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 気配を殺し、音を立てぬように。
 視線の先に彼の姿を捉えたまま、探偵の所作をもって歩を進めていく。
 彼は相変わらずソファに背を預けたまま、小さく肩を揺らしながら寝息を立てている。
 目を覚ます気配がないことを確かめながら、私は慎重に彼の正面へと回り込む。
 そして寒夜の外気で冷え切った指先で、そっと彼の首筋に触れると――

「うわぁぁっ!?」

 悲鳴をあげ、大袈裟なくらいにソファから飛び上がる。

 この手に消えない傷が刻まれたあの日以来、私の手から温感は失われしまった。
 だから彼を襲った感触がいかなるものなのか、私には正確に知ることはできない。
 それでも彼の反応が頭の中に思い描いたのと寸分違わないものだったことに、内心で思わず笑みがこぼれる。

「なんだ、響子さんか……脅かさないでよ」

 振り返る彼の表情は、驚きと困惑の混ざった呆れ顔。
 これまた予想通りの反応で、私はとうとう小さく笑い声を漏らしてしまう。

「ただいま。こんなところで寝ていると風邪をひくわよ、誠君」
「……おかえり。心臓に悪いよ、ほんと……」
「それは悪かったわね。ごめんなさい」
「笑いながら言われてもなぁ……まったく、もう……」

 仕事の性格上、私の帰宅時間が深夜になるのはそう珍しいことではない。
 彼と一つ屋根の下で暮らすようになってからも、それは同様だ。
 だから帰りが遅くなりそうな時には、私は彼に『先に寝てくれて構わない』と予め連絡を入れることにしている。
 しかし彼の律儀な性分は諾々とそれに従うことを許さないようで、私の帰宅が何時になろうと、毎度寝ずに待っていてくれるのだ。

 だから、今日に限って彼がうたた寝に陥ってしまったとしても、それは責められるようなことではない。
 起きていてくれるのは、あくまで彼の善意によるものなのだから。
 彼が自分を待たず眠ってしまったことに対して幾ばくかの憤慨と寂しさを覚えたりするなど、筋が通らないこと甚だしい。
 それは分かっているのだが――喩えるなら、親に構って欲しくて悪戯をする子供の心境が近いのかもしれない。
 私は幼稚で尚且つ一方的な意趣返しを仕掛けずにはいられなかったのだ。
 彼も私も、とうに二十歳を越えたいい大人だというのに。

「……シャワー、浴びてくるわ」

 自分の行動を冷静に振り返るうち、次第に恥ずかしさがこみ上げてきてしまう。
 それを誤魔化すように私がその場を離れようとした、その時。

「ちょっと待ってよ」

 右手が強く掴まれる。
 顔をあげると、そこにあるのはじっとこちらを見返す彼の瞳。

「誠君……?」
「……仕返しだよ」

 それだけ言うと、彼はグイと私の身体を引き寄せる。
 常にはない強引さに戸惑っているうちに彼の手は私の手袋にかかり、そして慣れた手つきで剥ぎ取ってしまう。

「ちょ、ちょっと……」

 抗議の声をあげようとするも、彼はそれを無視して更に私の手を引く。
 そして傷跡を露にされた右手は――彼の手に導かれるまま、頬へと重ねられる。
 右手から伝わる彼の感触が、そして彼の突飛な行動が、私をおおいに狼狽えさせる。

「……何なのかしら、これは」

 努めて冷静に、彼に問い掛ける――が、

「仕返し。さっき言った通りだよ」
「仕返しにしたって……意味不明だわ」
「でも、驚いたでしょ?」
「……当たり前よ」

 してやられた形、ということになるのだろうか。
 子供のような真似に子供のような真似で返されてしまっては、如何ともしがたい。

「響子さん、顔赤いよ?」
「っ……! あなたが、いきなり訳のわからないことをするから……!」

 内心溜息をつきながら――そんなリアクションを返せる立場でもないのだが――私は負けを認める。


「……それで、私はいつまでこうしていればいいの?」
「そうだな……響子さんの手が暖かくなるまで、かな?」
「あなたも知っているでしょう? 私の手はもう、温度なんて……」
「いや、そういう話じゃないよ。『仕返し』だからね」
「ますます意味不明よ、あなた……」

 言葉を交わしている間に、残る左手も彼に掴まれてしまう。
 彼は捕らえた私の手に口を寄せると手袋の指先を軽く噛み、そのままするすると引き抜いてゆく。
 丸裸にされてしまった私の左手に彼に逆らう力は無く、右手と同様、なされるがまま彼の頬に添えられる。

 私の右手は彼の左頬に。
 左手は彼の右頬に。
 そして正面では、彼が少しだけはにかみながらも私の瞳を真っ直ぐ覗き込んでいる。
 きっと私の顔は先刻以上に赤くなっていることだろう。
 普段は少し頼りないくらいで、もっぱら私に振り回されている彼なのに。
 時折こんな風にして、逆に私の方が翻弄させられてしまうのだ。

 だけれど――狼狽こそしているものの。
 彼の手を払って逃れようなどという気は微塵も起こらない。

 ――暖かい。
 もう私の掌は、熱を感じることができない。
 そのはずなのに。

 この手に傷を負ったばかりの頃は、手の中にこれほど近く他者の存在を感じる日が来ることなど、想像もしなかった。
 それに、こうして子供のようなじゃれ合いを演じることも。
 ただただ中立の探偵たらんとすることを追い求めていた、あの頃には。


 ああ、そうだ。
 またも他愛のない思いつきが私の頭をよぎる。
 仕返しの仕返し、とでも言ったところか。


「あの……響子さん?」

 私が黙り込んでしまったことを気にしてか、彼が声をかける。
 丁度良かった。
 それを合図代わりに私はすっと彼に身を寄せ、そしてしなだれかかる。

「え……ちょ、ちょっと!?」

 形成逆転。
 慌てる彼の様子に満足して、私は微笑む。
 我ながら――本当に子供じみている。
 こんな真似をできるのは、彼が傷に覆われたこの手を見せても構わない人だからこそなのだろう。
 彼に出会えて、そして共に生きるようになって、私は弱くなったのか。
 それとも、成長したのだろうか。

「暖めるの……手だけじゃ、足りないの」
「……はい?」


 ――いや、どちらでも構わない。
 何であろうと私はこの温もりを、愛おしさを、手離す気など決してないのだから。


「わかるわよね、誠君?」
「え、えぇっと……?」



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