にゃえぎり

 お腹のあたりに息苦しさを感じて目を覚ますと、案の定「彼女」が、すやすやと布団の上で丸まっていた。
 どこから生えてきたのか分からない、耳と尻尾。
 山田君当たりなら、この状況には歓喜に打ち震えるのかもしれないけれど…

「…ん…」
 目をこすりながら、彼女が目覚めた。
 どうも寝起きはあまり良い方ではないようで、うっすらと機嫌悪そうに開いた眼で、僕と、それから辺りを見回す。
「お、おはよう…霧切さん…」
 瞼をこすりながら、跨った僕に目をやる彼女に、朝の挨拶。
「苗木君…?…なんで…  …っ!?」
 それまでの緩慢な動きから、ハッとしたように飛び起きると、霧切さんはいそいそとベッドから降りた。

「ごめんなさい…私、また…重かったでしょう…?」
「ううん、いいよ。それに、そんなに重くなかったし」
 彼女へのフォローを忘れずに、僕もベッドから降りて、洗面台に顔を洗いに向かう。
 彼女が猫としての本能に目覚め、飼い主――おそらく、そう判断されているであろう僕のことだが――に懐き、
 ちょっかいをかけてくるのは、別に何もこれが初めてじゃなかった。

 慣れたとは言わない。
 今朝だって理性をフル動員して、寝起きの霧切さんの白い綺麗な肌に見とれて、その柔らかな匂い――
 違う違う。
 とにかく、我慢の日々なのだ。



 確か昔、現代文の授業で習った小説で、虎になってしまう男の話があった。ええと、なんて題名だったっけか…
 姿は虎のままで、精神は人間と虎の間をさまよう、そんな話。
 今の霧切さんがおかれている状況は、それに限りなく近い。
 彼女は、猫になってしまったのだ。

 この話の展開と違う点は、まず虎ではなく猫であること。同じネコ科とはいえ、この差は大きい。主に僕への安全面の方で。
 次に、身体は完全な猫ではなく、耳や尻尾、爪などの、一部しか猫化していないこと。
 そして、

「そのうちネズミや虫を取ってくるようになるかもしれないわね」
 当の本人である霧切さんが、全く問題視していないということだ。

「うええ、止めてよ…僕、そういうの苦手なんだから」
「男の子でしょ?しっかりしなさい」
「霧切さんは女の子なのに、平気なの?」
「ええ。いちいち怯んでいては、探偵業は務まらないから」

 耳と、尻尾をくゆらせているという所に目をつぶれば、会話の内容も、仕種も、それまでの霧切さんと全く同じ。
 今の霧切さんは、強いて言えば『人間モード』だ。
「それにしても苗木君には、迷惑をかけるわね……あつっ!」
 ただ猫としての特徴は残っているらしく、
「あ、またホラ…冷まさないでコーヒー飲もうとするから…」
 例えばこれは、俗に言う『猫舌』だろう。
「っ、つぅ…迂闊だったわ……ええと、何の話だったかしら…そう、あなたには本当に頭が上がらないわ」
「…気にしないでよ」

 気にしないでよ、とはいうが、正直限界に近い。
 『人間モード』の霧切さんは比較的理性を保っている。それは別にいい。
 一緒の部屋で暮らしている分にも、僕の方が理性を失わなければ、問題はないのだ。
 『人間モード』なら。

「この耳や尻尾が無くなったら、一度お礼に……っ!!…ぅ、に、ぁ」

 言葉の途中で、霧切さんが大げさなほどに身体を縮まらせる。
 きた。
 何度目かの「それ」を、僕はただ目を細めて見ていた。

 霧切さんの瞳孔が、すっと細くなる。

 フルフルと体を少し震わせ、思いっきり伸びをしたかと思うと、

 それから蕩けた目つきになって、僕に枝垂れかかる。
 自分の頭を頭突き気味に僕の頬に擦りつけ、するりと体を僕の膝の上に置く。
 先ほどまでとは明らかに違う立ち居振る舞い。

 さあ今日も始まった、ここからが本当の理性との戦い。
「にゃあ」
 これが、『猫モード』の霧切さんだ。
「はぁ…」

 『猫モード』の霧切さんは、僕を飼い主だと認識しているのか、とにかく懐く。
「にゃう」

「あぁっ、ほら、コーヒーこぼしちゃダメだって…」
 僕が注意するのをわかっているのかいないのか、彼女は普段は絶対に見せないような満面の笑みで、
 僕の腕に尻尾を巻き付け、じゃれるのだった。

 『猫モード』の霧切さんは、簡単に言えば、感覚や記憶、個人の趣味趣向はそのまま残され、
 理性だけを吹き飛ばし、猫としての本能や仕種を忠実に再現している、といったところ。
 だから猫なのにコーヒーが好きだし、油ものは依然として嫌がる。

 『人間モード』と『猫モード』は唐突に入れ替わる。

 記憶もリンクしているから、『猫モード』で何をしているか、霧切さんは覚えているし、
 だからこそ『猫モード』の霧切さんは、僕が誰かも認識している。

 それなら、僕を苗木誠と認識して、その上で飼い主としてみなし、懐いているということは…
 という論拠を、依然『人間モード』の彼女の前で展開しようとしたのだが、顔を真っ赤にしながらすごい目つきで睨まれたので、
 この件に関しては僕も深く考えないようにしたい。


 なんて、必死に僕自身の理性を総動員して、現状を整理していると、
 さっそくその理性をぶち壊すイベントがやってきた。
「…はぷ…」
「うっ、えぇえええ!?き、霧切さん!?」

 彼女は僕の手を取ると、その指を自分の口に入れて、舐めまわしはじめたのだ。
「なぅ…んぷ」
 確か子猫なんかは、授乳の所作を思い出し、なついた相手の指などを舐めまわして親愛の情を示す、というのはよく聞く話だ。
 そう、猫としては、これは何の不思議もない、至って普通の行動。
 猫としては。


「ぅあ、っ…霧切さ、やばいって…」
 霧切さんの口の中はとても温かく、唾液でぬるぬるとしていて、至福の気持ちよさがある。
 ざらざらとした舌が変幻自在に動き、恍惚の表情で彼女は僕を見上げる。
 元に戻った時の彼女の羞恥を想像して、僕は自分の中の男子高校生の本能に負けないよう、必死で理性に釘をさす。
 けれど、
「ほら、ね、離して…」
 ぐい、と手を引っ張ると、
「にぅうー」
 なんとも恨みがましいジト目で、彼女は僕を見るのだった。

 ああ、無理無理。手なんか抜けっこない。だってかわいいもん。
 手を出してしまえば、人間として終わり。でも、手を引くことは、僕にはできない。

 僕はそのまま小一時間、彼女の満足がいくまでひたすら、自分の右手を生贄にし続けた。
 とにかく霧切さんの方を見ないように。
 今彼女が僕の指を舐めている所なんか見たら、朴念仁と名高い僕でも、何をしてしまうかわからない。


「にゃ…んむ……、…、……」
 しばらくして舌の動きが止んだ。
 ああ、ようやく解放されるのか、と、安心しつつも少し残念に思う。
 霧切さんの顔を見る。もう、『人間モード』だ。
 さすがに今回は、唐突過ぎて状況を整理できないのか、彼女は僕の指をくわえたまま呆然としている。
「あの、霧切さん…もう、手、離してもらっても…」
 一瞬で彼女の顔が真っ赤に染まり、それから見るみると真っ青になっていった。

「ごめんなさい…本当に…」
「い、いいって…」

 珍しくしおらしい霧切さんが見れたので、それだけでも幸運だ、と、僕は自分を納得させた。
「苗木君…いつも言っているけれど、嫌だとか、気持ち悪いと思ったら、本当に遠慮なく、私をはねのけていいのよ?」
 彼女が申し訳なさそうにそう言うのに、僕は苦笑いで返すしかなかった。

 正直、嫌という気持ちは全然ない。
 むしろ僕自身、どこか楽しんでいる節だってある。
 それに、『猫モード』の霧切さんの行為は、あくまで本人の意向に基づいて行われている。
 そのことだって、全然悪い気はしなかった。

「あなたは馬鹿みたいにお人好しだから、私の…その、ああいう行為を拒むことに、
 もしかしたら罪悪感を感じているのかもしれないけれど、それは筋違いなのよ」

 むしろ拒まずに受けてしまっていることに、罪悪感を感じてはいるのだけれど。
 それを言ってしまうと後が怖いので、とりあえずここは黙っておこう。


「いつになったら、治るのかしらね」
 不意に霧切さんが、そんなことを呟いた。
「もしかしてこのまま一生、苗木君に迷惑をかけ続けなければならないのかしら…」
「まあ、僕はそれでもいいけどね」
「…苗木君、あなた自分でも意図していないのだろうけれど、時々ものすごく恥ずかしいことを口にしているのよ」

 霧切さんがそっぽを向いてしまったので、その表情は見られなかったけれど、
 耳まで赤く染まっていることからみて、もしかして僕は今変な事を言ったのだろうか?
 いや、きっと霧切さんの気のせいだ。

「でも、猫である時間も、周期も少しずつ短くなってきたし…近いうちには治るんじゃないかな?」
 少し残念ではあるけれど、やっぱり治るに越したことはない。
「そう…だと、いいわね、お互いに」
「最初の頃は酷かったもんね」
「…出来れば早々に忘れてほしいわ」
「ホントに一日中ずtt」
「忘れて、お願い…」

 頬を染めながら頭を振る霧切さんに見とれて、僕は頬を緩ませた。
 普段は僕の方が彼女に翻弄されているんだから、今くらい彼女をからかったってバチは当たらないはずなんだ。


 バチは当たらない、はずだったんだ。

 翌朝。
 久しぶりに腹部への圧迫感のない朝に、心地よく上体を起こす。

 そこで感じる、違和感。
 僕はとっさに、彼女の姿を探した。
「霧切、さん…?」

 すぐに、その姿は見つかった。
 部屋の隅、毛布に体を包めて、自分の体をキツく抱きしめている。
 心なしか、顔が紅い。羞恥的なものじゃない。
 まるで熱に浮かされているかのように、目が蕩けている。

「霧切さん、どうしたの?大丈夫?」
「っ…近寄ら、ないで」
 顔を覗き込むと、目をそらされた。
 何事かと僕が考える前に、彼女が次の言葉を紡ぐ。

「今の私は…あなたに何をするか、わからないわ」

 彼女の瞳に宿る光に、野性を感じ取る。
 僕は身の危険を感じて、思わず身じろぎした。
「少し…時間をちょうだい…心を、鎮めるから…」

 霧切さんが落ち着くのを待って、僕は彼女の話を聞く。


「…体の異変は、昨日から感じていたのよ。いくら私が、猫っぽくなっている時に理性が無くなるからって…
 いきなり、あなたの指を、その…舐める、なんて…これまでの奇行に比べて、明らかに異常性が増しているわ」

「確かに…これまではせいぜい、すり寄ってくるくらいだったもんね」
「…と、とにかく、あの時から…その、身体がおかしいのよ」
「おかしいって、どんなふうに?」
「どんなふうって…体が熱くて、気持ちがそわそわして…」
「風邪、かな?」

 なんて、額に当てた僕の手には、まるで懐炉を触っているような熱が伝わってきた。
 霧切さんは身を捩って僕の手を退け、顔をそむけたまま、耳を真っ赤にしてぼそぼそと喋る。

「その…だから……は…」
「は?」


「発情期、だと思う…」


「え、と…なんて?」
「聞き返すなんて、いい根性してるわね…」

 聞こえなかったわけじゃない、自分の耳が信じられなかった。
 彼女の口がら、そんな言葉が出てくるなんて、思わなかったから。

 毛布から伸びている彼女の尻尾が、咎めるようにぺしぺしと僕の鼻を叩く。

 潤んだ瞳で恨めしく睨まれても、可愛いばかりで、いつもの迫力は全然ない。

「こう見えても今、必死に我慢しているのよ…気を抜いた瞬間に、あなたに襲いかかっちゃう、か、も…」
「ば、馬鹿な事言わないでよ…それに、さすがに女の子には力負けしないよ」

 こう見えても、とは言うけれど、言われてみれば今の彼女には、興奮という状態が当てはまるんだろう。
 こんな霧切さん、初めて見たから確証は得られないけれど…
 息を荒げ、冗談めいて言う霧切さんは、どことなく色っぽい。

「私…結構強いのよ。試してみる?」

 ごくり、と、喉が音を立てて生唾を飲んだ。

「冗談に聞こえるかもしれないけど…探偵業でトレーニングを欠かせたことはないし、体格もあなたより大きい…
 その気になれば、いつだってあなたのこと、襲えるんだから…
 今は必死に理性で抑えつけているけれど、体が疼いて疼いて、今にも頭がおかしくなりそう…
 それにあなたは人が良いから…私がそういうことをしても、拒めないでしょう…?
 だからこそ苗木君、あなたにお願いがあるのよ」

 そこで彼女は、毛布を脱いだ。
 ふわ、と、湿った熱気に乗って、彼女の女の子の匂いが鼻に届く。
 それだけで、僕はどうにかなってしまいそうだった。

 まだ顔は紅く、息はあがっているが、真剣な目つきで彼女は僕を見ている。
 霧切さんは、どこから取り出したのか、ガムテープを僕に押し付けた。
 苦しそうに胸の前で手を握り締めながら、声を絞り出す。

「まだ、私の意識があるうちに…っ、私の手を、縛っておいて」

「な、何言ってるのさ!」
 僕はガムテープを、彼女に押し返した。
「女の子を、し、縛るなんて…出来ないよ!」

 僕だって、この現状で、だいぶ理性がやられているんだ。
 彼女の自由を奪って、それこそまともでいられる自信はない。

「苗木君、私は真面目に話しているの…本当に、あなたのためでもあるのよ」
「だ、だからってそんなこと…た、例えば霧切さんを部屋に入れておいて、僕は外に出ているとか…」
「閉じ込めるということ?鍵は内側にあるのに、意味はないわ。開けるくらいの知能は残っているから…」
「それに…僕に襲いかかるかどうかなんて、わからないじゃないか」
「あなた、今まであれだけされて、まだそんな悠長な事を…猫になった私は、絶対にあなたを襲うわ。断言できる」
「どうして、断言できるのさ!?」
「猫になった私は、普段の私の記憶や趣向を反映し、より本能的に動く…ここまで言えば、わかるでしょ…?」
「わかんないよ、全然!なんでそれが、猫の霧切さんが僕を襲う確証になるの!?」
「だから!それは、私があなたを、っ……」

 そこまで言うと、彼女は黙ってしまった。

 でも、その先を聞かなくても、なんとなく…。
 だって彼女は、言い淀んだ瞬間からますます顔を真っ赤にして、唇を一文字に、拗ねたように僕をじっと見ていて、
 彼女の熱に当てられたかのように、僕も顔が赤くなっていくのがわかった。

「霧切さん…」
 雰囲気に流されつつある僕が、彼女の背中にそっと手を回そうとした、その時に、

「あ、っ…」

 それは、唐突に始まった。

「霧切さん!」
「っ、わた、しは…忠告した、のに…もう、知らないから…!……っ…ぁ…」
 息がますます荒くなる。
 顔は紅いまま、どんどん瞳孔が細くなる。
 彼女は最後の力を振り絞って、毛布にくるまった。僕を守ろうとしてくれたのかもしれない。

 そんな僕は、どうしていいかわからずに、尻もちを着いていた。
 本当に襲われたらどうするんだろう。逃げるべきか、拒むべきか。
 正直、発情なんて聞かされ、指舐め以上のことをされて、理性を保っている自信はない。
 けれど、こんな状態の彼女を放ってはおけない。

「にゃ…ふーっ…」

 毛布の中から、うめき声が聞こえる。
 普段の鳴き声じゃない。明らかに異常が見て取れる。
「霧切さん…?」
 何度目か、彼女の名前を呼んだ。
 びくり、と、毛布が震え、動きが止まって、


 次の瞬間、毛布が僕に襲いかかってきた。


「っ、わ…!」
 驚く声が口から飛び出す前に、体を押し倒され、
 僕は無様に、地面に横たわった。思い切り床に頭をぶつけ、目の前がぐわんぐわんと揺れる。

 毛布の中から飛び出た腕が、転がる僕をベッドの上に放り投げ、自分もそれに跨ってきた。

「ふーっ…ふぅうぅ…」
「霧切、さ…」

 毛布で包まれた暗闇の中、彼女の双眸が光る。
 獲物を狙うような、鋭く冷たい目つき。
 ごくり、と、僕はさっきとは別の味の生唾を飲み込む。

 そんな彼女の気に当てられて、興奮が僕にも伝導してくる。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
「ふぅーっ…ふー…」
 互いの吐息が、かかる距離。
 彼女の体温を、香りを、存在を近くに感じて、僕ももう限界に近い。

 ケダモノは、果たしてどっちだろう。

 男と女が二人でベッドの上、毛布にくるまって体を密着させて。
 このままじゃ、どちらが先に動き出しても、何かしらの過ちを犯しかねない。

 霧切さんは、ぼくの腹の上に膝立ちでのしかかっている。
 彼女の膝に袖を踏まれて、腕の自由も奪われている。
 手の甲に、うっすら湿り気を帯びた彼女の太ももが触れている。

 確かに彼女の力は、想像していたよりも強い。
 けれど、抗えなくはなかった。体重もたぶん、僕の方が上だ。
 彼女は探偵として鍛えているといった。確かに、本気の彼女が僕を押し倒せば、抗う術はないかもしれない。
 けれど今は、本能のままにのしかかられているだけ。
 がむしゃらに起き上がれば、簡単に形勢逆転できるだろう。

 だからこそ、残り少ない理性と、全脳細胞をフル動員して、この状況の打開策を考える。
 彼女が本能を行動に移す前に。
 僕の理性が焼き切れる前に。


「ふっ…ふっ…」
 もぞもぞと、腹の上で霧切さんが動き出す。
 上体を倒し、頭を彼女に抱かれるような形になる。

 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、

 心臓がうるさいくらいに、早鐘を鳴らしている。
 それは、彼女の鼓動か、僕自身の鼓動か。
「はーっ…はーっ…」

 力を込めて起き上がれば、彼女を押し倒すことができる。
 できるけど、絶対にやっちゃダメだ。
 正気じゃない女の子を押し倒して襲うなんて、犯罪だ。いけないことだ。人間として最低だ。
 必死に自分を咎めるけれど、鼻孔をくすぐる甘い匂いに、自制の言葉が浮かんでは溶かされていく。


 ずるり、と、霧切さんの体が下にずれてくる。
 二人の目線が、合う位置まで。
「なぅ…」
 目があったのを確認すると、彼女は妖艶にほほ笑み、足を絡ませてきた。
 誘惑しているような目つき。

 す、と顔が近付き、
 ペロリ
 僕の頬を舐めあげる。


――ヤバい、ヤバいヤバい!!                          これ以上はエロパロ板行きだ。


 とうとう僕は、苦渋の選択の答えを出した。

 ぐ、と力を込めて、自分の手を彼女の下から引きずり出す。
「に゛ゃっ…」
 バランスを崩した霧切さんが呻く。

 そして彼女の背中に手を回し、思いっ切り抱きしめる。
「にゃ、うっ?」
 あまりに唐突で、さすがの霧切さんも面喰らっている。
 服越しに柔らかな彼女の体を感じながら、僕はガムテープに手を伸ばした。

 背中にまわした自分の左腕に、ガムテープをぐるぐる巻きにして、彼女の背中にあてがった。
 固定するのは、彼女の服と僕の左腕。
 肘から先は自由なので、同じ要領で右腕も、彼女の服に貼り付ける。

 僕が霧切さんに抱きついた形で、二人は固定されている。

 体が密着しているわけだから、僕はもちろん、霧切さんも身動きが取れない。
「にゃ…にゃう…」
 霧切さんは不可解そうに首をかしげていた。

 最初こそ、満足そうに頬を擦り寄せてきて(この時点で僕はもうヤバい)いたんだけど、
 やがて自分が身動きを封じられたことを理解したのか、
「なぁああぁう…ふーっ!!」
 あからさまに不機嫌そうな声をあげて、バタバタと暴れ出した。

 彼女が暴れるたびに、その、慎ましやかな胸(本人に直接言えば、きっと命はない)の膨らみが押しつけられ、
 僕の理性を、アイスピックで氷を割る様に、ガンガンと勢いつけて崩しにかかる。

「ダメだよ…元に戻るまで、自由にさせないからね…!」
 僕の言葉は届いているのかいないのか、
「フーーっ!!」
 彼女はますます暴れて、ベッドを揺らすのだった。

 ギシ、ギシと音を立てて、ベッドが揺れる。
 その上には、毛布をかぶって重なり合う男女。
 人に見られれば、確実に誤解されるであろう光景だな、なんて考えながら、
 僕は自分の意識をどこかに飛ばし、目の前の現実に向き合わないように必死だった。


 やがて、どう頑張ってもほどけないと理解したのか、ぴたりと暴れていた霧切さんが止まる。
「にゃう…」
 ようやくわかってくれたか、と、安堵をしたのもつかの間。

「うう…ふぅうう…」
 発情はすぐ収まるわけではなく、今度は切なそうに吐息を洩らす。

 霧切さんの顔は、僕のすぐ横にあるわけで、
 彼女がこちらを向いて吐息を洩らせば、それが僕の耳に吹きかかるのも当然。

「ふー…ふー…」
「っ……ひっ…」

 情けなくも、女の子のように甲高い声が漏れてしまう。
 それに気付いてしまったのか、今度は霧切さんは、僕の耳を執拗に攻めてくる。

 ぬるり、と、彼女の温かい舌が僕の耳をなぞった。

「うぁっ!」
 声が口から飛び出す。

 反応に気を良くしたのか、ますます耳の穴を霧切さん舌が犯してくる。
 絶えず足を絡ませ、グイグイと腰を押し付けられる。

 我慢だ、我慢だ…彼女はまともな意識じゃないんだから…
 欲望が背中から追ってくる。

「にぅぅぅ…」
 耳を舐める合間に、耳元で彼女が、切なそうに鳴き続けている。
 まるで、僕に何かを訴えかけるように。

 ゾクリとした温い恍惚が、背中を駆け抜けた。
 逃げなきゃだめだ、逃げなきゃだめだ…!

 このまま時間が経てば、元のクールな彼女に戻ってくれる。
 万が一、互いの欲望のままに動いて、僕が彼女を、彼女が僕を襲えば、もうこれまでの関係には戻れない。
 僕がこうして我慢しているだけで、また元の関係に戻れるんだ。
 一時の感情に身を任せて、大切なものを失ってはいけない。


 しばらく、そのままの時間が続いた。
 霧切さんは僕の頬や耳を舐め、身体を擦り寄せて切なげに声をあげ、
 僕は彼女を抱きしめたまま、思いっ切り彼女から顔をそらしている。

 毛布の中は酷く暑くて、自分の呼気の温もりさえ感じるほど。
 彼女と触れあっているところから、じっとりと汗ばんでくる。
「はぁ、はぁ…」
 少しずつ酸素が薄くなっていく中で、彼女の動きも鈍くなっていく。

 もうそろそろ、大丈夫だろう。
 そうして気を抜いた瞬間に、

 僕の意識は、深く深く落ちて行った。

 どれくらいの時間、気を失っていたのかは分からない。
 一瞬かもしれないし、一日かもしれない。
 窓のない部屋では、時間の経過は分かりづらいから。


 ただ、起きた時には霧切さんは、もう元に戻っていたみたいで、
「…おはよう、苗木君」
 少し動けば触れ合う距離で、僕に挨拶をかけてくれた。

「あ、あの、霧切さん、これは…」
「わかってるわ。記憶もちゃんとある」
 彼女を抱きしめたままの格好に気づき、途端に慌てて弁明を口走る。
 けれど霧切さんの所作は至って落ち付いていて、互いを抱きしめた体勢のまま、体を起こす。


 顔は少し赤かったけれど、本当に『元の』霧切さんだった。


「…耳、消えたんだね」
「尻尾もね。お陰さまで」

 余裕を見せようと、ミステリアスな笑みを浮かべるのも、

「今、ガムテープはがすね」
「…ええ」

 髪をかき上げる仕種も、

「…多分、この『発情期』みたいなものが、一つの節目だったのね」

 推論を進める時にした唇を撫でるクセも、

 本当に全部、元の霧切さんだった。


 ああ、やっと終わったのか。
 ガムテープをほどいた後、どっと疲労感に襲われて、僕はまたベッドに横になった。

 もうあの無邪気な微笑みや、恥じらう霧切さんを見られないと思うと少し残念だったけど。
 彼女自身に特に危険が及んだわけでもないし、何事もなく終わって、今はほっとしていた。

「その…ゴメンね」
「何がかしら?」
「急に抱きついちゃったから…」

 霧切さんは、なぜかむっとして僕の頬をつねりあげた。

「い、いひゃい!いひゃいよ霧切ひゃん!」
「痛くしてるのよ…」
「何で!?」
「謝ったから」
「え、ええ!?」

 ああ、この理不尽な攻撃も久しぶりだな、と、僕は頬をさすりながら感慨にふける。

「私を守るためにとってくれた行動で、なぜ謝るの?…あなたから謝られたら…私が素直に、謝れないじゃない…」
「う…なんというか、罪悪感というか…」


 だって、緊急自体とはいえ、女の子を抱きしめるなんてほめられた行動じゃない。
 それに、彼女に対してやましい気持ちを抱いてしまったのは、本当だから。

 その旨を伝えると、また彼女は顔を真っ赤にして、
「あなたのせいで、赤面症にでもなってしまいそうだわ…」
 と、恨めしげにつぶやくのだ。

「そ、それはこっちの台詞だよ!色々してきたのは霧切さんじゃないか。どれだけ僕が我慢して…」
「なら、拒めばいいと言ったでしょう?突き飛ばしても、縛り上げてもいいって言ったのに」
「そんなこと、女の子に出来るわけないよ…ましてや、好きなひt」

「えっ…」
「あ」



 Fin





その後



「…にゃあ」
「…」


 あのあと、言葉の続きについてさんざん言及されたが、僕としても一応プライドというか、
 あんな流されて口を滑らせてしまったような、無様な形で告白したくはないというか、
 とにかく『猫モード』の時がまだマシだったかと思わせるほどの、霧切さんの追及を逃れて、

 それまでの様々な心労からは解放されたはずなんだけど。

「…何してんの、霧切さん」

 心地よい眠りから冷めた僕の目に飛び込んできたのは、猫耳を頭に着けて、
 ベッドで眠っていた僕の上に四つん這いに跨って、顔を真っ赤にしている霧切さんの姿だった。


 念のために言っておくけれど、これが『猫モード』の霧切さんじゃないことは、僕にだって分かる。
 まず、猫化現象は昨日で終わっていた。
 次に、猫状態の彼女は、発情でもしていない限り、僕の上に跨った程度で顔を真っ赤にしたりしない。

 そして、決定的な違い。僕が見た『猫モード』霧切さんの猫耳は、彼女の髪の毛と同じ、銀灰色。
 今彼女が着けているカチューシャ――その猫耳は、真っ黒だった。

「に、にゃー…」
 とにかく分かるのは、今の霧切さんは猫になりきっているらしいということ。
 そんなに恥ずかしいなら、何をそこまでやることがあるんだろうか。
 そこまでして、僕をからかいたいのだろうか。

「にゃー、にゃー…」

 僕の手をとり、その掌を自分の頭に押し付ける。撫でるように強要している仕種にも見えなくもない。
 けれど、僕は深く考えないようにして、そのまま頭に付けたカチューシャを掴んで外した。
「にゃ…あっ!」

「何してんの、霧切さん」
 僕はもう一度、同じ質問を繰り返す。
「あ…」
 恥ずかしがりながら、甘えたように猫真似をしていた霧切さんの顔が、凍りついた。

「まさか霧切さんに限って、本当に甘えようとしたわけでもないだろうし…
 大方、僕をからかおうとしたんでしょ?いくら僕が鈍いからって、そんな簡単な罠にぶごふぅっ!!」


 鳩尾に綺麗な突きが決まって、僕はベッドの上で未悶えた。
「お…ふぉっ…何を…」
「…憂さ晴らしよ」

 ベッドの上で悶絶する僕の頭によぎったのは、『私、結構強いのよ』の言葉。
 まぎれもない事実だったということを確認しながら、僕はわけもわからず霧切さんに詫びるのだった。


ツールボックス

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