宵闇偶像草紙


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 さて本日は陽気もよく、風爽やかにて乾きまこと好日である。
「ふあ……」
 縁側で老猫よろしく寝そべり、見るものが見れば目玉を飛び出させるに吝かでなかろう
稀覯本を枕に呑気な欠伸をご披露するは失礼、僕こと秋月涼太郎と言う。
 齢二十歳過ぎ、現在の職業は医者……現在の、と言うには理由があるのだがそこは
ひとつ気にされぬよう願いたい。医者ではあるが診療所を構えているわけでも大病院に
勤めているわけでもない。この街の物好きを飯の種にしている回診医、といえば
まだしも聞こえが良いが、要するに自分の医院も持てずにこうして従姉の家に
上がり込み、その商売の手伝いをしながらちびちびと小銭を溜め込んでいるという、
そんな結構なご身分である。
「涼太郎、涼、涼の字」
 斯くの如き立場であるから従姉殿にはすこぶる頭が上がらない。こちとら手前の
食い扶持ひとつ稼げない居候、かたや萬小間物商として江戸の昔から名の知れた
『秋月屋』の女主人である。
「従姉さん、ここです」
「おや、こんなところで布団干しの形態模写?」
「残念、今日は小春日和の木漏れ日を擬人化してみていたところです」
「ははあ、なるほど影が薄そうだわ」
「そりゃないよ従姉さん」
 僕の従姉・秋月律子はこういう人物である。人が悪いわけではないがなんというか、
歯に衣着せぬところがある。まあ雑貨屋の傍ら古物商――当人のたまうにはこちらが
本業との由――を商っておれば、近所のお客筋ばかりでなく海千山千の売主買主も
相手にせねばなるまい、その副産物としてのこの人当たりである。これでも人を見る目は
あり、その御眼鏡に適えば相応の相手もしてもらえる……この僕のようでなく。
「今日は従姉さんが店番だったよね?どうしたの、店を空けてて大丈夫?」
「お客が来たのよ。なんで今日は早仕舞い」
「うええ」
 従姉さんがこういう物言いで呼ぶ『お客』はすなわち、雑貨屋の品を物色に来た人物
ではない。もう一方の商いの相談に来る輩である。
「じゃ、行くわよ」
「って、僕も?なんで?」
「そういう御用なのよ。仕事道具も持って来なさい」
 わけが判らない、と言えれば良かった。わけが判るのが辛い。僕の……『都合のよい
医者』が必要な仕事なのである。

 ところで僕の医者としての腕前であるが……薮ではない、と言っておこう。これでも
人の命を助けたこともあるし、街を歩けば嬉しそうに挨拶してくれる人だっている。
勉強もしたし腕の良い医師の先生について修行もした。試験を受けて免許を得て
いない以外は知識も技術も応分にある、と自分では確信している。
 まあ、律子従姉さんからは兎医者と呼ばれている。初めてそう聞いたときどういう
意味だと訊ねたら、『その心は、ちょいちょい薮に戻る』だそうだ。
「問題は兎なのよ」
「はあ?」
 律子従姉さんのあとを歩きながらぼんやりしていたら、いつのまにか説明が
始まっていた。
「聞いてなかったの?しっかり頼むわよ」
「ごめん従姉さん」
「沼崎の大旦那がね、若旦那のお嫁さんが持っている兎の縫いぐるみを引き取って
もらえないかと」
 沼崎と言うのは近所のお大尽だ。昔からここいらの大地主で、大金持ち。まあ、
後ろ暗いところに片足を突っ込んでる僕あたりだと、世間の評判以外の噂話もいろいろ
聞こえてくる類の人だ。悪いとは言わないさ、こういう人がいてこそ世の中がうまく
回ることもある。でも、今の従姉さんの話は妙だ。
「兎の縫いぐるみなら従姉さんの仕事じゃないだろ?玩具屋を呼んで来ればいい」
「玩具屋で埒が明きゃ私は呼ばれないわよ」
「それはそうかもだけど」
「骨董だと言い張ってるんだけどね、どうも物憑きみたいのよ」
「……従姉さん」
「なによ涼」
「帰っていいかな」
「駄目」
 結局、縫いぐるみの目利きと医者の相関については聞くことができなかった。

「秋月さん、よくいらっしゃいました。おや、涼太郎先生もわざわざご足労をおかけして」
「いいええ」
「あ、どうも」
 律子従姉さんの名前はその筋にはそこそこ知れているが、僕はその輪から外れて
いる筈だ。僕が診た相手でもなければ医者と知っている者も多くはなく、看板も出して
いないのだから。
 少なくとも僕はそう思っている。つまり、この御仁――沼崎巌――は、商売相手に
選んだ従姉さんのことを一通り承知しているということだ。
「先生のことは申し上げませんでしたのに」
「流れから言って必要と思いまして。こういうことには大層腕が立ちますので重宝して
おりますのよ」
 ほほほと笑って従姉さんが言う。ほら、なんとなく見えてきたぞ。
「とはいえ、先ほどの方のお話では少々見えないことが。沼崎さん、お手数なのですが、
ご本人の御口からお話を伺えますか」
「よろしいですとも。先は遣いの者をやりましたし、誤解でもあっては困りますからな」
「ありがとうございます。涼、お嫁さんは奥の間にいらっしゃるそうよ」
「え?」
「まず、診てあげて。あんたにはその方がわかるでしょう」
「あ、ハイ」
 従姉さんが人の、いや、僕の足運びを指図する時は、それ以外の行動を許さないときだ。
僕は素直に席を立ち、家人に案内されて部屋を出た。
 その間に、律子従姉さんが聞いた話をかいつまんでおこう。沼崎氏とはこんな話を
したのだそうだ。

『私の倅……吾郎と申しますが、彼に先だって嫁をとらせました。以前から取引のあった
財閥の水瀬氏、そこのお嬢さんです。名前は伊織』
『男名前とは勇ましい』
『名前に似合わずしとやかな娘さんでしてね、お父上に頼み込んでようやく許されました』
『当人同士も喜んでおられるのでしょう?よかったではないですか』
『はあ、それはもう……ですが』

 案内人が示した部屋は、屋敷の一番奥の客間だった。案内人が逃げるようにそこを
去った後、僕は恐る恐るその洋間に近づいた。

『今は我が家に預かりにしておるのですが、こちらに嫁ぐ時にちょっとした事故が』
『事故?』
『お嬢さんの可愛がっていた犬が突然気が触れたようになってしまって……伊織さん
にまで危険が及んではと、やむなき羽目に』
『やむなき?』
『こちらも晴れの日に粗相があってはならないと、若い者を何人か連れて行ったのですが、
どうも力加減の利かない者がいて』

 扉を叩こうとして、それが薄く開いているのに気づいた。中から、鈴の転がるような
笑い声がするのも。
「それでね、うさちゃん。私の見た夢の続きを聞きたい?」
「……」
「私が振り返ると、そこに男の人が立っているのよ。すらりとした背の高い人で、眼鏡を
かけていたわ」
 見とれてしまった。
 扉の隙間から僕の目に飛び込んできたのは、和装の美しい少女だった。
 腰までありそうな長い栗毛を後ろに撫でつけ、頭頂で飾り紐で押さえている。秀でた
額には意思のはっきりした眉が弓を引き、透き通るような肌と赤い唇は化粧でもして
いるかのようだが、状況をかんがみるに素のままでこの美貌なのだろう。
「その方はね、私ににっこりと笑いかけて……どなた?」
「っ」
 彼女が不意にこちらを向いた。人の気配に気づいたのだろう。

『水瀬家の者の手が引き綱から離れたので、仕方なく』
『殺した、と』
『仕方なく、です』

 扉にかけていた手に力が入ってしまったのか、ゆっくりと内側に動いた。彼女と
僕の境がだんだんと開けてゆく。
「お客様?」
「ど……どうも、こんにちわ」
 こういう時になぜ僕はこんなことしか言えないのだ、全く。
「こんにちわ。沼崎伊織と申します」
 しかし彼女はそれを気にもせずふわりと首をかしげ僕に挨拶した。
 先ほどまでの話し相手……兎の縫いぐるみを左腕に持たせかけて。

「それでどうかしら?涼」
「どうって?」
 今日は済んだから帰る、そう言われるまでは大した時間ではなかった。僕はその間、
そのお嫁さんの話し相手になっていたのだ。
 帰宅するなり従姉さんは僕を書庫へ連れ込み、自分は探し物を始めながらそう聞いて
きた。
「そうね、例えば医者の見地から?」
「すこぶる健康。この家に来てふた月くらいだそうだけど、ほとんど外へ出して貰えない
んだって?」
「らしいわね」
「庭に出たりはしているみたいだけれど、気になるのはそれくらいだね。ごはんも美味しいし
花嫁修業も優しくしてもらっているから毎日楽しいって言ってたよ。でも」
「でも?」
「旦那さんの吾郎さんに会えないのが寂しいって。怪我で療養中なんだって?」
「沼崎吾郎って聞いたことあるのよね。涼、ちょっとこれ持ってて」
「わ」
 書架からひと抱えの束を寄越し、そこにできた穴にまた首を突っ込む。
「5、6年前の新聞だったかな。もう少し前かも。でさ、涼」
「うん?」
「なんか憑いてそう?」
「それは僕の仕事じゃないでしょ?」
「いいからいいから。予感とか、しなかった?」
「……何の変哲もないただの人形だよ。子供っぽくて恥ずかしいからって片付けちゃった
んで、細かく見てる暇はなかったけど」
 律子従姉さんが疑っているのは、その伊織さんが持っている兎の縫いぐるみについて
だった。
 先刻、沼崎家の使いが来たときの依頼内容は『家に嫁入りした若奥様が持参した
私物を整理したいと言っている、骨董の類もあるのでいろいろ見て欲しい』という話だ。
その使いを従姉さんが言葉巧みに誘導してみたところ、兎の縫いぐるみが人に
噛みつくのでついでにうやむやに出来ればいいのだが、と口走ったというのだ。
「小さな頃に母親から貰って、以来いつも一緒に居るって言ってた。十何年も扱って
ほつれの一つもないんだ。布地も汚れていなかったし、大事にしてきたんだろうね」
「え?血で汚れてたでしょう?」
「血が、なんだって?」
「さっきの狂犬騒ぎの話、沼崎の若い者が犬を踏み殺したとき、その血しぶきが
お嬢さんと縫いぐるみに盛大にかかったんですって」
 従姉さんが振り返った。手に、古い新聞の綴りを持っている。
「多分これだわ。あっちで見ましょう」

 律子従姉さんは物知りだ。多少知識に偏りはあるものの、専門分野である骨董や
本来の商売にかけては首を傾げるのを見たことがない。その源は専門書だけでなく、
日々発行される新聞や雑誌、本文ばかりか宣伝や折り込み広告の類にまで目を
通している。さすがに全てを諳んじているわけではないが、必要なときにこうやって
紐解くだけの技量を備えている。
「ああ、これだわ。ほら」
 従姉さんが古新聞の束から指し示したのはごく小さな記事で、内容はこの近所で
起きた交通事故の件だった。7年前のある夜更けに、不詳未成年者の運転する
自動車が通りすがりの人を轢いて死なせてしまったという。
 記事には未成年加害者の名前はもちろん載っていなかったが、脇に従姉さんの
筆跡で『沼崎吾郎』と書いてあった。
「なに?この記事」
「近所の事故だったから興味を惹いたのよね。調べてみたら沼崎の倅だったんで、
こうして覚書を」
「ふんふん、無免許運転かあ。父親の自動車を面白半分で乗り回した?」
「おおむね正解。その車には当時の彼の恋人と友人数名、大量の酒と御禁制の
お薬が少々同乗していたけれどね」
「……そんなこと書いてないよ?」
「書いてないわね」
「ええっと……ふうん」
 従姉さんと一緒にいると、こういうことが度々ある。いちいち詳しく訊いていたら
きりがないし、それは自分で底なし沼に歩いていくようなものだ。僕はいつものように、
そこで話題を切り上げようとしてみた。上手くいったためしはないけれど。
「巌氏が警察に働きかけて、単なる未成年者の交通事故に抑えたのね。恋人だった
女性も顔を酷く怪我して結局行方知れずだし、ご友人たちの方は今や漏れなく
お天道様の下を歩けない商売をしてるわ」
「……若気の」
「心にもないこと言うんじゃないわよ」
 至り、とさえ言わせてもらえない僕の境遇を察していただきたい。僕としては物騒な
話を続けるのが嫌さに話を終わらそうとしたのであるが、もちろん見当はついている。
街の有力者の跡取り息子でありながら沼崎吾郎という人物は、父親が裏から手を
回さねばならぬ程度に厄介な男、というわけなのだ。
「そんな男にあの伊織お嬢さんも、よくお嫁に行くつもりになったものだね」
「全くだわ。娘を箱入りに育てると悪い男に惹かれるようになるって聞くことがあるけど」
「巌氏が日参して水瀬家のお父上にも許しを得たんでしょ?ならその吾郎さんも、今は
改心しているんじゃないかなあ」
「改心ねえ。涼、吾郎氏が怪我で伏せっているっていうのは聞いてるわよね」
「伊織さんが言ってた。でも詳しくは教えてくれなかったな」
「それはそうでしょ」
「どうして?」
 聞いてしまってから気づいた。
「さあてねえ」
 従姉さんがにんまりと笑う。……しまった。
「私もそれを知りたいのよ。お嬢さんから聞いてきなさい」
 僕は彼女に、この件に興味などあるそぶりを見せてはならなかったのだ。

****

「吾郎様は……いえ本当なら『主人』と呼ぶべきなのでしょうが」
 数日後、夕刻。
 結局僕は、伊織さんに会いに来た。少し遅い時刻だったけれど一人で訪れた僕を
巌氏もにこやかに迎え入れてくれ、伊織をどうか頼みますと固く手を握られてしまった。
「私には過ぎた方だと思います。お優しいですし、度量が広く、お顔だちも素敵で」
「そうですか」
「何度目かにお会いしたとき、東京見物に案内してくださったんですよ。それまであまり
遠くへ出ることもありませんでしたので、とても楽しい思い出になりました」
「へえ、ご家族で旅行などは?」
「父は忙しい人ですし、母はもっぱら留守を守る役でしたので……たまに、お芝居を
観に行って食事して帰る位でしたね、それも決まったお店が多くて」
「どちらのお店なんですか?……ああ、有名店じゃありませんか。予約もひと月は
空かないそうですね」
 僕が医師として従姉さんに呼ばれたのは、沼崎氏の言葉が切欠だった。小さな独白を
拾ってそう仕向けたのは従姉さんの仕業だったけれど。
 伊織さんは、飼い犬の一件から心に傷を負ってしまったのか、所々に物忘れをして
いるようだというのである。痛々しい思い出のみを封じ込めているのなら手を出さぬ事も
考えたが万一日常に支障あるとなると本人も困るであろうし、沼崎家の嫁としての
体裁もある。彼女の病状はいかほどのものか見定めて欲しい、というのが今回の
僕の仕事だった。
「吾郎さんとはどちらでお会いに?」
「お義父様が、実父の催した宴席にいらしたのが初めです。丁度、私も父に連れ
られていて」
「ははあ」
「私は恥ずかしくて録にお顔も拝見できなかったのですけれど、吾郎様が私のことを
憶えて下さって」
「一目惚れ、という奴ですか」
「嫌だ、私ったらこんな事を」
 頬を染めて横を向く伊織さんは大層美しく、当の吾郎氏でなくともこの美貌に
吸い寄せられる男は五万と居るに違いない。この僕でさえ、こんなお役目でなかったら
どうなっていたやら。
「そうですか。仲睦まじいご様子、僕ごときが口を出すのは野暮でしたね、すみません」
「……ですから」
「はい?」
「ですから、私は吾郎様にお会いできず心細いのです」
 くるりと振り向き、伊織さんはしなやかな動きで僕の眼前に歩み寄った。
「ねえ先生、吾郎様のお加減はお悪いのですか?私がお義父様にお願いしても逢わせて
戴けないほど、お怪我が酷いのですか?」
「い、いや、僕は」
 伊織さんはさらににじり寄り、両手で僕の手をとり訴える。
「先生のお力で、吾郎様にこっそりと逢わせていただく事はできないでしょうか?ひと目、
ひと刻でよいのです、あの愛しい方とまたお逢いすることは叶わないのでしょうか?」
「……そんなに、彼のことを」
 真摯に懇願するその瞳は潤み、今にも泪が零れ落ちそうである。ここまで彼女は、
自分の良人を恋い慕っているのだ。いかな事情でどのような怪我をしているか
知らないが、彼を心配する伊織さんに逢おうとしない吾郎という人物に、僕は段々と
怒りが湧いてきた。
「そう、ですか……では――」
「一寸お待ち、涼太郎」
「――えっ?」
 なんとかしましょう、と続けるはずの言葉を飲み込ませた声は誰あろう、律子従姉さんだ。
「従姉さん」
「まんまとほだされてるわね、ご苦労さん」
 いつもの調子でこんな事を言い、したり顔で微笑んでいる。今日は知り合いに会いに
行くからと別行動であったのに、なぜここに居るのだろうか。
「失礼な。従姉さんは伊織さんの境遇をご存知ではないのですか?」
「知ってるわよ、その娘さんが亭主に逢いたいと望んでることも、家の者がそれを
拒んでる事も」
「可哀想だとは思わないのですか!夫婦は相身互い、望んで添い遂げようという
二人を引き裂くことなどあってはならないでしょう!」
「涼、吾郎氏の怪我の原因はもう伊織さんから聞いたかしら?」
「彼女は知らされていないと」
 後ろから声をかけられて振り向いたので、僕は自然と伊織さんを庇うような体勢に
なっていた。従姉さんの視線を遮るように半ば上げた右腕に、彼女がすがりつく力を
込めたのが判る。
「知らされていない。なあるほど、そう言えば言葉にも力がこもるわね、嘘は吐いて
いないのだもの」
「従姉さん?何を言っているんですか?」
 じりじりとにじり寄ってくる従姉の強張った表情を睨み返し、問い掛ける。もともとは
胡乱な買い取り相談の案件であって、他人の恋路をどうこうする話ではなかった
はずだ。なぜこの人は伊織さんを傷つけるような物言いをしているのだろう。
 その律子従姉さんが、ふいと視線を肩越しに振った。
「吾郎さん、お宅のお嫁さんは愛しいあなたが怪我をした理由を知らされていない
のだそうですよ」
 その視線の先……扉の陰から、ごそりと人の形が動き出た。
「ここは一つ、それを教えて差し上げてくださいませんか?吾郎さん」
「……あ……あ」
 僕の知らないその男は、従姉さんの物言いからすれば間違い無く……。
「……吾郎……さま」
 伊織さんが僕の後ろで、悲鳴にも似た囁きを放つ。僕の腕を握り締める手に一層
力がこもり、千切れそうな痛みを発した。
「いお……い、いやだ、く、来るな」
 骨太な体つきの男はしかし、愛する妻の顔を見るとその図体に似付かわしくない、
か細い声で拒絶を表した。
「やめ……やめろ、やめて、やめてくれ!俺に近づくなあ!」
「吾郎さん?あなたは何を」
 この怯えようは尋常ではない。しかも不思議なことに、沼崎吾郎はここまで取り乱して
いながら、腰を抜かすでもなく逃げ出すでもなく、扉の脇から半身を覗かせて足掻く
ばかりだ。
「なにが近づくなですか。あなたの大切な人なのでしょう?」
 ずい、とさらに男の体が動き、その後ろから別の女性が現れた。僕も知っている
声の人物だ。
「……千早さん?」
「久しぶりね、秋月さん」
「従姉さん?知り合いに会うって、千早さんだったんですか」
 吾郎氏が逃げなかった理由が知れた。この女性が片手で彼の腕を捻り上げ、
ここまで連行してきていたのだ。
「まったく、ちょくちょく行方をくらますもんだから探すこちらも大変よ。ちょっと力を
借りようと思ってね、連れて来たの」
「律子も人使いが荒いわね。私はもっとのんびりと暮らしていたいのだけれど」
「寄ると触ると厄介事に巻き込まれる癖によく言うわね。いつぞやの貸しはまだ有効よ?」
「はいはい、貴方のためならなんでもいたしますよ律子殿」
 紺の背広に濃紺の外套を着込んだまま従姉さんと軽口を叩き合うこの女性は、
彼女の古い友人である。名を如月千早、職業は……流しの歌唄い、とでも言おうか。
「さて沼崎さん、私は詳しい話を聞いていないものですから、もし不調法があったなら
謝罪します。さしあたっていま律子が訊ねた次第、教えて戴けますか?」
「いやだあ!たす、助けてくれ!俺は、俺はお前を、俺は何もっ!」
 片腕を後ろ手に締め上げられたまま、吾郎氏は今にも正気を失いそうだ……いや、
ひょっとすると、すでに。
「旦那はいろいろ考えることがあるようね。涼、吾郎氏の怪我はね、噛み傷なのよ」
「噛み傷?」
「伊織さんと夫婦になった晩にね、吾郎氏が叫び声を上げて巌氏の部屋に
逃げ込んできたって言うの。体のあちこちに歯形をいっぱいつけて。父親の前で
気絶する前に彼、こう言ったそうよ。『兎に噛まれた』と」
 兎……待てよ、兎?
『兎の縫いぐるみが人に噛みつくので……』
 僕は伊織さんを振り返った。肌身離さず持っているはずの兎の縫いぐるみを
目で探した。……ない。先ほどまで、彼女が優しく抱き撫でていた白い縫いぐるみが、
姿を消している。
「い、伊織さん?」
 彼女は僕の手を強い力で抱き締めたまま、吾郎氏を見つめるばかりで僕に応えては
くれない。
 その時。

 びゅお。

 耳元を風が切り、僕たちのすぐ脇をなにかが飛び抜けた。白い、小さい、ふわふわの……。
「ひぃ!」
「千早っ!」

 ばぐん。

 飛んできたのは兎の縫いぐるみだ。ただの人形のはずのそれが、まるで生きて
いるかのように……猟犬が獲物の喉笛に飛び掛るかのように、吾郎氏目掛けて
突進したのだ。それも、本来この人形には存在しない筈なのに、口を大きく開き、
涎でぎらぎらと光る牙を閃かせ、彼に食いつこうとしていたのだ。
 兎の一噛みはしかし、吾郎氏の首の少し手前の動きを止めた。
「さすがにけだもの、辛抱ができないのね」
 千早さんが吾郎氏の腕を捻り上げたまま、もう一方の手で兎の片足を掴み、
すんでのところで攻撃を凌いだ。そのまま、ぶんと腕を振って縫いぐるみを投げ捨てる。
「ち、千早さん……今、縫いぐるみが」
「まだ来るわよ秋月さん。少しの間下がっていて。律子も、この人をお願い」
 兎から視線を外さぬまま言い、吾郎氏を従姉さんに預けて自身は部屋の中に
進み入る。
「涼、このご主人を怪我させたのは伊織さんの縫いぐるみよ。伊織さんが『理由を
知らされていない』と言ったのは、当人が知っているからね。嫁入りの日、晴れて
夫婦になった晩に新妻にのしかかろうとした途端、飼い兎に手を噛まれたっていう訳。
兎さんとしては喉笛にがぶりと行きたかったようだけれどね」
「……な」
「秋月さん、よけてッ!」
 千早さんの鋭い声に首をすくめると、耳元に風切り音。次いで頬に小さな痛みを感じる。

 ごおっ、ごすん。

 吾郎氏ではなく当面の障害と判断したのだろう。兎はその牙を剥き出しにし、今度は
直接千早さんに突進した。人形相手に何を言っていると思うかも知れないが、事実だ。
 兎の縫いぐるみが、それこそ肉食獣の体捌きを見せて襲いかかったのだ。
 しかし、千早さんはそれより更に早かった。
「キイッ」
「あら、縫いぐるみの癖に喋るのね」
 吾郎氏が扉の外に倒れているところを見ると気絶でもしたのだろう。両手が空いた
千早さんは懐から青い鞘の短刀を取り出し、刃を抜かぬまま兎を打ち据えた。一旦は
床で跳ねた兎だがすぐ体勢を立て直し、相手を威嚇する。
「キィアアアアア!」
「さあ、来なさいッ!」

 だん、だだん。

 床を、壁を蹴り縦横無尽に部屋を駆け回って兎は、幾度となく千早さんに襲い掛かる。
牙や、手足の先から突き出した鋭い爪を閃かせ、彼女に傷を負わせようとするが
それらの攻撃は全て千早さんの蒼い鞘に止められ、抑えられ、弾かれるばかりだ。
「どうしたの?所詮はけだものね、人間様にはかなわないっていうこと?」
「涼、聞いて!沼崎吾郎は父親も手を焼くごろつきだわ。街で色々尋ねて回って、
全部親父さんが悪事を塗り隠していたことが判った」
 千早さんの横で身を隠した従姉さんが声を張り上げた。
「大事な跡継ぎ息子を見捨てることはできなかったってところね、商売人にしては
甘い御仁だわ。伊織さんにしても吾郎の一目惚れっていうところまでは嘘ではない
けれど、無理を頼まれた巌氏が水瀬の家を陥れて問答無用で嫁に取ったの」
「ええっ?」
「水瀬財閥はいま外国との貿易を手掛けていて、さしもの金持ちも全てには目が
届かない。傘下の会社をひとつ買収されて、縁談と引き換えに資金援助を持ち掛け
られたのよ。国内のごたごたを貿易先に知られると財閥全体の危機になる勘どころを
押さえられて、水瀬の父上は泣く泣くお嬢さんを沼崎の家に嫁がせた……手口は
乱暴だけれど、ことと次第に限って言えば、そのお嬢さんも納得ずくの話だわ」
 驚いた僕は隣の伊織さんを振り向く。彼女は相変わらず僕の腕を掴んだまま小さく
なっていて、その表情は計り知れない。
「そんなことが……でも、それとこれに何の関係が」
 この時代、市井のご婦人の人権は戦国時代のそれと大差ない。市井のと書いたのは
うちの従姉上や千早さんのような女丈夫が僕の周囲にひしめいているからだが、
会社大事の為に嫁や娘が泣くなぞさして珍しいことではない。いま従姉さんが
明かしたような大金持ち同士の陰謀混じりという部分は置くとしても、当の伊織さんが
ともかく心を決めたことなら、縫いぐるみの憑き物騒動は無関係の筈だった。
「伊織さんの結婚に大反対するのが一匹いてね。そいつが猛然と食いついたのよ」
「それは――」
 彼女に恋人でも、と聞き掛けてはたと口を止めた。従姉さんは一人とは言って
いない。一匹、と言ったのだ。
「小さい頃から伊織さんと一緒にいて、とても可愛がって貰って、自分は一生この人に
忠誠を誓おうと思った。その主人がどうやら意に染まぬ人物の元に連れ去られようと
している……そいつはこう考えたの」
「律子、おかしいわ、手ごたえがなさ過ぎる」
 千早さんが割り込んでこう言う。小太刀も懐に納め、皮手袋を嵌めた手だけで兎を
防いでいるが汗ひとつかいていない。
「獣妖獣魔の類なら脳味噌の出来はともかく、その念はとても強い筈、ものに
とり憑くくらいなのだから。壊すなとあなたが言うから相手してるけど、これなら
子供が投げる石ころのほうがましよ」
 僕には苛烈な攻防に映っていたのだが、当事者としてはそうでもなかったようだ。
「やっぱり?」
「どういう意味かしら」
「あなたを呼んでよかったっていう意味よ、千早。涼、話の行く末は察したかしら」
「……その反対してたっていうのは……つまり」
「ええ、殺された犬。人間様の御都合なんか関係ないからね、ご主人をさらいに
来た人間たちに食って掛かって、結局返り討ちってわけ」
 犬。
 伊織さんが可愛がっていた犬が、彼女の嫁入りの日に凶暴化し、沼崎の者に
蹴り殺された。
 そしてその怨みを湛えた獣の血が伊織さんの縫いぐるみに降り注ぎ……おそらく。
「伊織さんの犬が兎の人形に……取り憑いた?」
「そしてその夜、己の肉欲を満たそうと伊織さんにのしかかった吾郎に」
「キキイイィィィッ」
 千早さんと戦っていた兎が急に向きを変え、話を続ける従姉さんに牙を向ける。
「そっちはダメよ!」
 しかし千早さんはすかさず回り込み、再び取り出した小太刀で兎を打ち据えた。
「ギュアアアア」
「!しまっ──」
 床に跳ねた兎は跳ね飛ばされた勢いも借り、突如軌道を変えて従姉さんの奥、扉の
向こうに横たわっている吾郎氏へ向かった。計略に一呼吸遅れて気付いた千早さんは
舌打ちをひとつすると、左手を前に掲げ、小太刀を持つ右手で印を組んだ。
「射抜け神鳴る破鎚ッ!」
 轟、という音と共に彼女の手から蒼白い炎のようなものが放たれ、宙空の兎を捉えた。
光と轟音の塊はそのまま吾郎の上を通り過ぎ、向こうの部屋の壁にぶつかって動きを
止めた。
「律子、大丈夫?つい間に合わなくて飛び道具を使ってしまったわ。耳や尻尾が焦げた
かも知れない」
「仕方ないわね、命には代えられないもの」
 従姉さんは壁の亀裂に一瞥を呉れたが、穴に嵌り込んだ縫いぐるみは動かない。
化け狗退治が終わったのだ。
「なんてことだ……そんな犯罪紛いがまかり通っているなんて」
「惚れた相手には、どんな事をしてでも想いを遂げたくなるものよ。たまたまその手口が
懸想文じゃなく金と暴力だっただけ」
 律子従姉さんはそんなことを言い、視線を壁の穴から僕らに戻した。それで思い出し、
伊織さんに声をかける。
「もう大丈夫ですよ伊織さん。怖かったでしょう、あなたの飼い犬はあなたのことを思う
あまり、御主人に吼え立てたのです。御主人にもあなたの犬にもほんの少しずつ
行き違いがあった、これが今回の出来事の原因だったのですね」
「……の……」
 先日の、伊織さんの口から出た言葉に嘘はないだろう。伊織さんと吾郎氏は当初の
事情はどうあれ、互いを大切に思っているのだ。酷い目に遭い、怨みまでこもらせた犬は
不憫と言うほかないが、互いを想い合う二人であるならきっとこの痛ましい事件を
乗り越えてゆける、そう感じた。
「縫いぐるみはどうやら動きを止めたようです。伊織さん、立てますか?」
「……ノ……リヲ」
 ぎしっ。
「ぐぁっ?」
 軋んだ音を立てたのは骨だ。僕の腕の骨だ。
 伊織さんが両手で抱きかかえている僕の腕が異様な力で締め付けられ、折れそうな
激痛に思わず呻く。
「……オリヲ」
「いっ……お、り、さん……?」
「ユルサヌ。オレノ」
「涼太郎!逃げなさいっ!」
 従姉さんの声に従えるものなら、とうにそうしている。耳下に聞こえてきた伊織さんの
声はしわがれ、野太く、まるで暗闇の底から響く怨嗟の遠吠えのようなのだ。僕は
彼女に腕を、千切れんばかりの怪力で握られていて身動きひとつできずにいるのだ。
 彼女が顔を上げた。
 その目は赤く、顔のあらゆる場所に血管を浮きだ立たせ、まるで耳まで裂けたのかと
思わされる引き吊れた口からだらだらと涎を垂らしている。
「オレノイオリヲ。ユルサヌ」
 赤い唇から漏れる声はすでに少女の鈴音ではなく、猛る野獣の咆哮そのものであった。
「ユルサヌ!イオリヲカナシマセルモノヲ!ユルサヌゾオオオオ!」
「ぐああああ!」
 吠え声とともに腕を締め上げられ、たまらず叫ぶ。
 その眼下に、濃藍の影。
「破邪斬断ッ!」
 がづん、とでも書けばよいだろうか。異音の源は伊織さん――いや、見た目はともかく
中身は別物の――怪物の腕からだ。奴と僕の間に飛び込んだ千早さんが、小太刀
ではなく今度は黒重い長剣を抜き放ち奴の腕に叩きつけたのだ。
「ゴオオオオオ!」
「く、頑丈ね。念のひとつも乗せないと駄目かしら?」
 だがしかし、伊織さんの腕には傷ひとつない。只相当痛かったのか大きく吠えると
身を一歩引き、僕を邪魔者の、すなわち千早さんの方へ投げつけた。
「わああ……っ!?」
 がしっ。
 こんな僕でも歴とした男だ、それを鞠のように投げ捨てる化け物も化け物だが……その
僕を易々と受け止める千早さんも大概ではある。この身を多少でも案じてくれている
ならありがたいが、受け止めねばこの体が後ろの従姉さんと吾郎氏に激突する軌道で
あった。
「大丈夫?秋月さん。下がっていて、危ないわ」
「は、はいっ」
 振り向きもせずそう告げ、怪物に向け体を低くする千早さんは次いで眼前の敵に
口を開く。
「人語を解するなら話が早いわ、四つ足のけだもの。苦痛が好みでないのならその
人の体から出なさい」
「ジャマヲスルノカ。ジャマヲスルナ」
「あなたはとうにこの世のものではない。生者に割って入るなと言っているのよ」
「イオリヲナカセルモノハユルサヌ」
「罰は下すのは人間よ、あなたの出番はないわ」
「ヌシラハコヤツノムホウヲステオイタ。ヌシラニハユダネエヌ」
「く、ご存知っていう訳?」
「コヤツハ、イオリヲカナシマセタ!イオリヲコワガラセタ!イオリヲ、オレノタイセツナ
イオリヲオオオオ!」
 怪物が吼えた。少女の衣装、若い娘の体躯でありながら全くそうとは言い表せ得ぬ
圧のようなものを纏ったそいつが天に向かって放つ雄叫びはしかし、あたかも血を吐く
かのような悲しみに満ちていた。
 ごりごりと嫌な音を立てて怪物の首がこちらへ振り向き、真っ赤な瞳が千早さんを
睨む。次の瞬間、その姿がかき消えた。
「オオオオオオ!オマエモジャマヲスルノカアアア!」
「くっ」
 ごわん、と千早さんのいた床がひしゃげ、木片が四散する。
 怪物は目に捉えられぬ恐ろしい速度で千早さんに詰め寄り、強力の一撃を放った
のだ。獣の右腕が床にめり込み、千早さんが着ていた外套の残骸が横たわっていた。
「ああ!千早さん!」
 なんという速度、なんという威力。先程の兎の動きとは次元が違う。
 殺された犬の怨みは縫いぐるみではなく伊織さんの方に取り付いていたのだ。
 あの獣は飛び散った血潮に紛れて伊織さんの肉体を乗っ取り、自分は正体を隠した
まま、その念力で兎の縫いぐるみを操って吾郎氏を襲わせたのだ。嫁入りの晩に
吾郎氏を殺せなかったので大人しく新妻のふりを続け、人に会えば夫に会いたいと
請い願いその実、次こそ彼を咬み殺そうと虎視眈々と機会を狙っていたのだ。
「グルルオ」
 当面の邪魔者を排除した化け物がゆっくりと首を廻らし、戸口の影の僕らを見つめる。
僕は腕の痛みを庇いながら顔をしかめて、律子従姉さんは目を細め、吾郎氏は意識を
失ったままその視線に晒されている。
「ゴロウサマア。オシタイモウシテオリマスウ」
 先刻までの自分の芝居の劣悪な皮肉でも行なうかのように、鋳潰したような嗄れ声で
伊織さんの言葉を繰り返す。その貌は猛り狂っているようでもあり、哄笑っているよう
でもあり。
「ゴロウサマア。ゴロウ、ゴロウ、ゴロオオオオオオオウ!」
 太い腕を再び振りかぶる。これは、駄目だ。
「劫魔伏滅・殲灼招雷!」
 その怪物の頭上に轟音と閃光。まるで……落雷。
「ギャアアアア!」
「ふう、少しは効き目があったわね」
 肉の焦げる臭いと共に仰け反る化け狗と僕たちの間に降り立ったのは……。
「ち……」
 先ほど殺されたと思っていた、千早さんであった。
「千早さん!」
「こう見えて私は慈悲深い方ではないわよ、死に損ないのけだもの。汝右の頬を
打たれなば万倍の痛打もて報うべし!」
「いっぱい間違ってるわ、千早」
「ともあれ此方は体が資本!それに傷負わされて引き下がれるものですか。律子、
少しやりすぎたら許して頂戴ね」
 従姉さんとの掛け合いを聞く限り、化け物の一撃はかわしおおせたようだった。
恐らく咄嗟に外套を残して飛び逃れたのだろう。
 ただ今の彼女は冷静な口調とは裏腹に無茶な事を言っている。小さな声で何か
呟いているがよく聞き取れない。声は次第に大きくなり、やがて耳に入ったのは
このような呪文だった。
「……五行六甲の兵を成し百邪斬断万悪駆逐、破魔調伏の劫火もて一切を
平らげよッ!」
「いけない」
 手袋をしたまま真上に挙げた右手に、青白い火花が自然発生しているのが見えた。
 うずくまって呻く化け物を向こうに今や朗々と呪歌を唱える彼女に向かい、突然
律子従姉さんが駆け出した。何をと思う暇すらない。彼女が懐に手をやって走って
ゆくのを為す術もなく見送る。
「急急如律令火雷轟、迅──」
「駄目よ千早!」
「痛ぁいっ!?」
 ばしんという大きな音、続いて可愛らしい悲鳴が聞こえてその場の緊張感が途切れた。
 律子従姉さんが懐からなにかを……あれは鉄扇だ……を取り出して、千早さんの
お尻を手ひどくひっぱたいたのだ。
「なにするのよ律子っ!」
「こっちの台詞だわ!そんな大技使ったら屋敷ごと吹き飛ぶでしょうが!」
「獣の変化は灼き祓うのが基本なのよ」
「真っ当な人間は傷つけるなって言ったでしょう?あっちの馬鹿息子はともかく
水瀬の娘は守りなさいっ」
 こちらが戸惑っているうちに話はついたらしい。どうやら大掛かりな術で化け物を
退治しようとした千早さんを律子従姉さんが制し、大惨事を避けさせたようだった。
 千早さんは、少し昔の言い方をすれば修験者の端くれである……と以前、
律子従姉さんから聞いた。例によって話の雰囲気は仔細を訊ねてはならない
流れであったので、以来こちらからは立ち入らないようにしている。その千早さんに
行動を指示するとは、従姉さんはいったいいかなる術を持っているのか。
 ともあれ千早さんは攻撃の手段を転じたようだ。発条仕掛けのように勢いよく
跳ね起きた化け物が再び拳を固めるのを、彼女も素手で受け始めた。風を切る音と
打撃の連弾が室内に響き、その度に空気が悲鳴を上げて振動する。先程の
攻撃は不意打ちだったのか、千早さんは化け物の動きについて行っているよう
だ……ようだ、と言うのは二人の攻防は陽炎のように揺らぎ、僕の目には回転速度を
間違えた活動写真のようにしか判別できないからである。
「千早、お嬢さんの体が変化していないのは、狗がお嬢さんを取り込んでいない
からだわ。うまいこと引き離して無事に助けてやって頂戴」
「勝手な事を!」
「人間は縫いぐるみと違って血が染み込んだりしないからね」
「そこまで見当がつくなら憑代を探しなさいっ!全部引き剥がして焼いている暇は
ないのだから!」
 律子従姉さんには彼らの事が見えている様子で首をあちこちに巡らしながら話し
かけている。千早さんの返答があると言うことはその話が的を射ているということだろう。
「だそうよ。涼、狗が取り憑いていそうなもの、あるかしら」
「ええっ?なんですかそれ」
「彼女が肌身はなさず持っているものよ、なにか聞いてない?」
 律子従姉さんの非常に簡潔な説明によると、狗の怨霊は先程の兎同様、伊織さんの
持ち物に取り憑いているのだという。狗が死んだときに持っていて、今なお身に
つけているもの。
 その現場に僕が居合わせたわけではないし判るはずが、と言いかけてふと考えた。
 服や履物に血がつけばいくら上等なものでも着替えさせられるだろうし、まして
新しい嫁ぎ先だ、縁起の悪いものなら捨ててしまうに違いない。
 巾着や鞄の類はどうか。外出先ならともかく、家の中で肌身離さずとは行かない
だろう。
 装飾品は?伊織さんは金持ちの娘とは思えぬほど飾り気のない人で、指輪や
髪飾りの類は何一つ……待てよ、髪?
 後ろに梳き上げた長い髪、それをまとめていた臙脂の飾り紐。あれなら事件の後、
怨霊が肉体の主導権を握れば如何様にでも隠しおおせるのではないか。
「従姉さん、髪を結っている紐だ!」
「千早、聞こえた?」
「髪紐ね、わかったわ!」
「ゴオオウッ!」
 千早さんが床に降り立ち、従姉さんに応える隙を化け狗は見逃さなかった。
「危ないっ!」
 ずどん。鉱山に響く発破のようなくぐもった轟音とともに、化け狗の振りかぶった腕が
床にめり込む……が、千早さんはそれを紙一重でかわしていた。今の一手を誘った、
ということなのか。すかさず肩口を踏みつけ、その場に縫い止める。
「ゴ……」
「詰みよ、化け物」
 言いながら左手で頭を押さえつけ、睨みつけるその頭に右手を伸ばすや、赤黒い
組紐を引き千切った。



 ……その、次の瞬間。
 刹那、僕の脳裏に閃いた情景は、いったい。





 ──見てお父様、子犬が。まだ小さいのに、よしよし。
 ──わざわざ車を止めさせたと思えば。よしなさい伊織、服が汚れるぞ。
 ──可哀想に、これ、お母さんなの?
 ──血の跡が……通り向こうの事故か。ここまで逃げてきて力尽きたのだな。
 ──あなたは怪我はないのね。ねえお父様、この子を飼ってもよくて?
 ──伊織?何を言い出すのだ。
 ──母犬を亡くして、可哀想だもの。ちゃんと面倒は見るわ、お願い!
 ──まったく、しようのない。
 ──ありがとうお父様!……ね、よかったわね。これからは、私と一緒に……。





 今の彼女よりだいぶ幼い面影の伊織さんが心配そうに覗き込む、この視線の主は
誰だったのだろう。
 それは、もしや。



「灼火雷・天つ槍にて滅せよ獣魔!」
 しゅうっ。
 千早さんの掌に小さな稲妻が走り、細い組紐は一瞬で灰に、そしてその灰も時を
待たず消えて失せた。

****

 あれからひと月半もたったろうか、いや、まもなくふた月か。

 沼崎邸の騒動は驚くほど人の記憶に残らなかった。新聞は一段記事に小さく『実業家
宅に落雷か』と記しただけであったし、警察もかの家の門をくぐらなかったと聞く。まあ
仔細に調査が及べば困るのは僕らも同様で、従姉さんと巌氏の『話し合い』がうまく
運んだということに他ならない。その証拠に店の蔵がずいぶん手狭になり、僕も中の
整理に駆り出された。
 化け狗の呪縛から解かれた伊織さんは大変な怪我を負っていたが居合わせた
医師、すなわち僕の応急手当と、なによりあるじを思う飼い犬の最後の想いが傷を
癒したのであろう、程なく快方に向かったそうだ。僕はもうお役御免となっているので
その先は不如意ながら、律子従姉さんによれば沼崎の家にいた期間の記憶が
すっぽり抜けていたという。要するにあの間はすべて化け狗の操るがままであった
ということらしい。
 跡取り息子と家や会社を守るためとはいえ、これまでの悪事を暴かれた沼崎氏を
巧みに誘導した『誰か』がいたに違いない。結局彼女の縁談はなかったことになり、
伊織さんは水瀬の家に戻った。一連のごたごたのせいで籍も移していなかった
とのこと、愛犬を失ったことは気の毒ではあるものの、まず帳尻はあったところでは
ないだろうか。
 一方吾郎氏は心傷癒えることなく外国へ療養へ発ったとの由、従姉さんの言を
借りれば『次に帰国する時は伊万里か有田の立派なお召し物でしょうねえ』だとか。
 あの後数日逗留していた千早さんもいつの間にか姿を消し、僕の日常が以前と
同じように戻ってきた。この先もまた従姉さんの御用はあるだろうし、その度に
なにか厄介事があるという嫌な予感は残るが、まあ言ってみればそれもまた僕の
日常の一面ではある。

 そして僕はといえば、今日はあの気詰まりのする家から離れ、街の喫茶店で
ぬるくなった珈琲を啜りながら先の出来事を反芻していた。一応医療行為を
行なったことでもあるし、その周辺の事情もなにかの形で書き留めておく必要が
あると思ったのだ。
「……ふむ」
 一通り回想を終え、ちょっとした束になった原稿用紙をぱらぱらとめくってみた。
「たはは。どこかの出版社が買い取ってくれたりしないもんかね」
 記録や日記ではなく、一見読み物風の体裁にしたのは従姉さんの指示である。
『登場人物』も全て変名にしており、傍から見れば酔狂者が想像力を持て余して
似非文士を気取っているようにしか見えないだろう、というのだ。事実を記録して
いるなどと言おうものならあんたの肩書きはその日をもって『医師』から『患者』に
なるわよ、と。
「それなら、題名もいるかな。うーん、なんとか草紙、ってところかな」
 夜の闇に紛れた、豪邸での化け物退治。魔物に取り憑かれた美少女と陰陽術を
操る男装の麗人の戦いの一幕。まあ、子供向けの紙芝居にはいいかもしれない。
「『暗闇草紙』……『宵闇草紙』……もう一声かな」
「こちら、よろしくて?」
 不意に後ろから声をかけられ、思考を途切れさせる。相席の申し入れ?店は
閑古鳥が鳴いているというのに?
「えっ、って、あ……あなたは」
 僕の返事も待たず、勝手に向かいの椅子に腰を下ろしたのは年若い美女である。
今日は洋装でだいぶ雰囲気が違うが、長い栗毛はそう、あの時と一緒だ。
「……伊織さん」
「秋月先生、ご無沙汰してます」
 にこりと笑う表情も明るい。沼崎の屋敷で見た儚げな影は消えうせ、まっすぐ
こちらを見返す瞳にも生気が篭っている。
「外を通りかかったらお顔が見えたので、一言お礼をと」
「お元気になったんですか、よかった」
「お蔭様で。ご熱心にお書きになっていらしたのね。私、窓越しにしばらく覗いて
いましたのに」
「ええっ?」
「先日のことを書いてらしたのでしょう?失礼、拝見しますね」
 返事も聞かず、原稿用紙を奪われた。現れた店員に紅茶を注文すると、細かい
文字に目を走らせ始める。
「ちょ、ちょっと、伊織さん?」
「ふうん、お上手な文章を書かれるのね。あら?名前は全部変えてあるの」
「……実名ですと、いろいろご迷惑もかかるでしょう」
 まんまと主導権を握られてしまい、原稿を取り返すのは早々に諦めた。読み進み
ながらところどころで質問してくるのに答えつつ、彼女の現在の身の上を知った。
「え、お仕事を?」
「家に居ても気が塞ぐばかりなので、父の口利きで雑誌社に入社を。今も取材の
帰りなんです」
「へえ、婦人雑誌かなにかですか」
「はじめはそういう話だったけれど、面白くなさそうだったから変えたわ。『帝都新潮』よ」
「……通俗誌じゃありませんか、なんでまた」
 その雑誌は世間の下世話な話題を取り上げる低俗な週刊誌だ。誌面の三分の一には
政治経済や真っ当な記事も載るが、三分の一は有名人の下半身事情、残り三分の一は
有名でない人の下半身事情の記事である。なぜ知ってるか?聞かないでくれたまえ。
「ご婦人のあなたには気分のよくない取材もあるでしょうに」
「そうでもないわ、けっこう楽しいわよ。それに、あれだけの経験をしてしまうと大概の
ことは怖くなくなるもの」
「はあ、そういうものですか……あれ?」
 待てよ、なにかおかしい。
「あれ、ちょっと待ってください伊織さん」
「どうかしまして?」
「あなた、確か記憶を」
「ああ、そのこと」
 そうだ、伊織さんは一連の事件の記憶を失っていた筈だ。
「先生と一緒ですわ。そういうことにしておいた方が、いろいろと都合がよろしいもの」
「……それも従姉上の差し金ですか」
「助言とおっしゃってくださいな。私、皆さんには本当に感謝してるんですよ」
 思わずため息が出るが、今から僕のどうこうできる話ではない。重ねて言えば
従姉さんの『助言』は確かに正道である。
「まあ、あなたが納得しているならそれでいい話ですけどね」
「そういうこと。ねえ秋月先生、さっき、このお話の題名を考えてましたね」
 そうこうするうちに一通り読み終えたらしい。原稿を束ねなおしてそう訊ねた。
「語り物と言い張るからには出版できる体裁だけは整えたほうが、とね」
「人形、とかどうかしら」
「人形?」
「このお話は私……じゃなかった、『水無月沙織』という娘と、犬の縫いぐるみが
悪霊に操られるという筋立てですよね。だからさっきおっしゃっていた『宵闇草紙』に、
人形とか、傀儡とか、そういう言葉を足せばいいと思うんです」
「なるほど。『宵闇人形草紙』とか?うん、さっきよりわかりやすいですね、これはいい」
「あ……偶像、っていうのは?」
「珍しい言葉を出しましたね。確かに人形なんかを指しますが、もっと宗教的というか」
「崇拝の対象物ですよね。犬の霊は飼い主への崇拝のあまり、命を失ってもなお
あるじを守ろうとした。犬が飼い主に付き慕う風が出ていていいのではなくて?」
 意気揚々と解説する表情は果たして、その物言いが自分を『崇拝の対象』に
せしめているのに気づいているのだろうか。
「『宵闇偶像草紙』、いかがですか?」
「……そうですね、考えてみれば主要登場人物からの発案です。僕ではこれ以上の
妙案も浮かばなさそうですし、ありがたく拝借いたします」
「嬉しいわ。で」
 伊織さんは笑顔を数割増してこう続けた。
「この原稿、うちの雑誌でお預かりできないかしら」
「えっ?」
「うちの読者はこういうのが大好きなの。ちょうど来月で連載小説が一本完結する
ので作家さんに声をかけるところでしたし、編集部の者と少し筋を練れば娯楽作品と
して充分成り立つわ!」
「ちょっ、ちょっと待って下さい伊織さん」
 向こうの椅子から身を乗り出さんばかりにする相手を制して両手を上げる。
「これはあくまで僕の個人的な、その、手慰みで書いたものでして、世に出す積もりは
ないんです」
 正直、驚いた。数分前につぶやいた言葉に山気の一つもなかったと言えば嘘に
なるが、正真正銘単なる覚え書きのつもりだったのだ。出版社に持ち込むどころか、
律子従姉さんにすら見せることなく机に仕舞い込まれる筈だったのだ。
「ええ?こんなによく書けているのに」
「ありがとうございます、でも僕としては今のところ、どちらかと言えば、こういう話に
触れたくない気分でして」
 身振り手振りで自身の心境を説明した。目の前にいるのが被害者の一人でなければ
もっとはっきり『こんな誰に話しても正気を疑われるようなたわごとには金輪際
関わり合いになりたくないのだ』と言いたいところだったが。
「ほら、けっこう痛い目にも遭ったものですから、記録のためでなければ思い出したく
ないというのが正直なところで」
「あ……」
 ばつの悪い顔になったのが幸いだ。誰あろう悪霊に取り付かれていた伊織さんこそ、
僕の腕の骨にひびを入れた張本人なのだから。
「またいつか気分が変わるかもしれませんし、その時は真っ先にご相談すると
お約束しますよ。ですから、当分は、その」
「そうですか……残念ね」
 少し思案げな表情だったが、どうやら今日のところは譲ってくれるようだ。おそらく
僕は物書きとしてはまだ研鑽が必要で、それはごり押しでは通用しない領域なので
あろう。
「でも、いいわ。お約束は戴いたのだし、よい知らせをお待ちします」
「はあ。どうかあまり期待せずに」
「あら、そうはいかないわ」
 原稿の束を返してもらい、とんとんと端をそろえながら逃げ口上を打つと、先と
変わらぬ笑顔のままできっちり矛を返してくる。
「こんなにわくわくするお話なんだもの、ぜひ読者の方にも読んでいただきたいし、
それにこの子が、ね」
「この子?」
 突然の言葉を反射的に訊ねると、傍らの鞄の口金を外し、こちらに中を見せた。
「ええ。あ、今はもういい子にしてるの、大丈夫よ?それでもね」
 暗い鞄の底に見えたのはふわふわの真っ白い毛皮と、きらりと光る目玉と……。
「オレノイオリヲカナシマセタラ、ツギハウデイッポンデハスマサヌゾ」
「って、言うものですから」
 少し焦げた長い耳と、忘れたくても忘れられないその声音。
 兎の縫いぐるみが、その中から僕に笑いかけた。人形にはあるはずのない牙を
剥き出して。
「よろしく頼むわね秋月先生?にひひっ」

「……は、はは」
 嬉しそうに言い捨てて席を立つ伊織さんを見送りながら、僕は引きつった笑い声を
出すしかできなかった。
 これはきっと、あのけだものに僕が気に入られてしまったのだ。
 薮に縁ある兎医者の僕を、あの兎めはきっと友達だとでも思ったのだ。
「あああ。どうせ薮に縁があるなら酒でも飲んだくれていればよかったなあ」
 僕は小さくひとりごちた。
「そうすれば兎ごとき近寄らせない、『虎医者』くらいになれたのに」
 誰もいないところで言うくらいは容赦して欲しい。無理なのは百も承知なのだから。
 間もなく夕焼けに燃え盛るのだろう、枯れ薮のような色に変わった窓越しの空を
見上げて、僕は肺腑じゅうのの空気という空気をため息に変えたのだった。