私は今、とあるアパートの前にいる。
階段を登り、302号室のドアの前に立つ。
表札には『矢部』の文字。
ゆっくりとチャイムを押す。
「はーい」
と懐かしい声が聞こえた。
ドアが開く。
ドアの向こうにいたのは間違いなく、私の担任だった矢部先生。
「あれっ、ひとはちゃん?久しぶり!」
先生は、なにも変わっていなかった。
「……チクビに、会いにきました」
「そう。どうぞ、上がって」
先生の部屋は相変わらず汚い。
そこら中にエッチ本が落ちているし、きっとゴキブリも……嫌なことを思い出してしまった。
「チクビ、ひとはちゃんが来たよ」
先生の言葉に反応して、チクビが巣から顔を出した。
私の顔を見た途端、チクビはゲージに張り付いて大喜びした。
「長生きだよねぇ」
「意外としっかり世話してたんですね」
「意外とって……」
「おいで、チクビ」
チクビを呼ぶと、手のひらに乗ってくる。
久しぶりにしっぽをいじると、チクビは気持よさそうに鳴いた。
「チクビ……」
チクビと戯れた後、私は先生と話をしていた。
「中2から、学校行ってなかったんだ」
「……はい」
「今は何してるの?」
「高校に通ってます。通信制ですけど」
「そっか。元気そうでよかったよ」
「先生はどうですか?」
「えっ?」
「彼女、できましたか?」
私の質問に、先生は動揺した。
「もっ、もちろんいるよ!」
「いないんですね」
「ぐぬぬ……」
「早くしないと、栗山先生を他の男に取られてしまいますよ」
「そうだよね……どうすればいいと思う?」
「さあ?」
「さあってさあ……」
そこで私は立ち上がった。
「帰ります」
「あれ?もう帰っちゃうの?」
「はい。また来ます」
「うん、待ってるよ」
私は先生に見送られながら、部屋を後にする。
夏を告げる温かい風が、私の髪を揺らした。
終
最終更新:2011年04月15日 23:29