favorite


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

 冬本番、暖房の効いた車の中でさえ、窓は冷気を放っている。
 助手席から眺める東京の街は、今日も忙しい。日も落ちてシャッターを下ろす準備をする店も中にはあるが、
まだまだ道も明るく、歩道を行く人の表情に疲労感はあまり見えない。一般的な企業の終業時刻は過ぎている。
 信号待ちをしているあの人は、隣の人と楽しそうに談笑している。きっと、あの後アフター5でお酒でも飲
みに行くんだろう。見知らぬ人ながら、いい表情をしていると思った。
 一方私はといえば……体が声にならない悲鳴をあげている。前腕や太もも、ふくらはぎの辺りがミシミシ言
っているようだ。それも、今日一日を振り返ってみれば、無理も無いことだろう。
 元々予定では午前中にダンスレッスン、午後に歌詞レッスンを入れてあったのだが、トレーナーの都合で午
後のレッスンがキャンセル。ダンスのスタジオの方も予約が入っておらず、ダンスの先生も時間が空いていた
ということで、ついさっきまでぶっ続けで新曲の踊りの練習と今までの私のダンスの総点検を行っていたのだ。
普段は時間に追われて見ることができない微細な部分までチェックすることができて、得られたものは大きか
った。しかし、その代償にこの重たい疲労だ。
「ふぅ……」
 プロデューサーの車に乗せてもらってから何度目になるだろう。深い溜息が出た。
「随分お疲れのようだな、律子」
「『ようだ』じゃなくて、随分お疲れなんですよ、律子さんは。もう全身がだるくって」
「ははっ、そうだろうな」
 そう言うプロデューサーの笑いも、どこか乾いている。この人と来たら、遠目からのんびりと眺めていれば
いいのに、わざわざ着替えて私の横で一緒になって練習していたのだ。
「プロデューサーこそ、大丈夫なんですか?」
「まぁ、ヘトヘトではあるが……」
「なんであんなことを? 別にプロデューサーが新曲を踊るわけでも無いのに」
 前方の信号が赤に変わった。車が速度を落としていく。体が前に引っ張られて、シートベルトが食い込む。
「ああ、あれはな」
 たん、たん、たん。長い人差し指がハンドルをタップする。
「運動不足の解消……と思ったのが、25%ぐらいだな」
「残りの75%は?」
 顔を僅かに傾けて、プロデューサーが私に流し目を送った。
「律子のやっていることを、少しだけ体感しておきたいと思ってな。ダンスレッスンって言葉で言うのは簡単
だけど、どれぐらい大変なのか。トレーナーがいつも注意して見ているのは、どんなポイントなのか。律子は
どんなアドバイスを出されていることが多いのか。そういうの、もう少し深く知っておこうと思ったんだ」
 真面目な声だった。気持ちは嬉しいけど、プロデューサーの声に滲む疲労を思うと、喜べなかった。
 信号が青に変わる。青から赤に変わる時は黄色を通過するのに、赤から青に変わるのは、いつでも突然だ。
「けど、それにしたっていきなり過ぎると思います。プロデューサーだって体が資本なんですから、慣れない
ことしたら怪我するかもしれないじゃないですか」
「……ま、律子の言う通りだな。思ってたよりキツかった。筋肉痛が怖いよ」
 隣を走っていた車が速度を上げて、私達を追い抜いていく。その後ろを追いかけるようにして、赤いスポー
ツカーが駆けていった。
 信号を三つほど過ぎた頃、プロデューサーのお腹が鳴き声をあげた。ステレオの音量を下げていたせいで、
助手席までよく聞こえた。
 プロデューサーはわざとらしい咳払いをして、顔を赤らめた。その様子を見ていたら、思い出したように
空腹感が歩み寄ってきた。時計を見れば、もうそろそろ夕食には丁度いい時間帯だ。
「律子、腹減ってないか?」
 空腹のサインを誤魔化せていないことを悟ったのか、プロデューサーが切り出してきた。
「正直言うと、腹ペコですね。今日は運動量が多かったですから」
「よし、それならどっかで食っていこう」
 仕事が夕方や夜までかかった時は、こんな風に話が進んで夕食に連れて行ってもらっているのだけど、今日
のプロデューサーは声が弾んでいる。私も人のことは言えないけど、よっぽどお腹が減っているのだろう。ち
ょっと微笑ましい。
「どっか行きたい所、あるか?」
「プロデューサーはどうなんですか?」
「俺か? そうだな……肉だな、肉が食いたい。今夜は肉食獣になりたい」
「肉かぁ……いいですね。私もタンパク源が欲しい気分です。いい所知ってたら、連れて行って下さいよ」
 プロデューサーの言葉に私が乗ると、
「よし、それじゃあ決まりだな」
 と、にんまり笑って彼はハンドルを握り締めた。

 彼に案内されながら辿り着いた場所は、通りに面したビルをエレベーターで昇った所にある店。焼肉屋とい
うより、定食屋にカテゴライズされるようだ。『ごはんお替り自由』という文字が書かれている辺り、男性の
好きそうな店といった感じがする。
 店内の客足は上々。テーブル席に空きが無いということで、カウンター席の隅を薦められて、二人並んでそ
こに腰を下ろす。私は壁側で、プロデューサーがその隣。肉を焼いている姿をカウンター越しに見せるという
スタイルでやっている店のようだが、彼らから見て右後方にあたるこの席からは、特にそれがよく見える。威
勢良く客からの注文が読み上げられ、厨房の中からも外からも復唱される。活気があった。
「どれにしようかな……」
 そんなことを言いながらも、プロデューサーが広げてくれたメニューに視線を落とすまで、私の目は厨房の
中を向いたままだった。メニューの中を見てみると、元々印刷されている物に加え、ご丁寧に栄養成分の詳細
が書かれている。脂肪分の少なめな物を探すと、牛タンのセットが丁度良さそうだった。プロデューサーの方
は既に注文が決まっていたようで、私が決め終わると同時に注文が確定した。
「こういう店、よく来るんですか?」
 周りの客層を見て、男性に混じって席に座る女性の姿があるのを確認しつつ、プロデューサーに尋ねる。
「まぁな。ガッツリ食いたくなると、大抵ここだな。焼肉屋はニオイが付き易いし、苦しくなるぐらい食っち
まう時があるから」
「なるほど……」
 厨房の中では、私達の注文を受けてなのか、数枚の肉が鉄板の上に躍り出た。鉄板の前に立つ男の人は、先
程私達が店に入った時から──きっと私達が来る前からずっと──その場をほとんど動いていなかった。肉を
焼く担当。何時からかは分からないけれど、勤務時間の終わりまで、ずっとあそこにいるのだろうか。
 注文を受けて、肉を焼いて。その繰り返しの間、あの人はどんなことを考えているんだろう。
 肉が裏返った。
「どうした律子。ぼんやりしてるけど、そんなに疲れちゃったか?」
「いえ、厨房が見えるような店って、珍しいな、って思って」
 そうか、と言って、プロデューサーがお茶を啜った。
「男の人って、肉が好きな人多いですよね」
「ああ、そうだな。律子はどうだ?」
「私ですか? まぁ、それなりかな。嫌いでは無いです。肉嫌いだから食べないっていう友達もいますけど」
「うーん、肉の何が嫌なんだろうな」
「さぁ……ニオイ、とか?」
「まぁ、好みは人それぞれだよな。性別による傾向ぐらいはありそうなもんだけど」
 別の客からの注文を読み上げる声が、店内に響いた。
「よく言われてるのが『女性の甘い物好き』とかな。律子も好きだろ?」
 いくらか言外の意味を含んだ眼差しで、プロデューサーが私を見た。
「……ええ、そこは否定しませんよ。甘い物が無いと生きていけません。脳はブドウ糖しかエネルギーにでき
ないんだから、やはり糖分は必要なんです」
「た、確かにそうだが……」
 以前、ライブイベントの打ち上げでケーキバイキングを奢ってもらった時、プロデューサーが私の皿を見て
引き攣った顔になったことを思い出した。あの時と、同じ顔になっている。
 そりゃあ、ちょっと食べ過ぎちゃったとは思うけど。

 予想していたよりも早く、料理がカウンターへやってきた。ホカホカと湯気も立ち、香ばしい匂いが食欲を
掻き立てる。思わず私のお腹も鳴ってしまったけれど、鉄板で肉が焼ける音や、周囲の客の話し声に消されて
隣の席までは聞こえなかったようだ。プロデューサーは何の反応も示さず、ただ目の前の皿に目が釘付けにさ
れている。隣の席に続いて、私の目の前にもお盆が差し出された。
 お盆の上には、麦飯、とろろ、テール肉の入った透明なスープ、漬物の小皿、そして焼き目のついた牛タン。
二人のお盆の間には、プロデューサーが頼んでくれたサラダがある。
 こんなに食べきれるだろうか。それが私の抱いた第一印象だった。
「じゃ、食べるか」
 パキンと小気味良い音を立てながらプロデューサーが割り箸を割った。頂きますと一礼、箸を手に取る。
 何も考えずに箸を伸ばしてみると、牛タンに辿り着いた。くっきりと残る規則的な模様が目を引いたし、体
が求めているような気がした。
 固くて噛み切り辛いというイメージをどこかに抱いていたが、いい意味で裏切られた。噛み締める度に、顎
の内側がギュッと締め付けられるようだ。脂が乗っているが、脂っこくは無い。『美味しい』よりも、『旨い』
という表現がぴったりくる、逞しい味だ。
「んー……ウマい」
 美味しいですね、と私が言う前に、プロデューサーが味わい深い声を漏らした。私が相槌を打つ前に、もう
二口目を食べ始めている。ガツガツ、ムシャムシャ。擬音で表したらそんな所だろう。
 食べるというより、貪る。夢中になっているプロデューサーの姿は、狩りで捕らえた獲物にありつく獣を思
い起こさせた。もっとも、狩りで生計を立てる野獣は楽しんで食事をしている訳ではなく、文字通りの死活問
題なのだけど。
 隣を眺めている場合じゃない。冷めてしまわない内に、私も食べよう。箸を進める。
 粒の立った麦飯、コクのあるスープ、堂々たる存在感の肉を、舌で味わいながら飲み込んでいく。
 つるつると喉越しの良いとろろで時折口の中を冷やす。
 一口食べれば、次が欲しくなる。箸が止まる気配は全く無かった。
 横で御飯のお代わりをしつつ気持ちいいぐらいにどんどん食べていくプロデューサーの姿も、いいおかずだ。
 テレビのCMでお茶漬けをさらさらと掻きこむ姿を見ていて、お茶漬けが食べたくなることがある。あのCMのタ
レントに男性を採用している理由が、分かるような気がした。あの姿自体にも、食欲をそそられるのだ。

 私が食べるよりもずっと早く、プロデューサーは自分の分をすっかり綺麗に平らげてしまった。しかし私の方
は、少し苦しくなってきた。まだ皿の上には肉が残っているのだけど、正直言ってお腹いっぱいだ。盛り方の問
題であまり多くは見えなかったが、器のサイズの都合、麦飯も多かった。
「……プロデューサー」
 お茶を飲んでいる彼に、視線を送ってみる。
「ん? どうした?」
「まだ、お腹に空きはありますか?」
 すっ、と、お盆を右へ差し出す。
「おっ……! いいのか?」
 その瞬間、彼の両目がきらりと光ったような気がした。喜びを隠し切れない、少年のような表情に、思わず
私の口元も緩んだ。
「ええ、どうぞ」
「それなら……頂きます」
 ひょいっと箸が伸びてきた。皿の上に残っていたものが、みるみる内に捕食者にさらわれていく。
「ん、ウマい、牛タンもいいな」
 感想もそこそこに、次の一枚、二枚も、あっという間に消えてしまった。茶碗に残った麦飯も、米粒一つ残
らなかった。ただ、そこにあった獲物を夢中になって食べているだけなのに、私はその姿に、訳の分からない
頼もしさのようなものを感じていた。

 店を出る時、彼はいつも私にするように、勘定を持ってくれた。
「いつもすみません、奢って貰っちゃって」
「いいって。その分、仕事の方しっかり頑張ってくれよな」
 そう言われると、何も言えない。取り出しかけた財布をしまう。
「今日の店は、律子には多過ぎたかもな」
 帰りのエレベーターの中、プロデューサーがぺこりと頭を下げた。
「私はいいですけど、プロデューサーこそ、あんなに食べて平気だったんですか?」
「ん、俺か? そうだな、俺は……」
 エレベーターが一階に到着した。ドアが開く。
「大満足だ。お腹いっぱいだよ」
 満面の笑みだった。そのまま、食品関係の商材にでも使えそうなぐらいの。
 一緒に食事に行ったことは何度かあったけど、店を出る時に彼が満ち足りた顔をしているのを見るのは、こ
れが初めてだった。
 こういうのが好きなんだな、この人は。
 そんなことが分かっただけで、何故か胸の内が温かくなる。

 そんなに食べてたら太っちゃいますよ、と釘を刺そうと思っていたけれど、今日は辞めておこう。
 私は黙って彼の後ろをついていった。


 終わり