New Life


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 汗の記憶、肌の記憶、脳裏でその映像がめくるめくる煌く。バスタオルの下で生温かい熱が体を火照らす。
真夏の暑さは部屋にまで入り込み、浮き上がった汗で互いの体を濡らす。邪魔なタオルを蹴飛ばす。籠った余熱が解放される。
明け方の薄明かりが仄暗くセンパイの肢体を露にする。
 酷く痩せた体の所々についた赤い斑紋。アタシがセンパイに残した痕。首筋のそれに深くキスする。
「んん、んっ」
 センパイが僅かに反応する。浮き出る汗を吸うだけでなく、舌を出して舐め取る。もっと強く強く抱きしめたい。
自分の欲望が赴くまま穢してしまいたい。けれども、寝ているセンパイに手を出してしまうのはあまりフェアとは言えないだろう。
だから、センパイの味を感じるだけに留めよう。舞い上がった体を鎮めるために床を発つ。すると、腕が絡みついてきた。
「待って、サイネリア」
「センパイ」
「一人にしちゃ、嫌」
 そう言われたら、我慢などできない。センパイを布団に押し倒し、唇を奪う。
「アタシはいつだって、センパイを欲しいって思っていマスヨ」
「そう、よかった」
 そしてまた体を突き合せる。女子の情欲は無尽蔵だ。こんな時ばかりは、女に生まれてよかったと思う。
アタシは腕の傷痕を見ないようにしながら、目の前の少女を貪った。
 日は明け、赤みがかった光が部屋に洩れてきても、寝床から出ようとは思わない。これは学生の特権だ。
それにしても、どうして今センパイと寝ているんだっけ。センパイを片腕に抱きながら、今までに起きたことを整理する。
 一昨日、センパイがSkypeで別れを告げてきた。自分はやけっぱちになって、隠していた自分の想いを告白した。
センパイはそれを許してくれて、アタシの家に来ると言った。
 昨日、朝にセンパイが死にそうな顔をして家まで歩いてきた。その後、母親と名乗る女がセンパイの携帯に電話を掛けてきて、
私が啖呵を切った。その後、センパイが起きて実家に電話を掛け直して、自殺するとまで言って親を引き下がらせたんだっけ。
その後、センパイが急に笑い出して、抱いてほしい言い出したんだ。自分にできることはこれしかないからって言って。
アタシが躊躇っていたら、今度は泣き出したから、こちらのタガも外れて押し倒したんだ。丁度、真昼間だった。
それからというものの、風呂上りに一回、寝るときに一回、明け方に一回、獣のように交わったんだ。
 冷静に考えれば、家出少女の弱みに付け込んで、体で宿代を払わせたようにしか見えない。いや、事実そうか。
その事に罪悪感が首をもたげてくる。けれど、やっと自分の手中にセンパイが来たのに、手放してたまるかという気持ちも強い。
アタシはセンパイを愛してる、センパイが欲しいという感情に嘘偽りは無い。天地神明に誓って。
アタシがセンパイを手放せば、彼女は監獄に幽閉され、二度と戻ってこない。でも、自分の立場を傘に着て、
センパイを押し倒す事だって望んではいなかった。もし結ばれるなら、無償の愛を捧げあう関係であってほしかった。
 葛藤と自己矛盾が、巡り行く脳内世界を歩きながら、徐々にまどろんでいった。

 日は上がり、空は青い。時刻は9時を回ったが、センパイは連戦で疲れたのか、あれからずっと眠っている。
自分も明け方に一戦交えてから暫く寝入っていたのだが、朝食の準備をしなければならないから、こうして起きている。
これからはアタシがセンパイを支えねばならない。
 食パンを焼き、小麦色の表面に苺ジャムを塗る。トーストの芳醇な香りにジャムの甘い香りが部屋に広がる。
「センパイ、そろそろ起きてくださーい」
 肩を揺する。
「んん?」
「もう朝御飯できましたから。パンが冷めちゃいますよ」
「うん……ありがとう?」
 センパイはゆっくりとベッドを降りる。まとっていたバスタオルが落ち、生の肢体が曝け出される。
しまった。昨日脱いだままだったんだ。
「わ、わ、センパイ、早く着替えてください」
 慌てて顔を背ける。
「サイネリア、ちょっと変?昨日、散々、わたしの裸、見たのに」
「あ、あれは、場の雰囲気というか、流れで」
「なら、今更、恥ずかしがること、ない?」
「だ、駄目ですよ。もう夜も明けちゃいましたし」
「わたしは、サイネリアの『モノ』なんだから、服なんて、着てなくても、別に恥ずかしいこと、ない?」
「アタシが恥ずかしいですから!」
「ふふ、ちょっと言ってみた?サイネリアがそう言うなら、着替えるね」
 こっちの気持ちを知ってか知らずか、センパイは微笑むと衣装棚から、アタシの下着とパジャマを取り出し、着替える。
そうアタシのだ。うふふ。
 場を仕切り直し、ちゃぶ台の前に座り朝食を摂る。何でもない食卓、何でもない風景、何でもない日常、
けれど、今のアタシにとってはかけがえのないものだ。人生の傍にセンパイがいてくれるだけで、幸せは二乗される。
 思えば、ネットでどれだけ活動しても、信者は得られたが、アタシを理解してくれる人は来なかった。
電子の世界でいかに人気を博そうとも、現実世界ではただのイタイ子、それが女子社会の評価だった。
けれど、センパイと話すようになって、女子だってアタシのことを理解してくれる人がいるんだってわかった。
それでも、付き合いはSkypeを通してだけで、実際に対面することはなかった。
それが、今アタシの目の前にいる。それだけじゃなくて、こうして抱きしめることもできる。
それはそれは夢のような出来事だった。

「暑いね……」
 センパイが呟く。起きてすぐにエアコンを点けたけれど、熱気は部屋に籠ったままだ。
「今年の夏は暑いデスカラネ。備え付けのぼろいエアコンじゃ仕方ないデスヨ」
 蝉の啼く声が響く。夏の風物詩といえば聞こえがいいが、ここまで鳴り響くと騒音に近い。
コンクリートの塊しかない都内のどこに蝉の住処があるのだろうか?
 日はじりじりと大地を焦がしている。カーテンは昨夜から引かれたままだが、布の切れ目から、
光が差し込んでいる。敢えて開けようとは思わない。部屋の電灯はもう点けてある。
たとえ電気代がかさもうとも、熱線を浴びるよりはましだろう。
 アパートのワンルームには網戸といった便利なものは存在しないので、窓を開けて換気するとか、
流れる風で体を冷ますとかいうことはできない。もっとも、この暑さでは、風が来ても熱波だろうけど。
 朝食を終え、皿を洗う。昨日の夜から、洗う皿が増えた。こうして、家事をしていると、
自分は少女を囲っているのだと実感する。センパイの生活は私が支えなければならないのだ。
当のセンパイは、どこか申し訳なさそうに部屋の隅で体育座りをしていた。
「あっ」
 センパイが不意に声を上げる。
「どうしたんデスカ?センパイ」
「パソコン、置いてきちゃった」
 それはそうだ。着の身着のまま家から逃げてきたのだから、パソコンなんて重いものを持ってこれるはずは無い。
ノートならともかく、センパイのはデスクトップで、しかもディスプレイが二つもあったんだっけ。
「んー、しばらくはアタシのを使うといいですよ。後でパソコンくらいアタシがプレゼントしちゃいます!」
「サイネリアに悪い?」
「いやー、そんなの気にしなくてもいいんですよ。これでも、アタシ太っ腹って大学でも評判なんデスカラ!」
「それに……あの人たちに、ハードディスク見られるの、嫌。作りかけの動画とかもあるし……」
「あっ」
 まずい、それはまずい。自分でも、親にDドライブの中身見られるとか悪夢だ。
冷静に考えればすべきことはある。保険証をセンパイは持っていない。このままでは病院に行くのもままならない。
 だが、あっちに送ってもらうにしろ、啖呵切った手前、今更どの面下げて親に連絡できるだろうか。
センパイには無理だ。余計な負担になりかねない。不本意であるが、自分がやるしかない。
人の娘を掻っ攫おうというのだから、多少の労苦は惜しむべきではないだろう。
「アタシが話をつけます。大船に乗った気分でいてクダサイ!」
「いいの?」
「サイネリアちゃんにお任せ!」
「ふふっ、じゃあ、お願いするね」
「じゃあ、センパイの携帯貸してください」
「うん、けど、送ってもらう時、この家の場所は言わないで。お願い」
「あっ……はい、わかりました」
 センパイは親をはなから信用していないのか。だが、それも止むを得ないのかもしれない。
もう親子関係は壊れてしまっているのだ。

 意を決して、電話帳からセンパイの実家の電話番号を選択する。
「もしもし、どなたですか」
 聞き覚えのある女性の声が聞こえた。
「サイネリアです。今日は絵理さんのことで、相談があって来ました」
「そう、今日は何の用件かしら?」
「絵理さんはここで暮らすことになるんですけど、それに必要な作業があるので、その件についてです」
「作業……」
「まずは、絵理さんの私物をこちらに引き渡して頂きたいんです」
「えっ」
「着の身着のままで来たんですから、生活に困るんですよ」
「そんなこと言われても」
「貴方の娘さんを預かろうというのですから、ある程度の配慮はあってしかるべきだと思います」
「……わかったわ。なら住所を教えて頂戴。後で送るから」
「その必要はありません」
「えっ」
「私たちとしては、こちらの住所を貴方たちに教えるわけにはいかないんですよ」
「どういうこと?」
「貴方たちが心変わりして、警察に通報されれば、絵理さんは再び施設に送られてしまう。
そんなこと、私たちは望んでいないんですよ」
「信用されてないのね……」
「疑われる原因を作ったのは、貴方たちだと思います。それに、絵理さんは理屈抜きで、
貴方たちに自分の居場所を知られたくないと思っています。私は友人としてその意思は尊重したいと思います」
「それじゃあ、どうしたら」
「私が取りに行きます」
「そんなの無理よ」
「台車に荷物を載せて、集配所に持っていきます。何往復かすれば送ることはできます」
「そんな無茶な」
「無理を言っているのは、自分でも重々承知しています。けれど、私の意見を聞き届けて頂く事が、
事を荒立てずに、貴方たちの家庭の問題を解決する唯一の方法だと思います」
「それは……」
「頂くものは他にもあります。」
「……そう。じゃあ、いつ来るのかしら」
「昼食の邪魔はしちゃいけないと思いますので、10時半には伺います」
「そう。おもてなしもできないけど、その時間で待ってるわ」
「ありがとうございます」
 溜息とともに、電話は切れた。振り向くと、センパイは相変わらず、部屋の角で丸まっていた。
「というわけで、センパイのお家にお邪魔することになりました」
「そう」
「ただ、アタシ、住所知らないんですよね」
「携帯、貸して」
 センパイは携帯を手にすると、何やら操作をし始めた。すると、自分の携帯が鳴り始めた。
「あれ、メール?」
 メールを開いてみると、センパイの住所が書かれていた。
「ああ、そういうことデスネ。わかりました」
さあ、一仕事だ。収納からここに引っ越す際に使った折り畳み式の台車がある。それを掴んで持って玄関に向かう。
 それから、小物類を仕舞うためにリュックサックを取り出す。その中に、財布、携帯、ガムテープ、はさみを入れる。
おっと、センパイを一人にするんだっけ。
「ああ、センパイ、2時までには戻りますんで。お腹がすいたら、棚のお菓子や冷蔵庫の中身、勝手に食べちゃっていいですから。
それと、昼ご飯は買ってきますけど、何か食べたいものはありますか?」
「サイネリアの、好きなもので、いいよ」
「わかりました。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい?」
 扉を開けると、分厚い熱気が体を包んだ。

 電車を降りると、またもや熱風に包まれた。がんばれ、サイネリア。センパイの家はもうすぐだ。
 背後では、列車が駆け抜ける轟音がする。2、3時間前は人でごった返していたであろう駅のホームは、
通勤ラッシュを過ぎて人もまばらになっていた。
 センパイも都民だったのかと思えば、不思議な気分になる。画面越しの付き合いばかりだったのに、
実際にはこんな近くに住んでたなんて。
「暑い」
 愚痴がひとりでに零れる。それにしても暑い。自分のポリシーなんて捨てて、シャツと短パンで行けばよかった。
いくら夏仕様にしているとはいえ、ゴズロリファッションは暑さに弱い。何か飲まないと茹で上がりそうだ。
駅構内のニューデイズに入り、ペットボトルのポカリスエットを買う。すぐに蓋を開けて飲む。
「はあ」
 キンキンに冷えたジュースが喉を潤す。椅子に腰掛けそのまま飲み干す。それでも汗は止まず、額から頬を伝って落ちる。
ハンカチで顔を拭う。布地がじっとりと湿る。すると、立て掛けていた折り畳み式の台車が滑り落ちた。
大見得を切ったはいいが、これに重い荷物載せて郵便局と何往復もすると思えば、些か憂鬱である。
「さあ、行きマスヨ!」
 自分に発破を掛けて、地上への階段を下りていった。
 センパイの実家は駅の西口を出て、街道から路地裏に少し入った所にあった。表通りでは、雑居ビルや商店が並んでいたが、
少し奥に行けば、一戸建てが延々と並んでいる。同じ都内でも、秋葉原のような都会のイメージとは異なる風景だった。
意外と駅から近かったことに内心感謝しながら、インターフォンを押した。
「はい、どなたですか」
 先ほど聞いた女性の声だ。
「サイネリアです。荷物の受け取りに来ました」
「ああ、今開けるわ」
 蝉が鳴いている。ガチャガチャと鍵が開く音の後にドアが開いた。
「いらっしゃい、あら、その格好……」
 相手が口を手で押さえる。この瞬間を見るために、夏にわざわざこんな服装をしているのだ。
「まあ、仕事着ですから」
 周囲の奇異な物を見る目は、反発という点で、アタシに一つの生きがいを与えてくれる。
オタク文化を認めない世間の態度は、逆に自分の特別さを引き立ててくれる。
普通じゃないって思われることで、自分は他人と違うんだって証明できる。
「何か問題でも?」
「いえ……ともかく上がって」
「おじゃまします」
 玄関に上がると、引き摺っていた台車を開いて玄関に置く。すたすたとあちらが歩いていくので、
急いで靴を脱いでついていく。中は広々としていて、自分の部屋とは大違いだ。
「絵里さんの部屋は?」
「あら、すぐに運び始めるのかしら?」
「絵里さんを部屋に待たしているので」
「そう。絵理の部屋は二階の突き当たりにあるわ」
「ありがとうございます」
 心なしか、駆け足で階段を上がる。センパイの部屋、どんなのだろう。はやる心を抑えながらドアを開けた。
途端に湿った熱気が漏れ出てきた。当然だろう。エアコンを点けないまま、日光で温められるままだったわけだから。
しかし、部屋に足を踏み入れ、中を見回してみると、むしろ寒気を覚えた。
 驚くほど生活感の無い部屋。部屋の奥に、二つのラック。その上に、パソコンの本体、ディスプレイ、キーボード、
DVDレコーダ、プリンタがそのまま積まれていた。ラックの上段にはソフトウェアのケースが敷き詰められている。
後はベッドが窓辺に放置されていた。カーテンは閉め切られていて、日の光はほとんど入ってきていなかった。
部屋にそれ以外の私物は見つけられなかった。本も服もテレビもゲーム機も何一つ無かった。ゴミさえも無かった。
ただ、床には電子機器を梱包していたと思しき段ボール箱が雑然と積み上げられていた。酷く非人間的で無機質な光景だった。
 これがセンパイの生きていた空間、センパイの世界。

 だが、今は感慨に耽っている時間は無い。とりあえず冷房を点ける。
 まず電子機器に繋がっているケーブルを外す。それから、対応するダンボール箱に戻していく。
正直、重たい電子機器を運ぶのは辛い。空調の温度設定を18度にしたのにもかかわらず、重労働に汗が吹き出る。
「ううー、重い」
 されど、助けは無し。自分でしなければならない。しかもデリケートな電子機器。乱暴に扱うわけには行かない。
のっそりと慎重に、慎重に段ボール箱へ詰めていく。それが終わったら、箱の中に残っていた緩衝材を機材の周りに巻く。
仕上げに、ガムテープで段ボール箱を閉じる。
「ふう」
 思わず溜息が漏れる。だが、これで終わりではない。今からこのデカブツを玄関に運び、台車に乗せて郵便局まで運ぶ。
これを何回も繰り返す。大変だ。大変だがこれも愛するセンパイのため。
 台車の車輪がでこぼこしたアスファルトと擦れる音が、日輪の下に鳴り響く。
「うー、あぢい」
 女子らしからぬ声をあげてしまう。暑い、重い、だるい。大見得を切ったはいいものの、炎天下の作業を甘く見ていた。
唯一救いといえるのは、郵便局まで比較的近いということか。
 のろのろと荷物を押していく。体力を瞬く間に使い果たし、急いで向かう力が湧いてこない。
道の先には陽炎が揺らめいている。蝉はゲラゲラとこちらを嘲笑う。
 目的の郵便局は、横に広い建物で、裏手ではトラックや集配の車がひっきりなしに往来していた。
「やっと着いた」
 これで冷房に入れる。自動ドアが開くと冷気がひたひたと吹き出てきた。さ、寒い!鳥肌が立つ。
いくら涼しいほうがいいからといって、急な気温変化は考え物だ。
「いらっしゃいませ」
 最近の郵便局は客商売になったのだろうか。それとも規模の問題だろうか。
周りの奇異なものを見る目を背に台車を押していく。ゆうパックの申込用紙を手に取り、自分の住所を書き込む。
それをちょこんと荷物の上に乗せて、窓口まで歩く。空いていてよかった。
「ゆうパックでしょうか?」
「はい」
「では、お荷物をお願い致します」
「はっ、ふぬう、はあ」
 またもや女子らしからぬ声をあげ、荷物をカウンターに持ち上げる。局員は段ボール箱の寸法をメジャーで測った。
「わかりました。少々お待ちください」
 局員は用紙を受け取ると細かい手続きをして、控えを返してきた。代金を払い、控えをリュックに仕舞う。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 軽く礼をして郵便局を後にする。が、これはほんの始まりに過ぎない。後、7、8回は同じ作業を繰り返す。
気が遠くなりそうだ。

 手が痛い、腕が痛い、肩が痛い、腰が痛い。最後の荷物を送り終えた時、体はだるだるになっていた。
携帯を見ると、時刻は12時を回ったところだった。
 センパイの部屋に戻り、最後の確認をする。
 パソコンが無くなったセンパイの部屋。最早、無機質ですらなかった。ここには何も残っていない。
形に残るモノも形に残らないモノも。
 アタシはカーテンを開けた。先ほどまで鬱陶しかった日の光が、この部屋に生気を与えてくれる唯一の存在だった。
「センパイ、日の光浴びないと体に悪いデスヨ……」
 言葉は壁にぶつかり、跳ね返って消える。
 アタシは階段を降りた。リビングのドアを開けて入る。
「これで全部運び終わりました。ありがとうございました」
 一応、相手に頭を下げる。あちらは安堵の表情を見せていた。厄介な来訪者がようやく帰るのだ。
「それと、保険証を頂きたいのですが」
「えっ、保険証」
「それがないと、病院に行けないですから。身分証明書もありませんし」
「そう、わかったわ」
 相手は棚を弄り始めた。やがて、カード状のものを持ってやってきた。
「わざわざ、ありがとうございます」
 慇懃に礼を述べる。
「それじゃあ、お邪魔します」
 背を向ける。後ろから溜息をつく声が聞こえた。それで終わりだった。
 帰りの車中、センパイの母親が見せた表情や態度が引っかかっていた。
いくら手を焼いていたとはいえ、実の娘がいた痕跡を跡形もなく消されて平静でいられるのだろうか?
自分の両親は、半ばアタシを見放しているとはいえ、それでもちゃんと仕送りしてくれるし、
電話をすれば答えてくれる。アタシの私物が見ず知らずの他人に持ち去られて平然としているはずがない。
 けれど、センパイの母は、そんな素振りは少しも見せず、アタシが帰る姿に安堵の表情を見せていた。
結局、あの家では、センパイの価値はそれぐらいしかなかったのか。面倒見なくてすむなら、
赤の他人に譲り渡してもいい存在だったのか。
 センパイの置かれた悲しい境遇に胸を馳せると、心が痛んだ。

 我が借家に戻ってくると、ひんやりとした空気にほっとする。
「センパイ、ただいまデス」
「おかえり」
 センパイは相変わらず、リビングの隅で体育座りしていた。ひょっとして帰ってくるまでの間、ずっとそうしてたのだろうか?
「ご飯買って来ましたから、食べましょう」
「うん……」
 サラダパスタが二パック、ミニケーキが二つちゃぶ台の上に置かれる。
「いただきます」
 出来合い品だが、どう反応するだろうか?センパイはまずケーキにスプーンを射した。甘党なのだろうか。
それから、パスタに全く手をつけることなく、ケーキを食べ終えてしまった。
「ごちそうさま?」
「え?」
 いくら甘党だとしても、これは極端すぎる。
「センパイ、パスタ嫌いなんですか?でしたら、すみません」
「いや、そうじゃ、ないんだけど」
「むむむ、ダイエットですか?でも、食べないと、体に悪いデスヨ?」
「心配かけて、ごめん……」
「いや、謝るようなことじゃ」
「わたし、やっぱり、だめな子」
 急にセンパイの声が沈む。
「ええっ!食欲がないなら食べなくて大丈夫ですから。そんなこと、気にしないでくださいよ」
「ごめんね、サイネリア……」
 センパイはこんなにすぐ謝ったりする人だっただろうか。Skypeで話している時、都合が悪くなったら、
アタシに何の遠慮もなく、回線切ってたような気がするのだが、気のせいだろうか?
 その瞬間、頭にセンパイの傷だらけの腕が浮かんだ。
「センパイ、パソコンとかですけど、明日の昼までには全部届く予定です」
 慌てて話題を変える。
「サイネリア、暑い中、ありがとう?」
 センパイはぎこちなく微笑む。
「いやあ、ホント暑かったデス。でも、女サイネリア、センパイのためなら火の中、水の中、どこにでも行きマス!」
 敢えておどけてみせる。
「ふふっ、ありがとう」
 曖昧に微笑むセンパイ。その顔がぐんぐん近づいていって、頬に柔らかい感触がした。
「セ、センパイ!キ、キ、キスですかー!」
「感謝の印?」
 どうしたことだろう。センパイ、やけに積極的だ。昨日といい、今日といい。いや、それも当然か。
「も、もう、真昼間から熱すぎですってばー。こういうのは、雰囲気というものが」
「だめ、かな」
 もじもじとセンパイが聞いてくる。
「いや、だめじゃないですけど、やっぱりそういうことは夜にしたほうが」
「サイネリアがそう言うなら、そうするね」
 センパイは曖昧に笑った。

 昼食を終えてからも、やるべきことは多かった。それには、センパイも一緒に来てくれないといけない。
人一人が住居を変えるというのは、中々大変なことだ。しなければならない雑務が多い。
だが、センパイがわざわざ外出してくれるかどうか。
「あの、センパイ、一つお願いしたいことが……」
 意を決して話しかける。
「なに?」
「ア、アタシと一緒にお出かけしてくれませんか?」
 言ってしまった。恐る恐るセンパイの顔を見る。
「いいよ」
「えっ、いいんですか?」
「サイネリアがしたいなら、いいよ」
 その時、内心小躍りしたい気分だった。あれだけ引きこもっていたセンパイが、アタシの頼みで外へ出る。
アタシと一緒に行動してくれる。それは以前では考えられないことだった。
 センパイを連れ立ってまずしたことは、戸籍をこっちに移すために、区役所を梯子して、転出届けと転入届を出すことだった。
その為の手続きは本人が行わなければならない。センパイの実家と完全に縁を切るためにどうしても必要だったし、
現在住所に戸籍が無いのは、行政のサービスを受けるのに何かと不都合だった。
 それから秋葉原へ向かい、電気街でルータを買った。一つの回線で複数のコンピュータをネットに繋げるようにするためだ。
 電子部品の群れに唾を飲み込むのもそこそこに、駅近くの洋服店でセンパイの服を見繕った。
何せセンパイの私服は、通っていない高校の制服しかない。おめかしする服もなければ、パジャマも無い。下着すらない。
服を選ぶ時、センパイは「サイネリアが選んだものなら何でもいいよ」と言って、持ってくる服全部にOKを出すものだから、
センパイを着せ替え人形にしているような気がして、こっちが困ってしまった。
 最後に、秋葉原UDXのレストランで夕食を摂った。

 こうした日常の営みで、時間が過ぎていった。他所から見れば、何の変哲も無い日常に過ぎないのだけれども、
あのセンパイと一緒にアキバでショッピング、アタシにとっては夢のような出来事だった。
 帰ってきた時、時刻は7時を回っていた。
「いやあ、今日は大変でしたネ」
「サイネリア、ご苦労様」
 センパイは淡く微笑む。
「いやあ、それほどでも」
 センパイに褒められると、背中が痒くなる。今日は大分遅くなったけど、パソコンを点けないと。
「じゃあ、今日もネットの世界にダーイヴ!」
 OSが起動すると、Firefoxを開き、迷わずブクマからニコニコ動画に飛ぶ。今日も日課のランキングチェックだ。
アタシたちは、ニコニコ動画を舞台にネトア活動をしているわけだけども、その主戦場は「やってみた」カテゴリーだ。
「今日のランキングは、あれ?」
 トップの動画のサムネには、何やら見慣れない人物が映っている。
「『少女がデスメタルを弾き語ってみた~Cryptopsy編』って、なんぞこれ!」
 デスメタルがランクトップだと。ニコ動は一体どうなってるんだ。
「セ、センパイ。何かデスメタルが『やってみた』のトップになってるんデスケド」
「カガリビ」
「へ?」
「音楽プロジェクト。ミュキがリーダーしてる、メタルを演奏するチーム?」
「バンドみたいなものデスカ?」
「うん」
「結構詳しいんデスネ」
「前から、知ってたから」
 センパイがメタルを聴くなんて意外だ。だが、そこまで言うなら、聴いてみよう。
動画を開いてみると、投稿者コメントにはこう書いてあった。
「みなさん、こんばんわ、ミュキです。今回は、CryptopsyのPhobophileに挑戦しました。
いつも通り、リードギター、ボーカルは直録りで、サイドギターとベースは別録り、ドラムは打ち込みです。
至らない所も多々ありますが、平にご容赦を」
 やけに謙虚だな。再生ボタンをクリックして再生した。
 プレイヤーの画面に、亜麻色の髪をした少女が現れた。髪が、女性にしてはかなり短く切り上げられており、
タイトルで少女と知らなければ、少年と言われても気づかないかもしれない。
顔立ちは、センパイには劣るとはいえ、なかなか整っていると思う。ネトア業界も日に日にレベルが上がっているのか。
 彼女はギターを持つと手馴れた手つきでイントロを引き始める。そのメロディは、やけに穏やかなので拍子抜けした。
だが、イントロが終わった時、アタシに電流が走った。突如、画面の少女が金切り声をあげたのだ。
何と歌っているのか、さっぱり見当がつかない。自分のデスメタルのイメージは、
顔を白塗りにした金髪の男が汚らしい言葉を吐くというものだったから、悪い方向に期待は裏切られ、唖然とする。
異様に速くギターを弾きながら、頭は激しく上下に振り、絶叫している。はたから見れば、その姿は、
少女がヒステリーを起こして錯乱しているようにしか見えない。なんなんだこれは。
 演奏が終わった時、どうセンパイに反応すればいいか困ってしまった。どう評論しろというのか。そもそもあれは音楽なのか。
「センパーイ、こんなの音楽じゃないデスヨ。ニコ厨も何考えてんですかね?」
「たまに聴くと、ストレス解消?」
「ま、まあ、そうかもしれませんケド」
 しかし、どういうことだろう?センパイはこのバンドについてそれなりに知っていた。つまり、この手の動画を見ていた。
いくらなんでも荒みすぎではないか。つい最近まで、確かに心が荒むような環境にいたかもしれないけど。
 不意にセンパイの傷だらけの腕が頭に浮かんだ。
「あ、そうだ。センパイの動画のコメをチェックしマス。荒らしがいたら、バンバン運営に通報しちゃいます。
ネット警備員サイネリア出動!」
 アタシはこうしておどけるのだった。その姿を夏の虫がけらけらと笑っていた。