聞いてマダオリーナ


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入り口を開くと、相変わらずアロエが歓迎してくるのに尾崎は思わず吹き出しそうになった。
狭い店内、通路の邪魔になるんではないかと心配してしまうほどのそれの横を慎重に避けて通ると、これまた相変わらずの声が出迎えてくれた。

玲子ちゃーん。

店の一番奥、赤い房状の花をつけたアロエを背に彼女は手を振っていた。
年老いた店主以外には誰もいない店内、尾崎はカツカツとヒールを踏みしめながら、だから、と言い掛ける口をつむぐ。
名前で呼ぶことは別段、友人関係としてはおかしいことはないのだけれど、彼女にそう呼ばれることに慣れることはなさそうだった。

久しぶりね。

飲み込んだ代わりに出てきた言葉は意外と軽くて、受け取った彼女もまた、長めのボブカットの髪と柔和な笑みを揺らしながら頷いてみせた。
彼女の名前は近藤聡美。
尾崎の旧友にして忌まわしい過去を共有する、とっくの昔に置きざりにしてきたものだ。

それにしても、と尾崎は椅子に腰掛けながら首だけで店内を見回す。
23区内では絶滅しつつある純喫茶にして、店主の趣味が高じて集められた多種多様なアロエの数々になんとも言いようもない空間が広がっていた。
反省会に連日のように使っていた場所が残っていたなんてある種の奇跡のように思え、
同時に尾崎にとって消し去りたくても拭いきれない物理的な事実が四方八方から押し寄せてくるようだった。
ダメ。今日はもう今日より前のことを話したいわけじゃない。
手に胸を置いて呼吸する癖は以前からのもの。
聡美も覚えていたのか、「なにか頼む? 玲子ちゃん」と心配そうにメニューを差し出してきた。
聡美の手元には既にコーヒーとアロエのヨーグルトが置かれており、尾崎はうんざりしてしまう。

「やっぱりその組み合わせはどうかと思うわ」

少し視線をスライドさせれば、すぐそこにはモソモソとした手つきでコーヒーカップを磨いている年老いた店主が一人。
アイドルだった頃と全く変わらない置物のような彼に関して疑問に思うことは多かったけれど、ついぞそのどれもが解決したことはなかったと記憶している。

「そう? とっても美味しいのに」

そう言って聡美は小さなスプーンでヨーグルトを掬い取り、口に運ぶ。
まるでどこぞのCMのように綻んだ顔を見せる彼女に、あの頃の煌きのようなものを思い出す。そう、思い出はいつだって便利なもの。
頬に添えた手からチラリと見える指輪で現実に引き戻されるまで、尾崎はこの店の思い出と共に記憶にもたれ掛かろうとした。
けれど、その作業はいつも目覚ましで起こされる不快な朝のように心を重くさせる。
メニューに視線を落とし、やっぱり変わらないアロエ尽くしのそれに嘆息し、結局、尾崎はアロエ茶を頼むことにした。

アロエ茶がゆるゆるとした速度でテーブルに着陸し、また店主が元の場所に置かれるまで、二人は何も話そうとはしない。
ただ旧友との再開であれば話の切り出し方など無限にあるように思えるのだけれど、彼女たちの過去が覆いつくす闇がひたすらに無言を強いるようだった。

「聡美。あなた、結婚したのよね」 

口から出た言葉を引っ込められるはずもなく、少しだけ返答に困ったように聡美は浅く頷く。
旦那と子供の三人で仲睦まじく写っている年賀状までは覚えていた。それ以上は知る必要もなかったし、知りたくもなかった。
そうでないと、やっと人並の幸せを見つけた彼女を口汚く罵ってしまうのではないのか。尾崎はそんな自分に怯えている。
結婚の二文字すら容易に想像できない尾崎にとって子供なんて考えられるはずもなく、「子供は可愛い?」と、お茶を濁すような話題しか触れない自分が滑稽にすら思えた。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、聡美は「うん。可愛い」と控えめに答える。それ以上、お互いに続く言葉が出てこない。
どう転んでも自分たちの過去に繋がってしまいそうな恐怖は簡単に拭いきれるものではなく、経過した時間は二人が織り成す環境の違いを認識するには十分すぎるほどだった。
もう私たちは、以前のような私たちではない。
必死に守っていた積み木の城を崩された幼子の自分は泣きそうで、それを抱き上げてくれる母親の温かみすら、もう共有することもないのだろう。
ここに来る折、言葉にならない何かを期待していたものは全くの幻想で、逆にそれは踏ん切りをつけるチャンスだと、尾崎は自分の言い訳に細かく頷いてみせた。
もうこれで、私には絵理しかいない。願ったりなことではないか。
大丈夫? と心配そうな顔を覗かせる聡美。尾崎にとって、見た目よりもずっと芯の強い彼女は都合の良い逃げ場所だった。
いざとなったら逃げれば良い。そうして縮こまって、嵐が過ぎたらまたケロっとした顔で外に出れば。
甘く囁いてくる自分を何度も殺し、尾崎は気丈に振舞うようにバッグから一枚の写真を勢い良く取り出す。

「この子のことなんだけど」

尾崎が写真を見せると聡美は少しだけ、年よりも幼く見えるその顔に陰を落とした。

何度も消そうと思ってたアドレスの相手からメールがやってきたことは聡美にとって代えがたい喜びだった。
その日はずっと気持ちが落ち着かず、後日、夫から心配だったと感想を頂くほどだった。
断片的にしか知らない過去を聞こうともしない夫には感謝しているが、彼女との再会までの間、何度も打ち明けようか迷った。
なにより聡美以上に、聡美の過去に対して良い顔をしない彼に余計な心遣いをさせたくもないと、結局は打ち明けなかったことは妻として、ようやく保育園での生活にも慣れてきた我が子を守る母としての防衛線だったのかもしれない。
後悔するか否かなどは結果次第なのかもしれないが、思っていた以上に当時を苦々しく感じていたいことを聡美はその時になって自覚した。
再開場所はあれこれメールのやり取りを繰り返すうち、お馴染みの喫茶店にすることにした。
再会なのだから、と当時の記憶を引っ張り出すのに丁度良い場所であったし、なによりそれ以上に良い過去というものが他の場所で見当たらなかったのも事実だ。
子供と夫が寝静まった後、聡美は密かに当時の写真を眺める。
もう二度と会うことはないと思っていた旧友の再会は心躍るものであり、自分も含め、彼女にとって悪夢のような過去を掘り起こしてどうするのか、という不安がせめぎ合っていた。
再会予定の喫茶店の写真を見つけ、まだあの老主人は元気だろうか。
相変わらずアロエばかりの店内なのだろうか、と過去と空想の誤差を埋めていく。
店の奥、季節になると大きな赤い花をつけるアロエを背にしていつも二人で話し込んでいた。
出てくる話題はけして、華やかなものではなかったけれど、それでも過去というものは美しく彩られている。
ねえ、玲子ちゃん。今日は駄目だったけど、明日は良いことがあるかもしれないわ。
子供が用足しに起きるまで、聡美は動かない写真の中の二人を眺めていた。

だから、といってはなんだけれど、尾崎が差し出した写真が自分と尾崎のものではなかったのに聡美は落胆した。
わざわざ思い出話をするために呼び出したわけではないことは承知しているのに、悔恨しか残さなかった別れを惜しんでいたのは自分だけだったのかと、見当違いの文句ばかり出てくる。
しばらく、視線を写真に落としながらもそこに写るものにまでは頭がいってなかった。
訝しげに尾崎がこちらの顔を覗き込み、気づいた聡美は慌てて写真の中の少女へと意識を移す。
写っているのは、テレビで観ない日がないというぐらいに売れっ子のアイドル。
まさか、という疑念を口にする前に言葉は勝手に出てきた。

「この子がどうしたの?」
「今、私がプロデュースしてるの。聡美も知っているでしょう? 水谷絵理」

知らないわけがない。
絵理が出演しているピアノのCMを見て、聡美の子供はピアノが欲しいとねだり、主人が買ってくる雑誌の表紙を何度か飾っていたことも記憶に新しい。
そんな、スターへの道を順調に昇っている少女のプロデューサーとは。
すごいじゃない。
そう言おうとしたところで、その言葉はいかに聡美を含め、尾崎には辛い言葉であるか。
二人がどれほどに憧れ、でも手が届かなかった理想へと順調に進んでいる少女。
本来なら嫉妬の一つでも覚えるのが普通かもしれないが、今の尾崎にはその少女が全てであるかのように話す。
「この子はいずれ、Aランクアイドルにもなれる逸材よ。私たちが叶えられなかった夢を叶えられるの」
二の句が出ない聡美はそのまま押し黙り、打って変わって尾崎はいかに絵理がアイドルとして素晴らしい才能の持ち主であるかを語った。
まるで過去の傷痕に塩を擦り付けるような行為でさえ、尾崎は喜んで続ける。

玲子ちゃん。

思わずついて出た言葉を取り返せるはずもなく、「どうしたの?」と語り口に熱を帯びていた尾崎はアロエ茶に手を伸ばした。

ねえ 聞いて。玲子ちゃん。

戦慄く唇を必死におさえつけ、聡美は搾り出すように尾崎に尋ねた。

「それで、用事ってなに? 玲子ちゃん」

「それじゃ私、子供を迎えにいかないと」

席から立ち上がると、尾崎は「本日はありがとうございます」と他人行儀に聡美を促す。
納得はしたけれど、どうも腑に落ちないという顔を浮かべている少女を聡美はなるべく見ないように出口まで足早に歩いた。
自動ドアを抜けると、嫌みったらしいくらいの青空とガラガラの駐車場が聡美を出迎える。
ちらつくのは尾崎と絵理の二人。
まるで当時の自分たちのようにデコボコでちぐはぐなコンビなのになかなかどうして、良い組み合わせかもしれないとは思ってしまった。
おそらくもう尾崎の目に自分は映っていないと、聡美はため息を空に向かって飛ばす。
結局、riolaの陰を全て背負ってしまったはずなのに、それなのにその呪縛から解き放たれた様に聡美の心は軽くなっていた。
きっと、背負ったのは自分ではなく尾崎のほうなのだ。
最後の最後で彼女の救いを求める手をこのような形で振り払ったことに後悔は少なからずある。
もうあのアロエばかりの喫茶店でお喋りに夢中になることはないし、尾崎からの連絡を心密かに待つこともなくなるだろう。
さきほどからひっきりなしに揺れていた携帯を手に取り、聡美は我が子を迎えに車へと急ぐ。
あの少女の為を思えばこれで良いのかもしれない。今はただ、あの二人の行き先を祈ることで聡美は涙をこらえた。


聞いて 玲子ちゃん
ねえ 聞いて
あなたはもう そこまで辛くなる必要なんて
聞いて 玲子ちゃん
玲子ちゃん