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 轟々と燃える、焼却炉。
『霧切、俺のことは気にするな!』
 裏切り者が、叫ぶ。
 幾度となく繰り返される、あの日の夢。
 この夢は過去の記憶をなぞるだけ、故に私はその結末を知っている。だからこそ、恐い。
 あの時の私は、探偵への憧れと、事件解決への焦燥、そして名誉の渇望を抱いた、
 どうしようもなく愚かしい子供でしかなかった。

『…彼の命は助けてくれるのね…?』
 落ち着いて振舞おうとすればするほど、私の声や体は震え、冷たい汗が体中を伝う。

『ああ、いいぜ。きっちり30秒間な』
『…』
 私は自ら、燃え滾る炎の中に、自分の両手を差し出した。
『うあ゛ぁあああぁぁああぁああああっ!!!!』



 場面は一転して、見慣れた教室の一角が、私の主観から映しだされる。
『ね、霧切さんの手袋の下の秘密、知ってる?』
『知らない。っていうかアレって、なんていうの、中二病ってやつじゃないの?』
『普段から、そういう発言多いもんね。自分は選ばれた人間で、あんたたちとは違う、とか思ってそう』
『まあ、それは置いといて、あたし霧切さんの素手見ちゃったんだけど』
『どうだったの?』
『めっちゃグロいの!なんか爪がほとんどなくて、皮膚とかしわくちゃにただれてて…』
 私は叫び出したい衝動に駆られながら、ぐっと唇を噛む。
 しょうがない。彼女たちの言っていることは、何も間違ってなんかいない。
 必死に自分を説得していくうちに、再び場面は歪み、私は焼却炉の前へと――



 ふ、とまぶたを開けると、カーテンの隙間から日の光が差し込んでいる。
 時計は正午ちょうどを指し示しており、こんな時間まで眠りこけていた自分の体たらくに、半ば茫然とする。
 寝巻を着替えようとして、気づく。
「…酷い寝汗」
 まるで服の上からシャワーでも浴びたかのようだ。

 あの夢を見るのは、初めてじゃない。
 人が悪夢を見るのは、罪の意識から来るストレスを軽減させるためだという。
「っ…つ」
 手から迸る激痛に、私は思わず眉をひそめた。
 もう痛覚なんてほとんどないはずなのに、記憶からそれを得るなんて、おかしな話じゃないか。
 まるで過去の罪が、過ちが、私にそれを忘れさせないために戒めているかのようだ。

「あ、霧切さん、おはよう」
「…おはよう、苗木君」
 シャワーを浴びて汗を流し、まだ寝ぼけていた頭から切り替える。
 思考や感覚が鮮明になってくるころには、あるはずのない右手の痛みは、とっくにどこかに潜んでいた。

 食堂へ向かう頃には、いわゆる昼飯時はとっくに過ぎており、
 まだ食堂にいるのは、今の今まで寝ていたという彼――苗木誠だけ。
「休日だと、ダメだとわかってても二度寝しちゃうんだよね」
 呑気にそんなことを言いながら、彼は自然な動作で、私の隣に腰掛ける。

 その平和そうな笑顔に、私は幾度となく救われている。
 彼といると、忌々しい思い出を、その瞬間だけ忘れていられるような。
 彼の笑顔を見ると、過去の傷が少しずつ癒されていくような。

「僕コーヒー入れてくるけど、霧切さんも飲む?」
「お願いするわ」
「ブラックでいいんだっけ」
「ええ」

 けれど、だからこそ、私が彼に近づきすぎることは許されない。過去の罪から、目をそむけることは許されないのだ。
 そして、彼はそういう物語とは、程遠い場所にいる存在。
 私に刻まれた汚れを、彼にまで背負わせるなんて、絶対あってはならない。

 いつか、この手袋の下の罪を、彼に告白するべきだとは思っていた。
 別に隠しているつもりなどないけれど、これを秘密にしたまま彼と接するのは、ひどく不誠実な気がした。
 彼は、私の汚れなど当然知らずに、私に話しかけてくれる。

「今日はあまり、寄宿舎に人がいないね」
 それはとても愛おしくて、
「部活や芸能活動で、遠征してる人が多いと聞いたわ。ほとんど出払っているみたいだけど」
 それはとても心苦しい。

「そっか。…じゃあ、もしかして今日、霧切さんと二人きりなのかな」
 照れたように言う彼を見ると、心臓を握りしめられたような心地がする。
 息苦しい。彼の信頼が、茨となって私を締め上げる。

 いつか、言うのだ。今はそれでいい。
 私は自分を納得させようと、必死でその二言を頭の中で反芻する。
 いつか言うから、今は彼の笑顔や、優しさや、無垢さを、側に置かせてほしい。

「残念ね、私なんかと取り残されて」
 言えば彼も、きっと私から遠ざかってしまう。
 だって、彼は私のような汚れた存在と、対極の位置にいるのだから。

「そんな!残念だなんて、全然思ってないよ!」
 ただ、ほんの少しだけ、淡い希望を彼に見出してもいる。
 もしかしたら、この手を見ても、それでも彼はそばにいてくれるのではないか。

「そう?舞園さんと一緒の方が、よかったんじゃない?」
 それが押しつけの希望だと、自覚もしている。彼にしてみれば、いい迷惑だろう。
 だから、「希望」は抱くけれど、「期待」はしない。
 彼がそばにいてくれる、そういう可能性もある、とだけ頭の片隅においておくだけ。
 それに縋ったりはしない。

「な、なんで舞園さんがでてくるのさ…」
「ふふ、顔が赤くなってるわよ」
「う、あっ…」

 彼が舞園さやかに憧れを抱いているというのは、周知の事実だ。
 愛らしい笑顔、誰に対しても等しく振りまかれる優しさ、みんなを元気づける明るさ。
 私なんかよりも、ずっと彼のそばにふさわしい。

 それだから余計に、私が彼に期待を抱いてはいけない。
 彼は優しい人だから、自分より他人を優先するお人よしだから、私が期待を抱けば、彼はそれに応えようとする。
 そしてそれは確実に、彼が舞園さやかの隣へ行くことへの足枷となってしまう。

「ホントに私と残されたことが残念じゃないなら…」
 いつか打ち明ける。打ち明けて、彼を私から遠ざける。
「今日は少し、付き合ってもらっても良いかしら」
 だから、今だけ。今だけ、隣にいさせてほしい。
「もちろん。どうせ暇だし、それに霧切さんと一緒に過ごせるなら、有意義な休日になりそうだしね」
 せめて打ち明けるまでの短い時間を、彼の優しさに、愛おしさに浸らせて…

 用という用ではなく、学校の図書室から借りていた本を、返しに行くだけ。
 それに付き合うだけのつまらない用事なのに、彼は快く引き受けてくれた。

「ごめんなさいね、こんなどうでもいい用事に、わざわざ付き合わせちゃって」
「ううん、気にしないでよ。ところで、何の本を借りていたの?」
「推理小説よ。この作者の心理描写が、すごく巧みで…」
 私のどうでもいい趣味の話にも、彼は興味を示してくれる。

「…そうだ。せっかく付き合ってもらったのだし、軽く奢らせて」
 少しでも長く、彼といたい。そんな醜い独占欲。
「ええ!?そんな、悪いよ…」
「悪いというのは、こちらのセリフよ。なにか食べたいものなんかあったら、遠慮しないで言って」
「うーん、そう言われても…さっきご飯食べたばかりだし…」
 歩きながら、彼は眉を寄せて真剣に考える。
 年頃に見合わない、抱きしめたくなるほどあどけない表情。

「そうだ」
「決まった?」
「えっとさ、霧切さんって、紅茶淹れられる?」
「?…まあ、一応、それなりに知識はあると思うわ」
「じゃあ、あのロイヤルミルクティーっていうの、ちょっと飲んでみたいんだけど」
「…ああ、セレスさんが山田君に作らせている、アレね」
「自分で何度か試してみたんだけど、どうも上手くいかなくてさ」
「それを作って御馳走すれば、奢りは見逃してもらえる、ということでいいのかしら」
「ダメ、かな」
「いいえ、お安いご用よ。じゃ、寄宿舎に戻りましょうか」

 帰宅と同時に食堂へ向かう。どうせなら作り方を覚えたいから、と、彼もともに厨房に入る。
「それじゃ、お湯を沸かしてもらえる?」
「え、お湯?牛乳で煮立たせるんじゃないの?」
「先に茶葉をお湯にくぐらせるのよ。そうすることで茶葉が開いて、一層風味が増すから」
「へえ~」
「特にこの茶葉は、牛乳の風味に負けがちだから。面倒だったら、濃く作った紅茶に、あとからミルクを注いで加熱してもいいのよ」
「霧切さんはなんでも知ってるね」
「そんなことないわ」
「…」
「…」
 彼は、色々な話題を提供してくれる。私も、出来るだけそれに応じてきた。
 それでも、時々、本当に時々だけれど、会話が止まることもある。
 今までは、会話が終わると同時にどちらかがその場を離れ、それを繰り返してきた。
 けれど今は、逃げ場がない。
 私と苗木君はお互い黙ったまま、ただ小鍋に入れた水が沸騰するのを待っている。

 こういう状況は、気まずい、というのだろうか。
 私は沈黙も嫌いではないのだけれど、彼にとっては重圧になっているのかもしれない。
 今、何を考えているの?
 口に出さずに問う。
 舞園さんのことだろうか。
 ぎゅう、と、また心を鷲掴みされたような息苦しさが体を縛る。

「霧切さん」
 予想外に近くで響いた声。
 ふと見ると目の前に、苗木君が近付いていた。

 目の前に唐突に映し出される、彼の顔。

「っ…」
 それに驚き、私は無意識に、本当に無意識に、右手を跳ね上げた。
 ガン!
 鈍い音が耳に届く。感覚は、あまりない。
「あっ!」
 苗木君が目を見開いた。
 私の右手は、沸騰したお湯を入れた小さな鍋の、その取っ手を跳ね上げていた。
 音もなくお湯が飛び散り、そのうちの一部が、というよりほとんどが、私の右手に降り注いだ。

「霧切さん!」
 彼が心配そうな顔をして、しゃがみこんだ私に顔を寄せる。
「ゴメン、僕が…その、沸騰していたから、次はどうすればいいのか聞こうと思って…」
「…いいの、大丈夫。あなたのせいじゃないわ。私の方こそごめんなさい、苗木君にはかからなかった?」
 かかったのは、幸い既に熱さを感じない私の右手だけ。
 心配されるようなことはないのだけれど、彼の心配した顔つきを見ると、
 どうも本当に右手が、熱を感じているような、そんな錯覚に陥ってくる。

「と、とにかくその手袋外さなきゃ」

 彼はそう言って、私の右手に手をかけた。


 バシッ


「…えっ」
 見開かれた幼げな目が、まず撥ねられた自分の手、そして私へと移る。

「あ…」
 彼の善意の手をはねのけてしまったのだと、私自身が気づいたのはおそらく彼とほぼ同時。
 無意識の行動だった。
 何をしているんだ私は。

――いや、違う、これでいい
 まだ、見せる時じゃない。
 まだ、側にいることを許されても良いはずだ。

 多少の誤解や批難なら、甘んじて受ける。
「…ごめんなさい。でも、大丈夫だから」
 どう思われたって、構わない。彼の傍にいられる限り。

「大丈夫じゃないよ!」

 おそらくは初めて聞く彼の、戒めの大音声に、私は身をすくませた。
 顔を挙げると、彼の顔には、怒りとも悲しみともつかない表情が浮かんでいる。
「ほら、腕を貸して」
 彼が半ば強引に、私の右腕を掴んだ。

 予想外の、握力。普段の小動物を思わせるか弱さからは、想像もつかない力。
 ああ、男子なんだ。
「手袋、脱がすよ」
 彼の強い力と、その意外性。それらが相まって、私は、
「やっ、ちょっと待って。おねが…」
 ろくな抵抗も出来ないまま、手袋を外すことを許してしまった。


「…!!」
 苗木君の目が見開いた。
 その瞬間、私の右腕を掴んでいた力が緩み、私は急いで右腕を自分の支配下に引き戻す。


 手袋を脱がされた右手に刻まれていたのは、私の罪の証である、醜悪な火傷の痕。



――見られた

 どうしようもない現実が、眼前に落ちてきた。
 絶望。激しい鼓動。パニック。
 頭がぐるぐると回り、言い訳でも責め句でもない、次に紡ぐ言葉を必死で探す。
 行き場を失った右手は、聖者からコソコソ逃げ回る娼婦のように、私の背に隠れ潜んだ。
 いつか彼に打ち明けると覚悟を決めていたくせに、このざまだ。

――いや、違う
 私はきっと、少しも覚悟なんて決めていなかった。
 いつか打ち明けるという自分との約束は、この罪を隠しながら彼と時間を共有するための、言い訳に過ぎなかった。
 見られたら、終わってしまうかもしれないから。
 自分に都合の良い逃げ道だけ残して、現実から逃げていただけじゃないか、私は。



 そして、もしかしたら彼なら、これを見ても気にしないかもしれない、という虫の良い希望は、
 彼なら私の罪を許してくれるかもしれない、という無意識下の期待は、
「あ…」
 全くの的外れだったのだと、彼の表情が雄弁に語っていた。


 彼の表情は、彼の眼は、
 かつてのクラスメイトが、気味悪がって私の手を瞥見した時と、寸分狂わず同じだった。
 そして、よほど私の中の絶望が表情に表れていたのだろうか、彼は私の顔を見ると、すぐに視線を反らし、
「…ゴメン」
 そう、一言つぶやいた。

 私は、改めて驚いた。
 謝罪の言葉が、これほどまでに胸を痛々しく貫くなんて、初めて知った。

 彼は何も悪くないのに。悪いのは全部、私なのに。
 それでも謝るのは、彼が本当にどうしようもなく優しいから。
 お人好しの彼に、罪悪感を抱かせてしまったことへの罪悪感。
 そんな複雑な感情が、鋭く胸を穿った。

「…私、部屋に戻るわね」
 そんな、気の利かない言葉しか出せなかった。

 むしろ頃合い、ちょうどいいのかも。
 きっと、このアクシデントが無ければ、私はこの先も罪を隠し、彼を欺いて、側にいようとし続けた。
 これは、そんな私のずるさへの、罰なんだ。

 私は立ち上がり、彼に背を向ける。
 厨房から、彼の下から、去る。もう戻ることはないだろう。
「まっ、待ってよ!」
 ぐ、と右腕が進行方向と真逆のベクトルに引かれ、危うく転びそうになる。


 苗木君は、
 私のむき出しの右手を握って、私を止めていた。


――何をして…
 そこは、あなたが触れていい場所じゃない。
 苗木君の顔は蒼白で、目は右手と私の顔の間を行ったり来たりと泳ぐ。
 この醜悪な右手をつかみ取るのに、いったいどれほどの勇気が必要だったのだろうか。

「霧切さん、違うんだ、僕はけっして…」

 きっとまだ不気味さが拭えないのだろう、彼が掴んだ右手には、先ほどのような力はない。
 それでも私の絶望を、少しでも和らげるために、必死で掴んでくれたのだろう。
 お人好しにも、ほどがある…


 でも、ダメだ。
 ここで彼の優しさに、甘えてはいけない。
 彼を私なんかに、近づけてはいけない。
――だから…

「離してくれないかしら、苗木君」
「え…」
「いいえ、違うわね。離した方がいいわよ、苗木君。
 私の汚いのが移ったら、困るでしょう」

 声を震えさせないように、最新の注意を払う。
 あたかも本心で言っているかのように。
 心の底の、「離さないで」という叫び声に気付かれないように。


 ゆっくりと、しかし克明に、彼の顔に絶望が浮かぶ。
 酷い顔だ。まるで、今の私を鏡で見ているようだ。
 本当はあなたに、そんな顔をさせたくはない。
 けれど、仕方がないのよ、苗木君。


 あなたが私なんかにまで優しくするから


 彼が私の手を離すことはなかったけれど、力は幾分弱まったので、
 私は先ほど同様、強引に手を引きぬいて、足早に彼の下を立ち去った。


「っ~~~う゛ぅっ…」
 二度とこんな醜いものを、彼の目に触れさせないように。
 堪え切れなくなった泣き声が、彼に届かぬように。
 右手を隠し、声が出ぬよう左手で喉を絞りあげ、少しずつ歩幅を広める。
 彼の心を、それらが絡み取ってしまう前に、部屋に戻らなくては。



 部屋に入り込むのと、私が大声をあげて泣き出したのは、ほぼ同時だった。
「っうぁあぁああ…あぁぁあああああああああああっ…」
 泣く、というより、哭く、という方が、文字に充てれば正しいだろう。
 慟哭。それくらい、私は大声をあげて哭いていた。

 寄宿舎の個室は、完全といっていいほどの防音が施されているから、私は気兼ねなく哭き続けた。
 涙は粒ではなく、一筋の線になって、瞳から流れ落ち続けた。

 苗木君に右手を見られたこと。
 苗木君が右手を見たときの反応。
 苗木君に罪悪感を抱かせてしまったこと。
 苗木君のそばに、もういられなくなったという決定的な事実。

 それらがどうしようもない後悔になって、私を傷め続けた。


 むき出しの右手を壁にたたきつけながら、私は叫ぶように泣きじゃくる。

「っ、こ、こんな手なら、無くてよかった…
 こん、な、こんな悲しみを感じるなら、心なんていらなかった…
 こんなに側にいられなくなるのが辛いなら…っ、彼と出会わなければよかったのに…!!」 


 張り上げた大声が私の耳に返ってきて、はた、と私は気付く。
――いや、違う。それはダメだ
 手も心も、なくていい。けれど、彼との出会いを、否定してはいけない。

 彼とのこれまでを、否定するのは間違っている。なぜなら、彼は何一つ間違っていないから。
 正しい反応だ。右手を見た時のものも、訳もなく謝ったことも。
 むしろ、今まで見てきた反応の中では、最良の誠実さを伴っている。


 思い出で、いいじゃないか。
 彼との出会いを、共に過ごした時間を、思い出としてとどめておくだけ。
 こういう素晴らしく綺麗な心を持った男の子もいた。そうやって記憶の一端にとどめておけばいい。
 それだけで、十分なはずだ。

 だから、これで彼の優しさに甘えるのは終わり。
 彼のそばにいるのも終わり。もう彼は思い出の中の人物。


 もう、関わってはいけない。

 コンコン

 と、しばらくして、想定していた通り、ノックの音が部屋に響いた。
 その頃には私はとっくに泣きやんでおり、もちろん、幾分かは落ち着きも取り戻していた。

 彼なら、きっとフォローのために部屋に来るだろう。そう予想していたから、
「…あの、霧切さん」
「いいわよ、入って」
 彼が部屋の前に、オロオロとした、小動物のような顔つきで立っていても、普段通り対応できた。
「え、あの…」
「話があってきたんでしょう?それとも、やっぱり部屋に入るのは嫌かしら。それなら…」
「う、ううん!おじゃまします…」


 さあ、どう出るだろうか。
 どう出てきても、私は彼の弁明や慰めを、完膚なきまで拒まなければならない。
 今後、彼の中に、私のそばにいるという選択肢が無くなるように。

 彼に椅子を差し出し、私はベッドに腰掛ける。
 それから、ただじっと、彼が話し出すのを待った。 

「あの…」
「何?」
 出来るだけ冷たい声で、問いかける。

「まずはこれ、返しておこうと思って…」
 彼が差し出したのは、私が外された右の手袋。
 そういえば、あの場に忘れてきてしまっていたのか。

「ああ、ありがとう。わざわざ持ってきてくれたのね」
 私が無感情――に聞こえるように取り繕った声を響かせるたび、彼は怯えたように身をすくませる。
 罪悪感が胸を突き刺す。彼は何も責められるようなことなどしていないのに。
「えっと、それで、改めて謝りたいな、と」
「謝る?何を?」
 さあ、どうでる。

「…霧切さんが見られたくないものを、勝手に見てしまったから…」
 なるほど、そう来たか。

「…それはこの、右手のことを言っているのね?」
 彼は無言で、下を向いている。肯定ととっていいだろう。
「…そう思うということは、やはりあなたも、『私がこれを他人に見られたくないと思っている』と思ったのね」
「え…」
 違うの?とでも言いたげな表情。

「私はね、別に『この傷跡を人に見せること』自体には、何の抵抗もないわ。
 私は、『私のこの傷跡を見た人の反応』が見たくない、それだけなの」

「反応…?」
「みんな、同じ顔をするの。『気持ち悪い』『見なければよかった』といったような、ね。
 ちなみに苗木君、さっきのあなたの表情も、例に漏れていないわ」
「そっ、そんな、こと…」

 ドス、ドス、と、罪悪感が私の心を切り刻む。
 彼に投げかけた言葉の槍が、そのまま私の心を貫く。
 今私がしているのは、悪魔の行いだ。心配してきてくれたのに、それを仇で返すなんて。
 けれど、そうする他にないから。だから、
――おくびにもだすな…

「あなたを責めているわけじゃないのよ、苗木君。あなたの反応は、ごく自然なもの。
 だからあなたは謝るべきじゃない。だってあなたは、何一つ悪いことなんてしていないんだもの」


 彼は、ぐっと唇をかみしめた。
 それは、なにかに耐えるというよりは、なにかを決意したような、そんな仕種。
「…わかった。的外れに謝ることは、しないよ」
「そう。それでいいの」

「…ただ」
「?」

 それまで下を向いていた彼の瞳が、力強く私を射抜く。


「聞いても良いかな。その、手の傷のこと」


――これは、
 今までにない、初めての反応だ。
 なるほど、今まで私のそばにいただけあって、意表を突くのには慣れているのかもしれない。

「…傷ができた経緯、ということ?」
「それも含め、諸々」
「諸々、って?」
「どうしてそんな傷を負うことになったのか、とか、その傷ができてからの周囲の反応とか」
「…そう。ずいぶん遠慮なしに尋ねるのね」

「遠慮する方が、失礼かなって思ったから」

 彼は時々、ひどく真っすぐな目をする。

「手の傷跡自体じゃなくて、それを見た相手の反応が嫌なんでしょ?
 そこには「偏見」や「忌避」だけじゃなくて、「同情」や「遠慮」もきっとあると思ったから。
 でも「言いたくない」「言えない」のなら、もちろん言わなくていいよ」

 職業柄、悪意と威圧に満ちたまなざしは、嫌というほど見て、見慣れてきたし、耐性もある。
 けれど、彼の眼には、悪意はもちろん、威圧の欠片もない。
 それなのに、なぜか気圧される。

 真っすぐ、鋭く、そして正しく。これが同い年の少年か、と思わせるほど、芯の強い目。

 どうも私は、その目には滅法弱いらしい。

「…いいわ。言いたくないということもないし」
 私は抵抗を諦め、素直に話すことにした。

「…私がこの傷を負ったのは…そうね、まだ探偵として駆けだし中の頃、とでも言えばいいのかしら。
 私が相手をしていたのはとある犯罪組織。私はいくつかの事件を解決していく過程で、その存在を知ったの」

 どうせ今日で終わりなんだ。
 傷の経緯くらい、幾らでも話せばいい。

「…自分の力を過信していた、というのもあるし、周囲からの評価が欲しかった…焦っていたんでしょうね。
 とにかく私は、数名の仲間と一緒に、その犯罪組織の根城を探し当てた…けれど、
 仲間の一人に、内通者がいたのね。私は根城に潜り込んだのだと思っていたのだけれど、実はその逆。
 彼らにおびき出されたのよ。その根城の最奥まで。
 逃げることは難しくなかった…けれど、人質を取られたの。その人質というのが…」

「本当は、その内通者だったんだね」

「そういうこと。よくわかったわね。探偵業が身についてきたのかしら?」
 彼は私の茶化しも介せず、続けるように促した。

「…もちろんその時の私はそんなことは知らなかった。プライドを捨てて、彼を助けてくれるように頼みこんだ。
 そこで彼らが出した案は、『その犯罪組織に伝わる拷問に耐えきれば、彼も私も無傷で解放する』というもの」

「拷問…」

「焼却炉の中に自ら手を入れ、30秒耐えきれば合格、というシンプルなものよ」

 苗木君の顔が青ざめる。

「本来のルールでは、手枷なんかをして、無理矢理30秒耐えさせる、というのがあるらしいのだけれど…
 私にはそれをさせず、その代わり耐えきれず早く手を出してしまえば、目の前で彼を殺すと言われたわ。
 そして私は、裏切り者の命を救うために、自分で自分の手を焼いた…
 目が覚めた時は、知らない町の病院にいたわ」

「…」
 苗木君は、予想外に壮絶、とでも言いたげな表情をしていた。

 他人の経験に感情移入してしまう彼には、よほど耳に堪える体験談だっただろう。
 自画自賛、とは少しベクトルは違うけれど、自分でもこの体験はかなり酷な部類に入ると自負している。


「それで…ああ、えっと、周囲の反応ね。まあ、身内以外は概ね同じ反応よ。
 気味が悪い、えぐい、グロい、近寄りたくない。
 視線や顔で訴えてくる人がほとんどだけど、中には直接口に出す人もいたわ。

 …あなたの反応は、その中のどれよりも、優しかった」


 …何を口にしているんだ、私は。
 そんなこと、わざわざ言う必要なんかない。
 彼には冷たく接すればいい、もう二度と私に関わろうという気が起こらないように。


「でも、やはりあなたも思ったでしょう。この手が、気味が悪いと」
 彼には、罪悪感を植え付ける。ありもしない罪に対する罪悪感を。

「…驚きはしたけど、気味が悪いなんて思わない」

「嘘はつかなくていいのよ。言ったでしょ、あなた、顔に出やすいのよ」
「…どうかな。見たときは正直少し、いや…かなりショックで、その時の気持ちは忘れたけど、
 少なくとも今は、ぜんぜん思わないよ。不気味だなんて」


 思わず、イラッとする。自分の思い通りにならないことに。
 もう少し露骨に、責めた方が良かったか。
「さっきあなたも自分で言ったでしょう。『同情』も、私はいらないの」
「『同情』なんかじゃないよ」
「じゃあ何なの?」


「…強いて言うなら『尊敬』かな」

 頭に血が上る、とは、こういうことを言うのだろう。
 メリメリ、と、血管が膨張する音まで響いてきそうだった。

 違う、わかっている。
 苗木君に怒りをぶつけるのは、全くの筋違いだ。
 それでも怒りは、彼に罪悪感を抱かせていることへの負い目や、彼のそばにいられなくなるという絶望を、軽く凌駕するほどだった。
 この傷について、知ったかぶりをされることへの怒りは。

「『尊敬』?おかしなことを言うのね」
 口端が、怒りからかヒクヒクと震える。
 探偵の職務中ですら、こんなに怒りを抑えきれなかったことはない。
「一体今までの話のどこをどう取れば、この醜い手に対して、『尊敬』を抱けるのかしら」


 彼の眼は、射抜くような真っすぐさを保っていた。
 それは、彼が自分の発言に少しの負い目もない、という証拠に他ならない。
 彼はウソをついてはいない。本心から言っている。
 それが、余計腹立たしい。
 そしてだからこそ、次の発言は、


「…だってその傷は、霧切さんが戦った証だから」


 確実に、的確に、
 私の逆鱗に触れた。


「知った風な口を利かないで!!」



 ここまで感情的になったのは、いつ以来だろう。
 私は腰かけていたベッドから立ち上がり、彼の胸ぐらをつかみ、絞りあげる。

 苗木君は抵抗せず、そのまま引きずりあげられた。私より身長が低い分、宙に浮くような形になる。
 椅子が音を立てて倒れても、彼の射抜く目は変わらない。
――その目をやめろ!

「この火傷痕は、私の過ちの傷跡!過去の汚点であり、それを忘れないための戒めなの!
 今までこれを、磔刑のごとく背負って生きてきた…『尊敬』?的外れな発言も、そこまでいくといっそ清々しいわ。
 あなたに何がわかるの…!?この傷を背負うための私の覚悟、この傷を背負ってからの屈辱…
 あなたみたいな凡人に、その一欠けらでも共有できるの!?いいえ、一欠けらも理解されたくなんかないわ…!!」

 攻め立てる私の方が泣き叫んでいる。おかしな構図だ。
 私は追いつめられたか犯人のように暴言を吐き散らし、彼は淡々とそれを受け、そして答える。

「…共有なんて、絶対できない。それは、霧切さんが戦った証だから、他の誰にも、ましてや僕なんかに、
 それをわかちあうことなんか絶対できやしないんだ。
 僕にできるのは、霧切さんが教えてくれたその事実から、僕自身の見解を作ることだけだよ」

「それが『尊敬』?そうだというなら、あなたは相当な盲信者か頑固者、もしくは相当のペテン師ね。
 でもね、どんなに自分を偽っても、本能から来る嫌悪感には、抗うことは出来ないのよ…!」


 私は半ば自暴自棄になって、左手で彼の胸ぐらを捕まえたまま、むき出しの右手を彼の眼前に差し出した。
 おそらく、何も考えずにしゃべっているのは私の方だ。
 ただ、怒りと、自分から彼を突き放す、という衝動にだけ駆られている。

「ほら、見て…気色悪いでしょう?私が自分でそう思うんだから、あなたには尚更のはずよ…」

 さあ、怯め。
 臆しろ。慄け。
 『尊敬』だなんてウソの言葉に隠した本心を、さらけ出せ。


 そうじゃないと、私はあなたに縋りついてしまう。
 そうじゃないと、私は希望を抱いてしまう。
 だから

――その目で見るのを、やめて…!


「…お願いだから、苗木君。正直に、気持ち悪いと、不気味だと、そう言って。
 あなたが何を言おうとしているのかは、皆目見当もつかないけれど
 私はあなたがその言葉を口にするのを、期待しているわ」

 その方が、変な希望を持たされるより、幾分も楽だから。



 彼は、口を開かなかった。
 じっとその目で、私を、右手を見つめていた。

 その珍妙な硬直は、そのまま少しだけ続き、先にその均衡を破ったのは、

 無様にも沈黙に耐えきれなくなった私の方だった。

「…苗木君」
 呟くように、彼の名前を呼び、ふといつのまにか、彼を締め上げる手の力が、緩んでいたことに気づく。
 彼はすでに地面に足をついていたけれど、まだ私の手を振り払ったりはしない。
 苗木君はまだ、何も言わない。


 ただ、その代わりに。
 私が名前を呼んだことを合図にしたかのように、ゆっくりと彼が動き出す。

 ずい、と、二人の距離を縮めて、一歩前へ。
「ちょ、ちょっと…」
 目は、私を射抜いたまま。何をされるのかもわからず、私は気圧され、一歩退いた。


 先ほどはアレほど激昂していたのに、おかしな話だ。これほど容易く、彼に押し負けるなんて。
 きっとさっき私が喚いていたのは、子犬が恐ろしい相手に向けて吠えたてるのと同じだったのかもしれない。

 彼の言動は、常々私の予想を上回る。わからないものは、恐い。
 この部屋に入ってきた時は、彼の方が捨てられた犬のようにオロオロとしていたくせに、
 いつの間にか、彼にリードを許してしまう。いつも、そうだ。

 尻込みした私が、思わず右手を引っ込めようとすると、
 それを察したのか、彼は食堂でみせた力強さで、私の右手をしっかりと握りしめた。
「ひっ…」
 思わず、そんな情けない悲鳴が漏れる。

 私の悲鳴や、おそらく怯えて情けない表情を浮かべている顔を受けても、苗木君は微動だにしなかった。

 ビリっ、と、今朝のように、何も感じるはずのない右手から、鈍痛と熱を感じる。
 それは右手が彼に近づけば近づくほど、より強く、大きな刺激になり、私は顔をしかめた。
 まるで彼が、あの時の炎のようだ。

 ほら、言わんこっちゃない。近づいてはいけないのに、近づくから。
 自分を過信して、太陽に近づきすぎるから、羽をもがれるのだ。


 あまりの激痛に、足に力が入らなくなり、そのまま後ろのベッドに倒れるようにして座る。
 彼は座った私に目線を合わせるように跪き、そして、

 おもむろに私の左手にまで手を伸ばした。

 それは、恐怖さえ感じるほど。
 本当に、何をされるのか分からない戦慄。
 彼が私の左手を器用につかむ。そして、その手袋にまで手をかけられて、
 やっと私は、抵抗する、ということを思い出した。

「いっ、やだ、苗木君…離して…!」
 必死にもがき、腕を振りほどこうとするけれど、やはり彼の力には敵わない。
 暴れても暴れても。故意ではないけれど、振り回した足が彼の腹を蹴り飛ばしてしまっても。
 彼は決して、私の腕を、私の罪を、離そうとはしなかった。

 ぐい、と、手袋に指がかかる。
「いや、だっ…!!見ないで、苗木君!お願いだから…許して、苗木君っ…!」

 涙が出そうになる。
 なぜ?どうしてこんなことをするの?嫌がらせ?
 それとも、とうとう堪忍袋の緒が切れたのか。私が彼に、的外れに怒鳴り散らし、罪悪感をなすりつけたから。

 私が思索を進める間にも、彼は器用に左手の手袋を取り去った。


 そして、彼は私の汚れた両手を手にとって、


 それを、自分の両頬に押し当てた。


――なに、を、してるの…?
 尋ねようと口を開くけれど、言葉が出ない。
 私の体から、抵抗という概念を失ったかのように、力が抜けていった。

 私の素手を、自分の両頬に当てるだけ。言葉にすれば単純なその行為は、それは、
 私が今まで最大の禁忌としてきた行為を、体現していることに他ならなかった。


「なえぎ、くん…?」
 力なく、喘ぐように、私の口からこぼれおちた、彼の名前と、それに続く泣きごと。

 だめだよ。
 きたないよ。
 うつっちゃうよ。

 幼児退行でもしたかのような、情けない語り口だ。
 おそらく後で思い出して、顔から火を吹く思いをするのだろう。
 けれど、そんな目も当てられない私のざまを見て、彼はあやすように囁いた。

「誰かが、そう言ったの?」
 だって、私の手、汚いから。
「汚くなんかないよ」
 呪われているから、呪いがうつっちゃうよ。

「…絶対、そんなことない」

 少しずつ、苗木君が私の手を握る力が緩んでいく。
 けれど、不思議と私は、彼の頬に触れる私の手を、引き離すことができなかった。
 そうしなければ、ならないのに。触れていてはいけないのに。
 だって、きたないから。うつっちゃうから。

「…霧切さん」
 言い聞かせるような彼の声は、幾分か鼻にかかったような音をしていた。
 今にも泣き出しそうな声で、けれどそれを必死にこらえていた。
 目は潤むけれど、力を入れて、それが零れおちないように、じっと私を見つめていた。

「…さっきも言ったよね。
 この手は…火傷の痕は、霧切さんがどう思おうと、霧切さんが戦ってきた証だ。
 僕は、凡人だ。戦いとか、何も知らずに安穏と生きてきた。
 だから、戦ったことのない僕には、この手を『尊敬』することはできても、汚れていると思うことはできない。

 目に見える姿形に囚われて、馬鹿にするやつらの方が、何倍も醜くて、何倍も汚いんだよ」


 やめてよ。
 だめだよ。
 私に、私なんかに、優しい言葉を投げかけないで。
 汚れた私が、あなたのそばに――



「汚れてなんかない――!!!」


 苗木君が叫んだ。

 恐ろしいほど、怒気に満ちた声だった。
 彼がこれほどまで感情的になったのは、見たことがないというほどに。
 なのに、そんな彼の表情は、

「汚れてなんか…いないんだっ…!」


 初めて私の素手を見た時と同じくらい、絶望に満ちた悲しい表情だった。

 つ、と彼の頬を、さんざん溜められた涙が、ようやくか、とでもいうように、ゆっくり伝う。
 涙は私の手に当たり、そこから言い知れぬ感覚が、ず、と私の中に入り込む。


「拒み続けることが、どれほど辛いのか…っ、僕には、わからない…」
 彼は言葉を紡いだ。
 その間にも、涙は一粒、また一粒と、私の指を、掌を濡らす。
「よく、耐えてきたね…」


 涙が触れた火傷の痕から、温かい彼の感情が、私の中に流れ込んでくるようだった。

「…馬鹿ね」
 彼の温かさが、ゆっくり、ゆっくりと、

「なんであなたが泣くのよ…」
 私の中の氷を、溶かしだしていく。

「ゴメン…僕が、泣いちゃいけないって、わかってるのに…っ」
 溶けだした氷は水になり、


「ほら、さっきも言ったでしょう…的外れな謝罪は止めてって…
 だってあなたは、何一つ、悪いことなんてしていないのよ…」


 ゆっくり、ゆっくりと、
 私の目から、溢れだした。



「ごめんなさい、苗木君…」
 私は壊れた人形のように、
「ごめんなさい、ごめんなさい…!」
 止まらぬ涙を流し、彼に謝り続けた。
 そして、最後に一度だけ、
「ありがとう…」
 と、涙でぐしゃぐしゃになっただらしのない顔で、私は告げた。

 ダメだ。彼から離れることなんて、もう私にはできない。

 だって彼は、この右手の罪を、罪じゃないと言ったから。
 だって彼は、この左手の汚れを、汚れじゃないと言ったから。
 だって彼は、この両手の醜い火傷の痕を、私の誇りに変えてくれたから。

 離れる理由を、側にいるための動機に変えられてしまっては、どうしようもないじゃないか。



 そのまま、私たちはお互いの顔を見ながら泣いた。

 彼の手が私の手を掴むのをやめても、私は彼の頬から手を離さなかった。
 その代わり彼は、自分の手を私の頬へと触れさせる。
 優しく両頬を包まれて、思わず私はどきりとする。

 しばらくそうして、互いの泣き顔に手を添え、私たちは見つめ合う。
 ぐ、と苗木君が顔を近づけた。
 いいのだろうか、こんな――

 いや、もういい。もう、考えるのも面倒だ。
 ただ、この幸せを享受すればいい。

 そして私は、ゆっくりと目を閉じた。




 情緒不安定、という言葉を当てては失礼かもしれないけれど、それはめまぐるしい表情の変化で
 きっと僕に傷を見られたのがショックで、霧切さんは初めて僕の前で怒り、泣いた。それなのに、

「ふふ、もしかして、苗木君のファーストキス、頂いちゃったのかしら」

 その、キス、を終えた後の霧切さんは、いつもの霧切さんに戻っていた。

「ええっ、その、えーと…」
「ねえ、答えて苗木君。答えられないということは、初めてじゃないのかしら?」

 いつもの霧切さんとはどういうことか、というと、本当にいつもの霧切さんで、
 ミステリアスな笑みを浮かべ、意地悪な質問をぶつけて困る僕を見ては、それを面白がる霧切さんのことだ。

「な、なんでそうなるのさ!」
「慌てる、なんて、ますます怪しいわね。そう、私としては構わないけれど、少し残念だわ。
 せっかく私の初めてのキスを捧げたのに、苗木君にとっては、このキスはそれほど貴重なものではなかったのね」

 手袋を再びつけてしまったのは少し残念だけれど、こればかりはしょうがないと思う。
 やはりまだ、人目に触れるには抵抗がある、と、彼女は言ったから。

「え、は、初めて…霧切、さんも…?」
「あら、意外?というか、私にキスをしようとしたモノ好きなんて、あなたが初めてよ、苗木君。
 そして私も、ということは、苗木君も初めてだったのね。
 でも…意外ということは、苗木君の目には、私は誰とでもキスをするような淫らな女に写っていたのね。ショックを隠せないわ」

 それでも、少しずつだけど、僕の前では手袋をはずす努力をする、とも約束してくれた。
 色々と気障なセリフをぶつけてしまった気もするけれど、彼女の前進に携われたこと。今は、それを誇りに思う。

「もう…アレだけ勇気を出したのに、どうして僕だけ恥ずかしい思いをするんだよ」
「…何を言っているの、苗木君」

 僕たちは今、彼女のベッドの上に並んで座っている。
 手袋に包まれてはいるけれど、互いの手を、しっかり握って。

 霧切さんは、そこで数秒だけ口を閉じ、それからみるみる顔を赤らめた。

「わ、私だって…」
「え?」
「私だって、ちゃんと、恥ずかしかったわ…」


 そういうと、彼女は顔を赤らめたまま、つ、とそっぽを向いてしまった。

 ああ、ダメだ。これからも僕は、彼女のペースに振り回されっぱなしだ、と、ここで改めて確信する。
 だって、そんな彼女の恥ずかしがる素ぶりに当てられて、
 きっと今の僕の顔は、一段と真っ赤に染まってしまっているだろうから。

 気まずい沈黙を打破するため、僕はこの部屋に来た、もう一つの目的を彼女に告げた。

「実は、手袋と謝罪のほかにも、まだ霧切さんに用事があったんだよね」
「そ、そうなの?」


「約束したでしょ。霧切さんの手作りのロイヤルミルクティ、飲ませてくれるって」
「…ええ、そうだったわね」

 穏やかにほほ笑んだ彼女の手を取り、僕は霧切さんと食堂へ向かう。



 途中で遠征から帰ってきた朝日奈さんたちに、手を繋いで歩いているところを見つかって、
 これでもかというくらいに冷やかされるのだけれど、その時の様子まで事細かに書くのは、
 さすがに僕のか弱い羞恥心では、耐えられそうにない。


 だって、彼らが冷やかす間も、顔を真っ赤にして言い訳を並べながら、
 彼女は僕の手を、離そうとはしなかったんだから。


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