化け猫

「今日の仕事はこれまで! 気をつけて帰るんだぞ」
「ありがとうございました」
担当プロデューサーと別れて、その女性歌手は、レコーディングスタジオを後にした。瑠璃色の長い髪を持つ美しいお嬢さんで、スリムで上背があって、プロポーションもすばらしい。
彼女の名は、三浦あずさ。765プロダクションのトップアイドルである。

 同事務所のタレント寮へ続く道を、あずさは静々歩いていた。と、その時。
「ちょいと、そこ行くお嬢さん」
(こ、こんな夜中にナンパ!? なわけないか……)
 彼女に声をかけたのは、自分よりやや小柄な男。とても同年配とは思えない、どう見ても厄そこそこのやつである。
「そこのおじ様、何かしら?」
「この先の川沿いに、化け猫の出る場所がある」
「化け猫!? そんなものが出てきたら、どうにもならないわ……ねえ、嘘でしょう? 嘘なんでしょう?」
「いや、実際に目撃されているんだ。独り歩きは危険だぞ!」
「ちょっと、ちょっと待ってよ、おじ様!」
 呼び止めたのを振り切るようにして、彼はどこかへ消えてしまった。
(あらあら、いなくなっちゃったわ……無事に寮まで帰れるかしら?)
 あずさの胸中は、既に不安で満たされていた。

 それから、あずさは二十分ばかり、暗い夜道を歩き続けた。
(おかしいわ……この辺のはずなんだけど……)
 今日の仕事場から765タレント寮までは、距離にしておよそ一キロメートル。普通なら、里程は消化されている。
 だのに、帰るべき建物がない。街灯を除けば、周りの明かりはすべて落ちていて、その手がかりもつかめない。おまけに、道の片側から、流水音が聞こえてくる。
(そういえば、化け猫が出るのは川沿いだって、さっき警告されたような……)
 びくびくしながら立ち止まっていると、音もなく現れたのが、彼女の数倍はあろうかという巨大な影法師。
「キャア、化け猫!」
 最早、勇気も何もない。あずさは、思わず持っていた手提げバッグを投げ捨てた。
すると、彼女の前方で、一斉にともった明かりが九つほど。
「何事!」
 どやどやと、あずさを取り巻くように駆け寄ってきたのは、自分の事務所の同僚たち。そう、前方の明かりとは、765タレント寮のものだった。
「あずさ! やっとこさ帰れたんだ」
 黄色い髪をなびかせて、正面に立つ星井美希が、尻餅をついて動けないあずさを抱き起こそうとする。
「あれ、持ち物は?」
「川に放り込んじゃったみたい。バシャンと音がしたような……」
 愛用の手提げバッグは、あずさの元を離れていた。事務所気付の携帯も、新しく買った手帳も、すべては水の中である。
「もったいないことしちゃったね」
「まあ、こんな日もあるってことよ」
 運の悪い時は仕方がないと、あくまで大らかに構える。これこそ、あずさクオリティ。
「それにしても、何で帰りが遅れたわけ?」
「そりゃ今日は、いつもより余計に歩いたから……」
 方位感覚が悪いので、しばしば遠回りしてしまう。これもまた、あずさクオリティ。
「間違って、変な道に入り込んじゃったみたいね」彼女は苦笑した。
「だったら、何でここに来るわけ?」
「あずさ! あんたが今いるのは、タレント寮の裏なのよ!」
 自分と同じように額を出した、栗色のロングヘアの美少女――水瀬伊織も、美希と一緒にダメを出す。
「反対側に来ちゃったのね……あら、化け猫は?」
 伊織は、あずさの言い分に驚いた。
「化け猫!? あんた、狐につままれたかしら?」
「でも、さっきわたしの正面に、巨大な猫の影法師が……」
「あずささん。そいつは多分たろすけです」
 今まで押し黙っていた、自分に同じく瑠璃色の長い髪をした美少女――如月千早がこう言った。と、その時。
 どこからともなく、柴犬がタレントたちの輪に飛び込み、鼻をクンクン鳴らしつつ、あずさの胸に飛び込んできた。
「たろすけ、遅れてごめんね……」
 たろすけとは、この柴犬のことである。765タレント寮の飼い犬であり、千早と交替交替に、彼の散歩をさせるのが自分の日課となっている。
「あずさったら、こいつの影を化け猫と勘違いして……」
「腰を抜かしたわけですわね」
 たろすけとじゃれ合うあずさを見て、美希と伊織は談笑する。

「皆さん、何の騒ぎですか?」
 タレントたちの輪の中に、後れて独り入ろうとする美少女がいた。褐色の髪をおかっぱに切り揃えた、清楚な感じの娘である。
 名前を萩原雪歩という。無論あずさの同僚である。
「どうも、あずささんが嫌な目に遭われたようですが……」
「雪歩は引っ込んでて!」
 伊織が押しのけようとするのを無視してあずさに迫っていくと、彼女の胸に抱かれていたたろすけが後ろを振り返り、雪歩に向かってクーンと鳴いた。
「キャア、犬!」
 そう叫ぶなり、転がるように逃げてしまう。やがて、彼女は寮に消えていった。
「あらあら、雪歩ちゃんって……相変わらずの犬嫌いね」
「あずさ! そういうあんたも猫嫌いでしょう?」
 たろすけを抱いたままのあずさに、伊織が容赦なく突っ込む。千早は、両者を見つめている。
「この二人……とにもかくにも仲良しですね」
「それじゃ、そろそろ帰っちゃおう!」
 美希があずさを抱き起こすと、彼女はたろすけを放つ。そして、タレント一同は寮に帰り、再び消灯を迎えたのだった。

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最終更新:2011年08月09日 22:49