込んだ。目当てのビニール袋の包みを見つけ、そこからタッパーを取り出し、唯に差し出した。 「許してもらえるなんて思っていないけど、お詫びだから……受け取ってくれるか?」 律の手が震える。唯は、そっと律に近づき、両手でそれを受け取った。 唯は、それをじっと見ると、「ハンバーグ……」と呟いた。 「……うん、唯、前に美味そうに食ってくれたから」 唯はそれを聞いて、大事なものを抱えるように、ぎゅっとタッパーを抱きしめた。 律は、心がほんのり温かくなった。 「唯、ごめん。何度でも、謝る。あと……お詫びと一緒に、私の気持ちも聞いてほしいんだ」 「……りっちゃんの、気持ち」 「うん」 律と唯の目が合った。 唯、すぐに、伝えるから。聞いてほしい。 「……昨日、唯に会えて、嬉しかった。二人でぶらぶらしたり、CDを一緒に探してくれたり……相合傘も、本当は、全然、窮屈なんかじゃなかった」 律は、一つ一つ手繰るように言葉を紡ぐ。 「いつも、唯に意地悪ばっかいってるけど、でも、そうやって、お前と一緒にいる空間が、何よりも嬉しいんだ」 唯がまたタッパーをぎゅっと抱きしめるのを見て、律は言った。 「ハンバーグのときのことも、初めて会った時のことも、文化祭も、合宿も、放課後の時間も、数えきれないくらい、唯との思い出がいっぱいある」 唯は、まっすぐに律を見つめている。 「唯との思い出が、たくさん増えるのは嬉しい。でもな」 律も、唯を見つめ返した。 「思い出よりも、何よりも、私は、唯とこれからもずっと一緒にいることの方が、何百倍も嬉しい」 唯が、息をのむ音がした。 「昨日、唯が、『みんなのことをいろいろ知って、心の中にためていけば卒業しても寂しくない』っていっただろ?」 「……うん」 唯が、言葉を返した。 「それ聞いて、私は、辛かった」 「えっ……どうして?」 驚く唯に、律は何とも言えない表情をする。 「だってそれは、別れの準備みたいなものじゃんか」 「……!」 「確かに、高校時代仲良くても、大学にいったら疎遠になるって話はよく聞く。でも」 律は、しっかりと唯を見つめなおす。 「私は、唯とはそうじゃない、唯とはずっと一緒にいられるって、信じていたから」 「りっ、ちゃん」 「……違うな。唯と、ずーっとずーっと一緒に“いたい”んだ」 「りっちゃ、」 「……だからキスした」 唯の体が、またびくっとした。 「……ごめん、今の言い方だと、唯に責任転嫁しているみたいだな。違うんだ。唯の言葉は、ある意味で正しいんだ。むしろ、私が子供っぽ過ぎるんだ。ずーっと一緒、なんて」 「……そんな、そん……」 「だから、唯が離れるのが恐かった。ずっと一緒にいられないなら、せめて、キスしたかった。せめて、唯の心の中に、ずっと、いたかった。強く存在したかった」 「……りっちゃんっ……!」 「ごめん、これがキスの言い訳。でも、これだけは伝えたかったんだ」 律は、自分の思いを言いきった。あとは、唯の返事を待つだけだ。 「私の勝手で、傷つけてごめんな。それも、女からなんて嫌だっただろ」 半ば自嘲気味に語りかけた。全て、ぶちまけた。 何を言われる? 最低、勝手、嫌い……でも、どれでも、受け止めたかった。 「……いやじゃ、なかったよ……」 頭の中で考えていたうちのどれでもない言葉に、律は目を大きくした。 「えっ、唯、」 「い、いやじゃなかったのっ……!」 唯は、顔を真っ赤にして、震えていた。 「……りっちゃん、聞いて」 唯の様子に驚きながらも、律は頷く。 「……私、今までぼーっと生きてきたの。和ちゃんが心配しちゃうくらいに。でも、軽音部に入って、毎日がきらきらしてきたの」 「……唯」 「楽しいし、楽しかった。りっちゃん、澪ちゃん、ムギちゃん、梓ちゃんに会って、いろんな曲演奏して、ティータイムして、みんなといろいろなこと経験して」 唯が今までのことを思い返しているように、目をつむる。 「でも、三年になって……将来って言葉がリアルになってきたときに、はじめて、これまでのことがあっという間にすぎていったなぁ、って思うようになって」 「……うん」 「はかないなぁ、って。それでそのとき、思ったの。こんな幸せな時間は、これから先もずっとあるとは限らない。こんな風に時が過ぎて、いずれ終わってしまうものだって」 唯の苦い言葉に、律の顔が強張った。 「……だからね、終わってしまったときに悲しむよりも、今から覚悟しておけば、寂しくならないかな、って」 律は、辛そうな顔でぎゅっとこぶしを握りしめた。 「ごめんね、りっちゃん」 突然の唯の言葉に、律ははっとなった。 唯は、見たことないくらいに悲しそうな顔をしていた。 「私、昨日、やせ我慢していたよ。『心の中にためておけば、寂しくない』って。そんなの……そんなわけ、ないじゃん」 「ゆ、いっ」 「寂しいよ、悲しいよ……みんなと別れたくなんかない、終わりなんて、来なければいいっ……」 「唯っ!」 気付いた時には、唯を抱きしめていた。 唯は、思ったよりもずっと華奢で、そのまま消えてしまいそうだった。 「それで、それでね、その中でも、いちばん、いちばん、離れたくないって思ったのが」 お互いの、視線が絡み合う。 「……りっちゃん、だよ」 唯が、再度タッパーを抱きしめる気配がした。 律は、自分でも、今何が起こっているのか、分からなかった。 ただ、抱きしめている唯の体の熱だけが確かだった。 「りっちゃんと……その、したとき、びっくりして、思わず突き飛ばしちゃって、それでりっちゃん傷つけたかも、って今日もずっと後悔してた……」 「唯……」 「まだ、りっちゃんをどう思っているのか、どう思われているのか、わかんなくて」 唯が、律にさらに体を寄せる。 律も、抱きしめる腕に込める力を強くする。 「これが、たとえば、澪ちゃんやムギちゃん、あずにゃんだったらどうだっただろう、って考えて」 「……うん」 「傷つけた、って後悔はするの。誰に対しても……。でも、このことで、離れちゃったらいやだな、って一番思ったのは、りっちゃんなの……」 「……唯」 「本当は、りっちゃんにされたとき、離したくなかったのかもしれない、ううん、それで、そのままでいたいと思ったんだよっ……」 「唯、」 律は、唯の頬に手を添えた。唯は、まっすぐ律を見ている。 その頬は、赤く、愛らしかった。 「……分かるか? 私が、唯をどう思っているか」 唯は、首を振った。 「分からないよ。だから、確かめたいの」 唯は、自分の頬に添えられた律の手に、自分の手を重ねた。 「……りっちゃんは、私のこと好きなんだ、って思っていいの?」 決まっている。 唯からの答えも決まっている。 お互いが、お互いと、一番、離れたくないんだから。 ジャーン、と元気な音がスタジオに響いて、その後に歓声が上がった。 「今、すごくよかったですよね!?」 「みんなの息があって、最高だったわ!」 「そうそう。特に、律と唯が」 梓とムギが喜ぶ横で、澪がにやりとして見せた。 まあ、相談料として、これくらいのからかいは許してやろう。 ふと唯を見ると、少し頬を染めて、私に微笑んでいた。 私も、負けないくらいの笑顔を返す。 唯は前に向き直り、スタジオの鏡を見た。 自分の頬にハンバーグのかすが付いているのを発見し、慌てて取っていた。 律はそれを見て、またクスリと笑う。 かなり大き目のを作ってきたにもかかわらず、唯は一人でぺろりと全部平らげたのだ。 「よし、もう一回だな」 澪の合図で、また演奏し始める。 唯とギー太が、楽しそうに音を奏でている。 律はそれを、ドラムを叩きながら、見つめている。 ずっと、こうしていたいんだ。唯と、ずっと。 その思いが届いたかのように、一瞬、唯がこちらを見た。 その時の唯の笑顔は、きらきら光っていた。 律の口の中に、食べていないハンバーグの味がまだ残っていた。 理由? ……私と唯の、秘密だ。 おわり

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