無題36


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 もうはっきりと陽射しは傾いたが、まだ夕暮れには早い。そんな時刻に、ときどき出会
える光景だった。蒸気は少なく、澄んだ空は深く透き通った独特の青みを見せ、ちぎれ雲
に反射する日の光がオレンジ色を帯びて何となく夕方の海を思わせる。
 きれいだ、と雪歩は思った。車から降り、すぐに目が行った景色に、雪歩はしばし見と
れていた。心底美しいと、――それ以外のことは忘れていた。
「きれいだなぁ」
「あっ、はい。……とっても、きれいです」
 いつの間に三井が隣に来ていた。雪歩のプロデューサーである。雪歩は空を見上げるの
を止めて三井の方を向いたが、それでも見上げることには変わりない。近くにいるときは
特にそうである。雪歩と同じように見とれた風のプロデューサーの横顔が見えた。
 ――嬉しいな。
 さきほどまでの感動はもう霞んでしまって、ひとつの共感を得た喜びが雪歩の胸をあた
ためた。
 三井が行こうか、雪歩のほうを見た。雪歩は目で返事をし、二人して事務所へ入ってい
った。
 今日はもう仕事は仕舞いである。とはいえ身内でのミーティングと新曲のレッスンの一
部は残っているが、それらはいわば所属の事務所内、通いなれたスタジオでも、いわばホ
ームグラウンドで出来ることである。雪歩はこのところようやく上昇の気配が出て、隙を
逃せない時期だった。大口とはいえないが向こう様から声がかかることが増えてきた。そ
のため休みが減った雪歩への、負担をなるたけ軽減しようというプロデューサー苦心のや
りくりだった。
 これだけでも雪歩にはありがたいことだった。外の仕事はやはり緊張し、疲れる。それ
でも以前と比べたら楽しめているはずだと雪歩は思うのだが、やはり自信は持てない。
 ――でも、そういうことにしておこう。
 落ち込んでしまうよりはましだ、と雪歩は思った。こうやって多少曲りなりにしても前
向きに考えられるようになってきただけで進歩だろうとも思う。今日の仕事も特に上手く
いったわけではなく、いっぱいいっぱいでとてもプロデューサーほかを十分に満足させた
とは思えない。後悔は尽きない。今後の行く先は不安で仕方がない。しかし特別失敗しな
かったのだから及第。美しい空が見られた幸運を足して今日は合格。良いことだけを数え
ればいい。そうだ、落ち込むことはない。落ち込むことは……。
 疲れる考え事は止めて、雪歩は別のことを考えることにした。今日は春香のオーディシ
ョンがあったことを思い出す。
 春香は雪歩と同期のアイドルで、雪歩とは逆に最近停滞していた。スランプではなくプ
ラトーだと三井は言っていたが、雪歩には意味はよく分からない。全体としては発展途上
の勢いはあり人気に陰さすほどではないが、パフォーマンスが上がらずステップアップし
た先のオーディションに連続して不合格の日々が続いている。そのせいなのか、イベント
やテレビでもミスが増えてきていると他の事務所のアイドルの口から雪歩の耳に入るほど
だった。

 そうとはいえ、雪歩はずっと低空飛行だったため初めからある程度順調に伸びた春香と
は今でもまだ差がある。しかしそれを埋められそうな予感を雪歩とプロデューサーは掴ん
でおり、だからこそ頑張れるということもあった。
 ――春香ちゃんと話できる時間、あるかな。
 一度春香のことを考え出すと、雪歩はたまらなく恋しくなってきた。仕事が忙しくなる
につれ、無二の親友と会える時間は減っていた。雪歩には春香に聞いて欲しいことがたく
さんあった。
 ――でも……。
 オーディションの結果如何ではあるが、春香も、いや春香の方が今は苦しい時期のはず
だった。またいつまでも泣き言を言う自分では春香に申し訳ないと雪歩は思った。それに
自分は進歩したんだと、さきほど自分に言い聞かせたばかりである。弱ってはならない。
頑張らなくては……。雪歩は春香の笑顔を思い浮かべ、春香ちゃんみたいになるのは大変
だなぁ、とひとりごちた。



 ただいま戻りましたと口々に言って事務室に入ると、事務員の小鳥と、雪歩たちと同じ
く今さっき帰ってきたらしい春香とそのプロデューサー、吉川が立ち話をしているところだった。
 気付いた小鳥があら、雪歩ちゃんたちも、おかえりなさいと言い、春香たちもそれに続
いた。雪歩たちも改めてただいまを言った。あたたかい職場だった。小さな事務所で、互
いに知らぬ人間などいない。
「雪歩、俺はこれから社長へ報告があるから、先に休憩しててくれないか」
 と三井が言った。雪歩がはいと答えると、三井はおいお前もまだだろうと吉川に声をか
けた。
「二人して行くのか」
「ああ」
「嫌だよ。なんで大人が二人して……それに俺はお叱りを受けに行くんだぞ」
 どうやら春香はオーディションは落ちたらしかった。雪歩は沈痛な思いがした。
「聞きたいな」
「黙れ」
「いいから。お前は部屋の前で待ってればいいんだ」
「なぜ俺が待つ。俺はまず春香と反省会を……」
 そこまで言って、吉川は一呼吸置いた。そして続けた。
「わかったよ。行くぞ」
 春香は休憩室で待機だ、と言い残して吉川は先にたって歩き出した。三井がそれに続く。

「はい。待ってまーす。じゃ、雪歩も行こっ」
 言うなり春香が雪歩の肩に手を置きくるりと回転させた。
「うん。あっ、ちょっと……」
「ね、ね」
 春香は電車ゴッコをするような形で雪歩を押して行った。その無闇に元気で子供っぽい
行動に、春香ちゃんまた無理してるな、と雪歩は思った。
 休憩室とはいっても建物の構造として個別に部屋があるわけではなく、事務室の隅に仕
切られた空間である。作り付けの摺りガラス塀で囲われており、正しくは応接用と思われ
る古ぼけたビニールレザー張りのソファーはところどころひび割れ、破けて中のスポンジ
が見えている。もとは喫煙ルームであったらしく換気扇と、ほんの微かに煙草の匂いが残
っていた。
 入るなり、雪歩は春香にそのまま後ろから抱きかかえられた。後頭部に春香の額がこつ
んと乗せられたのが分かった。
「あのね、雪歩ぉ……」
 ――ああ、やっぱり。
 春香の声は普段より少し細かった。雪歩の胸がまた痛んだ。
「うん。なぁに?」
 雪歩は努めて優しく聞いた。
「うー……またオーディション落ちたぁ」
 春香は雪歩に預けた体重を元に戻すと、ため息をついた。
「うん……」
 辛いとき、苦しいとき、落ち込んだとき、雪歩と春香は互いに頼りあうのが常だった。
プロデューサーというパートナーがいない候補生時代から苦楽を共にしてきた間柄である。
デビュー後にしても、“少しばかり”年上の新人プロデューサーより友達の方がずっと信頼
できた。やがてパートナーとの信頼関係が生まれ、またそればかりでなくそれぞれにプロ
デューサーに淡い恋心を抱くようになったが、相談相手に友達を選ぶことは変わらなかっ
た。
 話を聞いてやるべく、雪歩は自分の肩に置かれた春香の手をとり、春香に向き直った。
案の定、眉が八の字になっている。
「それでね……」
 今度は雪歩の手を両手で握り、春香は続けた。
 前回も自分より上位だった子にまた負けたこと、審査員につまらないと言われたこと、
控え室で誰かが自分を名指ししてあの子もうダメなんじゃないと言ったのが聞こえたこと、
プロデューサーの指示をステージで度忘れしてしまったこと、レッスンで出来ていたこと
が出来なかったこと、プロデューサーの自分の見えないところで苦い顔をしていたのを見
てしまったこと、なのにその後叱られなかったこと、そして頑張ってるのにまたダメだっ
たということ、それがつらいということ……。

 うん、うんと言って頷きながら聞く雪歩にひとしきり愚痴をこぼすと、春香はふうっと
一息ついた。そして俯けていた顔を上げると、すでににっこりと笑っていた。
「うん、でもこんなことで気を落としてられないよね。雪歩に話聞いてもらって気持ちの
整理ついたよ」
 ありがと雪歩、と言って春香は雪歩の頭を軽く撫でた。
「あっ、うー……春香ちゃん……」
 年下に可愛がられるのは自尊心に触る。雪歩は嫌がって見せたが春香がそれを受け入れ
てくれたことはない。
「いーじゃん、可愛いんだから」
 ねッ、と春香はにっこり笑って言った。
 ――もう笑ってるし。
 春香はいつもこんな風で、立ち直りが早い。落ち込んだりしても自分で元気を出せる強
いひとだった。私も春香ちゃんみたいになりたい、と雪歩は思う。ううん、ならなきゃ。
 ――でも……。
 雪歩は春香をじっと見つめた。いつもめそめそと弱気だった頃は元気を出すということ
がいかに大変なことか知らなかったが、今は違う。報われない輪の中で、春香は何を糧に
しているのだろうか。
「ん?どしたの?」
 と春香が言った。とても愛嬌のある可愛い顔だった。この顔をするために、一体どれほ
ど頑張っているのだろう、と雪歩は思った。
 空元気も元気のうちという。それならそれでいいのかもしれないが、いつまでもそれで
は……。
「え?何?な、なんか照れちゃうなぁ」
 春香はひょいと目を逸らした。
「ねぇ、春香ちゃん。疲れちゃっていいんだよ」
 雪歩がそう言うと、え、と漏らして春香は黙り込んだ。春香らしい――とはいえ素直す
ぎる反応はやや意外だったが、雪歩は春香が自分のことを励ましてくれるときを思い出し
て、ね? と笑ってみせた。
 春香は、あ、でも、と躊躇うそぶりを見せたが、やがてうん、とうなづいた。
「うん……疲れちゃった」
「うん」
「ねぇ雪歩ぉ……、私もう疲れたよぅ」
「そうだね。疲れたね」

 雪歩が腕を広げてやると、春香はすぐ抱きついてきた。その頭を撫でてやりながら、本
当にこう言って欲しかったのは私なのかもしれない、と雪歩は思った。
 ――本当は、私が甘えたかっただけかもしれない。
 ヒトの体温と匂いに、自分自身もゆるゆると解れていくのを雪歩は感じていた。



「よしよし。座ろ、春香ちゃん」
 うんと言って抱きついたまま動かない春香をソファーに座らせ、雪歩は自分も横に腰掛
けた。
 春香は雪歩の肩にもたれ、目を閉じた。春香に元気がないのは心配ではあったが、自分
が頼られる側なのは悪い気がしないと雪歩は思った。いつも自分が頼ってばかりでは居心
地が悪い。雪歩は、自分が春香に何かしてやれるのが嬉しかった。
「……ありがと、雪歩。プロデューサーさんに、こんなこと言えないし、……お母さんに
も、言えなくて……」
「うん、そうだよね」
 明るいのが常の春香だけでなく、泣き虫である雪歩でさえ――だからこそかえって――
事務所の大人たちに面と向かって弱音を吐くのは憚られることだった。信頼しているとは
いえやはり彼らとは仕事上の付き合いであり、プロのアイドルとして、一個の大人として
個人的なことで気を煩わすのは気が引けた。それに反対を押し切ってアイドルになった手
前、家族にもそうそう甘えられるものでもない。なにより、自分の味方に格好悪い姿を晒
したくないという、そういう気持ちがあった。
「春香ちゃん、アイドルやるの、大変だよね」
 と雪歩は言った。雪歩と春香が今まで互いにもう何度も交わしたような愚痴である。
「うん」
「レッスン、厳しいし」
「うん」
「意地悪な人いるし」
「うん」
「ファンの人、移り気だし」
「うん」
「オーディションって、あれイジメだよね」
「うん」
「お仕事長いし、遊ぶ時間ないし。仕事先の人と上手くやってくの疲れるし」
「うん……」
「もうアイドルやるの嫌?」
 このあとに『負けてられない』などと続けるのが慣習だった。雪歩は春香に縋って泣き
ながら、そして春香は雪歩に笑いかけながら。
「……うん、嫌かも」

 しかし、拗ねたように春香は言った。それが素直な気持ちなのかどうかよく分からなか
ったが、良かった、言ってくれたと雪歩は思った。
「そっか、よしよし。じゃあアイドル辞めたい?」
「……。プロデューサーさんとお別れするのは、やだなぁ」
 やや冗談めかしたような春香の言い方に、雪歩はなんだほんとに大丈夫なんだと安心し
た。やっぱり春香ちゃんだ、と思った。
「あはは、春香ちゃんはほんとに吉川さんのこと好きだね」
「雪歩だって。……ねぇ雪歩、もっと……」
「ん?」
「もっと撫でて」
「うん、いいよ。いっぱい撫でてあげる」
 小さい子供のような甘えた声を出した春香を、雪歩は姿勢をずらして胸に抱えた。自分
より少し背の高い少女を支えるのは少々骨だったが、頭を撫でいい子だね、大変だったね、
頑張ったね……と声をかけてやる。
「うん、雪歩、私がんばったよ」
「うん。春香ちゃんはがんばってるよ。春香ちゃんはすごいよ。辛いときでも頑張れて、
笑顔になれて……私じゃ、全然真似できないよ。私いっつもすごいなぁ、えらいなぁって
思ってるよ。……だからごめんね。いつも私ばっかり春香ちゃんに甘えて」
「いいよ、そんなこと。私だって雪歩に愚痴聞いてもらってるし」
「ううん、春香ちゃんはもっと力抜かないとダメ。私、がんばるから。ね? 春香ちゃん
の力になれるように……」
 雪歩は春香の髪を梳きながら、春香ちゃんが年下らしく見えるなんて、ちょっとおかし
いなと思った。春香がなんで今笑ったの、と言った。なんでもないよと雪歩はごまかした。
「ふぅん。……なんかヘン」
「何が?」
「雪歩がお姉さんみたいで変。頼れる雪歩なんて雪歩じゃない」
「ええ~っ」
 雪歩はむくれてみせた。春香もいらずらっぽく笑う。
「でも、うん、これからは、遠慮しないでいいかな。ダメダメ雪歩じゃなくなったみたい
だし」
「えっ? あっ、でも、私も……」
 ――あうぅ、どうしよう……。
 雪歩は思わず慌てた。ひょっとして、これからもずっとこの役割なのだろうか。それは
困る。しかしついさきほど頑張ると言った手前、春香に助けて欲しいと言うのはおかしい。
そんなことを考えると、雪歩は自分がみるみるうちに不安な顔になっていくのが分かった。
「あははっ、大丈夫。泣きたくなったらおいで。友達でしょ。もぉ、せっかく珍しく先輩
らしいなぁって思ってたのに」

 春香は身を起こして笑った。
「うぅ。珍しくって、私春香ちゃんに勉強教えてあげたりしてるし」
「あー、そうだね。でも自信なさげじゃん、『たぶん等加速度運動の公式じゃないかな、た
ぶん』とか」
「うー、だったら吉川さんに教えてもらえばいいよ」
「ごめんごめん」
 そして春香はふふっと笑った。
「……ありがと。ちょっとはやる気出せそうかも」
「良かった。でもちゃんとお休みもらったほうがいいよ」
「そこまでしなくても大丈夫だよ……。オフはちゃんともらってるし」
「そうかなぁ。春香ちゃん、この前のオフってひと月以上前じゃなかった? しかも事務
所来てたでしょ。吉川さんに怒られてたよね」
「それは、だってオーディション受かりたかったし……」
「何でもいいけど、そのへんも体調管理のうちだよ。怠けるわけじゃないんだし」
「うーん、そっかぁ。……じゃあそうしてみようかな」
「そうそう。お願いしてみなよ。もしお休みもらえたら、ぱーっと遊ぼう」
「うん……うん。そうしよっ」
 そう言うと春香は手足を伸ばして思い切り伸びをした。なんかやらなきゃいけないこと
ばっかりで、休むなんて全然思いつかなかったぁ、とぼやく。
「そうだよね。休憩してもいいよね。あははっ、私なんで切羽詰ってたんだろ」
「そうだよ。子供の労働はんたーい!」
「労働! そう労働だよ! うわー私たちを馬車馬のように働かせてお金稼いでるんだぁ。
ひどーい!」
「ひどーい!」
 雪歩と春香はどちらからともなく、くすくすと笑い出した。それだけで肩の凝りがやわ
らぐ感じがした。
「プロデューサーさん、呼んでこなくちゃね」
 と春香が言った。
「もういいの?」
「うん、だいじょぶ。雪歩のおかげ」
 春香は片目を瞑ってみせた。
「……そっか。じゃあ呼んでくる。お茶も淹れてくるから」
「ん、おねがい」
 春香の声を背中に受けて雪歩は部屋を出た。



 三井と吉川は事務室のデスクで何やら話していた。このようなときはいつも、雪歩は彼
らの親切と思いやりに感謝の念を抱きつつ、それ以上に引け目を感じる。まだまだ子供な
自分が不甲斐無く、申し訳ないと思ってしまう。
 ――でも、それでもいいや。
 慌てる必要はないのだろう、と雪歩は思った。この人たちが許してくれているうちは。
そして将来、きっと裏切らないだろう。私たちは。

「すみません、待ちましたか」
 雪歩が声をかけると、いや、ついさっき終わったところだからと三井が答えた。
「そうですか。良かったです。あの、私お茶淹れてきますから、休憩室でちょっと待って
てください」
「ああ、それなら音無さんがやってくれてるから」
 と、吉川が言った。自分で淹れたい気分だったので少々残念だったが、手伝いだけでも
しようと雪歩は思った。
「じゃあ、私お手伝いしてきます」
そう言って、雪歩がドアの方へ歩き出そうとしたとき、ドア越しに小鳥の声が聴こえてきた。
「いいのよ雪歩ちゃん。もうできたから。……あ、ドア」
「今開けます」
 雪歩は駆け寄ってドアを開けた。小鳥が茶碗をのせたお盆を持って苦笑いしていた。
「あはは、やだなぁ。前はいつも事務室のポットでお茶いれてたから、ついドアのこと忘
れちゃうのよ」
「もう何度目ですか? 音無さん」
 と吉川が笑いながら言った。小鳥が失礼ねと返す。
「普段はなんとかして自力で開けてますよ」
「そういえば昔は雪歩も同じことやってたなぁ。ドアの前で固まって涙目になってて。あ
れは可愛かった」
「ぷ、ぷろでゅーさぁ!」
 雪歩は思わず赤面して三井に抗議の意を表したが、三井はにこにこしながらこちらを見
返すだけである。
「も、もう……。あの、すみません音無さん。ありがとうございます」
「何言ってるのよ、いつまでもアイドルにお茶汲み名人させておくわけにはいかないわ。
そもそもどっちかっていったら私の仕事だしね。あ、味のことなら大丈夫よ、雪歩ちゃん。
ちゃんと教えられた通りにやってるから。最近評判なのよ、私お茶淹れるの上手くなった
って」
「雪歩には敵いませんけどね」

「もお、吉川さんは何でそんな意地悪なんですか、まったく。それにしても、雪歩ちゃん
声大きくなったわね。それに良く徹るわ。前は廊下からだとプロデューサーさんの声しか
聞こえなかったのに」
「え? そうですか?」
 思ってもみなかったことだった。雪歩は三井の方を振り返った。
「ああ、もちろん。でなきゃここまで来れないよ。さ、行こう」
 三井が雪歩の肩をぽんと叩いて言った。
 ――そっか。うん。
 よく分からないが成長したということだろう。嬉しいことだった。
「プロデューサーさーん、まだですかぁー?」
 春香が休憩室から顔を出して呼ぶ。今行くと吉川が答え、四人は休憩室へ向かった。



「で、プロデューサーさん!」
 お茶を置いて小鳥が去ると、春香は姿勢を正して声を発した。
 ――あれ、春香ちゃんなんかやる気あるなぁ。
 妙にきりりとした表情の春香に雪歩がそんなことを思っていると、
「何だ、春香」
「私、お休みをもらいます!」
 これもまたいやにきっぱり言った春香に、雪歩はなんだそっちのことかと心の中で苦笑
いをした。
「あのなぁ……そんなのんきに構えてる場合じゃないんだ」
 吉川があきれたように言った。
「のんきじゃありませんよ! 疲れた心と体を癒す充電期間が必要なんです!」
「元気じゃないか……」
「無茶は言いませんよ。一日でいいですから。羽休めです。遊びたいんです」
「スケジュール空くことがあったら休ませてやるから」
「いつ空くんですか」
「言っとくけど今入ってる仕事は休ませないからな。……ぶーぶー言うな。当たり前だろ
う。でもこっちからオファーを貰いにいくのを控えるから。どうせひっぱりだこってわけ
じゃないからな。どこかで空くだろう」
「なんで皮肉っぽいんですか」
 いかにもやれやれ仕方ないといった風情でありながら、吉川は別段不満そうではなかっ
た。初めからこのことは織り込み済みだったのかな、とお茶を啜りながら雪歩は思った。
「だって、ゆきほっ」
「へっ?」
 突然、春香のにっこり笑った顔が目の前に突き出され、雪歩は間抜けな声を出した。

「え? 何?」
「聞いてたでしょ? お休みもらえるって」
「あ、うん。良かったね」
「それでプロデューサーさん、三井さん、出来れば雪歩とおんなじ日にお休み欲しいんで
すけど……」
 春香は再び腰掛けて今度は吉川だけでなく三井にも交渉を始めた。
 ――え? 私と一緒?
「ん? 雪歩も休みたいのか?」
「いえっ、私は全然。頑張れます。春香ちゃん、何で私も休むの?」
「え? だってぱーっと遊ぼう、って……」
 ああ、言ったかもしれない、と雪歩は思った。しかしそれは一緒に遊ぼうというお誘い
や約束ではなく単なる促し、勧めの意味だった。雪歩は春香にそう説明した。
「えーっ、そんなぁ。ひどいよぅ。ぬか喜びさせるなんて」
「ごめんね」
「あーあ。雪歩と遊べることなんて滅多にないのに」
 確かにそれは魅力的だと雪歩は思った。候補生時代とデビュー直後の時期以外、二人同
時にオフが取れたことはない。だが予定を変える気はなかった。
 ――オフは29日にもう決まってるし……。
 春香はこちらを恨めしげに見ながらしょげている。そんな顔したって駄目だ、と雪歩は
自分に言い聞かせた。春香に追いつく機会なのだから余計な休みなどとっていられない。
 ――あ、そうそう。
「あの、プロデューサー」
「ん?」
「今まだ次のオーディション決めてないですよね」
「ああ。次はステップアップしたいし、もうちょっと様子見だな」
「あの……私、オーディション受けたいです」
 雪歩は先ほどの春香とのやりとりを思い出していた。あのときのような気の持ち方で舞
台に立てれば、きっともっと見える、もっとできる、もっと届けられる。そんな曖昧で楽
観的な、けれど抗うのが難しいほど希望に溢れた予感があった。
 ――私は、ステージでも“お姉さん”になれるかな……。
 三井はへぇ、と言った。今日のオーディションについての反省会に移行していた春香
たちも黙った。
「珍しいな。雪歩が自分からオーディション受けたいなんて」
「はい、ちょっと試してみたいことがあって」
 三人に注目され、雪歩はどぎまぎしながら言った。

「ふぅん……。なら、まず俺にそれを見せてもらおうかな」
「は、はいっ」
「プロデューサーさん!」
 雪歩が気合の入った返事をすると、それにかぶせて春香も言葉を飛ばした。
「何だ今度は」
「明日オーディション受けましょう!」
「……あのなぁ、今日ボロボロだったのに何言ってんだ。今日の明日でなんとかなるもん
じゃないんだぞ。まず今日の反省をしっかりやって、休息も取って、練習――」
「そんなのんきでいいんですか! どんなときも全力前進ですよ!」
 テーブルをバンバンと叩いて春香は吉川を叱咤した。
「お前は休みたいって言ったじゃないか……。そもそも明日開催のオーディションはない」
 ああだこうだとまたやかましく今後の方針と予定を話し合い始めた二人を残し、雪歩と
三井は腰を上げた。
「それじゃ、俺たちはレッスンに行くから」
「おう」
「また夜にね、春香ちゃん。会えるよね?」
「いーだ! この裏切り者っ」
「むー。知らないもん、そんなの」
 雪歩はつんとそっぽを向いてやった。
「ゆきほっ」
 そのまま部屋を出て行こうとする雪歩を春香が呼び止めた。
「言っとくけど、まだ私のほうが売れてるんだから」
「……まだ、ってことは抜かれる自信があるのかな春香ちゃんは」
 む、と唸って黙った春香を見て、負けるの早すぎるだろうと吉川がつぶやいた。
「と、とにかくっ」
 強引に取り繕うと、春香は一言、負けないから、と言った。
「……私も、負けないから」
そして、まっすぐ見つめあう二人の口許がふっと緩んだ。
 ――頑張ろうね。



 互いに仲良しな女の子から互いにライバルのアイドルに変わった二人を、男二人がそれ
ぞれ頼もしそうな目で見ていることに、雪歩と春香は気づかない。