大人ナエギリ花札編 五枚目

五枚目:菖蒲に八橋

「お、お湯加減…どうかな」
 ぎこちない声がガラスの奥から響く。
「最高よ…極楽だわ…」
 対照的に、風呂場に響いた私の声は、自分でも信じられないくらいに蕩けていた。

 探偵業は自由なものというのが一般的な認識らしいが、少なくとも私にとって、それは間違いだ。
 土日でも平気で依頼が舞い込んでくるし、それを売りにしている手前、勝手に休むわけにもいかない。
 そういう日は、苗木君が私の家の家事を任されてくれる。
 数日分の御飯を作り置いてくれたり、こんな風にお風呂を掃除して沸かしてくれたり。
 何もお返しが出来ないのが心苦しい。

「菖蒲湯、ね…初めて入ったけれど、気持ちいい…」
「そりゃ、よかった…です」
「けれど、少しだけイメージと違ったかも。もっと、こう…花ばかり浮いているのかと」
「あ、それはアヤメと間違えてるんじゃないかな。僕も最初わからなかったし」
「いずれがアヤメかカキツバタ、ね…勉強になるわ」
 今日は少し凝ってみた、と曰く苗木君。
 湯船の中に浮かぶネットの中には、濃緑の長い葉が詰められている。
 血行促進、保湿効果、さらには香りによるアロマテラピーの効果もあるらしい。
 疲れを取るには持ってこいのものだ。

「それにしても…私が先にお湯を頂いてよかったのかしら」
「いいも何も、霧切さんのために入れたんだから。…っていうか、僕は帰るつもりだったんだけど…」
 リビングから届く声は、相変わらずぎこちない。
「ここまでしてもらってお礼も無しに帰しては、霧切の…いいえ、女としての沽券に関わるわ」
「で、でもさ…」
「残念ながら返せるものはお酒くらいしかないし…せめてお風呂くらい入っていきなさい」
 …とは言いつつも。
 苗木君がここまで渋るにはワケがある。

 すなわち、私の家の造りは、リビングから風呂場の脱衣所が丸見えなのだ。
 仕切りもあるが、曇りガラス。私が立ち上がれば、体のラインは見えてしまうだろう。
 もっとも苗木君はこちらに背を向けているので、今は意味がないけれど。

「ん…温泉にでも入りに来た気分…お酒が欲しくなるわね」
「霧切さん、そればっかりじゃないか…」
「一度お風呂で飲んでみたかったのよ」
「ダメだよ。入浴中の飲酒は危険なんだから…」
「あら、口答えするの?」

 ザバ、と、浴槽から体をあげて、とりあえず手拭いで前を隠す。
 ガラスの奥の苗木君の体が、面白いように強張っている。

「誰に口を聞いているのかしら、苗木君? つべこべ言わずに、一升瓶持って来なさい」
「せ、せめて徳利にしときなよ…じゃなくて!」
「さもなくば…」

 キィ、と軋んだ音を立て、風呂場の硝子戸から顔を覗かせてみる。

「私はこのまま取りに行くわよ。もちろん裸のままで…それでもいいのね?」
「わ、わかった! わかったから…」

 浴槽まで徳利を届けてくれた苗木君は、出来るだけこちらを見ないようにと、真っ赤な顔を必死に反らしていた。
 どうやらまだまだ私の体も、捨てたものじゃないらしい。
 さて、いつも世話ばかりかけている苗木君に、少しはサービス出来たかしら。




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