愛の人


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耄碌してからの祖父を伊織は嫌いだった。
息子に家を任せた後、まるで気の抜けた風船のように丸くなった背中。
緑と花に彩られた邸宅の庭で使用人の押す車椅子におさまり、仏頂面とも違う感情の無い顔で日々を過ごす。
厳然という言葉をそのまま背負っていたような祖父を知っているだけに、伊織はどこか罪悪感とも違う、チクチクとした思いを抱えながら声をかけた。

おぉ―――。

伊織の姿を認めると、今や食事も上手く飲み込めずにボロボロとこぼす口から声が漏れる。
けれど、その口はいつも伊織ではなく自分の妻の名前をこぼすばかり。
伊織の祖母は伊織が生まれるひと月ほど前に亡くなっており、当時としては珍しく恋愛結婚だった祖父は事あるごとに、若かりし頃の祖母と伊織は似ていると豪胆な笑い声と共に家の者に話していた。
息子と兄二人には厳しかった分、孫娘は目の中に入れても痛くないほど可愛がった。
伊織自身も、そのしわくちゃで節くれ立った手で撫でられるのは大好きだったし、殆ど家にいない両親の代わりに与えて貰った愛情には感謝さえしている。
だからこそ今の祖父の様子には失望、落胆とも違う感情が渦を巻く。
使用人が慌てて訂正するが、その頃にはもう口を硬くつぐんだだけの祖父がぼんやりと中空を見つめていた。
代わりに頭を下げる使用人ごと無視すると、祖母が生前に好きだったという花菖蒲が目についた。
まだ花もついていないそれを見ないように、伊織もまた視線を中空に泳がせた。

事務所に行くと、あずさがソファに座っているだけで他のアイドルは出払っていた。
小鳥も事務業務に追われているらしく、伊織は給湯室から持ってきたペットボトルの紅茶片手にあずさの斜向かいになる形でソファにもたれかかった。
何となく正面に座るのがイヤだっただけの伊織に、あずさは小首を傾げた。
「何かあったの?」
普段はイライラするぐらい鈍いあずさは、こういう時だけはやっぱりイライラするぐらい鋭い。
別に、と自分でもそれはないだろうと思うぐらいの言葉を吐いてペットボトルの封を開けた。
それ以上、あずさは何も言わずにいつもの笑みを浮かべている。それがまた伊織をイラつかせる。
わざとやってるんじゃないか、とすら思えた。
お爺様のことよ、とボソリと呟いて伊織は続ける。
「私のことをお婆様の名前で呼ぶの。孫の顔も忘れたのかって、少し落ちこんでたところよ」
落ち込むというよりも苛立ちに近かった。
あれだけ可愛がってくれた愛情は嘘だったのか。
それこそ、自分への愛情は早くに亡くなった祖母の代わりなのか。
兄二人への祖父の厳しさが、期待の裏返しだと気づいたのも苛立ちを加速させた。
考えても仕方の無いことを引きずるあたり、祖父への思いが純粋なことを物語っているのだが、かえって伊織を混乱させた。
もういっそのこと早く。
祖父の無様な姿を思い浮かべ、そんなことまで考えてしまった自分を頭を振って戒めた。

ほぼ一人で問答を続けている伊織に、あずさは「とっても素敵なことじゃない」と目を細める。
自然とあずさを見る目が厳しくなってしまうのを、伊織はやめなかった。
なによそれ、と自分の声とは思えない冷たい低音が響き、それでもあずさはニコニコと笑みを浮かべ、だって、と続ける。
「それだけ自分の奥さんのことを想ってるんでしょう? 伊織ちゃんはそのお手伝いをしてるのよ。人は段々子供に戻るっていうけど、その頃から奥さんへの愛で伊織ちゃんのお爺様は成り立っていたのよ」
「慰めのつもり?」
「ええ」
昂ぶった気持ちをおさえられず、でもどこにもぶつけられないまま乱暴にソファから立ち上がると事務所を出ていく。
階段ですれ違ったやよいが少し怯えた表情を見せて、そこでやっと自分がとてもおっかない顔をしていることに気づいた。

庭園は変わりなく四季の移り変わりを見せている。
祖父もまたいつものように使用人に車椅子を押されながら、どこを見ているかも分からない瞳を空に漂わせた。
伊織も何も変わり映えの無い笑顔を貼りつける。
はたして上手く笑っているだろうかなんて、いつから考えなくなったのだろう。
呻くように、やはり祖父は祖母の名前を出した。
諦めたように祖父に顔を近づけ、訂正しようとする使用人を伊織は手で制すると、そのまま祖父の前に膝をつけて座った。
膝に感じる芝生が少しくすぐったい。
使用人がワケも分からずに目を白黒させるのを他所に、伊織は祖父の目を見つめる。
返す瞳の濁りが分かるほどの距離。それが以前の距離だった気がするが、もう思い出せなかった。
祖父はまた自分の妻を呼ぶ。チクリと心に刺さるそれは、たぶん嫉妬。
自分のお爺様でいて欲しかった。もういないお婆様よりも自分を見て欲しかった。自分を見れば十分だろうと、そう思っていた。
でも、本当に愛する人は私じゃなくて。代わりに愛していたものが私だっただけで。
「……はい」
呟くように言ったそれは、はっきりと祖父に届いた。
僅かに震える両手で伊織の頬を包む。
久方ぶりの感触に緩む涙腺を堪え、妻の名を呼ぶ祖父の声に伊織は応え続けた。

祖父が亡くなったのは伊織の誕生日の二日後だった。
四月の半ばにはもう意識も無く、病室で何本ものチューブに繋がれ、人間としての態を失いつつあった祖父はそれこそ見ていられなかった。
だから維持装置から開放された祖父を見て、なにより安堵の涙を流した両親と同じ想いを抱えていたことに誇らしささえ覚えたのは間違っているのか。今も分からないけれど伊織は満足している。
葬儀は滞りなく行われ、久しぶりに事務所に顔を出すとアイドル達は特に騒ぐ事も無く伊織を迎えてくれた。
まだ祖父母共に健在の亜美真美が、珍しく神妙な顔をしていたのが微笑ましくも思える。

「それは花菖蒲かしら?」
あずさが尋ねる。小さな蕾をつけ始めたそれは、葬儀の後に祖父の遺言の一つにと渡されたもの。祖母の好きだった花。
不思議だったのは伊織以外、誰も祖母が花菖蒲を好きだったのを知らなかったことだったが、二人の時だけにこっそり祖父が教えてくれたことをその時になって伊織は思い出した。
折り合いはつけたはずなのに花を手にするとまた少し複雑な思いが胸を巡るが、いずれは時間が解決するだろう。
最後までお婆様を愛していたお爺様らしい遺言だと、それなりにスッキリとした顔で伊織は答えた。
しかし、何が気に入らなかったのだろう。手にある花菖蒲を見つめたまま、あずさは珍しく渋い顔を見せる。
しばらくの逡巡の後、また花のような笑顔を浮かべると、
「やっぱり伊織ちゃんのお爺様だったのねえ」
と、勝手にオチをつけられたようなことを言い出した。
気味が悪いわね、と憎まれ口を叩くと、あずさは笑みを緩める。
とても真面目に、まっすぐとした面持ちに伊織の方が居住まいを正した。
「花菖蒲はね。5月5日の誕生花なの。花言葉は"うれしい知らせ"。きっと、お爺様にとって伊織ちゃんは」
もう最後まで聞けなかった。
あずさが言い終わる前に、伊織は泣き崩れていた。
推測と憶測にしか過ぎないことだけれど、きっと祖父はそれを伝えたかった。
これまでの悪態を恥じ、祖父の愛情を疑った事を嘆き、気づかなかった祖父の想いに堪えがきかない。
震える手で抱きしめる花菖蒲から暖かささえ感じた。
祖母への愛も、伊織への愛情もけして代えのきかないものだった。
どうしてそれに気づかなかったのか、今はそれを悔やむ前にこの愛情に包まれよう。


愛の人だった。愛に溢れた人だった。