くのいち雪歩・忍び穴前編


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 時は元禄、天下泰平の世の中である。将軍様のご加護も篤く城下の町民はみな平和に
日々を過ごし、まさに文化の花咲く盛代を謳歌していた。
 士農工商身分の差こそあるものの特にこの城下町では人々の心は穏やかで、普段の生活に
おいては位の隔たりなぞ見る影もなく、あちらではお侍が商家の倅と将棋を打ち、こちら
では荷卸に上ってきた農家の娘が顔見知りの武家娘と菓子をつまむ、そんな光景も見られる、
まこと平和な時代であった。
 ほら、ここにも。
「お雪、お雪?お雪ってば!」
 廻船問屋『水瀬屋』。ここらでは知らぬもののいない豪商の屋敷で、大きな声でどかどか
歩き回っているのはここの娘・伊織である。
「お雪、いないの?今すぐ返事しないとギッチギチに縛り上げて長持に詰め込んで熨斗
つけて田舎に送り返すわよ」
「はぅ、ここです伊織さまぁ」
 男名前を付けられて育ったせいか性格そのものもなかなかに強気なこの娘が呼び立てて
いたのは下働きの少女である。縁側を歩く伊織の真下から声がしたかと思うと、当のお雪が
顔を見せた。
「いっ、いまちょっとお庭のお手入れをしていたのでぇ」
「あらこんなところにいたのお雪」
「お願いですから郷里に返すのだけは勘弁してください伊織さま~」
「なに言ってんの、冗談に決まってるでしょ。それよりお雪」
「は」
「一体全体何百回言えば分かるの?私のことは『様』付けなんかで呼ばないで!」
「えぇ?だ、だって私はここにご奉公の身でぇ、伊織さまはこちらのご息女でぇ」
「そういう四角四面なのがだいっ嫌いなんだってば。うちで私をお嬢様って呼ぶのは大番頭の
新堂だけで充分、あとは丁稚だろうが人足だろうが『伊織ちゃん』『お嬢』って呼ばせて
るんだし、あんたにもそうして欲しいんだから。そもそも今時そんなの気にする時代じゃ
ないでしょ?」
「いえ、むしろそういうのが命に関わる時代――」
「わかったの?わからないの?」
「は、はいぃっ」
「私はだあれ?」
「いっ、伊織さ……伊織、ちゃん、です」
「よくできました。にひひっ♪」
 ト書きを入れる暇もないほどまくし立てるこの少女、居丈高なのはその上辺だけの様子
である。
 さてこのお雪、彼女がここに奉公に来たのはほんの半月前のことである。本人が言うには
雪深い北国から江戸に出てきて数年、あちこちの大店で下働きをしては暇を出されて店を
変え、流れ流れて水瀬の大旦那に拾われたのが最後の望み、との話。ここで働くようになって
みると、男衆と満足に話ができなかったり河岸に上がった海老が怖いと泣き出したりと少々
気の弱いところはあるが熱心だし、庭仕事の類を任せると実に生き生きとする。ならば家の
ことと庭のことをもっぱらさせて、歳の近い娘がいるので話し相手に良かろうと、港の店では
なく屋敷付きの下働きとあいなった次第。
 伊織もどうやらこのとおり、お雪になついており、傍から見たら生まれついての姉妹かと
思うようである……ただ、年下の伊織の方がどうしても姉に見えるのだが。
「あれ、それで伊織さ……伊織ちゃん、私を探してたんですよね?」
「ああそうなのよ。ちょっとこれ見て頂戴。あんた字は読める?」
「あ、ええ、少しですけど。『功徳新報』、ですか?」
 伊織が懐から取り出したのは瓦版。江戸城下には数十と知れぬ瓦版刷りの新聞が発行
されており、その内容は将軍様のご偉業から相撲の番付から男衆の下廻りの諸々まで多岐に
わたる。伊織が持っている『功徳新報』というそれは大層な名前とは裏腹に、町の有名人の
私事を探る少々下世話なものだった。
「功徳なんて、お寺で発行してるんですか?」
「とんでもない。版元にお金出してるのは悪徳屋よ」
「あ、水瀬屋の競争相手ですよね」
 この時代、国内貿易と流通を取りしきる船問屋は幾百となく存在し、互いに商売に鎬を
削っていた。水瀬屋は当代きっての大店で、それを追随している十数軒の船問屋の中に
悪徳屋はある。

「悪徳って自分でつけるなんて、なんだか怖いですよね」
「ふん。『己が生業を悪と為し、お客様こそ善徳を得べし』とかなんとか。あれでちゃんと
お客がつくんだから不思議よ。それよりこれよ」
「あ、はい。えーと、『大店廻船問屋の娘が夜な夜な男と逢引か』?……って、えええーっ?」
「バッバカ声が大きいわよ!でたらめに決まってるでしょっ」
 先ほど身分がどうこう言っていた当人が、瓦版を片手にあるじの娘を目の前で指差す姿は
傍で見ているものがいたら肝を潰すだろう。伊織は声を潜めてお雪を制した。
 瓦版の内容はこうだ。江戸市中では有数の廻船問屋の娘、男名前の某々がこのところ毎晩の
ようにとある男性と遊び歩く姿が町なかで見かけられる。勢いのある船問屋の娘とは言え、
若い身空でこうもだらしのない振る舞いを許すとは父親である店主の親莫迦振りには頭が
下がる思いである。なんでも相手の男性は貧乏道場の跡取り息子で、この調子で娘が
ひとつおねだりでもすれば店主は船荷の横流しでも平気で行なうであろう、憶測に過ぎぬが
幾多ある問屋のうちわざわざ危うい船を選ぶ者は減るのではないか、などなど。水瀬屋の
名は一言も書いていないが、先ほどのお雪の反応の通り伊織を名指ししているも同然の
いかがわしい記事であった。
「ふええ……伊織ちゃんすごいですねえ」
「でたらめだって言ったの聞いてないわけ?あんた」
 一通り読み終えてお雪は頬を赤らめる。詳細は書いていないものの若い娘が男と逢引など、
そこから先はどうぞはしたない想像をなさってくださいと言わんばかりである。
「この道場の跡取りってのは私の幼馴染で、たしかにここ何日か一緒に出かけてるけど
なにもおかしなことしてるわけじゃないのよ」
「えー、でも火のないところに煙は立たずって」
「嫌なこと言うわね、おとなしい顔して」
「はう!す、すみません伊織ちゃん、お暇だけは勘弁してくださいぃ」
「そんなことしないわよ。ただまあこんな書き方されて黙ってるとこっちが悪者にされちゃう」
 伊織は言う。噂話など江戸市中に毎日いくらでも囁かれるが、いわゆる情報を形にして
残す媒体は数が知れている。お上の行なう高札やこういった瓦版がせいぜいで、それに
記された話は人々が容易に信じてしまう。評判が命の商売をしていると、こういう場合
断固として噂を否定しないと騒ぎが大きくなってしまうのだ。
「こういう下世話な噂って消しづらいのよね。付き合いの長い取引を心配することはない
けど、悪徳屋と『功徳新報』が繋がってるって知ってる人は少ないから、新しいお客を逃す
ことにもなりかねないわ」
「それは心配ですね」
「そこであんたよ」
 伊織がお雪の顔を指差す。
「えっ?」
「お雪、あんたちょっと町に出て人知れずうちのいい噂を撒き散らしてきなさい」
「えええっ?」
 驚くお雪をものともせず、伊織は続けた。
「私や店の者がこの噂話を打ち消して回ってもどうにもならないの、わかるでしょ?」
「まあ、噂の当人が何言ってもダメですよね」
「あんたはまだうちに来て間もないから顔が割れてないし、これまでもあちこちの店で
知り合いがいるでしょ。だから、そういうつてを探して、お父様が善人で水瀬屋が良心的な
商売をやってるっていう話を言いふらしてもらいなさい。お礼は弾むわよ」
 伊織の計画では、水瀬屋が真っ当な店であることを言い募ればいずれ悪い噂は消える、
というのだ。
 お雪は答えて、
「……それはできると思いますけど……ちょっと気になるところが」
「なによ」
「そんな普通のいい話、噂話で広まるんでしょうか」
「え」
「だって、水瀬屋はもとからいいお店なんですよね?そこに『水瀬屋はいいお店だ』って
話しても『ああそうだねえ』でおしまいに」
 伊織の顔が真っ赤になった。
「それならあんたが何か考えなさいよこのごく潰しーっ!」
「はわぁ?ごっごめんなさい~」
 正論を指されて怒り出す伊織と反射的に謝るお雪、その二人に遠間から呼びかける声が
聞こえたのはその時である。

「こらこら伊織、伊織ってば」
「誰よっ!」
「ボクだよ」
 伊織とお雪が話をしていたのは屋敷の縁側で、広い庭があるとは言えすぐ先は天下の往来
である。表通りではないからほとんど人は通らないが、いまそこに一人の侍装束の人影がいた。
 伊織やお雪と同年代だろう、若者に流行りのざんばら髪に羽織袴。高価な品ではないが
丁寧に扱っているのが見て取れる。雄々しいと言うよりたおやかな印象を受けるその若侍は
いま、伊織の家の生垣に肘をつき、おもしろそうに二人のやり取りを見つめていた。
「あら、なによ真之介。見世物じゃないわよ」
「なに言ってるんだい、人通りがないとは言えこんな目立つ場所で密談なんて。悪徳の
連中が聞いたらこれも瓦版に載っちゃうよ」
「うるさいわねっ!あんたも似たり寄ったりの境遇なんだから人をからかう暇があったら
いい知恵貸しなさいよっ!お雪も……お雪?」
 真之介という若者を一喝しておき、お雪にも加勢を頼もうとしたのか横を向く。だが
そこには、頬を染め瞳を潤ませた、誰が見てもわかる『恋する乙女』がぼんやりと立って
いるだけだった。
「お雪ーっ!」
「ひゃいっ?」
「お雪ちゃん、っていうの?初めまして、菊地真之介です」
 伊織の一喝で我に返ったお雪に、真之介が笑いかける。
「最近働き始めたの?ボク、そこの先の道場にいるんだ。なにかあったら相談してよ」
「ふん、むしろあんたが『貧乏道場』の将来でも相談する必要があるんじゃないの」
「う、うるさいな!だいたい今回の件だって伊織があんなにはしゃぐから人に見られた
んだよ?」
「なによ!あんたこそあんなに思いつめた顔で――」
「あ……あの?」
 自分だけ置き去りで二人に喧嘩を始められたお雪が、おずおずと割って入った。今の
会話で状況がつかめたのだ。
「真之介さまは、あの瓦版に書かれていた方なんですか?」
「うん、そうなんだ」
「伊織ちゃんと夜な夜な逢引してるって」
「たはは。それで困ってるのさ、ボクも」

 三人は屋敷に上がり、伊織の私室で話の続きをすることにした。真之介の言うことも
もっともで、あのままでは密談にも何にもなりはしない。
 あらためて真之介が説明を始める。
「ボクと伊織は幼馴染でね、家も近かったし、伊織も伊織の兄上たちもうちの道場に通って
くれていたんだ。伊織は小さい頃から遊んでやってた仲で――」
「あら、『遊んでもらってた』の間違いじゃないの?」
「ボクの方が年上なんだぞ?まあ、こんな感じで仲良くやらせてもらってるってわけ。
瓦版の件もちょっとボクに悩みがあって、ここしばらく相談に乗ってもらってたんだけど
……さすがに目を引いたみたいでさ」
 髪をかきあげ、困ったように笑うその表情は実に爽やかで、お雪はたちまち目を奪われる。
伊織も黙って立っていれば人の足を止めるに足る美少女で、この二人が連れ立って歩いて
いればそれは野暮な想像をするものも少なくなかろう。
 二人は人目をしのび、その相談のことであちこち、神社の境内やら廃屋やらに行っていた
というのだがどうしても噂は立つもので、功徳新報の手の者に足取りを追われてしまった
ようだ、ということである。
「ボクたちは確かに仲はいいと思うけど、別に恋人でもなんでもない。ボクの相談ごとで
伊織の家に迷惑をかけるのも忍びないんで、お雪ちゃんが手助けしてくれるのならホントに
嬉しいけど」
「はっはい!私なんでもやりますっ!真之介さまのためならたとえ地の底岩の下、なん
でしたらその悪徳屋に火をつけて」
「な、なに言い出すのよっ!」
「わわわっ!物騒だな、無茶言わないでよ」

 勢い込んでお雪を、あわてて二人が止める。ちなみにこの時代、火つけは磔獄門であるし、
関与した人物もただでは済まない。
「はぁっ!わ、私ったらなんてことをぉ」
 いずこから取り出したか大きな江州鋤を取り出し、少女とは思えぬ素早さで部屋の畳に
打ち付ける。
「こんなダメダメな私はここに穴掘って埋まってますぅ!」
「きゃーっ?やめて、やめなさーい!」
「わ、ちょ、ちょっとお雪ちゃん」
「やーん、止めないでくださいぃ、こんな、こんな私はっ」
 しばしの奮闘の末どうにかなだめたが、それまでに伊織の部屋には人ひとり充分埋まる
ことのできる穴がぽっかりと空いていた。
「……はぁ、あんたが行く先行く先で暇を出される理由がわかった気がしたわ」
「うぅ、すいませえん」
「だいたいあんた人の部屋に穴掘って埋まってどうしようっての。こんなところで根っこ
下ろされちゃこっちが困るのよ」
「ぷっ、おもしろい」
「真之介は黙ってて!」
「あ、あのぉ」
 お雪が聞く。
「やっぱり私、郷里に送り返されちゃいますよね」
「そりゃあんた、こんなことしでかしてお咎めなしじゃ他の者に示しがつかないし」
「……そうですよね」
「伊織?そんなの可哀想じゃないか」
 真之介が止めようとするが、伊織の態度は固い。
「こういうのはね、いくらあんたでもどうにもならないの。私が偉いだなんて思わないけど、
奉公先のあるじの娘の部屋に大穴空けてあなたよくやったわね、なんてわけには行かない
ってことはわかるでしょ?」
「それはそうだけど」
「噂じゃお皿を割っただけで切り殺された奉公人だっているのよ。この有り様なら借金
背負わせたっていいくらい。返せるとは思わないけどね。なんなら吉原あたりに口利いて
やろうかしら?」
「はうっ?」
「伊織!」
「うるさいわねっ!」
 なお何か言おうとする真之介を伊織が制した。くやしそうに真之介が見つめると、伊織が
目を潤ませている。
「……私だって……」
「伊織」
「私だってなんとかしてあげたいわよ!まだたったの半月だけど……せっかく仲良く……っ」
 伊織の家は大店である。それゆえ彼女には気を許せる知り合いは少なく、同格で言い合い
をできるような友は数えるほどしかいない。屋敷にあっても使用人は年の離れた者ばかりで、
伊織というより伊織の父親に仕えていると言った方が正しい。多少の因果はあるものの、
あるじの目の離れたところで奉公しているお雪は伊織にとって新鮮な人間関係であったのだ。
 幼馴染みのめったに見せぬ弱さを目の当たりにして、真之介も引き下がることにしたようだ。
「ごめん伊織。ボク、ちょっと考えが足りなかったみたいだ」
「いいのよ。私の家の問題なんだから」
「……ごめんなさい伊織ちゃん」
 今まで畳に目を落としていたお雪が顔を上げる。
「私、やっぱりお暇をいただきます。こんなことして許されるはずないし、伊織ちゃんが
許してくれても旦那様がお許しになりませんよね」
「……そうね」
「だから、これで失礼します。旦那様には恩を仇で返すみたいで申し訳ありませんけど、
伊織ちゃん私のこと、かばったりしないでください。流れ者のお雪はうっかり伊織お嬢様の
お部屋をめちゃめちゃにして、自分のしでかしたことの恐ろしさに江戸から逃げ出した、
とでも」
「……ん」
「お部屋、直せなくてごめんなさい。時間をいただけば元通りにできますけど、さすがに
人に知れる前にとはいかないです。そのかわり」
 と、お雪は傍らに持っていた土の塊をさし出す。

「これ、置いていきます。穴掘ってる時に探り当たったんですけど、修繕のお代にはなる
かも」
「土の中から小判でも出たの?そんなの手土産にあげるわよ」
「いえ、そういうわけには。壷みたいですし、なんだか高価そうで。私の持つような物では
ないですから」
 言いながら土をほぐしてゆくと、中から現れたのは小ぶりな壷だった。この国のものでは
なく、海の向こうのものであると素人目にも瞭然である。特徴的な模様が見えたとき、伊織
が小さく叫んだ。
「お雪っ!それ、どうしたの?」
「え?ですからこの地面の下に」
「貸しなさいっ!」
 言うが早いかお雪の手から奪い、着物が汚れるのも構わず土を落としてゆく。しまいには
自分の袂で泥を拭き取る始末だ。
「い、伊織?」
 あまりの光景に真之介が止める暇もない。やがて美しい白い肌と鮮やかな絵付けの壷が
三人の前にまみえることとなった。
「これ……」
「伊織?知ってるの?」
 真之介の問いにすぐには答えず、興奮した面持ちで壷の仔細を眺めてゆく。やがて
ひとわたり検め終えたか、ふうと一息ついて、固唾を飲む二人に笑顔を向けた。
「これ、お父様の失くした家宝のひとつよ」
「ええっ?」
「お雪、これはどのあたりに埋まっていたの?」
「あ、はい、この穴のこっち側、そんなに深くなかったです……一尺くらいかな」
「3年ほど前に、商売ものでないお父様の趣味の品を虫干ししていた時にね、狂犬が暴れ込んで
大騒ぎになったことがあったの」
 状況を聞き、得心がいったのか伊織が話し始める。
「家の者はみな無事だったんだけど高価なお皿が何枚も割れた上、この壷がどこかに行って
しまってお父様の気の落としようったら大変だったわ」
「じゃあ……その犬が?」
「犬がくわえて行ったのを見たものがいるし、逃げ出す時に家の縁の下をくぐっていったから
家人が総出で探したけど見つからなかったの。次の日犬の死骸を見つけたときには壷は
見当たらなくて、割れたか誰かに持ち去られたんだろうってことでお父様はあきらめたわ。
後で聞いたら地方で大商いをしたときにそこのお大尽からいただいたもので、ちょっとした
冷や汗ものだったわよ」
 さらに壷の様子を調べながら、伊織は解説を終えた。話し終わったところで、お雪に
にっこりと笑いかける。
「お雪、首の皮が繋がったわよ。これを見つけるためならお父様は屋敷を取り壊す勢い
だったもの」
「ええっ?」
「じゃあ……」
「いま港の店に知らせを送るわ。お父様の目利きで素晴らしい下働きを雇うことができた、
って」

「お百度?」
「ええ、真之介さまのために伊織ちゃんがご祈願をしていたと言うお話で」
 翌日、再び伊織の部屋に三人は集まっていた。昨日の大穴はどこにもない。
 壷の一件でお雪の失態はなかったことにされ、むしろ物探しの才能を買われた格好と
なっていた。夜、屋敷に戻った店主が戯れに『亡くなった母が漬けたきり行方知れずになって
しまった梅干がどこかにあるのだが』と持ちかけたところ、彼が最近建てた離れの地下から
たちどころに壷を掘り出したのだ。伊織の父は大喜びで港の店の倉庫番に取り立てようと
したのだが、お雪と伊織の強い願いで引き続き屋敷で働くこととなった。伊織の部屋の穴は
本人の言葉どおり、約半日をかけてお雪が一人で埋め立てた。家を支える主要な柱には
傷ひとつなく、結局床板と畳を敷き直すだけで翌日には元通りになっていた。
 そして今。お雪が二人に、悪い噂を打ち消すよい噂を流す方策を考えたと打ち明けたのである。

「真之介さまのご相談ごとというのは、世間に明かすことはできないんですよね」
「ん……ごめんねお雪ちゃん。ちょっと無理」
「ならなにか別の、秘密にせざるをえないお話だったとすればいいんじゃないかって思った
んです。あの、真之介さまごめんなさい、瓦版には菊地道場の家計が」
 言いづらそうにするお雪に、真之介は笑って答えた。
「ふふ、そこは気にしなくていいよ。誰が見たって火の車なんだから」
 菊地道場はそれでも歴史の古い剣術の道場である。菊地流を名乗り歴史をたどれば関が原で
家康側につき武勲を立てたという。
 しかし無調法な武士の家柄、あるとき政敵の蹴落としに遭い、以来町で細々と剣術を教える
身の上となったそうだ。安泰の世の中となり実戦剣術の流派がひとつまたひとつと歴史を
閉じるなか、菊地流も弟子の不足によりいよいよ進退窮まったという状況である。父は
真之介に最後の望みを託しているものの、二本差しだけで飯の食える時代ではない。
「それを利用してですね。来月、剣の道場対抗の武術大会がありますよね」
「え、お雪ちゃんなんで知ってるの?」
「ここにご厄介になる前は鍛冶屋さんの飯炊きをしていたんです。時々ですけど刀のお手入れ
もおおせつかっていて、旦那さまがこういう催しのことよくお話してくださってたんです」
「お雪、そこでも穴掘ってやめさせられたの?」
「はうぅっ」
「伊織、いじめちゃだめでしょ。お雪ちゃん、続けてよ」
「ううっ、まあほんとに穴掘ったんですけど。あ、はい、その試合には真之介さまかお父様は」
「父が出るよ。名を上げる機会だし、って言うかむしろ褒賞目当てなんだけど」
 平和であっても武士はそこらじゅうにいる世の中である。主君のために戦った者たちの
子孫を干上がらせるわけにも行かぬ幕府は、そこここで様々な武道の試合を行ない、仕官の
道や褒賞金を与えていた。
「ですから、真之介さまはお父様の勝ちをお祈りしたい、と。ただ、男の真之介さまが――」
「うっ」
「――影から祈るというのはどうにもおかしいですから……どうかしましたか?」
「あ、な、なんでもないよ、それで」
「はい、そのことを伊織ちゃんに相談して、伊織ちゃんが幼馴染のお父上をお祈りすること
に、というお話にして」
 貧乏道場とは言え武士の跡取りが女々しく神仏にすがるわけには行かない。男児としては
身を清め、心静かに試合場で父の勝利を確信し見守るべしという風潮である。そこで幼馴染の
行く末を心配した伊織が、毎夜真之介を励ますと偽り、彼と別れたあとでお百度を踏んで
いる……という筋書きを、お雪は二人に説明したのだ。
「人の目を避ける理由も説明がつきますし、お二人が幼馴染だと言うことがかえって本当
らしく聞こえると思います」
「うん、そうだね。実際ボクは父に是非勝って欲しいし、伊織も応援してくれてる」
「私が応援してるのはあんたたちがうちの食客になりそうだからよ。にひひ、でもそうね。
『女子』としてはお百度でも踏んで是非名を上げて欲しいわ」
「む」
「あら?どうかしたの真・之・介・さまぁ?」
 委細はわからぬものの、伊織はことあるごとに真之介をからかっているようだ。お雪は
それを見ながら、なんとなく寂しい心持ちにされている。
 もちろん、奉公先の娘とその幼馴染がじゃれあっているところに、下働きの自分が割って
入ることはできない。しかし、伊織から一歩心を許された立場がかえって、それを曖昧に
させてしまっていた。
「伊織も意地悪だな、まったく。でもどう?ボクは名案だと思うけど」
「私も賛成よ。うちのためでもあるし、真之介やお父上を応援したいのもまあ、嘘じゃないわ。
それに、『大事な友人を影で支える健気な伊織ちゃん』なんて素敵でしょ」
「自分で言わないでよ。でも乗ってくれるんだね?ありがとう」
「あんたに礼を言われる筋合いはないわよ。本当ならむしろこっちが頭を下げる話なんだし。
お雪もありがとね、いい考えだと思うわ」
「あ、ありがとうございますぅ」
 更に話し合いを進め、実際に数日それを行なっていくうちに通りがかりの者に見つかる、
ということにした。発見者となる者は当初の伊織の発案どおりお雪の以前の知り合いを使い、
種明かしはせずに本当の『噂話』として広まるようにしようということになった。

「じゃあお雪、明日にでもその知り合い、探してきてよ」
「はい、ではお昼までお時間をいただけますか」
「そんなのでいいの?私のお遣いを頼んだことにしましょうか、ちょうど頼んでた振袖が
仕上がる頃なのよね」
「お雪ちゃん、ボクはなにかすることはある?」
「真之介さまは、そうですね、瓦版の話題が出たら『本当に困った』という振りを。何か
隠し事があると勘ぐり始めると、人はいろいろな噂をもっともっと聞きたくなりますから」
「なるほどね。でもお雪ちゃんってすごいね」
「え、なにがですか?」
 助言を反芻しつつ、真之介はお雪に笑いかけた。
「ただの下働きにしておくのは惜しいよ。気も回るし、きみみたいな人の旦那さんになる
人は幸せだね」
「は……」
 お雪の動きが止まった。何事かと見守る二人の前で、右手をぶんと振ると、またぞろ
昨日の江州鋤が出現する。
「いやあぁ!恥ずかしいですぅ!」
「――って穴を掘ろうとするなーっ」
「わ、お雪ちゃんちょっと!ちょっと待ってえ!」

 また次の日。お雪はとある長屋に来ていた。
「ということがありまして」
「ふむ、それは愉快。いい奉公先を見つけたね、お雪や」
「あ、はい」
 相対しているのは高木一朗斎という老人である。引退した興行師で、人の多い場所が
好きというのでこうして長屋で楽隠居をしている。お雪はこの老人に保証人に立ってもらい、
水瀬屋に奉公に上がっているのだ。
「というよりあまり無茶はしないでくれたまえよ。私だってそうそう奉公先を探しては
やれんからな」
「ふぅ、ごめんなさあい」
「まあよかった。それに奉公先の一大事なら是非助けて上げなさい、お前の考えで正しいと
思うよ。私にも知り合いは多いし、いろいろ手立てもしやすい」
「ありがとうございます。でも私のできる範囲で大丈夫だと思います。今日はご報告に」
「ふむ。あいわかった。しかし何かあるようなら一言声をかけてくれたまえ」
「はい、失礼します」
「ああお雪」
「はい?」
「ふたつ、話しておくよ」
 お雪を呼び止めた高木老人は右手の指を二本立てた。その表情は隠居した老人のもの
ではない。お雪も、これまで見たことのない真剣な顔をしている。
「くれぐれもお前のことは悟られないように」
「あ、はい。気をつけます」
「それから先方の問屋のこと」
 ただでさえ小さい声をさらに落とし、続ける。
「悪い虫がたかっているから、お気をおつけ」
「……ありがとうございます」
 お雪は老人にそう言うと、しなやかな足取りで長屋を後にした。

 それから数日。お雪の提案はじわじわと効果を上げていた。お百度を踏み始めた翌日には
早くも目撃者が現れ、一旦は『水瀬のお嬢様が怪しげなまじないをしている』という噂が
立ったものの、さらに次の日には『どうやら真之介のためらしい』『菊地道場の先生が
武術大会に出るそうだ』と複数の噂に取って代わられ、三日目にはお雪の言うとおりの
美談がそこかかしこで囁かれるようになった。
 新しい噂には気付かない振りを、とのお雪の提案どおりそ知らぬ顔で日々を過ごす伊織と
真之介にもその効果は面白いように判り、すでに日々の表情は喜びを隠し切れぬ様子である。

 そうして久しぶりに一堂に会した三人は、策略の新たな局面に進もうとしていた。
「お雪、あんたすごいわね。私はもうすっかり山之内一豊の女房よ。旦那役が真之介ってのが
どうにも気に入らないけど」
「ボクのほうも男児の鑑とか言われて。伊織の評判が先走り気味なのが腑に落ちないけどさ」
「なによそれ」
「なんだい」
「あっあの」
 この二人、調子のよいときは常に角つき合わせている様子である。あわててお雪が口火を
切った。
「悪い噂も消えたことですし、あとはこのまま武術大会が終わるのを待てばいいかなって
思うんですけど」
「そうは行かないわよ」
 伊織が反論した。
「こっちは余計な手間隙かけさせられて迷惑してるのよ、この調子で悪徳に畳み掛けられたら
たまらないわ。本当ならきついお仕置きのひとつもしてやりたいところなんだから」
「まあ、伊織の話じゃ実際に客足にも影響が出たってことだし、これで何日か足踏みさせ
られたのも本当だよなあ」
「無茶を言う気はないけど、当分うちから手を引かせる手はないものかしらね」
 二人はすでに返り討ちをする気満々であった。お雪はしばし思案する。
「ええとぉ。それでしたらやはり、『功徳新報』が悪徳屋のお仲間だと知れるようにする
のが早いかと」
「やっぱりその線よね」
 伊織はすぐに応じた。彼女もそう考えていたようだ。
「水瀬屋でも仲良くしている瓦版屋はいるから、そこを使えば簡単だけど」
「それじゃ悪徳屋と一緒ですよう。逆に噂を流されておしまいです」
「そうだよね。お雪ちゃん、なにか考えはある?」
「あまり手を加えたくなかったんですけど……今の『噂封じ』を進めてゆけば」
 お雪が話した内容はこうである。
 功徳日報は伊織の噂が美談になってしまい慌てているに違いない。当然向こうも、お百度の
顛末を芝居だと考える人間がそろそろ出てくるだろう。お雪はそのことを読み、実はちょっと
した仕掛けをしていた。
「お百度を見たっていう人たちを繋いでいくと、ある人物にたどり着くんです」
「その人たちの共通の知り合いっていう意味よね。それ、お雪じゃない」
「ええ?それじゃボクたちの策略だって簡単に気付いちゃうよ」
「ふふ、それが違うんです」
 お雪が手を回して伊織の目撃者にした人々。その人々を巧妙に目撃場所に誘導した人物。
「みんなに『いついつにどこそこへ行ってくれないか』『この刻限にこの場所を通って欲しい』
って頼んだ人は、私じゃなくて悪徳屋さんのもと人足頭さんなんです」
「……意味わかんない」
「ごめん、ボクも」
 お雪が少し聞いて回っただけで、悪徳屋は表向きの顔以外に相当後ろ暗いところがあると
知れていた。これまでにも抜け荷やら人買いのたぐいやら、もちろん証拠こそないものの
漠然とした事実として聞こえてくる。そこでくだんの『目撃者』作りの際、お雪はひと工夫を
織り込んだのだ。
「去年、悪徳屋さんが新しい倉を建てたとき、大きな喧嘩があったっていう理由で職人さんが
たくさんお暇を出されています。本当のことは知りませんけど、みんなが勘ぐる話です。
で、そのうち人足頭さんの一人が江戸から姿を消してます」
「郷里に帰ったんでしょ」
「はあ、まあ、たぶん。で、今回の皆さんは、その人のお知り合いなんです」
「なんであんたが知ってるのよ」
「そのころ私、港近くの木賃宿で働いていまして、下請けの職人さんはわかる人多いんですよ」
 安宿の下働きの顔をわざわざ覚えている人間は少ない。お雪の方が泊り客を覚えていても、
相手はお雪を誰とは判らない。彼女はそこで『誰それの遣い』という役柄を演じたのだ。
「そういうのに向いていそうな人を選んで、私もちょっとだけ変装して、たとえば『人足頭さんが
昔の仲間を頼って出て来ている、何時に何処へ来て欲しい』と言付けられた振りをして」
 ただでさえ頼りなさげな風体のお雪だ、うまく化ければ『人足頭が露見を恐れて、知恵足らずの
娘を遣いに使った』と誤解させるのも容易だろう。その人物の記憶に残るのは遣いの子供
ではなく、人足頭の顔と名前のはずだ。

「ははあん、功徳新報の連中が探れば探るほど、悪徳屋に恨みを持っている人足頭の存在が
明るみに出てくる」
「え、なんでそれがまずいわけ?」
「あの、『向いていそうな人』って、そうやって足元をあぶられると騒ぎ始める人たちなんです」
 今ひとつピンと来ていない伊織に、お雪が補足をした。真之介が更に続ける。
「たとえばさ伊織、飲み屋で『なあなあ俺さあ、功徳新報の連中にいろいろ聞かれちまったよ、
それも1年前に悪徳屋に首を切られた人足頭のことで』ってクダ巻く人がいたら、周りの人は
どう思う?」
「……そこだけ聞いたら、功徳新報は今度は悪徳屋を狙ってるのか、って思うかしら」
「功徳新報は取材を始めた相手をどういうふうに書くのかな?」
「十中八九こき下ろすわよね。あ、悪徳屋に悪い噂があるってみんな思うわよね」
「そういうこと。瓦版にはもちろんそんな記事は載らないから、じゃあなぜ功徳新報は
悪徳屋のことを書かないのか、って思い始める」
 そこでお雪が、悪徳屋が功徳新報に資金を回していることをそれとなく知らせるという
手筈である。このことは少し調べれば簡単にわかることであり、たとえばお雪が動かなく
とも、ほどなく悪徳屋が瓦版を使って商売敵を陥れていたと知れるであろう。
「すこし時間はかかりますけど、むしろ自然に広まると思います。それこそ武術大会の頃
には、功徳新報がどこの廻船問屋の記事を書いても誰も見向きしなくなるかと」
「お雪……あんたすごいわねえ」
「龍舌花の術ですよ。龍の舌が紡ぐ言葉は人心を乱す花を咲かすんです」
「術だなんてお雪ちゃん、まるで忍者みたいだね、あはは」
 面白そうに真之介が言う。お雪はその言葉に取り乱して顔を真っ赤にした。
「はわ!?そそそそんな、に、忍者なんてそんな」
「誰もあんたが忍者だなんて思わないわよ、この天下泰平の世の中に」
「あ?あ、あ、そうですかそうですよね」
「おおかた絵草子でも拾って読んだんでしょ」
「あ、ボクも好き!伊織がいっぱい持ってるんだよ。今度見せてもらいなよ」
 それからは真之介による絵草子講座となり、その日の密談はおしまいとなった。その
『龍舌花』はしかし、実際にお雪が言ったとおりに効果を発揮し、功徳新報は瞬く間に
発行部数を落とし影響力を失ってしまうのであった。

 時は流れて、今日は武術大会の日。
 真之介の父親は早朝から試合に出向いており、真之介と伊織は昼前からその応援に駆け
つける約束をしていた。
 その一行にはお雪も含まれている。すっかり仲の良くなった三人は何かにつけて連れ立って
行動しており、今日もこうして菊地道場の門前で待ち合わせをしていたのである。一人で
現れたお雪は、目指す場所に真之介しかいないのに気付き声をかけた。
「真之介さま、お待たせしました……あれ、伊織ちゃんは?」
「やあ、お雪ちゃん。伊織は一緒じゃないの?」
「それが『やることがあるから先に行く』って。私は用事を済ませてから来たんですけど」
「おかしいな、ボクずっと待ってたんだけど」
「え……変ですね、待ち合わせ場所、勘違いしたのかな。真之介さま、なにか変わったこと
とかありませんでしたか?」
 胸騒ぎのしたお雪は真之介に尋ねる。
「うーん。今日は武術大会のせいで町中が騒がしいからなあ。ああ、でも功徳新報の連中が
固まって走っていくのを見たよ。この試合でなにか書くつもりなのかな」
 少し考えながらの答えに、お雪の顔色が変わった。しかし口調はそれまでのまま、こう
聞き連ねる。
「あ、そうですかあ。その人たちはどこに走って言ったんですか?」
「あっち。うん?試合場じゃないな、伊織の家の方だ」
「!……真之介さま、先に行ってくださいませんか」
 真之介の答えを聞き、真剣な口調になったお雪が言う。彼女の様子が変わったのに真之介も
気付いた。
「どうかしたの?まさか、悪徳がなにか?」
「わかりません。けど、私、ちょっと心当たりがあるので聞いてきますね」

「お雪ちゃん、ボクも行くよ」
「いいえ!」
 彼女に追いすがろうとする真之介を、お雪はしかし断固と遮った。
「真之介さまは試合へお出向きください。お父上の試合までには必ず間に合わせます」
「お雪……ちゃん?」
 その顔色を見て、真之介は緊張する。お雪はそんな真之介に、改めて表情をやわらげ、
言った。
「真之介さま……お父上、勝つように祈っております。では、あとで」
「お雪ちゃん!」
 走り去るお雪を、それでも真之介は追おうとした、が、できなかった。
 追ういとまもないほど、お雪の走る速度は速かったのである。

「ちょっとあんたたち!いったいどういうつもり!?」
 町のはずれにある、打ち捨てられた商家の倉。
 手足を縛られた伊織がその床に投げ捨てられ、猿轡を解かれたのはたった今である。
 お雪より一足先に屋敷を出た伊織は、自分の後を何者かがつけているのに気付かなかった。
真之介の道場へ行く前にある店に寄り、そこを出たところを目の前にいる男たちに
かどわかされたのだ。
「こんなことしたらただじゃすまないんだから!私を誰だと思ってるのよ!」
「へっへっへ、水瀬屋のお嬢さんですよねえ。間違えちゃあ大変だもんなあ」
「!……あ、あんたたち」
 薄暗い土蔵の中、段々と目が慣れてゆき、そのうち何人かの顔に見覚えがあるのに
伊織は気付いた。
「功徳新報の!」
「おうよ、今はちょっと違うがな。お前さんのせいで首を切られた『もと職人』たちだぜ」
「どういうこと?やめさせられたんなら関係ないでしょ?」
「逆だ、莫迦野郎。お前のせいで飯の種を失くしちまったんでい」
 男たちは10人ほどだろうか。みなが一斉に、地べたに横たわる伊織に詰め寄る。
「面倒な策略を巡らしやがって。お前が黒幕だとようやく合点がいったぜ。だが、おかげで
功徳新報は廃版が決まっちまった。俺たちはお前のせいで用済みってわけだよ」
「そ、そんなの、あんたたちが悪いんじゃない!」
「威勢がいいねえ、だがそんなことは関係ないんだ。俺たちは『水瀬家のお嬢が出すぎた
まねをして』職をなくして、『その逆恨み』でお前さんを攫ってきたんだから。ですよね、
旦那」
 先ほどから喋っている男が後ろを向き、何者かに呼びかけた。倉のさらに奥、何も
見えなかった暗闇から一人の老人が歩み来る。
「だからお前は莫迦だってえんだ。なんでそれを私に確認するのだ」
「へえ、すいません、旦那」
 男の言葉に伊織が目を凝らす。その老人を、伊織は確かに知っていた。
「悪徳屋……!」
「久しぶりだね、水瀬屋のお嬢さん」
 その老人は、悪徳屋のあるじであった。