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 その一言は僕にとって、まさに不覚と呼んでいい一言だった。

「あ、お母さ―――」

 ん、と、最後まで言うことなく、僕の顔は朱に染まって口ごもる。立派なデスクに腰かけ本を読んでいた霧切さんが、僕の方を見てきょとん、とした。

 昼下がりの一時。希望ヶ峰学園校舎の一室を借りて作られた霧切さんの事務所。
 霧切さんを所長とし、僕をその助手として学園側に届け出て、その結果借りられたいわゆる部室のような場所に、僕と霧切さんはいた。
 入口から入ってすぐのところに低いテーブルとそれを挟むように置かれた二つのソファ。そのさらに奥に霧切さんが座っている大きなデスク(霧切さんの自費らしい)があって、その背中に窓。そして小さなシンクが備えられている。
 部屋の両脇には本棚と棚が混在していて、いろんな書類や霧切さんが持ち込んだ推理小説、僕が持ち込んだ娯楽小説や食器、電話などが置かれている。
 本棚は比較的きれいに整頓されているけれど、棚の方は手当り次第に物を配置した結果、かなり、こう、ごちゃっとしていて、いつか整頓しないといけないなぁ……。

「……苗木君?」

 ……そろそろ現実逃避をやめないといけないらしい。
 霧切さんが、片手に本を持ったまま、僕の方をじっと見つめている。きょとん、と不思議そうだった目は次第に細められてなにやら楽しそう。まるで、獲物を見つけた猫のよう。
 対して僕は、まさに追い詰められた鼠のように冷や汗をかきながら愛想笑いを浮かべる他なかった。
 どうにかして誤魔化せないかな、なんて、思ってもみるけれど。

「なにか、言ったかしら?」

 分かりきっているくせに。
 霧切さんは本当に楽しそうに僕にそう問いかける。この獲物はまだ動くかしら、と確認するように軽いジャブを入れてくる。わざとらしく、ゆっくりと、はっきりと、区切りながら。

「いや、その、あはは……」

 誤魔化せる訳がないのは明白だし、逃げ出すこともできないのは経験上理解している。けれども僕になぶられて喜ぶ性癖は、あまり、うん、ないわけで。
 ニヤニヤという笑みを隠そうともしなくなった霧切さんを前に、どうにかやり過ごせないかとなけなしの知恵を振り絞ってみる。

「お、お、おー……」
「お?」
「お、母さんが、さ……」
「苗木君のお母様が?」

 どうする僕。どうする僕。どうするのが一番傷が浅くて済む?
 出来ることならば霧切さんの興味が僕から別のものへと逸れてくれるのがベスト。
 なのだけれど、一番期待できそうな、彼女が先程まで読んでいた本は、既に栞を挟まれ閉じられて机の上。霧切さんは両手を組んで僕の言い訳を楽しそうに待っていて、今は本なんてどうでもいいわ、と言わんばかりだ。
 そうなると依頼人やあるいはひまつぶしのお客さんでもいいから来てくれればベターかな……。

「ドアがどうかしたの?」

 ちらり、と一瞬見やっただけで咎められてしまった。

「そう。それで、苗木君のお母様がどうしたのかしら。お互い本を読んでいて特に会話もなかったというのに突然口にしたのだから、もちろんよっぽどのことよね?」

 そしてハードルを上げられてしまった。なにこれ、実は読んでる本があまり面白くなくて、僕に面白い話でもさせようというのだろうか。
 えーと、えーと、と意味のない言葉が溢れ出す。えーと、どうしよう、なんだっけ、なにを言えばいいんだろう。


 テンパリ具合がマックスになり、頭が真っ白で言葉の出てこなくなった僕を見て、霧切さんは小さくくすりと笑い、

「苗木君は追い詰められると弱いのね」
「そんなの、誰だってそうじゃないかな……」

 お茶、飲む? と、立ち上がった霧切さんは僕に問いかけた。ようやく追求が終わったのかぁ、と安堵のため息を吐きながら、僕はお言葉に甘えることにした。
 棚に置いてあった電気ケトルを手にして、霧切さんは勢い良く蛇口を開いた。じゃー、と水の流れる音。ケトルに溜まるにつれて低くなる音。きゅっきゅ、と音がして蛇口が閉まり、電気ケトルを座にセットして電源をオンにする。
 その間、僕らは無言だった。特になにか話さなくてはいけないわけじゃないし、僕も、そしてたぶん霧切さんもこのちょっとした静寂が嫌いではない。
 こうして霧切さんと事務所にいる時間は、はじめのうちに感じていた緊張や遠慮も、過ぎ行く年月(といっても、そんなに長くないけれど)とともに消え去って、なんというか、生活の一部にまで組み込まれている気がする。
 時々、この部屋でぼんやりしていると、どこかマンションの一室で霧切さんとのんびり笑いあっている光景を夢見ることがあった。まるで恋人とか、夫婦のように。……恥ずかしいから、霧切さんに言ったことはないけれど。

「はい、苗木君」
「ありがとう、霧切さん」

 受け取った紅茶は、インスタントのティーパックのものだったけれど、自分で淹れたときに比べて随分と香り高いように思えた。
 霧切さんが僕の前に腰掛けた。長い髪が紅茶の中に入らないように片手で抑えながら、カップに口付ける。少し節目がちになって、長い睫毛がはっきりと見えた。
 それにしても、と僕は思う。さっきの妄想の話。恋人だとか夫婦だとか、勝手に想像してちょっと自分で気持ち悪いな、と思うけれど、そんなことを考えてしまうくらいに、僕は霧切さんのことが

「好きなんだなぁ……」
「え?」

 霧切さんが顔を上げて、僕を見た。慌てて口を抑えたけれど、だからと言って飛び出てしまった言葉が引っ込んでくれるわけもなく。
 本日の失言、パート2。

「……今日の苗木君は、随分と迂闊ね」

 口を抑えたまま、顔を真っ赤にして黙り込む僕をしばらく見つめたあと、霧切さんは呆れたようにそう呟いた。

「お母さん発言に続き、好き、と。男の子は皆少なからずマザーコンプレックスだと聞くけれど、他人がいるところであまり口にするものではないと思うわ」
「そ、そう、だね、あはは、気をつけるよ……」

 勘違いしてくれた霧切さんの言葉に乗っかる形で、乾いた笑い。
 気づかれなくて嬉しいやら悲しいやら。でもまあ、もし想いを告げることがあるならもう少しちゃんとした形で伝えたいし、よかった、ということにして。
 とりあえず、誤魔化そう。

「今日はほら、ちょっと暖かいからさ。ぼーっとしちゃって、うん、ホームシック的な感じになっちゃったんだ」
「前後の文脈がつながっていない気がするけれど……」

 まあいいわ、と霧切さんは呆れた溜息を一つ。それから再びティーカップに口をつけ。


 なにかを思いついたように、チェシャ猫のように笑った。

「ねえ、苗木君」

 あ、これあれだ。ダメな笑いだ。

「今日一日、私のことお母さんって呼んでも良いわよ」
「なにがどうしてそうなったんですか霧切さん」

 霧切さんは笑顔のまま、ティーカップをテーブルに置いた。ソーサーなんて小洒落た物はなくて、直にテーブルと触れ合ったカップは、かしゃん、と音をやたらと高い音を立てた。

「同級生を母親と見間違えるくらいだもの、きっと家族に逢いたくて今にも胸が張り裂けそうなのでしょう?」
「いや、あの、別にそういうわけでは……」

 さっきまでの僕を思い切り殴りたい気分だ。霧切さんは追求をやめたわけじゃなかった、ただ少し間をおいてただけだったんだ!

「ほら、どうぞ。遠慮しないでいいのよ?」
「あのね、霧切さん」
「ああでもやっぱり私が母親というのは無理があるわね……、ならそう、姉、姉ならどうかしら」
「どうかしらじゃなくってさ」
「確か苗木君には妹さんがいらしたのよね。だったらちょうどいいじゃない」
「なにがちょうどいいんですか」
「さ、お姉ちゃんって呼んでご覧なさい?」
「霧切さん、正気に戻ってよ!」
「ほら、ま・こ・と・君?」

 誰か助けて! 心の中で叫んでみても、助けがやってくることはなく。

 結局、その日は日が落ちるまで、僕はくすくすと笑う霧切さんにからかわれ続けた。
 心底疲れ果ててしまったけれど、それでも霧切さんに誠君、と呼ばれるたびにくすぐったくて、嬉しくて、なんかもうすごいどうしようもねぇな僕……。これも惚れたなんとやらだろうか。

 意地でもお姉ちゃんともお母さんとも呼ばなかったけどね!
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