秋の訪れを最も感じるのは、気温の変化などよりも、路傍の並木が鮮やかな色を彩るその時だ。
山吹のイチョウに紅の楓、目にも綺麗な落葉が風に乗って舞う、舞う。
花より団子の私でも、この程度の情緒は流石に理解できる。
ひょい、とかがんで、乾いた紅葉を一枚と、土に埋もれた銀杏を数個、ポケットへ摘んだ。
別に食べるワケじゃない。本当だ。
ただ、彼がこういうのを好む人だから。
「……ただいま」
「お帰り。寒かった?」
玄関を開けて、何のてらいもなく、エプロン姿の彼が奥から姿を現す。
この「ただいま」が、密かに散歩の一番の楽しみだったりする。
ここは苗木君の家。
私の事務所から遠くも近くもないけれど、昼夜問わず遊びに来るせいで、最近は私用の歯ブラシまで置かれている。
事前に連絡も入れずに突撃するのは、彼に悪い虫が付かないように予防線を張るため、という密かな理由があったりなかったり。
ただでさえ人を疑うことを知らないようなお人好しなんだから。
…閑話休題。
そう、私の家でもないのに、この扉を開けば、苗木君は迎えてくれる。
「いらっしゃい」ではなく、「おかえり」と。
いつからそうなったかは覚えていないけれど、気付いたのは割と最近だ。
まるで、それこそ此処が私の帰るべき場所であるかのように。
悪い気は、しない。全然。
「……どうしたの?」
と、怪訝そうに顔を覗かれる。
いけない。頬が緩んでいた。
私は穏やかに微笑んでいるつもりなのだが、私の無意識の笑みというものは、得てして意地悪いものに映ってしまうらしい。
「…別に。少し寒くて、頬が」
「ホント?」
と、苗木君は躊躇なく、両手を私の頬に伸ばした。
そのまま掌が両手を包み、寒さでかじかんだ心臓が、一気に動き出す。
ああ、もう、不意打ちだ。
ずっと一緒に連れ添っているはずなのに、未だに彼のこういうところには慣れることが出来ない。
「わ、冷たいや…もうすっかり秋口だね」
ほわ、と、耳まで覆う温もり。
先程まで料理をしていたのだろう、甘く香ばしい匂いのおまけ付き。
ああ、いけない、緩む、緩む。
「……苗木君、恥ずかしいわ」
「え? あ、ああ、ゴメン…」
正直に言えば、少しの照れ笑いとともに、素直にパッと手を離す。
手が触れていたのは約五秒。
温もりが一緒に離れてしまったのは心寂しいけど、贅沢はたまに、少しだけ味わうからこそ格別なのだ。
コートを掛けて、電気ストーブの前に座ると、自然と体が伸びをする。
霧切さんって猫みたいだよね、と言われたのは、結構昔の話だ。そうだろうか。
暖気に意識がとろけて、眠気に変わり始めたところで、チン、と小気味よい音が鳴る。
オーブンを兼ねた電子レンジから、苗木君が幾つもの容器を取り出した。
湯呑みに蓋が付いたような陶器、この季節でそれをオーブンに入れていたのなら、思い至るのは一つ。
「もしかして、茶碗蒸しかしら?」
「正解。さすが」
「…さすが、ってどういう意味?」
「言葉通りの意味だね」
定番となった言葉の応酬。
最近、此方の追求に少しも怯んでくれなくなった彼の逞しさを思う。
寂しく感じる半面、彼がそれだけ私に慣れたのか、と思うと、また緩みそうになったり。
「一つ寄越しなさい、毒見してあげる。散歩をしてきたから、ちょうど小腹が」
「ダメだよ、まだ。これは冷やして完成なの。食べるのは夕飯」
正面から正論でたしなめられると、食い気どころかぐうの音も出ない。
目の前に美味しそうなソレをぶら下げておいて、お預けだなんて。
犬猿雉ならストライキものである。言うなら、私は猫だそうだけれど。
不貞腐れた素振りで食卓に顔を乗せ、こつこつと陶器を指で叩いてアピールしてみる。
ふ、と、小突いたせいで一瞬開いた陶器の蓋から、嗅ぎ慣れた匂いがこぼれた。
少し癖のある、けれども香ばしい匂い。
「……」
もしや、と思い、苗木君が洗い物をしているのを見計らって、こっそり蓋を開けてみる。
滑らかな浅黄色に浮かぶ、栗色の実。
それは、私が先程摘んで来たのと同じ、
「……貴方、商店街前の通りに寄ったんじゃない?」
「え、何で分かるの?」
「どこかの誰かさんはお忘れのようだけど、これでも現職の探偵なのよ」
なんて、いつもの調子で言ってみせて、腕の中に伏せた顔を思いっきり緩ませる。
表には出さずに、そのささやかな幸せを噛みしめた。
「銀杏さ、霧切さんがそろそろ食べたいって言いだすんじゃないかって思って」
私が落葉を見て、彼のことを思うように。
彼は銀杏を見て、私のことを思ったのか。
二人で同じ場所で、相手のことを思いながら、銀杏の実を拾ったのだ。
それはとても些細な繋がりで、相思相愛にはまだ遠く、以心伝心とも違うけれど、それでも確かに繋がりだった。
ふ、と、彼の暖色のセーターに、赤に染まった楓の落葉を重ねてみる。
彼がそれだけ私に慣れたのか、と、先程は緩んでみせたけれど。
これほど小さな気付きに一喜一憂している私の方が、存外彼の色に染まっているのかもしれない。
私と彼、例えるならどちらが秋で、どちらが紅葉だろう。
願うなら、もちろん私が、彼を染める側でありたい。
これは独占欲だろうか、少し近い、ほの暗く粘っこい感情だ。
『私専用の苗木君』にしてしまいたい、そう思ってしまうのは。
と、洗い物を終えた苗木君が、此方を振り返る。
私が翳している楓の葉を見ると、ほっとするような笑みを浮かべた。
「わ、良い色の紅葉だね…拾ってきたの?」
「……ええ、喜ぶかな、と思って」
丸まらず、歪まず、染みもない、綺麗に赤に染まった紅葉を、はい、と手渡す。
くるくると指で回してみたり、蛍光灯に透かしてみたり。
子どものように無邪気な反応を見せる苗木君に、とても幸福な気持ちを抱く一方で、心苦しさも感じる。
私が『私専用の苗木君』だなんて物騒な事を考えているなんて、露とも疑っていない顔。
それもそうだ、だから私は彼に惹かれたんじゃないか。
疑うことしか知らなかった私が、疑うことを知らなかった彼に。
「……そんなもので喜んでくれるなんて、安上がりな人で助かるわ」
「こういうのは値段じゃないよ」
此方の皮肉に嫌な顔の一つも見せてくれれば、気は楽なのに。
こういうのは、得てして正面から責められる方が、罪悪感も和らぐのに。
天然だろう、それを許してくれない彼は、ホントに酷い人。
白無垢なのだ、彼は。
それを、汚れを知らないような男の子を、私の色に染めてしまいたいという醜い執着心と。
そんな無垢な男の子を、自分の欲のために汚してしまうことへの罪悪感と。
ふう、と、浅く溜息。
彼の側にいるとどうしても、自分の嫌な部分が露骨に出てくる。
光が近くなるに連れて、影が色濃くなるのと、ちょうど同じ具合だろう。
と、ふとソファの隣に、いつの間にか苗木君が座っているのに気付く。
手に持っているのは先程の紅葉と、以前私にくれたヘアピン。
……他人が身に着けていたモノを身に着ける、その意味を、どうも彼は分かっていない気がする。
知っていて、彼のヘアピンを外そうとしなかった私も、大概だけれど。
「…出来た。霧切さん、ちょっと」
「な、何、ちょ、……」
思惑に耽っていたせいで、反応が遅れた。こういう時の苗木君は、ちょっと強引だったりする。
髪を少しだけ弄って、苗木君は私を、リビングの姿見の前に立たせた。
映りこんだ私の銀髪を背景に、流れるようにして挿されている、一枚の楓。
紅葉の髪飾りだ。
「似合ってるよ。すごく綺麗」
言葉に反応して、紅葉に劣らず、鏡の中の私も頬を燃えあがらせた。
ああ、これは、やっぱり、アレだろうか。
私の方が、彼の色に染まっているんじゃないだろうか。それはそれは、鮮やかな紅に。
……『苗木君専用の霧切響子』。
なんだろう、そんな意味を込めたつもりはないのに、すごく淫靡に聞こえてしまうのは。
「……それでも、嫌ではないと思える辺り…私も、大概ね」
「あれ、気に入らなかった?」
「……、…ノーコメント」
最終更新:2012年10月06日 18:14