無題227


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人生においてどうしても忘れられない体験を挙げろと言われれば
伊織にとってのそれは初めて765プロを訪れた日であろうか
父親の紹介で来たプロダクションであったが
最初はその建物自体のボロさに若干引きつつ
事務員らしき女性に案内され面接の為にとある部屋の前で待っていた時だ
手持ち無沙汰にウサギの人形を弄びつつこの間行ったばかりのイギリスで見た橋を思いだし
その鼻歌を歌っていた時のこと

「London Bridge is falling down,  Falling down, Falling down.
London Bridge is falling down, My fair lady…. 」

突然綺麗な発音で歌が聞こえてきたので 伊織は心臓が飛び出るかと思った
横を見ると黒いロングコートを羽織った男が一人隣に立っていた
男は伊織の驚いた顔を華麗にスルーし、ポケットに手を入れたまま喋る

「この歌詞のMy fair ladyのladyって言うのはな、橋が掛けられるときに立てられた人柱のことらしいぜ」

伊織はこれにどう答えればいいのか分からず、ただ小声で「へぇ・・・」と言うしかなかった
今まで初対面の相手に会話のペースを握られたことは無かったため 伊織は少々以上に戸惑っていたのだ
男は何が可笑しかったのか、唇の端を少し持ち上げつつ伊織に改めて向き直った

「お待たせしたようだね。さて、こうしていても何だしさっそく始めようか」
「え…始めるって…何を?」
ようやくおさまってきた動悸を感じつつ 伊織は男に訪ねた
考えてみれば この状況で始めることなど一つしか無いというのに
男の外見と雰囲気から到底イメージと結びつかなかったのだ

「何って、受けに来たんでしょ?面接」
男は扉のノブを回しつつ応える

「ようこそ765プロへ、水瀬伊織さん。君の面接を担当する人事部の…
まあ名前はいいや」

どうやら自分の面接の相手は相当の変人らしい
こんなことなら親に頼らず、自分でプロダクションを見つけて応募すればよかったかと
既に伊織は落ち込み気味になっていた

「まあ面接つっても、聞くことなんて別に無いんだけどね」

部屋に入って椅子に掛けるよう促され、伊織が座っての相手の第一声がこれである
とりあえず、相手が何を考えていて、この面接の合否がどうなるにせよ
一方的に言われっぱなしというのは伊織の癪にさわる 伊織は開き直った
聞くことが無いなら逆に聞いてやればいい

「それは…もう不合格が決まってるからってことかしら?」
「ん~、別に?いや聞いて欲しいんなら聞くよ?“なぜアイドルになろうと思ったの?”とか
 “趣味・特技は何?”とかね。でもそんなの聞かれても困るだろうし、ぶっちゃけこっちも
 聞かされても困るんだよね。寧ろ俺としては、そっちに色々聞いて欲しいかな。
 そこから見えてくる物も多いからね」
「じゃあお聞きするけど、高木社長は来ないの?」
「ああ、社長は今、優秀な人材を探して三千里の旅に出てるよ」
「それじゃあ…貴方のお仕事は?」
「さっきも言ったけど人事部。つってもまだ振り分ける程人材居ないけどね
 まあ後は、一応プロデュース業もできないこともないよ」
「じゃあもし私がデビューしたら、貴方が担当になるの?」
「なって欲しいならそうするけど、君の担当は多分次にくる新人君じゃない?」
「そう…」
「他にもう聞きたいことは無い?」
「とりあえずはね」
「オッケー。じゃあ最後に俺から一つだけ質問するぜ」

伊織はさあ来いと身構えたどんな質問でもキッチリ答えてみせると

「俺はここに来る子に必ず聞く様にしてるんだけど…」

「アイドルにとって一番必要な物って何だと思う?」

「どしたの?そんな拍子抜けみたいな顔して?」
「だってねえ…あんだけ溜めといてそんな普通の質問って…」
「ん~、そうかな?割合重要な事だと思うけどね」
「じゃあ答えてあげるわ。答えは一つ。“才能”よ!」

普段の伊織なら、仮にも面接の場でここまではっきりとは答えなかっただろう
しかしこの男のペースに若干ながら巻き込まれ、つい本心が出たらしい

「成程“才能”ね。じゃあ才能がある人間は努力は要らない?」
「少なくとも私はね。デビューして3ヶ月後にはアイドルの頂点を極めてみせるわ」
「ん、了解。じゃあ面接の合否を発表しちゃうぜ」
「え…もう?」
「ん、取り合えずは合格という事でいいよ。た・だ・し」
「ただし?」
「ちょっち付き合ってもらうんだぜ?」

「ここって…」

男の車に揺られること10分弱 広い地下駐車場で止まった車から降りると
大手テレビ局の入口だった

「ん、テレビ局だぜ。これからお世話になるんだし、
 迷子にならないようにな」
「子供じゃないわよ」
「これは失礼」

自動ドアを抜けてエレベーターで上階に昇り、受付を通って再びエレベーターで昇る
ある階で降りるとそこは大きな廊下になっていた
歩いて行くと、壁の真ん中あたりの入口に座っていた係員がこちらを向いた
するとその係員は傍目にも分かるほど動揺し慌ててこちらに走ってきた

「これはこれは…このような所に来られるとは思いませんで…」
「事前に連絡入れなくて済まなかったね。ちょっと見せてもらえる?」
「ええ勿論結構ですよ。」

係員に促され、伊織は男と一緒に中に入った

一時間後。男と伊織はテレビ局の近くの喫茶店

「さてと、とりあえず感想でも聞いとこうかな」
「アンタ…あんなもの見せて何のつもりよ…」

テレビ局の扉の向こうは大きなホールだった
そこではなんとアイドルアルティメイトのオーディションが行われていたのだ

「何のつもりって、君の言う所の“アイドルの頂点”っていうやつを見せてあげようかな~とね」

伊織は正直、打ちのめされた気分だった あの場の空気はは言葉で説明できるものではない
あれはある種の異空間だった アイドル一人一人が生みだす世界の交差点だ
テレビで見るアイドル達ともライブとも違う もっと生々しい意思の溜まり場
伊織はそれに完全に飲み込まれていた 実際、途中で逃げるように抜け出してきたのだ

「ねぇ、“アレ”は何なの?どうしてアンタはあんな部屋の中で平然としていられるの?」
「成程、あの部屋の気持ち悪さを感じ取れたか。それなら充分だ」

男は運ばれてきたコーヒーを啜りながら平然と答える
伊織は目の前にあるオレンジジュースを飲む気にもなれず
ただコップに着いた雫が流れるのを見つめていた

「あれはね、アイドルの本当の姿だよ。あの異様な空気はあの場にいた
 アイドル達やプロデューサー達それぞれの感情の流れ、もっと言えば敵意とか嫉妬?」

伊織は成程と思った それならば実はあれと似た空気をどこかで感じたことがあったのも納得できる
父親に連れられて何度か行った社交パーティーと同じだ
隠された本心・何重にも上書きされた笑顔
しかしあの部屋の空気はそれの比ではなかった

「あの空気の源泉はね、コレさ」
男が指差した物を見て伊織は首を傾げた

「コーヒーカップ?」
「違う違う、その中身。」

そう言いながらもう一口コーヒーを口に含み、男は語り始めた

「コーヒーは好き?」
「あんまり。紅茶なら飲むけど」
「まあ紅茶でもいいよ。例えばの話だけどね、会社のオフィスとかで
 コーヒーとかお茶を煎れるのが上手い人が居るとするでしょ?
 でもそんな人でも、喫茶店なんかに足を踏み入れると大抵バイト以下なんだよね
 まあバイトだって、お金貰って仕事してるプロの端くれだからね。意識が違うんだよね」
「プロの…意識?」
「ん、もっと言うとプロのとしての自負?」
「…私にはそれが無い?それがアイドルとして一番重要な物?」
「さあどうだろね。ただ少なくとも、学芸会で歌って踊るのとは
 背負わなきゃならない物も違うっていうのは確かでしょ」

最後の一口を飲み干して一呼吸置き、男は尋ねる
「最後って言っといて悪いけど、もうひとつだけ質問
 君は自分がアイドルやっていけると思う?」

伊織うつむいたままニヤリと笑った答えなど、最初から決まっていた

「当たり前よ」
「ん、言うと思った」

椅子に深く腰掛け、背もたれに腕を掛けながら男は即答した

「随分あっさりしてるわね」
「こってりしたのが好みかな?まあ実際、君は才能はあると思うよ
 少なくともビジュアル面はすこし磨くだけでもそこそこ以上のレベルだしね
 デビュー前から面接官に向かってタンカを切るだけはあるよ」
「小娘の背伸びかもしれないわよ?」
「背伸び大いに結構。人間背伸びしなくなったら、ほんとに背も伸びなくなるんだぜ?」

伊織は何となく目の前の男の事が、何がという訳ではないが、少し分かった気がした

「でも私が背伸びしたら、みんな見下すことになっちゃうわね」
「敵は正しく見下してやればいい。昔俺の育てた娘にも一人そういうのが居たけどね
 まああの娘は何と言うか、色々やらかしてもくれたけどね。
 最終的にはアイドル業より恋を取った、本能に率直な女だったよ」

伊織は、少なくともそのアイドルの“正しく見下す”というのは
目の前の男譲りなのだと思った 考えてみればこの男は
テレビ局のお偉いさんや、何者も侮ることを許さないトップアイドルを眼の前にして
何一つ揺らぐことなく、まるで自分が世界の中心だと言わんが如くに傲然と立っていた

「君の担当になる人の事とかは追って伝えるよ。なに、俺よりはマシな奴のはずだぜ?
 それと来週あたりから学校が終わった後は事務所に詰めててね?」
「分かったわ。それと私からも最後に質問」
「何なりとどうぞ」
「あんた実はこの業界で凄い偉い人なんじゃない?」
「…ノーコメントで」

この2ヶ月後に伊織はデビューを飾った 
ちなみに彼女はデビュー後も、よく人事部の部屋に出入りしていたとかいないとか

                                  END