要は、希望ヶ峰学園宿舎に一匹の野良猫が居着いた、という話だ。
「ただいま…っと」
部屋のドアを開けようとして、それよりも先に灰色の毛玉が中から飛び出して来た。
どうやら鍵を閉め忘れていたらしい。
部屋の中を見るに、何か荒らされていたというわけでもなかった。せいぜい、枕が裏返っていたくらい。
どこから入りこんだのか、あるいは誰かが手引きでもしているのか。
警備の目を上手い具合にすりぬけて、この猫はちょくちょくこの宿舎を徘徊している。
餌をやる生徒もあれば、邪険にして追い払う生徒もあり。僕はどちらかというと前者だ。
…けど、懐かれているワケではないらしい。悲しくも。
鞄をベッドの上に放り投げ、すぐに部屋を後にする。
猫の行き先には、心当たりがあった。
「…隣いいかな、霧切さん」
「……それは、この仔に聞いてくれる?」
ランドリールームで洗濯機を回しながら、片手間に推理小説を流し読む少女。
その膝の上では、ぐでん、と脱力して、灰猫が足を伸ばしていた。
「あなたが座りたいのは私じゃなくて、この仔の隣でしょうから」
「…えっと、ごめん…?」
微妙に不機嫌な彼女から少しだけ距離を取る。
気性が似ているのか、距離感が心地いいのか、この灰猫は霧切さんに一番よく懐いた。
構いすぎると嫌われる、という話を聞いたことがある。
朝日奈さんや桑田君はその典型で、姿を見れば逃げ出すほどだ。
逆に十神君やセレスさんのような、無関心を貫く相手を見つけては、その後ろを付けていく。
霧切さんはその中でも、特に猫の扱いを心得ているようだった。
自分から触りにはいかず、かといって邪険にもせず、歩み寄ってきた時だけ、焦らすようにそっと撫でる。
彼女が触れている時は、僕もその猫を撫でることができた。
そっと肉球を指で押してみる。ふに、と柔らかな弾力が返る。
ちら、と灰猫はこちらを見上げて、興味なさそうに欠伸をした。嫌がられているワケではないらしい。
「…意外だわ」
読書中だったはずの霧切さんは、そんな僕の様子を見て、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「猫派だったのね、苗木君」
「…意外なの?」
「ええ、あなた、犬っぽいから」
からかわれているのだ、と分かって、ちょっとだけ肩を落とす。
にゃあ、と同感だとでも言うように猫が鳴いた。
「…まあ、犬も嫌いじゃないんだけどね」
というか、基本的に小動物は好きだ。
「そうなの?」
「うん、でもさ。猫はこう、普段はそっけないんだけど、たまに甘えてくれるっていうのが…」
「ああ、えっと…ツンデレ、というのだったかしら? あるいはクーデレ、と」
「…霧切さん、時々偏った知識持ってくるよね」
まあ、おそらくというか確実に、出所は山田君だろう。
「でも、この仔は中々懐いてくれないんだ」
「……そうかしら」
「うん。さっきまで僕の部屋に居たみたいなんだけど、僕が帰ってくると同時に逃げ出して…」
と、そこで言葉を区切る。
霧切さんのジト目が、呆れたような色で僕を見ていたからだ。
「…猫相手にも、鈍いのね」
「……、えっと…?」
「あなたの部屋、つまり帰ってきてすぐ会える場所にいたのでしょう? …あなたを待っていた、とは考えないのかしら」
それは、随分と自惚れた考え方になってしまうんじゃないだろうか。
第一、僕を待っていたのなら、逃げ出したりしないと思う。
「…素直じゃないのよ、この仔も」
擽るように、首元を撫でる。
なーお、と、抗議の声でも上げるかのようにして、猫は霧切さんのスカートに爪を立てた。
「だ、だとしてもさ。たぶん、一番懐いてるのは霧切さんだよね」
「…それもどうかしらね」
バンザイをさせるように両手をどかして、霧切さんが猫を膝から下ろす。
特に抵抗することもなく、猫は僕からやや距離をとって、ランドリーの椅子に座った。
…別段懐かれているとは思っていないけれど、やはりへこむ。
と、ちょうどそこで、洗濯機が電子音を鳴らした。
霧切さんは僕の目の前で堂々とその蓋を開け、どかどかと洗い終わった洗濯物をカゴにつっこむ。
ちら、と、黒いヒモのようなものが見えた。
なんとなく見てはいけない気がしたので、というか明らかに見てはいけないものだったので、僕は地面に視線を落とす。
「…? 大丈夫よ、靴下は入っていないから」
「……いや、色々ずれてるからね、それ」
うん、そりゃあ、女の子が洗濯物をしているところに入ってくるなんて、デリカシーが無かったとは思うけれど。
部屋を後にするくらいの猶予は認めてほしかったり。
「猫っていうのは、気位が高いから。一番好きな相手には、隙を見せたりしないものなのよ」
「よ、よく分かるね、猫の気持ち」
なんとなくいたたまれなくなって、破れかぶれの返事を返す。
ぴた、と一度だけ霧切さんの手が止まった。
「……あなたが鈍すぎるだけよ」
「いや、霧切さんが鋭いんじゃないかな…」
「…自覚が無い分、凶悪ね。酷い人だわ」
なーう、と、また同調するように猫が鳴く。
二体一では分が悪い。
猫はちらと僕を見やってから、ぺそ、と責めるように尾で叩いてきた。
「実は、ジゴロの才能でもあるんじゃないかしら」
「は、はは…流石にその才能はいらない、かな」
その毛並みに指を伸ばしてみる。
と、触れるか触れないかのところで、不機嫌そうにこちらを一瞥し、また霧切さんの足元へと向かわれてしまった。
…うん、どう考えても、懐かれてはいない。
やっぱり彼女の気のせいではないだろうか。
「…けど、だとしたらおかしな話じゃない?」
「え?」
振り返った霧切さんの顔は、もう笑っていなかった。
捜査の時のような、あの怜悧な眼差しで、僕をじっと見つめる。
「懐かれていないと思っているクセに、どうして構うの?」
そのことが、どれだけ彼女の知的好奇心を刺激したというのだろうか。
単純に、小動物が好きだから。
そう答えてしまえば楽だけれど、きっとそんな答えは望まれていなかった。
「…放っておけない、からかな」
霧切さんは、沈黙したまま僕の目を見据えてくる。
その目に圧されてしどろもどろになりながらも、僕は続ける。
「その、さ…ふらふらしてるのが、危なっかしいっていうか…心配なんだ」
「……あなたらしい、お人好しのお節介、と。納得したわ」
僕の答えに呆れたのか、それとも満足したのか、どちらともつかない声音だった。
「…厄介なのに目を付けられちゃったのね、あなたも……」
ふわり、と霧切さんは振り返って、―――見たことも無いような、優しげな笑みで、猫を撫で上げた。
「……、何よ」
「え、あ…」
思わず、その笑顔に見入ってしまって、霧切さんに不振がられる。
だって普段の無表情とのギャップもあって、見惚れてしまったから。…なんて、言えるはずもなく。
咄嗟に口をついて出た言い訳は、
「…霧切さんの方は猫っぽいな、と思って」
「……それ、どういう意味?」
「あい゛っ…へ、変な意味じゃ、イタイイタイ! ごめん、嘘! 取り消すから…!」
彼女のお気に召さなかったらしく、思いっきり耳を捻りあげられてしまった。
こちらから構うと機嫌を損ねる辺り、なんともはや。
最終更新:2013年07月13日 04:26