「…だァから、悪かったってば」
江ノ島さんが素直に謝るのも珍しいな、とも思ったけど。
さすがにこの霧切さんの表情を前にしては、僕でも謝罪を口走るだろう。
完全な、無表情。
それに、ここまで威圧感が宿るものだろうか。
「す、すまなかった霧切君…! 僕は、こんなことしたくはなかったんだが…」
「はぁ!? 何一人助かろうとしてんのよ、あんたが発案者じゃない!」
「な、何を言うんだ江ノ島君! だいたい、君たちが勉強会を休めというから僕は――」
「――どちらでもいいのよ、そんなこと」
その場にいた全員が戦慄するような、抑揚のない機械のような言葉。
「誰が主犯で、誰が計画者かなんて…私たちにとっては、どうでもいいの」
「主犯とか計画とか、そんな事件みたいな、」
「何?」
「……」
ぎろり、と、見開かれた目に睨まれて、江ノ島さんも押し黙る。
「…とにかく、人をこそこそとストーカーのように付け回して…」
それは、霧切さんが言えたことじゃないんじゃ、と、
かつて同じようなことをされた僕は思ったりするのだが、
今の彼女は、どこに触れても逆鱗。
さわらぬ霧切さんに、祟りなし。
彼らのお陰で仲直りは出来たから、僕としては四人に感謝しているんだけど。
霧切さんは、覗き見られたことへの怒りの方が大きいようだ。
今も、四人全員を地べたに座らせて事情聴取である。
「申し開きがあるなら、今のうちに聞かせてもらおうかしら?」
「……しょうがないじゃないですか」
と、黙っていた舞園さんが口を開く。
「だって二人とも、いつまで経っても進展しないでウジウジウジウジ…」
「確かに、あのネガティブさは見ていて腹立ったよねー」
と、江ノ島さんも同調する。
「相談を受けたこっちとしては、上手くいくかどうか心配だったわけよ」
「うむ、計画を申し出た人間としては、それを最後まで見届ける責任というものがだな」
「おう、そうだ。苗木おめぇ、俺に男らしさがどうとか言ってたけどよ」
今度は大和田君と石丸君まで。
「男ならキスするってなっても、自分でリードするくらいの男気は見せろってんだよ」
その話題が出たところで、僕は恥ずかしくて思わず目をそむけた。
やっぱり、キス、だったんだ。
あの時、霧切さんが僕にしようとしたのは。
まつ毛にゴミが付いていた、とか、そういうギャグみたいな勘違いじゃないんだ。
『嫌なら拒みなさい』と言われた時。
僕は、体が固まってしまって。
拒む、なんて発想は最初からなかったけれど。
じゃあどうすればいいんだろう。
彼女に任せてしまっていいのか。
僕の方が引っ張らなければいけないのか。
けれど、そうやって思い出し恥じるのは僕だけのようで、
「――弁明は以上かしら?」
「「「「……」」」」
次の瞬間、氷の女王が凍えるような声を吐いた。
好き好きにしゃべっていた各々の口が、一斉に閉じたまま凍りつく。
霧切さんが、本気で怒っている。
彼女のいわゆる怒髪天を見たことがある僕は、耐性が付いているけれど。
やっぱり、それでも怖い。
いつかのような、感情を爆発させる寸前の激昂じゃない。
感情を極限まで排除した、絶対零度の理詰めの憤懣。
たぶん、探偵としての彼女の姿なんだろう。
「……あなたたちの、人としての品位を疑うわ」
「ご、ごめんなさい…」
「悪かったってば…」
「すまなかった…!」
「…わりぃ」
「ね、ホラ、霧切さん…みんなも、こうして謝ってくれてるし」
と、特に怒っているわけでもない僕は、彼らの弁護もしてみるが、
「勘違いしないで、謝罪を求めているわけじゃないの。言葉だけなら、なんとでも言えるでしょう」
一度もこちらの方に目をやらず、切り捨てられる。
まったく、容赦ない。
これが『超高校級の探偵』の胆力である。
「……でも、そうね。いつまでも怒っているのも大人げないし」
と、他のみんなを座らせている横で、霧切さんは椅子の上、脚を組みかえる。
「苗木君。どうやって償わせるか、あなたが考えてちょうだい」
「えっ、ぼ、僕!?」
と、予想外の無茶ぶりを受ける。
ホント、僕は別に怒っているわけじゃないんだけどな。
うん、怒っているわけじゃないけど。
「…そうだなぁ」
霧切さんとキス出来なかったのも、やっぱりみんなのせいなわけで。
「うん、決めた」
「あら、早いのね。やっぱり、あなたも相当怒ってるのかしら?」
「そういうわけじゃないけど、さ。ちょっとやりたいことがあったから」
そう伝えて、僕は四人に振り返った。
「――みんなで、海に行こうよ」
今日何度目か、時間が止まった。
僕を見上げる、呆れたような四人分の顔。
いや、僕の隣にいる彼女の分も含めて、五人分か。
「……あなた、私の話を聞いてたかしら? 償ってもらうのに、どうして海に行くの?」
椅子に座ったままの彼女が、ジト目でこちらを見上げてくる。
怒りの矛先が僕にまで向く前に、弁明を。
「みんなで行くんだ。クラスの全員でさ。で、四人にはその準備や計画をしてもらうんだよ」
もうすぐ、夏休みだ。
考えてみれば、クラスで何かイベントをやることは、希望ヶ峰学園ではほとんどない。
運動会や学園祭の真似事のようなことはあったけど、せいぜい授業の一環だ。
ただでさえ、多忙な人材が集う学園。
全員分のスケジュールを合わせるのは、相当難しいことだと思う。
でも、学校って、そういうところじゃないか。
みんなで遊んで、みんなで思い出を残すんだ。
希望ヶ峰学園に入ってよかった、って、卒業してから思い出せるように。
みんなが僕に、そうして勉強会を開いてくれたみたいに。
霧切さんだけにじゃない。
みんなにも、お返しがしたかった。
もちろん、それが僕一人で出来ることじゃないのはわかっている。
手伝ってくれる、人手が必要だ。
だから、この提案。
「……まったく、あなたらしいわね」
呆れかえったような、霧切さんの声。
でも、もう冷たくはない。
「まあ、苗木君がそれでいいと言うのなら…四人には企画・立案をお願いしようかしら」
彼女のその一言を待ち望んでいたかのように、どっ、と空気の緊張が緩む。
「いやぁ、『超高校級の幸運』様様だ!」
「言っとくけど江ノ島さん、移動費とかバーベキュー代も四人持ちだからね」
「……あんた、割としたたかだよね」
「仕方ないですよ、こっちが全面的に悪いんだから。これで手打ちにしてくれるだけ、ありがたいです」
「いいじゃねえか、海! 白い砂浜、青い空!」
「どっちが速く泳げるか勝負だな、兄弟!」
「盛り上がるのは自由だけど…もう夏休みまで、日がないわ。帰ったら早速、全員の日程を聞いて回ってね」
――――――――――
そうして、私たちは帰路についた。
図書館を出るころには、夕焼けが見事なグラデーションを空に引いていて。
六人で、どんなことがしたい、と、海への思いを馳せながら歩いて。
寮に着くころには、既に日が沈んでしまっていた。
「…ただいま、マコ」
私たちの姿を見ると、マコが勢いよく駆け寄ってくる。
苗木君が受け止めるようにしゃがみ込むと、その腕の中に飛び込んだ。
「うわ、ちょ、くすぐったいって、マコ!」
「ホント、苗木と霧切にはよく懐いてるよね」
「苗木君、僕たちは先に戻っているぞ。みんなの予定を聞いて回るからな」
「あ、うん」
「霧切さんも、行きましょう?」
チラ、と、マコの小屋を覗き見た。
水飲み皿が、もう空になってしまっている。
「マコに水をあげたら、私も戻るわ。今日は暑かったし、喉も乾いているみたいだから」
「そうですか?じゃ、私たちも戻りますね」
楽しそうにじゃれあう二人…訂正、一匹と一人をよそ目に、私は皿を抱えた。
みんなで、海へ。
ホント、苗木君らしい提案だ。
平和に、そして、みんなが納得できる答えを導いた。
けれど、やっぱり。
個人的には、それだけじゃ気持ちがおさまらないわけで。
本当に、勇気を出したんだ。
あの時を逃したら次はいつ、というくらいのタイミングだった。
彼らさえ、現れなければ。
メリ、と、プラスチックの皿が音を立てた。
いつの間にか、力を入れて握りしめていたらしい。
いけない。
物に当たるのはダメだ。
ダメ、だけど…。
はぁあ、と、深いため息が漏れ出た。
きっと今もう一度彼に迫っても、今度は引かれてしまうだろう。
苗木君が自分を意気地無しと評したのは言いすぎだけれど、思い当たる節がないわけじゃない。
そして、私自身も。
もう一度、迫る勇気なんてない。
あの場で雰囲気に押し流されて、ようやく一歩踏みきったのに。
「あ、お帰り」
「ええ…」
水入りの皿を持って帰ると、既にマコは自分の小屋に戻っていた。
ゴロンと横になって、眠そうに目をパチパチさせている。
「…たぶん、僕たちを待って、起きていてくれたんじゃないかな」
「…そう。マコにも、心配かけてしまったわね」
最近目元が、飼い主の誰かさんに似てきた犬を、わしわしと撫でてやる。
気持ち良さそうに目を細めて、小さくウォン、と吠えた。
「んー…楽しみだな、海」
「…そうね」
少しだけ、また仄暗い気持ちが戻ってくる。
「あれ、霧切さん、あまり楽しみじゃなかった?」
「そんなことないわ。あ、ただ…水着は持っていなかったわね」
「……また何か、思い悩んでるんでしょ」
「また、という言い方…引っかかるわね」
「そう言えば」
と、思い出したように呟いて、苗木君が振り向く。
「結局最初は、どうして霧切さん、機嫌が悪かったの?」
ギクリ。
「…もう、その話は良いじゃない」
「ううん、ちゃんと聞いておかないと…また、霧切さんに嫌な思いさせちゃうからさ」
ホント、気が利く男の子だ。
余計なところまで。
まっすぐな瞳が、こちらを見つめてくる。
そんな目をされても…
「…言えない、わ」
「…やっぱり、僕が嫌な思いをさせたんだね」
「いえ、そうじゃなくて…あなたが悪いわけじゃなくて」
言えるわけない。
嫉妬してました、だなんて。
本当に、面倒な女だと思われてしまう。
「そう言うってことは、やっぱり僕が何かしたんだね」
「……」
「ねえ、霧切さん」
ちょ、近、
「お願いだよ。言いたいことは言うって、お互いに約束したでしょ」
「っ…自分はちっとも守らない癖に、よく言うわね…」
「うん、霧切さんとは僕とは違うから、ちゃんと約束を守ってくれるよね?」
ほら、また。
また、この距離だ。
手を伸ばせば、触れる距離。
一歩踏み出せば、届く距離。
何のためらいもなく、彼は今、踏み込んできた。
少しだけ、悔しく思う。
「…あなたは、少しも意に介していないのね」
「え?」
図書館で、私がキスしようとしたことを。
意識の片隅にでもあれば、この距離まで迫ることはないだろう。
また、今の私みたいに、意識してしまうんだから。
「…どうせ私は、江ノ島さんのようにスタイルが良いわけじゃないわ」
もうどうにでもなれ、と、どこかで思ってしまったんだろう。
口に出して、しまった、と思ってからも。
ずっとため込んでいた嫉妬が、汚く零れる。
「朝日奈さんみたいに明るく元気なわけじゃない。舞園さんみたいに清楚な可愛らしさもない」
止めればいいのに。
せっかく昼間は、良い雰囲気になっていたのに。
これで、台無しだ。
「…苗木君も、彼女たちみたいな女の子の方が魅力的だと思うでしょう」
―――――
そう言って、彼女が拗ねるように顔を背けたのが、子どもの仕草のようで。
いつも大人っぽい霧切さんがそんなことをしたのだと思うと、思わず吹き出してしまった。
「なっ…」
「や、ゴメン…霧切さん、可愛くてさ」
僕がそうフォローすると、暗がりでもわかるくらいに、彼女が真っ赤になる。
「馬鹿にして…意地悪ね、あなたは」
そう言って、本当にそっぽを向いてしまった。
「いえ、本当に馬鹿みたい…昼間だって、一人で勝手に舞い上がって…」
そんなことないよ、と、言葉でフォローしそうになって、思い留まる。
言葉では、昼間に散々語り合った。
今はそれよりも、もっと効果的な行動があるはずだ。
大和田君にも、言われたことだし。
男なら、自分がリードして上げるくらいの気概を見せろ、と。
白い肌。銀の髪。
夜が良く似合う人だ、月の光に照らされて。
いきなりしたら、さすがに怒るかな。
怒られても、いいか。
「ねえ、霧切さん」
「……何よ」
「ちょっと、こっち向いて」
「……また、馬鹿にするんでしょう」
「あのさ。僕にとって、すごく都合のいい解釈をするから…だから、えっと」
「……」
「嫌だったら、拒んでね。あ、あと目も閉じてくれると嬉しいかな」
「……優しくしないと、唇を噛みちぎるわよ」
真っ赤になった彼女に、そう脅されて。
瞳の向こうの僕も、真っ赤になったまま、笑う。
そうして、僕たち二人は。
7cmなんて、とても小さな距離だということを、もう一度確かめあった。
最終更新:2011年08月20日 10:54