おかえりただいま


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連絡も無しにあの子が帰ってきていたことに気づいたのは、近所の奥さん達とお喋りをしていい加減、お夕飯の準備をしなきゃと家に戻った時だった。
土間に転がる靴に気づいて、居間を覗くと娘がまだ出しっぱなしのコタツにいた。
顎をテーブルの上に載せてぼんやりとしている姿に軽くため息をついた。
「帰ってくるなら連絡くらいよこしなさいよ」
返ってくるのは「んー」なんて呻き声だか何だか分かったもんじゃないもの。
誰に似たのかしらね、と思ったところで夫もよく寝言を漏らしているを思い出して肩を落とした。
まあとにかく、あまり変わりのない娘に少し安心した。
「おかえり、春香」
コタツに突っ伏しながら、娘は「ただいま」と言った。


八時ごろ、帰宅した夫は春香を見るなりそそくさと寝室へと引っ込んでしまった。
父親のそんな様子に娘は首をかしげる。洗い物をしている私に、もう寝ちゃうの? と聞いてきた。
「恥ずかしいのよ。お父さん」
娘が東京にいる間はひっきりなしに、いつ東京から戻ってくるんだと五月蝿かったのに、いざこうして帰ってくると言えず終い。
いつまでたっても繊細な男の子のような夫に苦笑していると、ふーん、とテーブルの上のミカンに手を伸ばしながら春香は返した。
「食べるのもいいけど、ちゃんと片しなさいよ、皮」
分かったよう、なんておっくうな返事。
ちゃんと一人暮らし出来てるのかしら。ぶーたれながらミカンの皮を片し始めたので、それは口には出さなかった。

春香は反抗期の無い子供だった。
それこそ娘の年齢を考えれば今まさに、なんだろうけれど他の親御さんから聞くような、手を焼いたような覚えは無い。
ケンカをして大ごとになったこともなければ、人様に迷惑をかけるような行為もしない。
私達夫婦には出来すぎた子供とは言わないけれど、それでも子供に救われてる部分は少なからずあるとは思う。
洗い物を終え、エプロンを外しながら春香のところにいくと、娘はまたウトウトと船を漕ぎ始めていた。
「寝るならお布団で寝なさいよ」
家を出て行ってからも春香の部屋はそのままにしてある。
こうして帰って来たときの為に、という理由もあるけれど、本音のところではこちらに戻ってきて欲しいのも正直なところ。
高校生の娘を一人、都会に送り出すということの不安を今更になって痛感している。
アイドルになりたいという夢までも取り上げるつもりはないのだけれど、たまにかかってくる電話口だけの元気という言葉は何と薄っぺらいことか。
うつらうつらしている春香の横顔は、親バカだと分かっているけれど可愛いと思う。
そりゃあ、あんだけお腹を痛めて産んだ子だ。可愛くないはずがない。
アイドルなんて、と静かに猛反対していた夫を結局、説き伏せたのも私。
いつだったか、春香を担当しているプロデューサーが家まで挨拶に来た際、自分は春香のファン一号だと言っていたけれど、それなら私は生まれながらの娘のファンだ。
散々、布団で寝なさいと言ったのに、テレビを気にしたまま春香はコタツで眠ってしまった。
しょうのない子だ。テレビが大好きで、テレビの中のアイドルが大好きで、今度はそのテレビに自分が映ろうとしている。
果たして自分の娘のどこにそんなパワーがあるのか見当もつかないけれど、よだれを垂らして寝る姿は私達が知っているいつもの春香だった。
よいしょ、と自然に口から出る言葉に少し気落ちしながらも、春香を部屋まで運ぶので夫を呼んだ。

次の日、夫が仕事に出てってすぐに春香は起き出してきた。
学校に行く朝はあんなに億劫にしてたのに、若い子はこれだから分からない。
思いのほか、スッキリした顔の娘は朝ごはんを頬張っていた。元々、食の細い子じゃなかったけれど、ここまで健啖でもなかったと思う。
「朝、食べないと一日もたないから」
モグモグと口にモノを入れながら喋るのは頂けないけれど、ご飯を美味しそうに食べる姿は見ていて気持ちが良かった。
そういえば、自分が夫に惚れたのもそういう理由だった気がする。

「今日も仕事なの?」
起きてくるのならお弁当でも用意すれば良かったと思っていると、お味噌汁を飲み干した春香が頷いた。
忙しいのは悪いことではないけれど、もうちょっとだけ居れば? という言葉を寸でのところで飲み込む。
そのまま言ってしまうのも親として許されるのかもしれないけれど、「ごちそうさま」と朝の光に照らされて輝く娘の顔に、いちいち影を落としたくなかった。
それから外出の準備を終えた娘を玄関まで見送る。
なんで連絡も寄越さずに帰ってきたのか、結局、聞けず終いになってしまったのは親としては不出来だと思う。
けれど、玄関を出て行く直前、少し恥かしそうに「ありがとう」と言った娘なのだから心配はないだろう。
帰ってきた夫が、もう既にいなくなっている春香にまたオロオロするだろうけど、それもまた親の務めだと思う。
「また帰っておいで」
さびしいときは、つらいときはいつでも。
元気一杯に駆け出す子供を見て、私も洗濯物に取り掛かることにした。