女の子・5

 無言のままにテーピングを終えて、ブーツを履いてもらう。
 履いていないと落ち着かないというのなら、履いてもらうしかない。

 落ち着いて、話がしたかった。

 僕自身、さっきのアクシデントの連続で跳ね上がっている心臓を落ち着ける必要があった。




――――――――――――――――――――
 弾丸論破 ナエギリSS 『女の子・5』
――――――――――――――――――――




 テーピングを終えると、僕はベッドの上、霧切さんの隣に腰掛けた。

 彼女も雰囲気を察したようで、ベッドの上で足を崩し、僕の方に向き直る。


「…大事な話なんだ」
「…」


 霧切さんは、無言。

 いつの間にか怯えたような眼は薄れていった。
 取り乱してから一転して、いつもの自分を取り戻しつつあるんだろう。
 感情の無い目で、ただ僕のことを見ていた。

 もうブーツを脱いでいないからか、いつもの調子に戻ってしまっている。
 少し威圧感のあるポーカーフェイス。

 す、と自分を落ち着けるため、呼吸を整える。


「…霧切さんの今までの人生で、もしかしたらこういう注意をしてくる人はいなかったかもしれないけど」

「そうね」


 淡、と少ない言葉で切り返す。
 こういう時の彼女は、早く話を切りあげたがっているのだ。
 機嫌が悪いか、もしくは苦手な話題なのかのどちらか。

 今は多分、両方だろう。
 こっちは真面目に話しているのにそっけない返事で、早くも挫けそうになるけれど。

 きっと彼女が覚えていないとかじゃなくて、本当にいなかったんだ。
 お母さんは亡くなって、お父さんとは絶縁状態。
 その上、海外で(おそらく)一人で生活していたんだろうから。


 だから、僕が教えてあげなきゃいけないんだ。



「霧切さん、さっき僕が言ったこと、他の人にもやってるの?」

「…」

「女の子は男に…そうやって、簡単に気を許しちゃダメなんだよ」


 男なんて、一皮むけば狼だ。
 普段どんなに優しそうでも、気が付けば女の子をそういう目で見てしまっている。
 そういう生き物。

 さっきの僕にしてからが、いい例なんだから。


「…別に気を許しているつもりはないわ。ただ、他人の目を気にするのが面倒なだけよ」


 心なしか、霧切さんの声が冷たい。
 突き放されている感じはしないけれど、どこか僕を責める色が宿っているようにも感じる。

 あまり説教されるのは好きじゃないんだろうな。


「で、でも…気にしないとダメなんだよ」
「どうして?それで迷惑をかけているのならともかく」


 まるで、年頃の娘を諭すお父さんの気分だ。
 言いにくいこと、恥ずかしいことでも、ちゃんと言葉にして伝えないといけない。


「迷惑じゃないかもしれないけど、霧切さんは女の子なんだから、」
「さっきから、その『女の子だから』という理由が解せないわ。なぜ女子ばかり気にしないといけないの?」


 戦時中の男尊女卑じゃあるまいし、と、ジト目で睨まれる。

 う、と僕はたじろいだ。
 だから、その目は苦手なんだってば…


「男尊女卑とかじゃなくて…た、例えば僕がこの場で服を脱いだら…霧切さん、困るでしょ?」
「?…唐突に脱ぎ出したのなら困惑はするだろうけど」


 …ああ、もどかしい。

 伝えたいことが伝わらない、このもどかしさ。
 もっと僕に語彙や伝達力があれば、彼女にも簡単に教えてあげられるのに。


「苗木君、何が言いたいのかよくわからないわ」
「…うん。僕も、よくわかんなくなってきた」


 もっと、直接的な言葉で言わなければ、伝わらないのだろうか。

 けれどもそれは両刃の剣。
 一歩間違えれば、セクハラだと訴えられても文句は言えないのだから。


 それでも。
 言わなければいけないんだろうな、と、僕は覚悟を決める。



「…だから。そういう、異性を感じさせるような言動はダメなんだ」


 聡い霧切さんなら、この辺で気付いてほしい。
 僕が何を言おうとしているのか。

 けれど、そんな希望も虚しく、彼女は首を傾げるだけ。



 ああ、神様。

 願わくばこの後起こりうるであろう一悶着の後も、彼女と友達でいられますように――



「男は、女の子のそういう姿とか仕種で…興奮するんだから」

「興奮?」

「…いやらしい気持ちになるってこと」





 言った。

 とうとう言った。



 朝日奈さんあたりを相手にしていたら、その場で真っ赤になりながら張り倒されるだろう。
 それくらいのことを、言った。


 今までのアクシデントとは違う。

 彼女が無関心なせいで怒ってしまったわけじゃない。
 自分から、自分の意思で、そういうことを彼女に言ったのだ。


「…霧切さんは、美人だし…そういうこと、気をつけなきゃダメだよ」
「…そう」


 僕の言葉を、どう捉えたのか。
 眉一つ動かさずに、彼女は相槌を打つ。


「…」
「…」


 奇妙な時間が流れた。

 沈黙とは、少し違う。
 僕達は互いに互いを見ていた。

 彼女は相変わらず、感情の無い目で僕の瞳を覗き込む。
 僕はあんなことを言ってしまった手前、自分から目をそらすことを止めて、やけになって彼女を見返していた。


「――苗木君も?」


 不意に、彼女がそう尋ねた。

「え?」

「苗木君も…私がこれまでそういう言動をした時に、いやらしい気持ちになったの?」


 ギクリ、と、顔が強張った。

 第三者的な見解ではなく、僕がどう思っていたか。
 それを尋ねられていた。

 その答えを口にすることは、何を意味しているのか。

 すなわち、白状するということだ。
 僕が彼女に、そういう汚い感情を抱いていたのだと。




「……、なったよ」

「そう…」


 偽ることも、出来ただろう。

 ただなんとなく、それは止めておいた。
 嘘をつけば、それまでの僕の論拠がたちまち怪しくなってしまうかもしれない、と考えた。
 なんとなく、目を覗きこんでくるこの少女に嘘はつけないな、とも考えた。

 そして、更に考える。



 終わりだ、と。


 明日から僕は、そういう男子として、霧切さんの目に映る。
 自分をいやらしい目で見てくる、不潔な人間だと。



 何が、味方になる、だ。



 こんな汚いことを考えているのに、彼女の味方になんてなれるはずがないのに。
 これじゃあ、彼女をいっそう孤立させてしまっただけかもしれない。

 多少でも信じた相手が、穢れていたのだから。



「…ゴメン」
「…構わないわ」
「いいよ、気を使わなくて。気持ち悪いでしょ、僕なんかが、霧切さんに対して、こんな」

「――構わない、と言ったのよ」


 強くはない、強くはないけれども凛とした口調で、遮られる。


「苗木君、三度目よ」
「…あの、何が?」

「…『僕なんか』。何度も言わせないで」


 やはりジト目で睨まれる。

 さっきまでベッドで乱れていた…というと、ちょっと危ない方に誤解を招くかもしれないけれど。
 それを微塵も感じさせない、平然とした様子で、彼女は言い放った。

 あの弱々しい声や、怯えたような表情は何だったんだろう。


「そうね、クラスメイトの男の子にそういうことを思われているのなら、確かに辟易したかも」

 僕の知らない言葉を使って、説明される。

 ああ、やっぱり。
 あまりそういう常識を知らなかった霧切さんにとっても、嫌な事なんだ。

「けど」

 彼女の眼は、僕を射抜いたまま。
 その眼光の鋭さに耐えきれず、僕は顔を伏せた。

 責められても、罵倒されても、軽蔑されても、殴られても。
 文句を言えないことを、僕はしてしまったのだから。


 彼女のその無垢で鋭利な目つきに、罪悪感を切り刻まれる心地がして、




「…あなたは例外よ、苗木君」



 耳に届いた言葉が信じられずに、僕は顔を上げていた。



「なん、て…?」

「大神さんの言葉を忘れたの?私はあなたに、一目置いているのよ」

「え、でもそれは…根も葉もない、噂だって」

「それは朝日奈さんの噂の方よ。大神さんの言葉に関しては、私は否定していないわ」


 どうして、と、尋ねそうになる。
 それが彼女の嫌っている言葉だとわかっていても、
 どうして、僕なんか、と。


 頭が混乱してくる。

 何の話をしていたんだっけ。


 そうだ、霧切さんが女の子らしからぬ行動ばかりするから。
 それを注意しようとして、上手く言葉に出来なくて。

 だから、僕自身が彼女に、そういう感情を抱いていることを伝えたんだ。
 彼女はそれを、拒まないと言った。




 まるで、告白のような。

 そんなやり取りだった。




「…ダメだよ」
「構わないわ」


 例えばの話。

 欲情する男を見て、彼女はそれを許すと言った。


「…あなたはさっき、言ったでしょう。私のそういう言動を、嫌ではないと」
「言った、けど…嫌じゃないって、つまり、そういうことだよ…?」



 そう、もし、仮に。

 『僕がこの場で霧切さんを押し倒してしまったら――』

 彼女はそれでもまだ、構わないと言い続けられるだろうか。



「だから、それでも構わないのよ」

「な、んで…僕なんか、」

「四度目よ。何度言えば分かってくれるのかしら?」


 とん、と、彼女が、僕の額を指でつつく。




 僕はおもむろに、その指を、彼女の腕を掴み、



「苗木、君――!?」





 ベッドの上に、押し倒した。




―――――




 ふわり、と、銀色の髪が、彼女を庇うようにシーツの上に広がった。



 コートを脱いで肩の線が露わになり、少し目を凝らせば下着の色だって透けて見える。
 香水とは違う、女の子独特のいい香りが立ち上り、目がくらくらする。



「はっ…はぁ…っ!!」


 盛っている犬のように、息が荒くなる。
 シーツの上に投げ出された霧切さんは、禁忌的なまでに艶めかしかった。

 片手をベッドに押さえつけ、馬乗りのように、それこそ襲うような体勢になる。

 興奮している僕とは対照的に、僕の下で、冷めた目で霧切さんはこちらを見上げている。
 軽蔑、されたのだろうか。


「…っ、こういう、ことだよ。男が欲情するって」

 息を荒げたまま、彼女に吐き捨てる。

「最低、でしょ。こんな…相手が病人だろうが怪我人だろうがクラスメイトだろうが、関係ないんだよ」


 彼女は反論を返さない。
 ただ、温度の無い目で僕を、じっと観察するかのように。

 いっそ、拒んでくれたら楽だった。


「今の僕は、霧切さんを…どうにでもできる。もちろん、霧切さんの方が強いから、実際にそうとはいかないだろうけど…
 でも、そういう意思はある。あんなことやこんなこと、良心なんてまるで無視して、欲望のままに…霧切さんを攻撃できるんだ」

「…そうね」

「嫌でしょ…?」

「嫌ではないわ」


 嫌だと言ってくれ。
 拒んでくれ。
 頼むから。


 僕の理性はもう、おかしくなってしまっている。

 誰かが止めてくれないと、止まれないんだ。



「ただ…少し」

 目を伏せもせず、相変わらず僕を射抜いたまま。

「少しだけ、恐い」

 少しも怖がる素振りを見せずに、彼女は言った。




「怖い…僕の、男の欲望がってこと?」

 違うんだろうな、と分かっていても、他の言葉が見つからずに、尋ねてしまう。

「じゃあ、抵抗して…言葉でも行動でもいいから、僕を拒んで…そうじゃないと、僕は…」


 彼女の腕を握っている手に、少し力を込めた。
 それだけで、霧切さんは眉をしかめる。

 細い腕だった。

 尋ねている間にも、僕の視線は意思とは無関係に彼女を犯す。
 膨らんだ胸元を、震える唇を、細い腰を、じっくりねっぷりと視姦する。

 そこには、少しも色っぽさなど感じられない。
 彼女の体自体は魅力に溢れているのに、それ以上に溢れだす自分の中の罪悪感で、萎えてしまうのだ。

 嫌な汗が噴き出してくる。
 組み敷いているのは僕の方なのに、追い詰められているのも僕の方。
 なんともおかしな話だ。



「…欲望が、というのはちょっと違うわね。少なくとも私は、あなた程度なら簡単に今の状態からでも倒すことができる」


 それは、なんとなくわかっていた。
 探偵業は、護身術にも長けているのだと、以前話していたから。


「けれど、私はあなたを拒まない…いえ、拒めないと言った方が、正しいかもしれないわね」
「拒めない…?」

「あなたを拒んでしまうことが、怖いのよ」


 彼女は退かないまま、僕の目を見たまま。
 まるで後ろ向きな事を言う。

「戻れなく、なるかもしれないでしょう」

 拒むことによって、遠ざけてしまうから、と。
 そこでようやく、霧切さんは僕から目を反らし、伏せる。

「あなたとの関係を、私は大切にしたいから。それは、私自身よりも、とても大切なものだから。
 あなたを拒んで関係を失うくらいなら…私はいくらでも、あなたに傷つけられても構わない」


 僕とは真逆の考え方。

 彼女に拒まれなければ、踏み込みすぎて、元に戻れなくなってしまうという僕と、
 僕を拒んでしまうと、そこから溝が生まれ、元に戻れなくなってしまうという彼女。

 だから、これほどまでに噛み合わないのかもしれない。


「…僕は」
「苗木君…私はあなたを拒まない。それは私の自己責任だから」


 だから、の続きを、彼女は言葉にしなかった。
 言わなくても分かるだろうと、そういうことなのだろう。


 それは私の自己責任だから。
 あなたは、悪くない。
 ここで私をどれほど辱めても、あなたに責任はない。
 拒まない私が悪いのだから。


 目が、態度が、そう言っていた。 

 受動的な肯定。
 自分からは決して動かないけれど、僕の言動を受け入れる。



 そんなことを、言われたら。

 止まれなくなってしまう。

 理性を失った僕を止める唯一の防波堤が、それを良しとしてしまったら。



 ――ダメだ、止めろ。
 思いとどまれ、雰囲気に流されるな。

 いいのか、こんなことで手放してしまって。
 僕はもっと、彼女を、彼女との関係を、大切にしたかったんじゃないのか。


 思いながらも、彼女の体を舐めまわす僕の視線は止まらない。



「なんで、なんで僕を…拒まないの?」

 思い上がりとも取れる質問だった。

「言ったでしょう、拒めないのよ。元に戻れなくなってしまいそうで」
「そんな、こと…」


 泣き出してしまいそうだった。
 言葉を交わすほどに、退路を塞がれてしまう。


「僕なんかとの関係より、自分を大切にしてよ…!」

「…五回目」


 ジト、ではなく、ぎろり、と、本気で怒っているような眼が、いっそう強く僕を射抜く。
 僕のことも、それくらい強い意志で拒んでくれればいいのに。

 僕達はお互いに、自分からは止まれない。

 彼女が拒むことをしないから、僕は何かが自分を止めてくれるのを待つしかない。
 僕を拒めないから、彼女は僕が止まるのを待つしかない。

 相手が止まるのを、相手に止めてもらうのを、待つしかないのだろう。


「なんで、僕だけ…?」

「あなたには一目置いている、と言ったでしょう」
「それは、誤解だよ」
「誤解じゃないわ。私がそう感じているのだから」


 彼女を否定する言葉を口にしながら、

 僕の手は、彼女へと伸びていく。


 止まれ、といくら心で念じても。

 霧切さんに、触れたい。
 霧切さんを、いじめたい。
 霧切さんで、――

 そんな欲求を抑えることができない。




「どうして、僕…?」

 一目置かれている、そのことには喜びを禁じえない。
 けれど。

「…しつこいわ、苗木君。何度聞けば、気が済むの?」

 手を出してしまう前に、それだけは知りたかった。


「…あなたには、一目置いている。そして、関係を壊したくない。それ以上の説明は、言葉では難しいわ」
「そ、んな…霧切さん、僕のこと誤解してるよ…」



 ピクリ、と彼女の眉が上がったことに、僕は気が付かなかった。



「僕なんて、ホントになんの取り柄も無くて…どこにでもいるような、平凡が服を着て歩いてるような、そんな奴なんだ…
 霧切さんが注目してくれるような、そんな人間じゃない。霧切さんの隣に相応しいような人間じゃない。
 本当ならこうして、霧切さんに手を上げることなんてまかり間違っても許されないような、」




「苗木君」




 その声は。

 怒鳴ったわけではない。
 張り上げたわけでもない。

 ただ、彼女の声は、僕の卑屈を掻き消して、


「――いい加減にしなさい。あなたが私に怒っていたように、それ以上は私も本気で怒るから」


 凛とした響きで、僕を叱る。


「いくらあなたでも、自分自身のことでも…これ以上私の目の前で、私の尊敬している人を侮辱することは許さないわ」



 それは、僕が聞きたかった、

 彼女の口から直に浴びせかけられる、拒絶の言葉に他ならなかった。



「私を傷つけるのはいい。けれど…その人を傷つけるようなことだけは、二度と言わないで」
「っ……」



 ぐらり、と、目の前が揺らいだ。

 組み敷いているのは、熱に浮かされ、足を挫いて、いつにもなく弱気になっているはずの少女だった。
 おまけに、襲われても拒みはしない、とまで言っている。

 時代が時代なら、据え膳だというのに。 



 そんなこと、言われたら。

 もう、手を出せなくなる。
 止まるしか、無くなってしまう。


 彼女へと向かって伸びていた手が、ぽとり、と意思を失って、力なくシーツに落ちる。


「…苗木君?」




 拒絶の言葉ではなく、全幅の信頼を以て。

 彼女は、僕の暴挙を留まらせたのだった。





―――――




「…ゴメン、なさい…」

 謝って許されるようなことじゃなかった。

「いいけど。謝るならむしろ、何度注意しても自分を蔑む癖を止めなかったことを謝りなさい」

 仰向けになった僕の腹の上で、霧切さんはしたり顔。





 霧切さんが護身術に長けている、というのは、どうやら本当のようだった。

『もういいのかしら?』

 いつかハンバーグを分けてきた時の、聞き分けのない弟を見守るお姉さんのような口ぶりで。
 少し眉尻を下げて、困ったように笑いながら。

 そんな彼女にもう手を出すことは出来ずに、僕は頷いた。

『気が済んだのね?』
『うん…』


『――そう。じゃあ、ここからは私の番よ、苗木君』


 ぐ、と、曲げた膝で腹を押し上げられる。

 そのまま巴投げみたいな形で、いとも容易く僕は横倒しにひっくり返されてしまった。

『ぐぇっ』


 横転した僕の上に、すかさず霧切さんが跨って、仕返しだとばかりにマウンドポジションを取る。

『あっ…』
『ふふっ…油断したわね』

 マウントポジション。
 子どもの喧嘩から総合格闘技までにおいて絶対有利とされる、いわゆる馬乗り状態。

 さっきまでの僕は、確かに彼女に跨っていたけれど、片腕を押さえつけていただけ。
 それとは比べ物にならないくらいの、本気の拘束。


 僕の上に跨った霧切さんは、

『ぐふっ…きっ、霧切さんッ!?』
『お返しよ、苗木君』

 子どもがいたずらをするような、そんな笑みを浮かべて。

『襲われても構わないとは言ったけれど…怖かったのは本当よ。少しだけ、仕返しさせてもらうから』








 そんなわけで、今がその数分後である。

 彼女が体重をかけてくる度に、柔らかな質感が腰のあたりに襲いかかってきて。
 目を閉じてじっとしているだけでも、彼女の柔らかさや匂いは問答無用で僕を刺激して。
 少し手を伸ばせば、彼女のあんな所やこんな所に、僕の手は届いてしまうわけで。


 もう、理性がヤバい。


 そもそもが限界だったんだ。
 彼女を押し倒してしまうくらいに。

 それなのに、この仕打ちはちょっとあんまりだ。


 体重をかけようと、霧切さんが僕の上でもぞもぞと動く。

 その位置は、と、口に出そうとしても、既に遅い。


「…なるほど。いやらしい気持ちになるんだったわね」

「謝るから…なんでも謝るから…、お願いしますそこをどいてください」

「それはダメね。これは仕返しなんだから」


 興味深そうにほほ笑まれても、
 下半身に血が集まっていくことは止められない。

 ぐいぐいと押し付けられて、刺激に従順に反応して、硬くなって。

 ああ、もう、僕の馬鹿。
 節操が無いというか、さっきの今でこんな…

 霧切さんも霧切さんだ。


「もう、注意したばっかりなのに…そういうことしてたらいつかホントに襲われるよ」
「あら、私こそ言ったばかりでしょう。あなたが私にそういう感情を抱くのは、構わないと」


 誰だ、彼女が僕を好きだなんて言った奴は。

 やっぱり、大神さんの言った通りだ。
 こんなの、絶対からかっているだけじゃないか。

 僕が恥ずかしがって体を捩るのを上から押さえつけて、その反応を見て、ニヤニヤと底意地悪く笑っている。

 きっと、僕が男としてカウントされていないんだ。
 だからこんな、セクハラじみたからかい方をしてくるんだ。
 そうに決まってる。


 そうに決まってる、けど。


 例え彼女がどれほど僕を弄んだとしても。

 僕自身が彼女にやったことの、落とし前は付けなければならない。



「…ゴメンなさい」

「…さっきから謝ってばかりいるけれど」
「うん…それくらい酷いことをしたって、自覚はあるから」

 女の子を、押し倒した。
 あまつさえ、止まらなければ、その貞淑をさえ奪おうとしたんだ。


 その罪は、重い。

 許されようとも思わないけれど。
 償う覚悟はある。


「なんでもするよ、ホントに」

「…あなた、本当に分かって言っているの?」


 また、うっ、となる。
 例のジト目で、霧切さんが僕を見ていたからだ。


「私は構わないと言ったのよ。だからあなたに罪はない、償う必要もない。何度もそう言ってるでしょう」
「でも…」
「…そこまで後悔されると、そっちの方が傷つくわ」


 はぁ、と、霧切さんはため息を吐いて、額に手をやり、


 そのまま前のめりに、僕の上体にもたれかかってきた。


「…霧切さん?」
「…疲れた」


 とさ、と、彼女が僕の上で横になる。
 彼女の重み…といっても、全然軽いんだけど、それが体中に広がる。

 普段なら慌てて抱き起こすところだけど、

 なぜか今は、そんな気は起きなかった。


「…ただでさえ熱もあったのに…結構騒いだからね」
「誰のせいだと思ってるの?まったく…」
「えぇ…僕だけのせいじゃないのに」


 あれだけたくさんのことが起きて、多少なりとも免疫ができたのだろうか。
 それとも僕の方も、気付かないうちに疲れてしまっていたのだろうか。

 ただ、体中に広がる霧切さんの体温が、やけに温かくて。

 いやらしい気持ちとか、そういうのじゃなくて、
 抱きしめたい衝動に駆られた。


「ん…少し、眠いかも」


 たぶん、尋ねれば。

 また彼女は、『構わない』と言うんだろう。

 けれど、今は止めておこう。



 このままが、きっと一番いい。



 どちらから、急に歩み寄る必要はないんだ。
 好きだとか、そういうの。

 僕らには、まだ早い。










 カララ、


「苗木ー、タクシー着いた、け…ど……、…」



「待って違うんだ朝日奈さんこれは僕の意思じゃなくてホラ霧切さんが上に乗ってるから分かるよねちょっとどこ行くの待って」

「いや、あの、ごめ、ゴメンっ空気読め、読めなくて、あの……、あの、タクシー…メールで連絡するから、後で見てっ!!」



「ま……、待ってーーーー!!!!」



 上に霧切さんが寝ているせいで、体を起こすことも出来ず。

 羞恥とパニックで頬を染めた朝日奈さんが扉の向こうに消えていくのを、僕は眺めていることしかできないのだった。




 ちなみに霧切さんを病院へ運んだのは、呼んでも揺すっても起きなかった彼女が、
 自分で目を覚ますまで待った、それから三十分後のことである。





―――――





 その日。

 初めて私は、苗木君を怖いと思った。





 彼の胸板の上で目を覚ませば、苗木君は泣きそうに笑っていた。
 どうやら、私が眠っている間に朝日奈さんが来て、この姿を見られてしまったらしい。

 私としては、別に構わなかった。

 彼女がどう捉えたとしても、それを口に出せば噂となる。
 噂は噂。真実ではない。
 直接見たのは朝日奈さんだけなのだから、どうとでも誤魔化せる。

 彼の方こそ、そんなことを気にするなら最初から、あんなことしなければいいのに。




 本当に、襲われるんだと思った。


 腕を押さえつけられ、彼の目に灯る炎は、私がそれまで見たこともない熱を宿していた。
 探偵として事件に携わっているから、当然そういう事件は見てきたし、知識だってある。
 けれど、実際自分がそんな目に携わるとは思っていなかった。

 すなわち、強姦。
 それを、彼は私にしようとしていた。


 何が怖かったかって、拒めないことだ。

 私が拒めば、その行為は犯罪となってしまう。
 私が拒めば、彼を犯罪者にしてしまうのだ。

 それだけは、させてはいけない。
 私のせいで、彼に重荷を背負わせるなんて。

 考えただけで、彼に怒られた時の数倍の恐怖を感じた。




 同意なら、犯罪ではない。

 彼を拒まなければ、彼は犯罪者にならずに済む。



『――嫌ではないわ』


 どうにか、声は震えないでくれた。

 そして同時に、自分を恨んだ。


 彼に注意された、数々の言動。
 男の子の前で生理だと言ったり、服に手を突っ込んだり。

 確かに、はしたないな、とは思っていたけれど。

 苗木君なら許してくれると、心のどこかで思っていた。


 馬鹿だ、と思う。
 そんなの、彼に甘えているだけだ。

 彼だって男の子なんだ。
 反応しない方がおかしかったんだ。



 いや、まあ、その。

 そういう露骨なアピールをするたびに、恥ずかしがる彼の顔がたまらなくて、何度も繰り返したというのもあるけど。



 それでも、まさかここまで鬱屈とストレスをため込んでいるとは、露とも知らなかった。
 知ろうとしなかった。
 あげく、彼の忠告さえ無駄にして。

 だから、これは罰なんだとも考えた。
 彼がそんな私に罰を与えるのは、正当な権利だ。

 これから服を剥かれ、嬲られ、どこまで辱められようとも。

 決して、拒まない。
 嫌とは言わない。
 そんな権利など元からなかったけれど、その瞬間に、そんなルールを自分に課した。



 覚悟を決めて。

 それでも、彼になら、と思った。



 ただ、その間際に。



『霧切さん、僕のこと誤解してるよ…』


 また、そんなことが聞こえたから。
 それだけは正しておこうと、諦めて白くなりかけていた頭の隅で、思ったのだ。



『――いい加減にしなさい』


 彼が自分を蔑むのは、主に他人を称賛するために引き合いに出す時か、もしくは罪悪感に苛まれた時だ。

 今回は確実に、後者。


 それは、違う。

 あなたは悪くない。

 悪いというのなら、あなたに手を出させてしまった私にこそ、責任と言うものがあるだろう。
 あなたはなんでも背負いすぎる。

 それだけは、正しておきたかった。



 それだけ、なのに。


『…ゴメン、なさい…』


 意思を失くしたかのように、彼の右腕がシーツに落ちて。

 泣きそうな顔で、彼に謝られてしまったのだ。



 ホッとしたのが半分。
 もう半分は…ここに書くのは憚られる。

 別に、残念だなんて思ってない。全然。これっぽっちも。

 せっかく覚悟を決めたのに、と悔しがってもいないし、

 だから仕返しに彼にマウントを決めたのも、決してその八つ当たりなんかじゃない。


 それでもいつも通りに、彼をからかっているうちに、だんだんと心臓が落ち着いてきて。
 不思議なもので、緊張から解放されると、一気に眠たくなってしまって。

 もう、苗木君は私に手を出さないだろう。
 誰よりも信頼できる、彼の腕の中に、私は自分の体を預けたのだった。










 さて、話は病院に搬送されてからに飛ぶ。


「生理というのもありますが…今回は、それに過労と精神的ストレスが加わったのが原因ですね」
「ストレス、ですか」
「心当たりは?」
「…まあ、なくもないです」

 隣にいた看護婦…今は看護師だったか。
 その女性が意味ありげに笑うのを疎ましく思いながら、診察を受けて。

 栄養剤だかなんだか良く分からない点滴を貰って、一時間もせずに解放された。


「……、あ…どうだった?」

 そりゃあまあ、あの看護師にしても、ロビーでこんな心配そうな顔をして私を待っている男の子がいれば。

 誤解の一つや二つ、しても仕方がないとは思ったけれど。


「疲れてただけよ。もう帰っていいと言われたわ」
「そっか。……よかった」
「言ったでしょう、心配しすぎなのよ。だいたい苗木君は、」


 と、そこで言葉を切っておく。
 今回ばかりはさすがに、彼一人に責任は押し付けられない。

 タクシーで私を運ぶ隣で、あんな後悔と自責に苛まれた表情を見せて。
 こちら側から責めることは、酷だ。
 彼は、既に自分を責めすぎている。


「…流石に今回は、からかいすぎたかしら」
「え?」
「…こっちの話よ」


 謝れば、全てを正直に話せば、楽になるだろう。

 からかいすぎて、ごめんなさい。
 今回の件は、全部私の自業自得です。

 けれど、私が謝ってしまえば、その分だけ余計に、彼はまた自分を責める。
 それなら、私は謝ってはいけない。



 その代わりに。

「…なんでも、してくれるのよね」

 それで、彼の罪の意識が軽くなるのなら。

「…うん。少しくらいの無茶でも、できるだけ、最善を尽くすから」





「料理を」

「…」

「いつか話していた…あなたの手料理を、食べさせて」






「……最善を、尽くすよ」




ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。