無題8-12


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とある雑居ビルの2階にある芸能事務所の1室。
普段は少女達の声で賑わうこの空間だが、今はまだ朝も早くアイドル達の姿は見当たらない。
そんな中、皆よりも先に出社して準備を行う女性の姿があった。
彼女の名は千川ちひろ。この事務所のお手伝いである。

1通りの準備を終えてお茶で休息を入れながら、アイドル、あるいはプロデューサー達の到着を待つ。
そうして聞こえてきた足音に耳を傾ける。
柔らかく、ゆっくりとした静かな足音。
その音とスケジュールを照らし合わせて来ようとしている人物の見等をつける。
(多分美穂ちゃんね)
その予想通り、入り口のドアを開けて所属アイドルの一人である小日向美穂が顔を出した。

「おはようございますちひろさん」
「おはよう。美穂ちゃん」

そう挨拶を交わしたところで美穂の姿にどこか違和感を覚える。
服装に変わったところは見あたらないだろうかと、原因を探すべく足下から順に観察していく。

焦げ茶色のローファー。
太股まで覆うサイハイソックス。
チェック柄のミニ丈プリーツスカート。
パステルカラーのブラウス。
ブラウスと色調を合わせたカーディガン。
黒い髪に映えるカチューシャ。
更に視線を腕の方へ向けて手首まで行った先にようやく違和感の正体を見つけた。
腕時計だった。
携帯電話で代用できるだろうと言う意見もあるが、携帯電話を取り出すことが許されない状況というのも確実に存在する。
そういった時のため、あるいは単なるファッションの一部として腕時計を付けること自体は別に珍しいことではない。
ただ、今現在美穂が付けている時計は少々彼女には異質だった。
なんというか、全体的に厳めしい。
ベルトに至るまで色は艶消しの黒で統一されており、
その中で文字盤の中の蛍光オレンジが強く自己主張している。
フェイス部分も大きく、そこだけで細い美穂の手首を覆い隠してしまう程。
ゴツゴツとした外観からは、ちょっとやそっと落としたりぶつけたり水に濡れた程度では何事も問題なく動くだろう事が容易に想像できる。

と、そこまで観察しているとちひろの視線に気づいたのか、美穂は手首に目をやり、
「あの……やっぱり変ですか?」
と少々不安げに聞いてきた。
確かに不釣り合いではあるが、それがおかしいかと問われればそうでもない気がする。
なんといえばいいのだろう、ミスマッチの妙とでも言えばいいのだろうか。
例えばこれが松永涼や木村夏樹であれば素直に似合っている、雰囲気とマッチしているといえる。
しかし、女の子らしい女の子である美穂にあのような腕時計はどうかと問われれば、決して合わないとは言い切れない。
アンバランスではあるが、かえってそれが強烈なアクセントになっているといえなくもない。
時折、女の子に銃火器や武器等を持たせたイラストを見かけるが、あれと似たような物だろうか。
いわゆる一つのギャップ萌え。

「あの……ちひろさん……?」
少々考え事に没頭していたようで、美穂の声で現実に引き戻される。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと意外だったから。でもその時計どうしたの?」
「えっと、この間腕時計もあった方がいいからってプロデューサーさんと一緒に見に行ったんです」
「その時に買ってきたの?」
「いえ、その時は色々見てたら迷ちゃって結局買わなかったんですけどプロデューサーさんが……」

そう言われて彼女のプロデューサーの姿を思い出してみる。
プロデューサーなどと言っても結局はサラリーマンでありビジネスマンでありすなわち彼らが付ける腕時計もTPOに合わせたものとなる。
事実彼がつけているのも無難なメタルバンドの物だった筈だ。

「でも確かプロデューサーさんが付けてるのって普通のだったような気がするんだけど」
「確かにお仕事の時はお仕事用のを付けてるんですけど、ホントはコッチの方が丈夫で気を使わなくていいから好きなんだって」
そう言って美穂は腕の時計をこちらに見えるように差し出す。
「ははあ、それで美穂ちゃんは憧れのプロデユーサーさんが好きな時計を買ってきたと」

「え……あ……その……えへへ……」

口を滑らせてしまったと少しだけ慌てるが否定はせずに、緩む口元を隠すようにして手を持ち上げる。
それでも隠しきれない笑顔は照れくさそうで、幸せそうで、見ているちひろの口元も綻ぶ。
「それで、肝心のプロデューサーさんには見せたの?」
「いえ、昨日買ったばかりだからまだなんです」

そうして会話を続けているうちに、階段を上る規則的な足音と少し慌てたような男性の声が聞こえてきた。
その声を聞いた美穂がそわそわし始める。
さて、美穂の腕を見て彼は一体どんな反応を見せてくれるだろう。
ちひろはその反応を特等席で見られる事の幸運に感謝しながら開かれたドアに向かって声をかけた。


「おはようございますプロデューサーさん。美穂ちゃんはもう来てますよ」