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 朝日奈と大神は早朝トレーニングを済ませて、一旦寄宿舎へ戻ろうと廊下を歩いていた。

「やっぱり、朝のトレーニングは心身ともに引き締まる感じがして最高だよね! さくらちゃん!」
「ああ、そうだな。しかし朝日奈よ、トレーニングが無駄になってしまいそうになるくらいドーナツを食べるというのは、少し見直した方が良いぞ」

 朝日奈の腕の中には紙袋いっぱいのドーナツがあった。袋のふちからもドーナツが顔を覗かせている。

「えへへへ。体動かした後はやっぱりドーナツが手放せなくて。でも、さくらちゃんが言うなら少し控えるようにするよ! 私頑張る!」
「ふっ……それが良い」

 いつものやり取りに、心を和ませていると、大神がふと足を止めた。まだ早朝なので、ほとんどの生徒は各自の部屋に居るはずだが、彼女の耳に小さな足音が聞こえたのだ。

「……ん? 朝日奈、足音が聞こえなかったか?」
「え? ううん、私は聞こえなかったよ? ……あ、さくらちゃん! あそこ!」
「むっ……! 子供だと……?」

 寄宿舎二階へ続く階段前の方へ向かう、小さな子供の姿が一瞬二人の目に映った。大神と朝日奈は驚いたように顔を見合わせると、お互い言葉を交わさず意思が分かったらしく、
同時に子供が向かったであろう倉庫の方へ駆け出した。角を曲がると、やはり子供がいた。

「ねぇ、お嬢ちゃん」

 朝日奈は子供の後ろから声をかけた。その子供は女の子だった。突然後ろから聞こえた声に驚いたのか一瞬びくりと身体を震わせてからこちらに振り向いた。
見た目から推定すると4~5歳くらいといったところだろうか。

「あなたは、だれ?」
「第一声がそれって……まぁいいや。私は朝日奈葵だよ。こっちは大神さくらちゃん」
「あさひなさんとおおがみさん?」
「うん、そうだよ」
「朝日奈、この娘あいつに似ていないか?」
「おお! さくらちゃんも思った!? 私もそう思ってたんだよ! 妹さんかな? ねぇ、あなたのお名前聞かせて?」

 朝日奈は、少女に目線を合わせるためにかがんで尋ねた。そして少女は、確かにその名前を答えた。

「わたしの名前はきりぎりきょうこ」
「へ?」
「なんだと?」

 朝日奈と大神は顔を見合わせずにはいられなかった。左右で三つ編みにされた紫がかった銀髪に、子供ながらに整った顔立ち――二人とも霧切響子の血縁者か何かとは思っていたが、
まさか本人の名前を名乗られるとは思いもよらなかった。

「ええっと、あなたの名前が”きりぎりきょうこ”なの?」
「うん」
「霧切響子っていうお姉ちゃんが居るとかじゃなくて?」
「わたし、お姉さまなんて居ないわ!」
「さ、さくらちゃん、どういうこと!?」
「我にも分からんが、霧切の血縁者に違いないだろう。名前はともかくしっかりと”きりぎり”だと言っているんだ。部屋も近いし、本人に聞いてみたらどうだ?」
「そ、そうだね!」

 「きりぎりきょうこ」と名乗った少女は朝日奈と大神を不思議そうに見上げている。何を言っているのか把握できないでいたのだ。

「ええっと、きょうこちゃん、でいいのかな?」
「うん」
「ちょっと、一緒に来てくれるかな」
「はじめて会った人にかんたんに付いていくものじゃないって言われてるけど……」
「えー……この状況でそんなこと言われても」

 すると大神が今度は少女に目線を合わせて尋ねた。

「娘よ、お前はそもそも何故ここに居るのだ? しかもこのような早朝に」
「わからないの。気づいたらここに居たの。今日はお父さまに本をよんでもらうやくそくをしていたのに……」

 少女はそういうと俯いて目を潤ませる。

「……仕方ない、とりあえず霧切の部屋に行こう」
「そうだよね。 よし、きょうこちゃん! たぶん君の家族だか親戚だか何なのか分からないけど、多分きょうこちゃんが知ってる人の所に連れて行ってあげるからおいで?
 すぐ近くだから大丈夫!」
「うん、わかったわ」

 朝日奈は少女を元気づけるように明るい声を出して、その小さな手を引いた。

――ピンポーン

「霧切ちゃーん! 居るー?」

 インターホンを押したにもかかわらず朝日奈は大きな声で部屋の主に呼びかける。そして間もなくそのドアが開いていつも通りの見慣れた顔が覗いた。

「あ! 霧切ちゃんおはよう!」
「……おはよう。こんな早朝にどうしたの、朝日奈さん」
「あのね! 大変なんだよ! 見てこの子!」

 朝日奈が視線を落として、自分の後ろから誰かを引っ張った。それに合わせて霧切も視線をそちらへ向けて、動きも思考も固まった。

「…………え?」

 その視線の先の小さな少女。朝日奈に肩をつかまれながら、霧切を見つめ返すその少女は霧切と同様に驚いたようなかをしていた。

「あ、やっぱり霧切ちゃんの妹とかなのかな!? この子はお姉ちゃんなんかいないって言ってたんだけど、そっくりだしやっぱり霧切ちゃんの妹なんだね!」

 すべてが解決した、と喜ぶようにハイテンションで捲し立てる朝日奈に霧切はついていけていなかった。

「ちょ、ちょっと待って朝日奈さん。私、妹なんていないわ」
「えっ!? じゃ、じゃあこの子は?」
「……心当たりがない、というわけではないけど。でも、そんな……まさか……ありえないわ」

 霧切が動揺した様子で呟いていると、少女の口から予想外な言葉が発せられた。

「……お母さま?」
「「え?」」
「ううん。お母さまじゃない……すごく似てるけど、若い? あなたは、だれ?」

 霧切は少女に尋ねられて、目線を合わせる。顔立ちや髪の色、使われているリボンなどを間近で観察して何か確信を得たようだった。そして静かに答えた。

「私は……霧切響子よ」
「え? わたしとおなじ名前だわ!」

 その少女は霧切りの名前を聞いて手で口を覆って驚く。そのそぶりはまさに霧切が驚いたときにする動作とそっくりだった。

「……同じ名前? そう、やっぱりそうなのね」
「ええっと、霧切ちゃん? 何かわかった?」
「ええ。たぶんこの子、小さいころの私自身だわ。信じがたいことだけど、そうとしか考えられない。この容姿も、この服も見覚えがある。
というか私が子供のころに来ていた服そのものだわ。それに……私を見てお母さまと勘違いするだなんて……」
「は……? ええぇぇぇええっ!?」

 寄宿舎中に響き渡るほどの大声を上げて朝日奈が驚いた。その後ろで大神も少なからず困惑しているようだった。

「ど、どうしたの!?」

 朝日奈の声に驚いたのだろう。霧切の隣の部屋のドアが勢いよく開き、そこから苗木が顔を出した。

「大神さん、朝日奈さん……何があったの!? あ、霧切さんも!」
「ええっと、ほら、この子……」

 困惑したままの朝日奈に促されて視線を下に向けると、小さな少女が警戒するような目で誠を見ていた。

「えぇっ!? 何この天使! じゃなくて、もしかして霧切さんが縮んじゃったの!?」
「私は目の前に居るじゃない。ていうかその子を見て迷わず私だと認識した上に、かなり恥ずかしいこと口走るってどういうことかしら」
「あ、あはは。そうだよね、霧切さんなわけがないよね」
「……その子も私であることは間違いないわよ」
「……は?」
「だから、その子は子供の頃の私自身よ」
「あなたは、将来のわたしなの?」

 ようやく、霧切の正体を認識した少女が霧切を見上げて尋ねた。やはり、幼くとも霧切響子という人物の頭の出来はずば抜けているらしい。

「ええ、そうなるわね」
「なんだ、そうだったのか。どうりで似てるわけだね! だって本人ってことだもんね。うん! 納得したよ! って納得するわけないだろ!?」
「おい、苗木。困惑するのもわかるが、少しは落ち着かぬか。この子が怯えているではないか」
「あ、ごめん」

 改めて苗木が少女を見ると、大神が言うとおり少し怯えている様子で霧切の後ろに隠れていた。

「そうだよ! 苗木! 響子ちゃんが可愛いのは分かるけどさ! あ、もしかして苗木はロリコンだったの!?」
「そ、それは違うよ!」
「……響子ちゃんって……私に言ってないっていうのは分かるけど、ちょっと照れくさいわね」
「霧切、それでこれからどうするのだ?」
「……そうね、癪だけど学園長のとこへ連れて行ってみるわ……たぶんこの子あの人と暮らしてる頃の私だと思うし」

 伏し目がちになりながら霧切は幼い自分を見つめると、かがんで目線を合わせた

「……お父さまに会いたい?」
「お父さま? お父さまが居るの!? 今日は、お父さまに本をよんでもらうの!」
「そう。じゃあ、行きましょうか」
「じゃあ、あとは霧切ちゃんに任せて大丈夫な感じなのかな?」
「……とりあえずは任せて」

 父親に会えると分かったことがそんなに嬉しいのか、目を輝かせている幼い自分の小さな手を霧切は掴むと複雑な心境になりながら寄宿舎二階へ歩き出した。

――こんなわけのわからないことで、あの人に会わなければならないなんてね。

「あれ!? 霧切さんと小さい霧切さんは!?」
「あれ、苗木どっか行ってたの? 霧切ちゃんたちは学園長の所に行ったよ」
「ええ!? せっかく山田君からカメラ借りてきたのに! あとで戻って来た時に撮るしかないか」
「え、なんか苗木が色んな意味で怖い」

 しょんぼりと肩と頭のアンテナを落として落ち込む苗木に、朝日奈は少し引いていた。大神も苗木の見たことのないような様子に困惑しているようだった。

――コンコン

「はい、どうぞ」

 霧切がノックをして開けたそこは学園長の個室だった。思いがけない人物の来訪に学園長――霧切仁は目を丸くしていた。

「ど、どうしたんだ? 君から私を訪ねてくるなんて」
「私だって別にあなたなんか訪ねたくないわ。ただ、ちょっとハプニングがあって」
「まぁ、そうだろとは思ったよ。とりあえず、中へ入ったらどうだ」

 仁が霧切に促すと、それに従って彼女が部屋に入る――と同時に、信じられないものを目の当たりにして仁はつい大声を上げた。

「きょ、響子!? 小さい頃の響子じゃないか!? え、どういうことだ響子!?」
「……どちらを指しているのか分からなくなりそうね……私にもよくわからないけど、一階の廊下に居たみたいよ」
「お父さま? お父さまだ!」

 幼い響子が仁を目にした途端、一層目を輝かせて彼のもとへ一目散に駆け寄った。霧切はその光景に異様な居心地の悪さを覚えながら、それを見守る。
足元にとてとてと駆け寄ってきた幼い響子に仁は困惑しつつも、すぐに笑顔になりその小さな体を抱き上げた。

「響子、どうしたんだ? 本当に響子なのか?」
「きょうこは、きょうこよ。変なお父さま! あれ? お父さま、きゅうに年をとったみたい!」
「はははははっ。そうだね、私も年をとったさ」

――何なのこれ。よくわからないけど不愉快だわ。
――あのくらいのころの私って、あの人のことがあんなに好きだったのかしら?

「お父さま、きょうは本をよんでくれるってやくそくしてたでしょ?」
「うーん? どうかなぁ? 多分それは私であって私じゃないと思うけれど……今日は少し忙しいんだよ」
「ねぇ、随分そっちの私がお気に入りのようだけど、この状況を楽しんでいる場合じゃないでしょう? 本当にその子が過去の私なら、
信じがたいけど過去のものが時間を超えてこちらに存在していることになるわ。それって良いことではないんじゃないの?」

 無性に苛立った。目の前の娘を放っておいて、突然現れた幼い自分をすぐに可愛がり出す彼を霧切は無意識のうちに睨みつけていた。
それを見て仁はしまった、というような顔をして幼い響子を下ろすと、霧切に謝った。

「あ、ああ……すまない」
「……それで? どうするの?」
「どうすると言われてもな……私はさっきも言ったが今日は少し忙しくてな。君たちは今日は休日だろう?
 とりあえずは、新しく何かわかるまでこの子の面倒は君が見てくれないか?」
「そう。やっぱり放り出すのね」
「違う。そうじゃない……君が怒るのも仕方ないかもしれないが――」
「もういいわ。それに別に怒ってないし……あなたが言った通り今日の所はその子の面倒は私が見ることにするわ」
「……すまない」

 霧切は彼を無視するように、仁の足元に呆然と二人の様子を見ていた幼い自分をひっぱった。

「え、お父さまは本をよんでくれないの?」
「忙しくなってしまったみたいよ。あの人はいつだってあなたや私に構ってられないのよ。だから私と今日は過ごしましょう」
「……うん」

 霧切は部屋を出ようとドアノブに手を掛けた時に動きを一瞬止めて一言だけ呟いた。

「何か分かったら教えてちょうだい。それ以外は関わらないで」

 そして返事を待つことなく彼女は部屋を後にした。

 霧切が一階へ戻ると、幼い響子がクイッとつないでいた手を引っ張った。

「どうしたの?」
「私、お腹が空いたみたい」

 少し恥ずかしそうに、霧切を見ながら幼い響子が言ったあと、彼女のお腹から可愛い音が鳴った。それにクスリと霧切は笑ってしまう。
自分自身なのに、可愛いだなんて思ってしまい、これってナルシストなのかしら――と少々思い悩む。

「そうね、私も朝食はまだだったわね。食堂へ行きましょうか」
「うん! あ、あの……」
「今度は何?」
「何て呼べばいいの?」
「……私こそあなたをどう呼んだらいいのか分からないわ、とりあえず今は特に困ってないし、必要になった時にそれは考えましょう」

 まさか、自分自身に自分を「お姉さん」などと呼ばせるわけにもいかないし、名前も論外だった。通常異なる年齢の同じ人物がこうして会することなどあり得ないから、
いくつかの問題が浮き上がるのは当然だった。
 それらの問題は置いて、霧切は幼い響子を食堂に連れて行った。

「あ! 霧切ちゃんと響子ちゃん!」
「それ、ちょっとどうにかならない?」
「え? だって霧切ちゃんは霧切ちゃんだし、響子ちゃんは響子ちゃんだもん」

 食堂に入った途端二人の姿を目にした朝日奈が駆け寄ってきた。まだ、人の姿は少ないが、どちらも一人の人物を指す名前をそんな風に連呼されたので周りに変に思われてしまうだろう。
と言っても、幼い響子が居る時点で変に思われてしまうのは否めない。

「まぁ、いいわ。それより私は食事を持ってくるからこの子を見ててくれないかしら?」
「うん、いいy「僕がその子を見るよ!」」

 突然朝日奈の言葉を遮って苗木が現れた。

「どうしてそんなに、食いついてくるの?」
「ほら、僕って妹がいるから子供の世話とか慣れてるし」
「知らないわよそんなの。それより、変なこと考えてないでしょうね?」
「考えてないよ! ちゃんと責任もって面倒見るから、霧切さんは食事の準備に行っていいよ!」
「霧切ちゃん! 私が監視しとくから大丈夫だよ!」
「……とりあえずお願いするわ…………このお兄さんとお姉さんと一緒に待っててくれる? 私は朝食を持ってくるから」
「うん、わかった」

 霧切は幼い響子に言い聞かせると、厨房の方へ歩いて行った。

「ええと、響子ちゃん?」
「あなたは、だれ?」
「僕は、苗木誠だよ。誠お兄ちゃんって呼んでごらん」
「……まことお兄さま?」

――ブバッ

「ちょっと! 苗木大丈夫!? すごい鼻血出てるよ!?」
「だ、大丈夫……これは心の汗だよ」
「ごめん、言ってる意味が分からない」
「とりあえず響子ちゃん、席に着こうか」

 幼い響子の手を引く苗木は満面の笑みを浮かべていた。それをハラハラしながら朝日奈が見守り、3人は席に着いた――が問題が発生した。

「これじゃ、テーブルの上のお料理が上手く食べられないわ」

 幼い響子の小さな体には椅子の高さとテーブルの高さが全く合っていなかった。脚も宙にぶらぶらと浮いている。それに至極不満なようで、幼い響子はすこし頬を膨らませていた。

「じゃあ、こうしようか」
「えっ? ひゃぁっ!」

 ひょいっと苗木は幼い響子を抱き上げて自分の膝の上に乗せた。そして、しっかりと腹部に腕を回し固定する。

「これなら高さもちょうど良いでしょ?」
「うん、ありがとう。でも、今度はまことお兄さまが料理を食べられなくなってしまうわ」
「僕は先に食べたから君は何も心配しなくて大丈夫だよ!」

 相変わらずにこにこと笑顔を向ける苗木に、幼い響子も慣れてきたようだった。隣に居た朝日奈もいくらか安心できた。
そして、少しの間をおいて、霧切が厨房から朝食を持って戻って来た。そして、苗木が幼い響子を抱きかかえている姿を見て一瞬目を見開き、続けてぼそりと呟いた。

「……セクハラ」
「え? 今セクハラって言った!? 今霧切さんセクハラって言ったよね!? 違うからね? セクハラじゃないからね?」
「き、霧切ちゃん、響子ちゃん小さいから仕方ないよ」
「朝日奈さんが膝に座らせたらいいじゃない」
「ごめん、私食後のドーナツを食べないといけなくて」

 霧切は二人の言い分を聞いて嘆息しつつも、とりあえずは納得して幼い響子の前に朝食を置いた。
メニューはいたって普通のベーコンとスクランブルエッグ、サラダ、パン……そして霧切自身にはコーヒーを、幼い響子にはオレンジジュースを用意してあった。

「あはは、さすがの霧切さんも小さい時からコーヒーだったわけじゃないんだね」
「そんなの、当たり前でしょう」

 二人の霧切響子が食事を終えると、幼い響子が苗木の袖を引っ張っていた。どうやら最初は怯えていたにもかかわらず、だいぶ彼に懐いたらしい。

「ねぇ、まことお兄さま」
「――ッ!?!? ゲホッゲホッ……!」

 幼い響子の発言に霧切は盛大にむせた。少々涙目になりながら苗木の方を見る霧切に苗木は驚きながら声をかけた。

「え、ちょっとどうしたの霧切さん! 大丈夫!」
「……コホン。”まことお兄さま”って、何?」
「まことお兄さまが、そう呼べって言ったの」
「苗木君、あなた……」
「ち、違うよ! 僕は呼びやすいように”誠お兄ちゃん”って呼んでとは言ったけど、予想に反して響子ちゃんが勝手に丁寧な呼び方をしてるだけだよ!」
「……響子ちゃんって、やっぱり慣れないわ」
「あ、こっちの響子ちゃんね」
「分かってるわよ。とりあえず事情は把握したわ……それよりその子が用があるみたいだけど」
「そうだったね。どうしたの響子ちゃん」
「ここには、本はあるの?」
「図書室があるから、本はたくさんあるよ。何か読みたいものでもあるの?」
「お父さまにね、本をよんでもらう約束をしていたの。でもだめになっちゃった……」

 幼い響子は余程仁に本を呼んでもらえないのがショックだったらしく、再び目を潤ませ始めた。
霧切は仁が絡むとどうしても嫌な感情が湧きあがってしまい、幼い響子のその姿は少々耐えがたいものだった。

「ねぇ、あなた。霧切家の人間ならそういう風に人前で簡単に泣いては駄目よ。おじい様に教わったでしょ?」
「……うん。ごめんなさい」

 落ち込んでいたところにさらに霧切叱咤が降りかかり、さらにしょんぼりとしてしまう幼い響子。そこにあわてて苗木が口をはさむ。

「まぁまぁ、霧切さん。今日くらいは状況も状況だしそんなに怒らなくても……」
「そんなことは関係ないわよ。何故そんなにその子をかばうの?」
「え、だって響子ちゃんまだ子供だし」
「その子供だった私が言うのだから、良いでしょ? 霧切家の教育方針については放っておいてくれる? あなたには関係ないわ」
「いやだからさ、今は普通の状況じゃないんだから響子ちゃんだって不安でしょ? 周りが支えてあげないでそんな怒ってばかりいても仕方ないでしょ?
 ……ね、響子ちゃん。僕がお父さんの代わりに本読んであげようか?」
「ほんとう? まことお兄さま」
「うん、もちろん本当だよ」
「ありがとう!」

 霧切から逃げるように、顔を逸らして幼い響子を甘やかす苗木。そして、落ち込んでいた幼い響子も苗木の提案が嬉しかったらしく少し頬を染めながら喜んでいた。

「……そう、あなたもその子がお気に入りのようね。勝手にすればいいわ」
「き、霧切さん?」

 霧切は、苗木の声を無視して自分の部屋へ向かって歩を進めていった。少々気まずい感情に襲われ、どうしようかと苗木は悩んでいたが、袖を引っ張られて意識を引き戻された。

「まことお兄さま?」

――ブバッ!

「まことお兄さま!? はなぢ!」
「はははは、大丈夫だよ! これは心の汗なんだ!」
「苗木……」

 冷めたような目で朝日奈が苗木を見つめる。
 小首を傾げながら上目づかいに尋ねる幼い響子は、苗木の心臓にとても悪いらしかった。

「よし、図書室へ行こうか」

 自室に戻った霧切は未だ苛立ちを処理しきれず、それを発散させるためか部屋の中をうろうろ歩き回っていた。

「なんなのよ。あの人も、苗木君も……」

 本当はとっくに分かっていた。その苛立ちの正体が何なのか。霧切は幼い自分に嫉妬していたのだ。
自分に嫉妬するなど、これほどバカバカしいことはないと思った。そして、とっくに自分から切り捨てていたつもりだったはずなのに、
まるで父親を取られて悔しがっているような気持ちに戸惑っていた。

「ほんと、バカみたい……図書室、行こうかしら……」


   ◇◆


 正直気は向かないが、それでも向かった図書室の扉を開けると幼い響子が苗木の膝の上で眠っていた。苗木の手には恐らく推理小説と思しき本が握られている。
どうやら、読んでもらっている途中で寝てしまったようだった。

「苗木君」
「あ……霧切さん。響子ちゃん寝ちゃったよ」
「朝日奈さんは?」
「ああ、さっき眠くなったからって部屋に帰って行っちゃったよ」
「そう。苗木君……その、面倒掛けたわね。ごめんなさい」
「いや、別にいいよ。それより、響子ちゃんは霧切さんの部屋に連れて行った方がいいかな?」

 苗木に言われて幼い響子の顔を見ると、すっかり熟睡してしまっているようだった。
早朝から訳の分からない状況に陥ってしまい不安や緊張から疲れが出てしまったのかもしれない。

「そうね、お願いするわ」

 幼い響子を抱きかかえた苗木と霧切は肩を並べて廊下を歩きだす。端から見たら若い夫婦かつ、親子に見えるかもしれない。

「いつかこういう風になれたらな……」
「苗木君? 今、何か言った?」
「えっ? ううん、何も言ってないよ! それよりさ、響子ちゃんは過去の霧切さんなんでしょ?
 どうやってこっちに来ちゃったのか分かれば過去に帰す方法も分かると思うんだけど、何も聞いてないんだよね?」
「そうね……気づいたらここに居たらしいけど。それにしても時間を超えるなんて、本当に訳が分からないわ」

 幼い響子を戻す方法について考えながら、寄宿舎まで長い廊下を歩き、ようやく三人は霧切の部屋にたどり着いた。
霧切が鍵を開けるその横で苗木に抱きかかえられている幼い響子が「んー」と、時々声を上げて苗木の肩に顔をうずめる。

「僕は響子ちゃん置いたらすぐ出るから」
「あら、別に居ても良いのよ? むしろ一緒にこの子を帰す方法をもうちょっと考えてほしいわ」
「そう? じゃあ、そうするよ」

 開けられた霧切の部屋に入ると、苗木は彼女のベッドに幼い響子を寝かせた。その上から掛布団とそっとかけてやり、優しく額を撫でて微笑む。

「……ねぇ、苗木君」
「何?」
「その子と私、どっちが好きかしら?」
「はい?」

 突然の霧切からの質問に、誠が腑抜けた声を出してしまう。どっちも自分であるはずなのに、何を言っているんだこの人は――と苗木は思った。

「……ごめんなさい、忘れてちょうだい」
「どっちも好きだよ。だってどっちも霧切さんじゃないか」
「忘れてって言ったのに」
「霧切さん、どうして怒ってたのか不思議だったんだけどさ、今ようやく分かったよ。幼い自分自身に嫉妬するなんて、霧切さんも子供みたいなところがあるんだね」
「……悪かったわね」

 ぷいっと顔を逸らして霧切が拗ねる。幼い響子に影響されて少し感情が表に出やすくなっているのかな――と考えながら苗木は霧切に近づいた。

「学園長――お父さんのことも考えてたでしょ?」
「え? ……どうして?」
「食堂でさ、”あなたもその子のことがお気に入りのようね”って言ってたから。僕のほかに響子ちゃんを可愛がった人がいたってことでしょ?」
「……バカみたいよね。いざ、目の前であの人がこの子に笑顔を向けて抱き上げたってだけで、こんなに苛立つなんて。散々あの人のことは何とも思ってないって言ってきた私がよ?」
「そんなことないと思うけどな……」
「……」

 霧切が黙り込み、会話が途切れた時だった。

――ピンポーン

「誰かしら?」

 霧切はドアを開けると、そこにはたった今話に出てきた父親の姿があった。つい、霧切は険しい顔になり、冷たい様子で尋ねた。

「……何の用?」
「もちろん、響子……あ、小さい響子のことだよ。入ってもいいか?」
「…………いいわよ」

 霧切の許しにホッとしたのか仁は笑みを浮かべながら入った。

「ああ、苗木君もいたのか。いつも響子が世話になってるね」
「いえ、僕の方こそいつもお世話になってます」
「ねぇ、父親面をしにここに来たんじゃないでしょう? 第一父親だなんて微塵にも思ってないけど……早く本題に入ってちょうだい」

 苗木と仁が気まずそうに顔を見合わせると、仁は苦笑いを浮かべながら話し出した。

「すまなかったな。では、本題に入るが急に昔のことを思い出してな」
「昔のこと?」
「ああ……響子、君が突然姿を消したことがあったんだよ。私と君と君の母親の三人で川の字になって寝てたことがあるんだ。
確か、何か理由があって三人で寝ることになったんだが……まぁ、それはいいか。とにかく、早朝目が覚めたら真ん中で寝てたはずの君の姿が消えていたんだ」
「……全く身に覚えがないのだけど」

 右手を顎にやりながら霧切は記憶をたどってみるが、全く覚えがなかった。よく考えると、霧切は父親を慕っていたころの記憶などほとんど覚えていなかった。
それでは身に覚えが無くても仕方がないのかもしれないと、諦めて嘆息する。

「それで、いつどういう風に戻って来たかは覚えているの?」
「私もその頃は探偵として働いてたからな。能力をフルに活用して探しても見つからなかった。
だがな、翌朝私と君の母親の間に何事もなかったかのように眠っている君が居たんだよ」
「え?」
「いくら問いただしても、どこにどうやって行ったのかも、どうやっていつ帰ってきたのかも君自身分かっていないようだったよ」

 一旦言葉を区切って、いまだぐっすり眠っている幼い響子を仁は見つめる。
そして次に苗木の顔を見ると、新たに何かを思い出したようで、ハッと目を見開いた。

「そうだ、その時響子がしきりに言っていたことを思い出した」
「何を言っていたの?」
「ええと確か……”なえぎまことお兄さまが、将来わたしのおむこになる人なの!”だったかな?」
「「は?」」
「その時は、いまいち何を言っているのか分からなかったが、そうか……この時すでに苗木君に響子は会っていたのか……うん、苗木君、君になら響子を任せられるよ」
「いや、学園長話が変わってきてますよ!?」
「そ、そうよ! それは今関係ないでしょ!? 何言ってるのあなたは!? ふざけないでちょうだい!」
「いや、関係あるかもしれない」

 改めて真剣な顔つきになった仁が苗木と霧切を交互に見つめる。二人は、仁の言い出した話があまりに恥ずかしいことだったため、動揺して目を逸らした。

「あの時私たちの前から君が消えた時も現れた時も、寝ていた時だった。そして君の母親と私の間に寝ている時の話だ――つまり、君たちも三人で寝てみたまえ」
「あなたを頼ったのが最初から間違いだったようだわ……出て行ってちょうだい」
「お、おい! 私は真剣に……」
「良いから出て行って!」

 霧切は仁を押し出すとバタンと大きな音を立ててドアを閉めた。ついでに鍵まで閉めた。

「あの、霧切さん?」
「……あの人の言ったことは忘れましょう。何の役にも立たなそうだわ」
「僕は婿入りする予定なんだね」
「――なっ! さっきあの人が言っていたことが事実だったとしてもそれは子供の戯言じゃない! そんなもの真に受けないでちょうだい」
「うーん、まぁ僕には妹も居るし……別に苗木家が代々続く一族ってわけでもないと思うし、僕は婿入りでも全然大丈夫!」
「今、そういう話はもういいから……とりあえずこの子をどうにかしないと……」

 静かに幼い響子が眠る隣に座って霧切はその子の顔を見ながらため息をついた。それにならって苗木も霧切の隣に座る。

「ねぇ、一応試そうよ」
「何を?」
「三人で寝ればいいんでしょ?」
「あの人の言うことが本当だって言うの?」
「他に手がかりも方法もないから試すだけ試せばいいと思うけど。別に無理なことをするわけじゃないし」
「……あんまり気乗りしないけど、仕方ないわね」
「じゃあ、ずっとここに居るわけにもいかないし、一度僕は出てくるね。また夜になったら来るから」
「ええ、分かったわ」
「まことお兄さま、どこかに行っちゃうの?」
「うわぁっ!? 響子ちゃん起きてたの?」

 後ろからかぼそい声が聞こえて、苗木と霧切は驚いて振り返った。たった今目が覚めたのだろう。しかしまだ眠たそうに目をこすっている。

「いま、おきたわ」
「そっか、ちょっと僕は出てくるから、響子ちゃんは霧切さんの言うことをちゃんと聞いてお利口にしてるんだよ?」
「いやよ!」
「え?」
「……私って、自分に嫌われているのかしら……自分にすら嫌われるって……」

 予想外の幼い響子の反抗に苗木は驚き、少々ショックを受けたらしい霧切は俯いてプルプル震えていた。

「二人ともいっしょでなきゃ、いや!」
「よ、よかったね霧切さん! 嫌われてないよ!」
「べ、別にショックなんて受けてないからどうってことないわ」
「でもどうして二人そろってないといけないの?」
「……お父さまとお母さまみたいで安心するの」

 苗木は「そっか」と呟いた後に霧切に向きなおった。霧切はかなり複雑そうな居心地の悪そうな表情で幼い響子を見ていた。

「霧切さん、ご両親のこと大好きな子だったんだね」
「そんなの……もう覚えていないわ……母のことは確かに好きだったと思うけど……」
「とりあえず、今日は響子ちゃんの言うこと聞いてあげようよ、ね? 霧切さん」
「……あなたが良いなら、別にいいけど」
「うん、なら決まりだね! 響子ちゃん、何かしたいことはある?」
「どこかでお散歩したいわ!」
「じゃあ、中庭でも散策しようか。ね、行こう? 霧切さん」
「ええ」

 苗木は幼い響子の左手を、霧切は幼い自分の右手をとって三人で中庭の散歩をした。
幸い、学園を歩き回っている生徒は少なかったのでこの異様な光景を見られることはほぼ無かったが、どう見ても幸せそうな家族のようだった。
 その後は、再び霧切の部屋に戻り、彼女による探偵の極意なる授業を苗木と幼い響子は受けさせられ、辺りが暗くなったころには、三人仲良く夕食を食べた。
風呂には、さすがに苗木が一緒に入るわけにはいかないから霧切が幼い響子と一緒に入り、とうとう就寝時間がやってきた。

「幼い自分の体を洗うなんて、ある意味貴重な体験だったわ」
「はははっ! そりゃ、そうだろうね」
「ふぁ……」
「響子ちゃん、眠いの?」
「うん」
「私たちのことは気にせず寝てもいいのよ?」
「いやよ! 三人でいっしょに寝るの!」

 イヤイヤと首を振って一人で寝るのを嫌がる幼い響子につい苗木と霧切は笑いがこぼれてしまう。

「……学園長に言われなくても、一緒に寝る羽目になってたのかもね」
「そうね……それにしても、本当にこの子私なのかしら? 私こんなに人に甘えてた記憶なんて一切無いのだけど……
ねぇ、あなた家でもそんなに甘えてるの?」
「ううん。家ではきりぎり家のにんげんとして、しっかりしなきゃいけないから……
でも、今はいいの。まことお兄さまと、将来のわたしには甘えてもいい気がするの」

 ふっと笑いながら「そう」と呟く霧切。それを見ていた苗木もそろそろ眠気に襲われていたが、眠りに就くことが少しだけためらわれる。

「女の子の部屋で女の子と一緒に寝るのも緊張するけどさ、それより寝てしまったらこの子が明日の朝には居ないのかもしれないんだよね?」
「そうね……でも私という存在は一人で充分だと思うのだけど……苗木君は私だけじゃ不満なのかしら?」
「そんなことはないけど……」
「考えても仕方ないわ。嫌でも明日は来るし、嫌でもこの子は帰さないと今の私がどうなるか分からないわ」
「そう、だよね。うん、ごめん」
「じゃあ、電気消すわよ?」
「うん。霧切さん、響子ちゃん……おやすみ」
「おやすみなさい、まことお兄さま……きょ、きょうこお姉さま」
「――っ! お、おやすみなさい」

三人は川の字に並んで、眠りに就いた。不思議と穏やかな気持ちで苗木と霧切は眠ることが出来た。

――翌朝

「……本当に居なくなっちゃったね」
「そうね」
「間に居た一人が居なくなるだけで、なんか緊張する」
「それは、あなたがけだものってことかしら?」

 苗木と霧切はほぼ、同時に目を覚ました。お互い中心を向くように横になっていたが、間に居たはずの幼い響子の姿は無く、ダイレクトに二人で一緒に寝ている状態だった。
恥ずかしさを紛らわすために勢いよく苗木が起き上がる。

「んー! よく眠れた気がする。それにしても少し寂しいな……響子ちゃん」
「……ねぇ苗木君」
「何? 霧切さん」
「あの子は居なくなってしまったけど、正真正銘、霧切響子はここに居るわ」
「うん、そうだね」
「それで、お願いなのだけど……」
「何? 何でも言ってよ。僕にできることなら何でもするよ」
「……私のことも、響子って名前で呼んでくれないかしら」
「えっ?」
「嫌、なの?」

 寂しそうに苗木を見つめる霧切の瞳が揺れる。同じベッドの上に居るせいで、苗木はおかしな衝動に駆られそうになるのを抑えこむ。

「嫌じゃないけど……急に恥ずかしいっていうか」
「……ま、まこ…………誠君、お願い」
「――っ!! わ、分かったよ……えっと、きょ、響子さん?」
「ふふっ……顔が真っ赤よ」
「きょ、響子さんだって!」
「ええ、そうね……ありがとう、誠君」
「僕からも一ついい?」
「何?」
「学園長と仲直り……というか許してあげてよ」

 学園長という言葉を聞いて霧切は眉間にしわを寄せる。しかし、ふーっと息を吐くといつもの表情に戻し、苗木に理由を問いただした。

「響子ちゃんの様子からさ、確かに学園長は君を愛していたことは明らかでしょ? それでも君を置いていってしまったのにもきっと事情があるんだ……
たとえば君の探偵としての素質を見抜いて、君のことはお祖父さんに任せた方が才能を十分に伸ばせると考えた、とかさ……」
「…………それでも、私は……ちゃんと説明してほしかった。直接あの人の口から、どうして置いて行くの?って聞きたかった……
けれど、何も言わずにあの人は出て行ったのよ」
「そうだけど、別に嫌いっていうわけじゃないんでしょ?」
「…………」
「ねぇ、昨日響子ちゃんと三人で過ごしたでしょ? その間僕はずっと、いつか響子さんとあんな風に過ごしたいなって、家族になりたいなって考えてた」
「家族に……?」
「うん。君と家族になりたい。だから君のお父さんは僕のお義父さんになるから、仲良くやっていきたいんだよ」

 微笑みながら霧切を諭すように話す苗木に、少しだけ霧切は昔好きだった父親の面影を思い出して重ね合わせた。そして、霧切はそれに応えようと決めて微笑んだ。

「まったく――あなたには適わないわ、誠君。もう悩むのも面倒だし、いいきっかけ……なのかもしれないわね――ありがとう」

 どうしてなのか。何のためになのか。幼い響子が時を超えて本人たちの目の前に現れた理由は誰にも分からない。
しかし二人の関係――いや、三人の関係をを進めるのに幼い彼女はどうやら一役買ったようだった。


― END ―


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