女の子・3

 誰からともなく、振り向いた。


 話しこんでいた僕らの後ろに立っていたのは、紛れもない『超高校級の探偵』。
 他人を拒絶するような、暗い色のコートにスカート。
 男物の手袋、ごついブーツ。
 神秘的なまでの、銀色の長髪。

 そこにいたのは、いつもの霧切さんだった。
 威圧感のある身だしなみから、何を考えているか分からない無表情まで、本当にいつも通りで、


 それゆえに、僕達はいっそう恐怖心を煽られたのだ。


――――――――――――――――――――
 弾丸論破 ナエギリSS 『女の子・3』
――――――――――――――――――――


「え、と…霧切ちゃん、いつから?」

 状況的に主犯と判断される朝日奈さんが、追いつめられた草食動物みたいな顔で尋ねた。

「…朝日奈さん、初耳だったわ」
「う…何が?」

 いつも通りの仕種で、霧切さんは自分の髪を揺らす。

「私は苗木君に恋心を抱いていて、それを素直に表現できないから彼を…いじめている、ということらしいわね」
「は、はは」

 眉一つ動かさない霧切さんを見て、弁解は不可能だと感じ取ったのだろう。
 朝日奈さんは、力なく笑うだけだった。

「全く、普段私たちのどこを見ていたら、そんな結論になるのかしら…」

「あ、あの、霧切さん、僕は、えと…」

 薄紫色の瞳が、はた、と僕を捉えた。
 途端、蛇に睨まれた蛙みたいに、僕は身動きが取れなくなる。

 何も言わずに、霧切さんは僕に詰め寄る。
 なぜか殴られる予感がして、僕は反射的にギュっと目をつぶった。


「ご、ゴメンなさいっ…!」


 しかし彼女は、

「まあ朝日奈さんには後でたっぷり事情を聞くとして…大神さん、苗木君を借りていくわよ」
「む…我は構わんが」


 と、そう言って、僕の手をむんずと掴み、ぐいぐいと引っ張る。
 どうやら、僕の意思は関係ないようだ。


「来なさい、苗木君。話があるわ」
「は、はいぃ…」


 引きずられるようにして、その場を後にする。
 曲がり角に差し掛かって、大神さんと朝日奈さんの姿が見えた。

 大神さんは、目を閉じて首を振っていた。せめて武運くらい祈ってほしい。
 朝日奈さんは、僕に向けて合掌。それは謝罪か、それとも南無っているのだろうか。

 口には出さずに『覚えてろ』と呟き、僕は廊下の向こう側へフェードアウトして行くのだった。




―――――




「…怒って、るよね」

「――私が?」


 尋ねると、本当に意外だ、というような響きでもって返される。

 どこに行くかと尋ねれば、最上階の植物園だと答えられ。
 言葉を交わしながら、ゆっくり階段を上っていく僕達。
 食堂以外で彼女とは、話したいと思っていても、実際に話しこんだことはなかった。

 ホント、こんな状況じゃなかったら、飛び上がって喜んだんだろうけれど。


「私は…怒っているように見えるの?」
「う、ん…」


 それは本当にいつも通りのような霧切さん。

 不機嫌な時は大抵、僕から何か話しかけても無視されてしまう。
 僕は彼女の機嫌が直るまで、謝ることしかできない。
 本当は、そんな拗ねたような霧切さんも可愛いんだけれど、そんなこと言っている場合じゃない。

 今は違う。
 霧切さんに尋ねたことには、全て返事が返ってくる。
 たぶん、怒りのメーターが振り切れて、逆に冷静になってしまっているのだろう。

 そりゃそうだ。

 本人のいないところで、僕なんかと噂を立てられたのだから。
 僕だってそんなことをされれば、いい気はしない。


「あの、さ…ゴメンなさい。謝って済むことじゃないとは思うけれど…」

 と、頭を下げれば、

「ちょっと…頭を上げて、苗木君。そもそも、私が何に怒っていると言うの?」

 本当に分からないわ、と、彼女は困ったような顔を向けてくる。


「いや、だから、ホラ…僕みたいなやつと、あんな根も葉もない噂っていうか」
「…」


 と、そこで、
 ようやく霧切さんは顔をしかめた。

 まるでこの言葉で、やっと気分を害したかとでも言うように。


「…あの、霧切さ」
「苗木君。前から言おうと思っていたけど、そうやって自分を卑下する癖は止めなさい」
「…?」
「『僕みたいなやつ』と言ったでしょう。そういう言い方、私は好きじゃない」


 ジロリ、と睨まれる。
 でも、そんなこと言ったって。

「…や、でもさ、ホラ、霧切さんと比べたら、僕なんて、」
「二度目よ。止めなさい」
「あ、うん…」


 本当に怒っているかのような、有無を言わさぬ彼女の口ぶりに、思わず口をつぐんでしまう。

 何だ、訳が分からない。
 さっきまで、怒るべきところでは何も言われなかったのに。
 今は、よくわからない理由で僕は怒られている。

「自信を持て、とは言わないけれど。あなたが私に何か特別劣っている訳でもないでしょう」
「いや、霧切さんは『超高校級の探偵』だし」
「あなただって。『超高校級の幸運』でしょう」

 いや、それは。

「…僕のは、違うよ。何かの才能が認められて入学したわけじゃない。みんなだって、そう言ってるよ」
「…皆が噂すれば、それが現実になるの?」
「あの、霧切さん…」
「聞いて、苗木君。例えばあなたは、『霧切は苗木の事を好きだ』という噂を耳にして、それを真実だと思った?」
「そ、れは…」


 思わなかったけれど。
 けれど、口に出して否というのは、なぜか躊躇われる。


「それと同じことよ。あなたに関する噂をどれほど集めたところで、それであなたの全てを理解することはできないでしょう。
 どこの誰とも知らない他人の目や根も葉もない勝手な噂を気にしたり、自分と他人を比べて勝手に落ち込んだり、そんな必要はないのよ。

 あなたにはあなたの魅力がある。それは誰にでも真似できないものだし、少なくとも私はその魅力を知っている。
 だから大神さんも言っていた通り、私はあなたのそういう所を…少しだけだけど、その…尊敬しているわ。

 …それを謙遜しているんだかなんだか知らないけど、口を開けば『僕みたいな奴』だの『○○と比べれば』だの…
 自分で自分を見限ってしまっては、あなたを認めたり尊敬している、私や他のみんなの立場というものが無いでしょう」


 言葉が進むにつれて、愚痴っぽくなっていっているけれど。
 そこにあるのは、彼女が僕に、励ましの言葉をくれているということ。
 そして、彼女に認めてもらっているという事実。

 こんなこと考えている暇はないはずなのに、とにかく彼女に謝罪しなければいけないのに、


「…うん」


 ちょっと泣きそうになるくらい、嬉しくなってしまった。

 彼女が普段、そんなことを考えてくれていたなんて。


「…とにかく。今後、少なくとも私の前で、そういう発言は禁止。この話はこれでお終い、反論は認めません。いいわね?」

 照れているのを誤魔化すかのようにまくし立てる彼女に、僕は言葉を詰まらせながら頷いた。

「その…ありがとう。はげましてくれ…たのかな?」
「どういたしまして。まあ、今必要な話ではなかったから、蛇足程度に捉えておいて」
「うん…それと、それでもやっぱりゴメンね。霧切さんに嫌な思いをさせちゃったのは、ホントだから」

 と、話を戻す。
 彼女の気持ちはありがたかったけれど、やっぱりこういう所はきちんとさせないと。

 しかし、やっぱり霧切さんは、何が何だか分からないとでも言うように首を傾げる。


「その、僕みた…僕のことを好きだとか、そういう噂を…」
「そういう噂をしていたのは、朝日奈さんでしょう。どうして私があなたに怒るのよ」

 と、言い終えていない台詞に重ねて、霧切さんの反論が来る。
 まるで、自分が怒っていると思われている方が心外だ、とでも言うように。

 そして、いつも通りの仕種で、人差し指を鼻先に突きつけられる。


「それに、苗木君。私は、私をよく知らない人間が、勝手に私について語っているのが許せないだけよ。
 語られた内容はどうでもいいの。例えそれが真実でも、根も葉もない噂だったとしても」


 その仕種がいつも通りで。
 人差し指を下げてから少し微笑む所まで、いつも通りで。

 僕はようやく気付いた。
 彼女は別に、怒っていないフリをしていたわけじゃなくて、


「本当に、怒ってないの…?」
「だから、そう言っているでしょ。あの状況であなたに非が無いことくらい、分かってるわ」
「そ、そっか…でも、じゃあ何で『話がある』だなんて」


 てっきり、私刑…個人的な説教をされるものだとばかり思っていたけれど。
 と、僕がそう言うと、



「…あの、私が苗木君を好きでちょっかいを出している、とかいう噂を、否定するためよ」

 告白する前に振るという、なんとも鬼の所業で切り返してくるのだった。



 いや、まあ、結果は分かっていたけれど。
 こうもすっぱりと切り伏せられると、流石にちょっとダメージはある。

「でも、さっきの例え話は…」

「まあ、流石に私もあんな根も葉もないうわさ話をあなたが鵜呑みにするとは思っていないわ。
 けれど、苗木君は単純というか馬鹿正直だから、万が一ということもあるし。それに…」

「それに?」




 その時僕は、そこから先を霧切さんが言いあぐねているんだと思った。
 何か言いにくいことを言おうとしているんだと。
 それくらい、不自然な沈黙だった。


 ふらり、と、不自然なままに霧切さんの肩が揺れる。


「…霧切さん?」
「大、丈夫、よ」




 大丈夫じゃない。

 僕はすぐに悟った。



 そうだ、どうして忘れていたんだろう。
 彼女は今朝からずっと、女の子の痛みと闘っていたんだった。

 霧切さんの顔は真っ赤。でも、当然羞恥の色じゃない。
 息もどことなく荒く、いつからか肩で呼吸を始めている。
 一つ気付けば次々と、彼女の異常を知らせるサインが見つかった。


「…ちょっとゴメン」
「あ…」

 額に手を当てる。
 一瞬汗で濡れてひんやりとして、その奥から暖房のような熱さが伝わってくる。

「すごい熱だよ…」
「大丈夫よ…朝より、マシだから」

 だから、耐えられる、と。
 彼女はフラフラになりながら言う。


 この大馬鹿、と、自分を怒鳴りつけたかった。
 『いつも通りの霧切さん』だなんて、僕は何を見ていたんだ。

 わかっていたことじゃないか。
 辛い時ほど、無理をする人なんだ。


「……あ」
「霧切さんっ!」

 少し目を離した隙に、その体が大きく傾いた。
 手すりに伸ばした手は空を掴み、そのまま行き場を失くした足が、階段から離れていく。

 僕達がいたのは、ちょうど階段の中腹。下の踊り場までは、六段ほど。

 中途半端な距離でも、熱に浮かされた無防備な体じゃ、受け身どころか――



「危なっ…!!」



 その体がリネン床へ真っ逆さま、となる前に、
 僕は手を伸ばし、霧切さんの腕を掴んだ。



「っ!」


 緩やかに落ちていくはずの体が、ぐ、と空中に不自然に留められる。
 重力に従って落ちることを阻まれ、彼女の体は大きく重心を崩し、


「あ、づ――っ!!」


 ぐに、と、革のブーツがねじれる嫌な音。
 痛みからか顔をゆがめ、霧切さんはそのまま段差に座り込んだ。


「き、霧切さん!」

 慌てて駆け寄る。
 霧切さんは、耐えるように目をつぶっていた。

 僕に不自然に抱えられたせいで、全体重が足に不自然な形で乗っかり、思いっ切り挫いてしまったのだ。

 この場面では、そうするしかなかった。
 その負傷については後でちゃんと謝るとして。



「…やっぱり、病院には行ってなかったんだね」



 先ほどの自信に満ち満ちていた表情から一転。

 霧切さんは不機嫌そうに黙りこみ、そして僕の追求から逃れるように、ふいと顔を反らした。
 責めるつもりはないけれど、無意識にそんな声色になってしまう。

 顔は不自然なほどに赤く、額にびっしりと浮かぶ汗。
 まだ寒いのか、肩も小刻みに震えている。


「とにかく、もう一度保健室に行こう」
「…」

 く、と腕を掴むと、振り払われる。
 その仕種は、いつかの機嫌が悪い時の霧切さんだった。



「独りで、行けるから」

 少しだけ持ち直したのか顔を上げ、けれど僕に目を合わせようとしない。




 その仕種に、なぜかカチンときた。




「…悪いけど、霧切さんの『独りで出来る』はもう信じないから」

 さっきまで、彼女が怒っていないだろうかと怯えていたはずなのに。


「何、を…?」
「今だって、病院に行くって言ったのに、行かなかったからこうなってるんでしょ」


 口から出たのは、自分で思っていたよりも無機質な声だった。
 怒っているから、だと思う。
 自分のことなのに『思う』だなんてはっきりしないのは、それが怒りかどうかが分からないからだ。

 どうして自分を大切にしてくれないんだ、という憤り。

 もっと言葉を知っていれば、この感情を表す的確な表現だってあっただろう。
 霧切さんなら、それをきっと知っているだろう。

 でも僕は知らないから。

 無言のままジト目で睨んでくる彼女に、そのまま言葉をぶつけた。



「…今回は、僕も怒ってるからね」

「え…」



 瞬間。


 霧切さんは、心臓が止まったかのような顔を見せた。
 そして、怒鳴り出すような泣き出すような、とにかく何かが弾けてしまいそうな表情をして、ぐっと唇を噛んでいる。


 それがどういう心理状態から来るものかはわからない。
 でも、彼女の気持ちは、悪いけど後回し。


 少し強引に彼女の腕を掴む。
 抵抗されるかと思ったけれど、観念したのか、そのまま素直に僕の肩を借りてくれた。

 挫いた右足を支えるように、僕の体を霧切さんの右腕の下に潜り込ませる。
 それから右腕を僕の首にまわしてもらい、

「立つよ?右足には力入れないでね」
「んっ…」

 ぐ、と、体を上に引っ張り上げた。


 足を挫いているせいだろう、霧切さんの重心はかなり傾いてきている。
 そのせいで、前よりも少しだけ、彼女の体が触れる面積が大きくて、


 あとで思いだして赤面するんだろうな、と他人事のように考えながら、僕は保健室へ向かった。




―――――




 同じ日に同じ人を、二回も保健室に連れてくるなんて思わなかった。

 期待はしていなかったけれど、やっぱり養護教諭の姿はない。
 本当にここは保健室なんだろうか。


「ベッドに座ってて。今、色々持ってくるから」

 右足に負担がかからないように気をつけて、そっとベッドに下ろす。
 それから携帯を開き、朝日奈さんにメールを送った。


『Date 05/29 16:22
 Sub Re;Re;Re;Re;R
 To  朝日奈 葵

 今保健室にいます。
 霧切さんが熱をぶり
 返した上に、捻挫し
 ました。引きずって
 でも病院に連れてい
 くので、タクシーを
 呼んでください。 』



 これでよし。
 朝日奈さんにしても、上手く霧切さんに恩を売っておけば、やたらに責められたりはしないだろうし。

 携帯を閉じて戸棚に向かい、例によってその中を漁る。
 体温計に解熱剤、テーピング用のテープ、それに念のため頭痛薬も。薬を飲むための水、それから換気のために窓を開けて。

 養護教諭がいれば、霧切さんの足にも適切な処置が貰えたんだろうけれど、無いものに頼ることはできない。


「…よし」

 僕は、戸棚に挟まっていた保健体育の教科書を引っ張りだした。
 ここに、確かテーピングの方法が書いてあったはず。

 どうやら一度目の、昼のアクシデントの時よりは、冷静に考えられているようだった。
 別に落ち着いているわけでもないけれど、それに勝る気持ちの方が強いからだろう。



「――これが解熱剤で、これが水。病院の診察のために、体温も測っておいて」


 小脇の机に、ひったくってきた応急セットを並べる。
 指し示すと、霧切さんはやっぱり僕に目を合わせないまま、それを受け取った。

 まあ、素直に薬を飲んでくれる分には構わないんだけれど。
 けれど今日の霧切さんの行動には、分からないことが多すぎた。

 病院には行かずに僕達の所に来た理由や、僕が肩を貸すのに拒んだ訳。
 なのに二度目は素直に肩を借りてくれて。
 そういや、話があるって言っていたけれど、その詳細も聞き損ねた。

 そのいくつかは、彼女が意地を張っていたからという単純な答えだろう。
 けれど残りのいくつかは、彼女が顔を伏せてしまった今では、迷宮入りのブラックボックスだ。


「タクシーも呼んだから。僕も着いて行くし、絶対病院に行ってもらうよ」

 とにかく今は、彼女の安静を優先させなければいけない。

 骨折や靱帯損傷みたいな大怪我に比べて、捻挫という響きはあまり怖くない。
 けれど侮ってはいけない。
 素人目では捻挫と骨折は区別が付きにくいし、放っておけばクセが付いてしまう。

 だから、絶対に病院に連れていく。
 そうじゃないと、彼女は絶対無理をするから。



「――怒って…いるの?」



 不意に、すごく弱々しい声が聞こえた。
 子どもが親の機嫌を伺うような、そんな弱々しさ。

 誰の声だろう、と、うっかり辺りを見回しそうになる。

 けれど、当然ながら声の主は霧切さんだ。
 この部屋には僕と彼女しかいないんだから。


「…怒ってる、って…僕?」
「さっき、そう言ったでしょう」
「あ」


 確かに、言ったけど。

 でも、あの場はああでも言わないと、霧切さんを動かせなかったし。
 それ以前に、普段の僕達の関係からして、霧切さんが真に受けるとも思わなかったし。

 さっきと立場が逆だ、なんて思いながらも、一応フォローはしてみる。


「…あれは、ほら、言葉のあやだよ。本当に怒っていたわけじゃ――」
「嘘よ。機嫌が悪いってことくらい、表情や声で分かるもの」

 言葉もいつもより捨て鉢だったし、と、拗ねるように口を尖らせる霧切さん。
 う、と、詰まってしまう。
 そんなに表に出していたのか。


 さて、どう弁解したものかと逡巡する僕の耳に届いたのは、



「…ゴメン、なさい」


 またしても弱々しい、今にも泣き出しそうなほどに不安に塗れた、そんな謝罪の言葉だった。


「また、あなたに迷惑をかけてしまって…怒られるのも当然だわ」
「違っ…ていうか、怒ってなんかないよ、ホントに」


 正面から、素直に謝る霧切さん。
 いつもの毅然さや大人びた雰囲気ではなく、目を伏せて、泣きだすのを堪えているような表情。

「…」

 そして、無言。
 でも、それは無視とかじゃない。

 誤魔化しや取り繕いじゃない、本物の僕の言葉を待っている。

 とても、不安そうに。
 耐えるように、コップをギュッと握りしめて。

 いつものポーカーフェイスは、冷静さは、どこに忘れてきたのだろう。
 熱で弱っている、なんて、そんな簡単な弱々しさじゃない。
 まるで自分の内面の弱さを曝け出しているような、そんな無防備さがある。



 やだな、と思った。


 いつものように、それこそ凛として咲く花のごとく。
 微笑んだり、眉根を寄せたり、その仕種一つがカッコいい、いつもの霧切さんでいてほしかった。


 そして、霧切さんをこんな顔にさせている自分のことを、叱りとばしたくなった。




「怒っている、っていうかさ」
「…」

「心配したんだ、霧切さんのこと」
「心、配…?」


 そうだよ、と肯定する。

 親が子を怒るのは、彼らの身を案じているから。
 それと同じで、僕も霧切さんに怒ったんだ。


「だってさ、倒れそうなくらいに体調が悪いのに、無理して我慢してさ。
 保健室に運んで看病して、病院に行くって約束したのに。それどころか治ってもないのに、無理して倒れて。
 そりゃ心配するよ。霧切さんってば、自分の体のこと、全然考えてくれないんだから。
 …だから、僕が怒っているとしたら、そういうこと。霧切さんが心配だから怒ってるの」


 僕の語彙は相変わらず貧困で、言葉なんかじゃこの胸の内にある気持ちの全ては伝えきれない。

 でも、今はそれで十分だと思った。
 いつもの霧切さんに戻ってもらうだけでいいんだ。


「私のことが、心配…?」

 聞き返すというよりは、その言葉を自分の中で反芻するような口ぶりだった。
 顔を上げると、もう泣き出しそうな霧切さんはいなかった。
 少し目を見開いて、面喰っているようで。

「そうだよ。僕なんかに心配されるのは、余計なお世話かもしれないけどさ」
「そんなことないわ…その、気にかけてもらえるのは嬉しいし」


「それに」

 と、僕は続ける。

「許せないっていうんだとしたら、むしろ僕自身のことかもしれない」
「…苗木君が、苗木君自身を、ということ?」


 霧切さんは首をかしげる。

「午前中もずっと、霧切さんの具合が良くないことに気付けなかったし」
「そんなの、苗木君のせいじゃないわ。あなたが気に病むのは筋違いよ」


 それでも。
 例え道理にかなっていなくても、彼女が許してくれても。

 彼女に何も出来なかった自分が、恥ずかしくて、悔しくて、許せない。

 挙句、あんな顔をさせて――


「…でも、あなたがそういう風に思ってくれるのは…嬉しい、かも」
「へ?」

「…何でもないわ。心配してくれてありがとう、苗木君。それと…ごめんなさい」


 彼女の言葉は良く聞き取れなかったけれど。

 もう大丈夫だな、と、なんとなく思った。
 二度目の謝罪を、笑顔で言えたんだから。


「…ううん、どういたしまして」

 返事とともに、体温計を渡す。

 さっきよりも幾分か顔色が良くなったように見える。
 病は気からとはよく言ったもので、どうも霧切さんの調子は、精神的によるものが大きいみたいだ。

 昼の時も、ベッドに連れてきて、体を休められる状況を作って、一気に良くなったみたいだったし。
 少なくともさっきまでの崩れ落ちそうな表情は消えていて、僕は胸を撫で下ろした。


「…でも、よかった。あなたに嫌われたわけじゃなかったのね」
「嫌うって、そんな…」


 そんなの、ありえない。


 驚いて顔を上げ、はた、と、目が合う。

 熱からだろう、霧切さんはまだ少し顔が赤くて。
 厚手で威圧感のあるコートを脱いでいるから、いつもよりも肩が小さく見えて。

 すごく、安心したような笑みを、僕に向けていて。




『霧切ちゃんって、苗木のこと好きなんじゃないの?』



 そんな、馬鹿な事を思い出した。




「そ…それでも心配したことには変わりないし、そういう意味ではホントに、怒ってたんだからね」


 誤魔化すようにまくし立てて、急いで目をそらした。
 あのまま見つめ合っていたら、変な勘違いを起こしてしまいそうだった。

 霧切さんは言っていたじゃないか。
 その噂を否定するために、僕を連れだしたんだって。

 そう、万が一にもそんな奇跡はあり得ない。


「ええ、反省してるわ。苗木君は怒らせると怖いから」
「なにさ、それ…」


 からかうように言われて、今度は僕が頬を赤くする番だった。
 少しでも油断すると、またすぐ彼女のペースだ。

 まあ、それが悪いことかと聞かれれば、返答に困るけれど。

 彼女が僕をからかって、僕は彼女に翻弄される。
 僕達はやっぱり、このくらいの距離感の方が合っている。



「もう、いいから足を出してよ。テーピングするから」



 合っている、のに。



「――え?」



 今日何度目か、霧切さんの顔が固まった。

 どうやら、もう一波乱の予感。

 僕達のいるこの世界は、どうやらこのままハッピーエンドで終わらせてくれるような平穏さは無いらしい。





―――――





 最初は、苦手だった。



 他人と会話することに慣れていないわけじゃない。
 探偵としては、言葉を交わして情報を得るなんて初歩の技術だった。

 ただ、それはあくまで探偵としての「武器」であり、「機能」としての会話。
 その矛先は、学友に向けていいものじゃない。

 会話に慣れていないわけじゃないけれど、人と話すことは苦手だった。
 どうしても情報の駆け引きや、会話での損得を考えてしまうから。
 そんな浅ましい自分を思い知らされている心地がするから。



 高校に入っても、私はそれまでのスタンスを変えなかった。

 人を避けるわけではない。
 ただ、自分からは歩み寄らず、尋ねられれば答えるだけ。
 そうすることで、人は自然と私を避ける。

 それでよかった。
 孤独には馴れていたし、むしろ望んでいた。
 いつか聞いた歌のように、誰かを思いやることが煩わしい…とまではいかないけれど。
 自分の嫌いな自分自身を、見なくて済むから。



『…隣、いいかしら』
『あ、うん。喜んで』


 顔と名前は知っていた。
 同じクラスだし、確か寮も同じはずだ。
 けれど、それだけ。直接話したことは皆無。

 ただ、クラスでの噂は耳にしていた。

 『頼まれたことを断らない、可愛くて気の良い男子』という便利屋扱いした不誠実なものや、
 『なんの取り柄もない、パッとしない平均男』というあからさまな蔑視が込められているもの。

 どちらにしろ不名誉なもので、だから彼に対してあまり良い印象は持っていなかった。

 ここに座るのも、別に彼の隣を選んだわけじゃない。
 食堂が混んでいて、たまたま彼の正面が空いていたのだ。


『えっと…霧切さん、だよね』
『ええ』
『…』

 目を合わさずに頷いて、会話をシャットダウン。

 悪いわね、苗木誠君。
 霧切響子は、あなたと会話を弾ませるつもりはないの。
 けれど他に席もないから、悪いのに捕まったと思って、諦めてちょうだい。


『…あ、それ』

 けれどもめげずに、彼は私のトレイを指す。


『ここのハンバーグプレート、美味しいんだよね』
『さあ、よくわからないわ』

 まあ、味は悪くない方だと思う。
 けれど同意すれば、そこから会話が生まれてしまう。

 また目も合わせないまま、無愛想に私は返す。
 最低のコミュニケーションだな、と、心の中で自分をせせら笑いながら。


『副菜が充実しててさ。それに鉄板で出してくる所も点数高いよね』


 けれどもめげずに、彼はひとりで会話を続けていく。

 変わった人だ。
 こんな無愛想な女に話しかけて、何がそんなに楽しいんだろう。


『…詳しいのね』

 気まぐれに、返事を返してしまった。
 返事ももらえずに話を続ける彼の姿が、少し不憫に感じて。


『あ…それほどでも、ないんだけど』

 そう言いながらも、彼は嬉しそうに頬を緩ませた。
 まるで、返事をもらえた事が、たまらなく嬉しいのだとでも言うように。




 最初は、苦手だった。

 勝手に人を信用して、無防備な笑顔を晒してくる所なんか、特に。




 翌日、翌々日と、彼は私に付きまとった。
 とは言っても、相変わらず食堂が混むからという理由で、隣に座るだけだけれど。

 どうやら彼の中で、私は既に友人として認定されているらしい。
 一方的に話し続けているだけなのに、勝手なものだ。

 そんなことを思いながらも、私は『人の噂ほど当てにならないものはない』ということを、彼に教えられる事になる。


 一方的な会話の中で、気まぐれに返事をする。
 最初は相槌をうち、そのうち自分の意見を述べ、不意に笑ってしまうこともあった。

 気付けば、私も言葉を交わしていた。
 食堂で、彼と隣の席になるのを楽しみにしていた。

 彼との会話の中でのみ、私は汚い自分自身を忘れられる。
 探偵という競争社会で生きてきて、初めて平穏に触れた気がした。


 そして、その頃から。
 他の生徒たちの彼への評価も、徐々に変わりはじめる。
 『便利屋』ではなく『お人好し』、『平均男』は『弱点が無い』という評価に。

 苗木誠という人物は、一目置かれるようになっていった。


 気に入らなかった。
 彼がそういう素敵な男の子なのだと、最初に知ったのは私だったのに。



 そうして、自分の気持ちに気付く。



 彼と過ごす時間は、心地よかった。

『辛い時は辛いって、ちゃんと言わないとダメだよ』

 それは、私が初めて手に入れた平穏だった。

『…早く良くなるといいね』

 何物にも代えがたいもので、彼との時間を独占したいとまで思った。




 だから。




『霧切ちゃんって、苗木のこと好きなんじゃないの?』


 壊れてしまう、と。
 そう思った。



 どうして苗木君を探していたのか…と、まあ単純に体調が回復したから礼を言おうとしていただけなのだが。
 どうやら治ったのは私の錯覚だったようで、彼と歩いているうちに少しずつぶり返してきて、結局迷惑をかけてしまう。

 なんて、そんな経緯はとりあえずおいといて、


 その時は、その理由も経緯も、全て頭から吹き飛んだ。


 ただ、壊れてしまう、と。
 この距離感が心地良かったのに。



 『好き』だなんて、私から歩み寄れば、それは壊れてしまう。


 彼が頷いてくれるはずがない。
 万が一首を縦に振っても、それは私を気遣ってのものに違いない。

 いや、むしろ、その可能性の方が大きいかもしれない。
 どうしようもないくらいお人好しで、真面目で、自分に自信が無くて。
 それが私の好きになった男の子なんだから。


 受け入れられるにせよ、断られるにせよ。

 今まで築き上げてきた私たちの関係は、壊れてしまうに違いない。



 朝日奈さんに、悪気はないのだろう。

 けれど、


『…あの、私が苗木君を好きだ、とかいう噂を、否定するためよ』


 その時ばかりは、彼女を恨んだ。
 今の関係を守るために、自分に、そして彼にまで、嘘をつかなければならなかった。

 彼を困らせたくない。
 この関係を壊してまで、彼に迫りたくない。


 私は彼が『好き』なんじゃない。
 ただ、『嫌われたくない』だけなのだ。

 いつも優しい言葉をかけてほしい。
 ずっと側にいてほしい。
 そのためには、彼に嫌われてはいけないのだ。
 そんな汚い独占欲を、『好き』と表現するにはあまりに自分に都合がよすぎる。


 そうやって、『好き』ではないと自分に言い聞かせてきたのに、口にするのがこれほどまで心苦しいなんて。



『…今回は、僕も怒ってるからね』


 なのに、その偽りの望みすら壊されてしまいそうで。
 それまで、病院になど行くものか、と意気っていた私の心は、急速に萎んでいった。

 苗木君を、怒らせてしまった。
 苗木君に、嫌われてしまった。

 朝日奈さんのせいでも、他の誰のせいでもない、自分自身の行動が原因で。
 奈落に落ちて行くような絶望感。
 迷惑をかけすぎたんだ、と、自分で自分を責める。
 彼に背負われながらも、頭を巡るのは情けなさばかりだった。



 けれど、その『お人好し』は私の予想を裏切って。

 迷惑どころか、かけていたのは心配だ、なんて言い出した。



 胸が締め付けられる。

 普段の彼の言動を考えてみれば、それは至極当然の反応だった。

 第一、私はそんな苗木君の優しさに惹かれているというのに、すっかり失念していた。
 『惚れ直した』とは、こういう時に使うんだろう。


 このまま、病院へと向かう時間を、そんな彼との甘い時間に当てられたら、と、惚気ながらに思う。

 この関係が壊れなくて、本当によかった、と。
 どうかこれからも、この平穏が続きますように、と。



『もう、いいから足を出してよ。テーピングするから』



 脳が彼の言葉の意味を理解する、次の瞬間まで。

 平和ボケした頭で、私は願っていたのだった。




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