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――――――――――


ここだけ世界が違うよなぁ。

杉ちゃんちには何度来ても、何年経ってもその感想が頭をよぎってしまう。
豪奢な門と高い塀に守られた、西洋式の見事な庭園。
ヒナギク、マーガレット、スズラン、スミレ…色とりどりの花に囲まれた石畳を進んでゆくと、
やがて私の大好きな白バラのアーチが見えてくる。

むふぅ……。

ここをくぐるときは、いつも胸がいっぱいになる。
鮮やかな緑の中に息づく清廉な純白が目を楽しませてくれるだけじゃなく、
春風に乗せて届けられる優雅な香り「三女にそこに立たれると、画になり過ぎて恐いから早く来て」 ………。

気を取り直して顔を前に向ける。すると、目には碧い屋根を戴く白亜の豪邸が映った。
春の日差しと噴水の飛沫が作る虹彩が、その美しさを更に引き立てていて、
見てると童話の世界に迷い込んでるみたいな気持ちになっちゃう。

いやほんと、ここって上尾市だよね?

まぁこの少女趣味も合わせて、それだけ真里菜さんのセンスが優れているって事の証明だ。
杉ちゃんちが常識外れに広いっていったって、もちろん本物のお城や庭園と比べられるほどじゃない。
だけどこの庭は、高い木々や敷地の僅かな高低を上手く使って、実際の数倍の広さに感じられるよう設計してあるのだ。
いつもおっとりし(過ぎ)ているように見えるけど、ひとりでこの庭園を計算し、維持できる真里菜さんは、
まさに『良家の才媛』って言葉が似合うすごい女性なんだって、大人になった今はよくわかる。
しかも美人で清楚でいつまでも若々しくて、おまけにあんなにおっぱいが大きいなんて、
ふたばが可愛く見えるくらいの勝ち組っぷりだよ……。

ちょっと、明らかに変なところがあるけど。

「ただい「いってきまーす!!」 キャッ!」
手をかけようとした玄関が突然開いたせいで、杉ちゃんから驚きの声が上がる。
知らない間に最新式の自動開閉ドアに改造されていた、わけではもちろん無くて、別の住人が中から勢いよく開けたんだ。

「なんだよ、ぼーっとしてんなよな姉ちゃん!!」
龍ちゃんは今日も元気いっぱいだな。
それにしばらく見ないうちにまた大きく…って、待ってこれは……いや、まさか……。

「龍太!!ドアは静かに開け閉めしなさいっていつも言ってるでしょ!
それにまず、ぶつかりそうになった私に謝りなさい!!」
隣を駆け抜けていこうとした弟の腕を、お姉さんがガシッと掴んでお説教を始める。
その光景があんまりにも微笑ましくて、頭に浮かんだ不吉な予感はどこかへ飛んでいってしまった。

決して現実逃避なんかじゃないよ。

「そっちがボヤボヤしてんのが悪いんだろ!
俺、チームの奴らと遊んでやらなくちゃなんねぇから急いでんだよ!!は~な~せ~っ!!」
掴まれた右腕をジタバタさせながら、龍ちゃんが声を張り上げる。
その中身と左手のゲーム機(神戸さんのとおんなじ機種だ)から察するに、友達と遊びに行くところだったんだろう。
ふふふっ、そりゃ男の子にとってはお姉さんのお小言を聞いてる場合じゃないよね。

「なんて言い様!
もうっ、ママと違って私はいつまでも甘い顔してないわよ!!
三女からも言ってやって!!」
「えっ…!?
三女!!久しぶり!!」
杉ちゃんの言葉でやっとこっちに気付いたみたいだ。
宝石みたいに輝くどんぐりまなこが私に向いてくれた。

「うん、ちょっとご無沙汰だったね龍ちゃん。
元気そうで嬉しいけど、お姉さんを困らせちゃだめだよ」
「べっ…別にそんな事してねぇよ!」
「じゃ、ぶつかりそうになったの謝らなきゃね」
「うっ……くそっ。
……悪かったな、姉ちゃん」
一旦口を波線にしたけれど、やっぱり龍ちゃんは素直だ。ちゃんと杉ちゃんに頭を下げられる。偉い偉い。

「それで三女は今日、うちへ遊びに来たのか!?」
のはあっという間で、瞳をすぐまたこっちへ。
こらこら。もっとちゃんと謝らないと、お姉さんをもっと怒らせちゃうよ。

「龍太…まぁいいわ」
でもとりあえず許す事にしたんだろう、杉ちゃんは呆れ顔になりながらだけど、腕を放した。

「うん。杉ちゃんに美味しい紅茶をご馳走してもらいにきちゃった」
「そっか!じゃあ俺も一緒に行くぜ!!」
「龍ちゃんは友達と遊ぶ約束なんでしょ?」
「別にいいんだって、あんなやつら!!三女が久しぶりに来てくれた事の方が……あ~っと、
こっ…こないだカード全種コンプしたからさ、見せたかったんだよ!!」
龍ちゃんが興奮で顔を赤くしながらまくしたてる。
う~ん、久しぶりに会えたのは私も嬉しいし、カードも見たいけど、これは……

「龍ちゃん。
私、約束を守らない子や友達を大事にしない子は嫌いだな」

私からも少しお説教だ。
大きくなった弟分のおでこに人差し指をちょんと突きつけ、反省を促す事にする。

「だっ…だから別にあいつらは友達じゃ……う~………。
わかったよ……。
でもまたすぐうちに遊びに来いよな!絶対だぞ!!」
やっぱり子供は可愛いな。ころころ表情が変わって、まるで万華鏡みたいだ。

「うん。約束するよ」
「約束だからな!忘れんなよ!
絶対だからな~!!」
「いってらっしゃい」
腕をぶんぶん振りながら駆けていく龍ちゃんへ、私は軽く手を振って見送ってあげる。
その横で、杉ちゃんがやっぱり呆れ顔のまま大げさにため息をついた。

「はぁ~……。
まったく…どいつもこいつも私を無視して……」
「ん?あはは…でも可愛いじゃない」
「そういう時期はもうとっくに過ぎちゃったわよ。いつまでも俺様主義で困っちゃうわ。
ちょっと甘やかしすぎちゃったのよねぇ……。
ママは私に輪をかけてお嬢様だし、パパもほとんど家に居なかったせいで誰も抑えなかったからなぁ。
時すでに遅し、じゃなければいいんだど……」
「そんなに心配する事ないって。あのくらいの頃はしんちゃんもあんな感じだったし。
それにバスケットのチームの子ともちゃんと友達になれてるじゃない」
「ま、誰かさんがいい影響を与えてくれましたから」
『誰か』を思い出すふんわり優しい笑顔を浮かべて、お姉さんは弟の駆けていった道をまぶしそうに見つめる。

…先生……。

「あいつ、背伸びたでしょ?」
そして笑顔のまま、余計なひと言。



小学6年生に負けた………!!!




「お待たせいたしました、髪長姫」
ティーセットを乗せたトレーを手に自室へ戻ってきた杉ちゃんが、早速ふざけてくる。
んも~。

「ありがとうだけど、姫はやめてってば」
「そんな姫様、恐れ多いですわ~」
あくまで口からは冗談を発しながら、滑らかな手つきで毛糸のティーコゼーを開け、ポットを取りだしカップへ注いでゆく。

流れる水のように淀みない動きで、白磁のカップを琥珀色に染めていく姿は正に『優雅』の一言に尽きて、
私は非難の言葉を続けられなくなってしまう。ズルイなぁ。
おまけに……
「それ、使ってくれてるのは嬉しいんだけど、そんなに良いカップと一緒に出されちゃうと申し訳ないよ」

カップもサーブ用のポットも、間違いなく相当高価なものだ。
金箔で縁取りされ、淡い彩りの花々が描かれたその上品なデザインは、素人の私ですらただのものではない事がひと目でわかってしまう。
なのにそれらを包んでいる桜色の毛糸のティーコゼーと、乗せてあるパッチワークのマットには、手作り感が丸出しで、
製作者としてはいたたまれなくなってきちゃうよ。

「なんで?私としてはカップなんかよりこっちの方を人に自慢したいんだけど。ちょうど季節に合った色で素敵じゃない。
ママも度々使わせてってお願いしてくるんだから。
もちろん、こればっかりは貸してあげられないけどね」
カップを私に差し出しながら、ウインクひとつ。

「あ…ありがと……」
うう…顔が熱い……。
波立つ心内を悟られたくなくて、顔を俯かせながら紅茶を口内へ導く。
「美味しい…!」
そしたらすぐに、思わず感嘆の声が漏れてしまった。

口に含んだ瞬間鼻を通り抜ける花のような香り。舌いっぱいに広がり、そしてスッと消えていく爽やかな甘さ。
まいったなぁ。こんなの知っちゃったら、明日からは他の紅茶なんて飲めないよ。

「すっごく美味しいよ。さすが杉ちゃんだね」
「葉がすごいのよ。言ったでしょ、良いのが手に入ったって。
パパがイギリスへ行った時のお土産なの。
日本は大抵良質のものが揃う国だけど、なんでか紅茶の葉だけは苦いのしか無いわよねぇ。
さて、せっかくだから、お菓子も良いものをどうぞ」
と、渡されたシュークリームの台紙はおなじみの黄昏屋(鴨橋駅前店)だ。こんなにいたせりつくせりでいいのかな?

「って言っても、連日甘いものってちょっとマズイけどね」
「たまには大丈夫だよ。誰かさんと違って普段は気をつけてるんだし」
「そうね。誰かさんと違ってね」

そして重なる笑い声。始まるお茶会。
むふぅ…。

「いただきます」

サクッ

やっぱり黄昏屋は美味しい。
クリームの上品な甘さもさることながら、ここはシューの焼き加減が絶妙なんだよね。
表面はザックリしてるけど、すぐ下にはフカフカの層が待っていて、二重の食感がアゴを楽しませてくれる。
さすが名店。ガチピンクもまっしぐらだっただけの事はある。

「そうね。本店に負けず劣らずのこの味が、手軽に楽しめるようになったのはホントありがたいわよね。
あっ、そう言えばあのお店のパティシエの噂って知ってる?」
「ちょっとだけ聞いたよ。かっこいいけど引くくらいのシスコンで――…」


「ふぅ…ご馳走さまでした」
「最後にもう一杯いかがかしら?」
「もちろんいただきます。
…ありがとう」

今度はあせらず、目を閉じてゆっくりと香りを楽しむ。
ん……ストレートティーなのに、香りも味もこんなに甘いなんて不思議だなぁ…。

「…ねぇ、三女」
「なぁに、杉ちゃん?」
瞼の向こうから届いてくる声に、だけどもうちょっとだけこの香りを楽しんでいたくて、目を閉じたまま返事をする。
めんごめんご。

「……その…みつばのファミレス、今週の土曜日はちょっとした工事でお休みになったから、バイトも無いわよ」
「ふ~ん」
この香りって、何の花に似てるのかな?う~ん……。

「………三女」
「うん」
ラン系かなぁ…。庭に咲いていたスズランみたいな優しい感じの。


「矢部っちの所へ行くの、ちょっとの間やめてみない?」


「無理だし絶対嫌だしそもそも意味がわからないよ」
瞼を開けて瞳に映した友達の姿は、落ち着き無く空に目を彷徨わせて、次に口に乗せる言葉を探しているようだった。
だけど杉ちゃん、どんなに探したって私の答えを変える言葉なんて見つからないよ。

「…そうね、急にごめんね。そんなに恐い顔しないで。
ちゃんと話す順番は考えてたんだけど……えっと、三女は矢部っちのこと、どのくらい好き?」
「世界で1番大好き」
「……そうよね、わかってる。あなたのその想いは絶対に変わらないものだって知ってるわ。
だけど……絶対変わらないんだから、少しの間だけでも距離を置いてみてくれないかな。1ヵ月くらいでもいいの。
…ほら、恋の駆け引きとして、たまには引いてみるのも効果的っていうか……ね?」
「無理」
ふざけた言葉に、頭の中が真っ赤になる。
グツグツした熱が眉間に集まってきて、睨みつける目にますます力が籠もってしまう。
私はそんなことしたくないのに。
なんで私にこんなことさせるの?

させないで。

「……ごめん。これは本当にごめん。私の卑怯な嘘だったわ。
正直に言うわ、三女」
だけど私の願いは空しく、友達は佇まいを直してまっすぐ凛々しい瞳を返してきた。

やめてよ。こんなときこそ大人しく顔を伏せてよ。

「今のあなたはこんなに矢部っ…先生にこだわることはないって思うの。
1度でもいいから、矢部先生から離れる道も考えてみてくれないかな」
「無理」
「そうやって考える事を放棄しないで。
自分で選択肢を狭めないで」
「絶対無理」
「…ごめんね。
三女の気持ちをわかってるから、私も言うのが辛い。だけど最近の三女を見てるのはもっと辛いの。
このところずっと考え込んでるじゃない。ずっと矢部先生との事を考えてるじゃない」
「好きな人のことなんだから、ずっと考えてたって悪くないでしょ」
「柳が言ってたわよね、三女に笑っていて欲しいって。
私もそう。大事な友達が笑ってくれるなら、何だって頑張れるわ。
だけどやっと笑ってくれたと思ってちょっと目を離したら、すぐまた沈んじゃってる。
こんなこと繰り返してたら、あなたがもたない」
「別に杉ちゃんには関係ないでしょ。ほっといて」
「……そうやって矢部先生の事になると、突然昔のあなたに戻ってしまうのも悲しいわ。
それはあなたが自分で道を閉ざしてしまってるって事だから。
…進路だって悩んでるって言ってたわよね」
「悩んでなんかないよ」
「三女はすごく頭がいいわ。料理だって本格的に学べばお客さんに出せるものになるはずよ。
それに何度も言うけど、冗談なんて一切無く、あなたは信じられないくらい綺麗なの。
笑ってるときなんて、同じ女の私たちでも胸が痛くなるくらい。当然、男子なんてもっと放っておかないわ。
何よりあなたはとっても優しい。私、みんなのためにって頑張れるあなたをすごく尊敬してる。
私だけじゃない、みんながあなたを想ってる。
だから今のあなたは望めば何だってできるの。こんな無理しなくても、進む道なんていくらでも見つかるの。
三女の力を生かせる道を選ぶべきなの」

男子が放っておかない?何だってできる?
何を見てるの?
見てよこの薄っぺらい身体。何一つ欲しいものを…先生の『好き』を手に入れられてないじゃない。

喉元までせり上がってきた本音をなんとか押し殺して、私はなんとかいつも通りに、なんでもないよって返してあげる。
いつもに戻ろうよ、杉ちゃん。

「私の進路なんて気にしないで。
最近は委員会とかでちょっと忙しいから、先のイメージがわかないだけなんだって。
いいでしょ、まだ今のままでも」
「…そうね。私たちまだ2年生になったばかりだし、進路を決めてない子なんていくらでも居るわ。
だけど……」

やめて。
どうしてそんなこと言うの?

これからもずっとって言ってくれたのに!!



「いつまでも今のままでいるのが無理なのも、わかってるんでしょう?」



「なにそれ、全然わかんないよ。やめて」
「嘘。あなたがそれをわかってないはずがないわ。
ただ今より矢部先生と離れたくないから、それを考えるのが怖いから、考える事をやめてしまってる。
道を閉ざしてしまってる」
「家の都合だよ。うちは杉崎さんちと違って色々苦労があるから、選べる進路が少ないんだ。
毎日こんなに美味しいものを食べてるお金持ちにはわからないだろうけどね。
それに手がかかるのばっかりいるから、いつまで経っても私は安心して家を出られないの。出る事を考えられないの。
先生は関係ないんだよ。
世間を知らない子が変な勘違いしないで。やめて」

いつまでもふざけた事を言う女の子に、お腹の奥からせり上がってくる苦いものをどんどんぶつけてやる。
その声は甲高くてギザギザした、ガラスを引っかいたときみたいに嫌な音で、自分の喉から出ているなんて信じられないくらい。
だけどいい。これでこの子が大人しくなってくれるなら。
そう思って首筋が総毛だつのもかまわずに、私は全部を吐き出した。
…のに、彼女は気丈にも涙をぐっと堪えて私から目を逸らしもしない。

「……そうね。昔柳にも怒られたけど、私は何もわかってないのよね。三女の苦労を知らずに無神経な事言ってごめんなさい。
でもお願い、少しだけでもいいから私の話も聞いて。私を信用して。
私も矢部先生はすごいって思ってるわ。
本当よ?いつも笑っていて、優しくて、居て欲しいときに隣に居てくれる先生だったもん。
1歩前に進んだときは一緒に大喜びしてくれた。疲れたときは、大丈夫だからねって待っててくれた。
いつだって安心していられたから、色んな子とゆっくりお話しして、いろんなものをゆっくり眺めて、
沢山素敵なものを見つけることができたわ。
だから私も6年生のときは、学校が毎日楽しかった」
「………………」

ならなんで今、そんな泣きそうな顔をするの?
楽しい毎日が続くならそれでいいでしょ。夢みたいに素敵だよ。

「何よりもふたばの事よ。あの子こそ矢部先生と出会ってなかったら、きっと『今』は無かった。
もちろん佐藤はすごいけど、あいつ極端な馬鹿だからあのままじゃ絶対駄目だったはずよ。
でも今のふたばは、ちゃんと自分で自分の道を考えようって頑張ってる。
そんなふうに誰かの世界を変えられる人は、本当にすごいわ。本当にそう思ってる。
だからね、私もあなたが笑ってくれてる間は、矢部先生との事を本気で応援してた」
「わあ嬉しいな。じゃあ何も問題ないよね。この話は終わりだね」
「…すごい先生だったけど、今のあなたを見ていて気付いたの。
私たちはもう卒業したんだって。矢部先生の役目はもう終わってたんだって。
子供の頃に出会ったすごくて素敵な先生だったけど、あなた達みたいにいつまでもその想いに引っ張られるのは寂しいことよ。
特に三女、あなたはそれしか道が無いって自分を追い込んですらいる」
「実際無いよ」
「違うの。お願い、聞いてちょうだい。
矢部先生が全部じゃないのよ。あなた自身の夢を見つけて、そのために頑張るのが1番大事なの。
そしたらその道に、あなたが自然に寄り添える人だって見つかるはずよ。もちろん私だって全力で応援させてもらうわ。
それがみつ……私は三女に幸せになって欲しい。みんながそう想ってる。
だから少しだけ周りを見回してみて。
矢部先生も、きっとそれを望んでるから」
「へぇ……。
私よりも先生の考えがわかってるなんて、全然笑えない冗談だね。
それに私に幸せになって欲しいなら、何より先生との事を応援してよ。
先生と一緒じゃないと私は幸せになれないんだよ。
そっちこそ、思いつきで勝手に私の事を決めないで」

そうだよ、先生が一緒なら。
いつだって先生は私を幸せにしてくれるんだから。
5年間ずっとそうだった。これかもずっとそうに決まってるんだ。

「………………三女」
私の心からの言葉は、だけど空回りして届いてくれず、目の前の瞳は晴れないままどころか今にも大雨になりそう。

……いいけどね、別に。

「話は終わったかな?
こんなに美味しいお茶とシュークリームありがとう。それじゃ」

1秒でも早くこのくだらない時間から抜け出したくて、私はまだ温かい紅茶を置き去りにしていく。

バタン!!

ずっと…背中を向けてもまだ私に向けられていた優しい『視線』が、ドアを閉めた途端床に伏せられたのを感じて、
それが門を出ても気になり続けた。


――――――――――


先生……。


――――――――――


私って最低だ……。

街路灯が照らす夜の帰り道を、ひとり歩く。今にも倒れそうな弱々しい足取りで。
でもしょうがない。
後悔と自己嫌悪にお腹を締め付けられているせいで、今の私には雨の近づく大気は重過ぎる。

「…いっそこのまま押し潰されて、雨に流されたいな……」

杉ちゃんの言うことの方が正しいのはよくわかってる。言われるまでもないんだ、『今』がいつか覚めてしまう夢だって事は。
わかってるくせに、あともうちょっとっていつまでもぐずって、みんなに心配かけて。
それだけじゃなく、せっかく心配してくれた友達にあんなにひどい事を言うなんて……。

脳裏に浮かぶのは、杉ちゃんの泣きそうな顔。
一生懸命頑張って積み上げた『自分』を否定されて心が割れそうなくらい痛いのに、それでも私を心配してくれている顔。

家の事なんて関係ないじゃないか。
今の杉ちゃんは誰が見ても、自分の力で立って周りまで引っ張ってくれてる、とっても魅力的な女の子だよ。
なのに私は図星をつかれたからって、相手の弱いところを踏みにじって、すぐ安全地帯に逃げ出して……まるっきりあの頃のままだ。

「はぁ……」
明日、どんな顔して教室で会えばいいんだろう……。

息を吸って大気を取り込むほどに胸とお腹はますます重くなり、比例するように道を引き返したい衝動が大きくなっていく。
先生にいっぱい慰めてもらいたい。あのあったかい腕の中で思いっきり泣きたい。
だけど、できない。先生と約束したから。
それに私は家に帰らなくちゃいけないんだ。
これで自分の仕事まで放棄したら、私には何もなくなっちゃうよ……。

「………着いた、か…」
俯いた視界に見慣れた門柱が映り、私は何とか涙を引っ込めて顔を上げる。

「あ…」
家に電気がついてる。みっちゃん帰ってきてたんだ。
まいったな…もっとちゃんと涙を消さなきゃ……。

すぅ…はぁ……。

「ただいま…」
「おっかえり~!」
「え?」

返事があった事は予想通り。だけどその音色の予想がまるで無かったせいで、一瞬頭が真っ白になってしまう。
そんなはずないけどって思いながら発信源の居間に上がると、そこにはやっぱり、テーブルに向かってシャーペンを動かしている赤いジャージが。

「ふたば、部活はどうしたの?」
「んむ~…?
古文と英語で宿題が沢山出たから、お休みにしてもらったっス」
「ああ……」監督さんの判断か。

ふたばを指導してくれている女子陸上部の監督さんは、本当によく考えてる。しんちゃんとは大違いだ。
とにかくふたばを如何にして集中させるかを第一にしてるから、こうやって他に気になる事があるときはさっさと帰らせる。
さらに合宿や遠征を多用して、環境を変えることで練習に飽きさせないようにするなど工夫も多い。
そもそも部活をさせる時間自体、他の部員より短くさせてるし。
…こっちについても、いつも遅くに帰ってきて日曜まで練習に出掛けるしんちゃんとは大違いだな。

「ぬぐぐ……あぁ~ぜんぜんわかんないっス~!
んも~、一緒に遊びたいならその子の家に走っていって、遊ぼって言えばいいのに~!!」
「昔の人は大変だったんだよ。
ちょっと私にも見せてみて……。
うっ」

む…難しい……。

ふたばの通っている私立校はスポーツに力を入れていて、
野球やサッカー、バスケットに水泳…色んな競技で県内強豪のレベルにある。
それだけじゃなく勉強の方もかなりハイレベルで、全国模試の平均点はうちよりも高いくらいだ。
私も成績にはそれなりに自信のあるほうだけど、同等以上のレベルで、しかも使ってる教科書が全く違うとなると、
さすがにパッと見て教えるってわけにはいかないわけで……。

「これは……ちょっと考えさせて」
「あっ!いっ…いいっスよ!ひとはは晩ゴハンの準備があるんだし!
これも来週の月曜までの宿題だから、なんとかなるっス!」
私が眉根を寄せようとしたところで、ふたばがバッと身体を教科書とノートにおしつけて、隠してしまう。
うわっ、テーブルでひしゃげたおっぱいがエロい……はどうでもいいとして、そんなに気にする事ないのに。

「まだご飯まで時間あるから、少しくらいなら大丈夫だよ」
「いいの!ひとはは自分の事して!」

……嬉しいけど、ちょっと寂しいな。苦手な教科くらい手伝わせて欲しいのに……。
まぁふたばが大丈夫って言ってるんだから、あんまりかまうのは失礼かな。

…今のふたばには、大丈夫って言う資格がある。かなりハイレベルの勉強になんとかだけどついていってる。
それどころか、物理や化学といった理系科目は得意なくらいで、捻った問題になればなるほど正答率が上がるらしい。
定期テストで学年でも数人しか…しんちゃんでも解けなかった問題を解いて、先生に褒められたって喜んでた事もあった。

「ふむ~……」
私が身を引いた事に安心して起き上がったふたばが、アゴにシャーペンをあてながらもう一度問題と格闘を始める。
なんとか集中しようって頑張りだす。

要は興味を持てるか、集中力を発揮できるかどうかがふたばの成績の良し悪しに直結してるんだと思う。
ふたばは興味のあることについては驚くくらいの記憶力を見せるから、上手くやれれば英語とかも好成績を出す事ができるに違いない。

…『万能の天才』って言葉がある。けれど私は、それは逆なんじゃないかって思ってる。
ひとつの事でも飛びぬけたセンスを持っていれば、それを応用してどんな事でもできてしまうじゃないかって。
『天賦の才は万能』なんじゃないか、って。
だからきっと、ふたばはその気にさえなれば何だってできるはずなのだ。

……それはとっても残酷なこと、なのだけど。

「あう~…」
真面目に締めようとした私の前で、ボフッと煙が上がる。

ま、そうは何もかも都合よくいかないのが現実だけどね。だからふたばも毎日頑張ってるんだよ。
さてさて、とは言え今回はかなり強敵みたいだ。これは援軍が必要だろう。

「土曜日にしんちゃんに教えてもらえば?」

しんちゃんは変わらない。
高校生にもなったというのに、ふたばは予定を立てるということを全くしない。
なのでいつも朝ごはんを食べてから『今日はどうしよう?』を考える。
そして長年それに合わせてきたしんちゃんも、基本的には部活の無い土曜は暇をしている。
さらにふたりが通ってる高校はかなり遠いため、近所に通ってる子が非常に少ないという要素が加わる。
結果、どちらかが『暇だどうしよう?』→『とりあえず相手に会いに行こう』という超短絡的な思考を展開して、
高確率でデートが成立することになる。
………デートと言っても空き地でバドミントンしたり、部屋でゲームしたり漫画読んだりと、
これまた昔から変わらない行動がほとんど(まぁふたばと私は街に出にくいっていうのもあるけど)なんだから、
土曜日も勉強会にしたっていいと思うけど。むしろその方がしんちゃんも喜ぶし。

「……しんちゃん、土曜日は練習試合で……。
最近試合の後は元気無いから、迷惑かけたくないんス」
「そっか……」またそのローテーションに入ったのか。めんどくさいなぁ。

しんちゃんは変わらない。
高校生にもなったというのに、しんちゃんは相変わらず金魚すくいのポイよりも薄っぺらなプライドを大事にしている。
むしろ命を懸けている。正直理解に苦しむよ。
なのでなにやらお悩みな事があるようだ。丸わかりだけど。
そして悩みも薄っぺらだからすぐに自己解決して、イラッとするテンションでデートに出かける。しばらくするとまた悩みだす。
相手にするのはめんどくさい上、純粋に時間の無駄になるから今度も流しておこう。

どうせしんちゃんにとって1番大事なものは、何があっても絶対変わらないんだから。

ヴィー... ウイィン...

静かになった居間に突然HDレコーダーの機械的な起動音が響いたせいで、一瞬ふたりでビクッと身体を震わせてしまう。
どうもこの音って慣れないな。

「あっ…もう時間なんだ」

時計を見ると、思ったとおりちょうど19時を指したところだった。
朝、パパに頼まれて録画予約しておいたものだけど、こんなときに限ってふたばが帰ってきてるなんてタイミングが悪いなぁ……。

「なんか新番組っスか?それとも特番?」
「…ん…ニュースなんだけど……。
鴨テレでふたばが映るから、パパが録っといてって……」
なんでもない風……を装おうとしたけど失敗だ。思いっきり目が泳いじゃった……。

「えっ……。
あっ、あっ…あの、じゃあ小生、上で宿題してるね」
「録画してるんだから、テレビは消したままでいいよ」
「ううん、そろそろ上に行こうと思ってたんス。
お皿運ぶときになったら呼んでね!お手伝いするから!」
そんなふたばには珍しい大焦りの声を残して、目にも留まらない速さで2階に消えてしまう。

……しょうがない、か。

「……………」

ピッ

ひとり立つ居間の静けさに肌寒くなって、ちょっと迷いながらもテレビに助けを求めることにする。

[…年生になり、丸井ふたばさんも新たな目標に向かって練習をスタートさせました]
すると、液晶にはふたばが学校のトラックを駆ける姿が映った。

ほっ…見たいシーンでよかった。

[タタタタッ]

「綺麗…」

心の底からそう思う。

オレンジ色のタンクトップと短パンから伸びる美しい手足からは筋肉の躍動がはっきりわかって、
その『速さ』が自然な認識として伝わる。
なびくサイドポニーが、気持ちよさそうな笑顔が、画面越しにも風を感じさせてくれて、自分も駆け出したくてむずむずしてきちゃう。
『今なら私も速く走れそう』、そう頭に浮かんで居ても立ってもいられなくなってくる。

見ているだけで、心と身体に元気をくれる。

[ことしのもくひょうとしてもっとじぶんのちょうしんをいかしたすとらいどそうほうを――…]

だから余計に、このインタビューシーンが悲しい。
引きつり、目を揺らしながら暗記した原稿を棒読みする作り笑顔。
こんなのふたばの魅力がほとんど消え失せちゃってるよ……。
誰だってそう思うはずだ。

はず、なんだけど。

[う~ん…そうですねぇ……。わたしはちゅうばんのかけひきがぜんぜんだから――…」
思案顔(らしきもの)を作ったふたばが、右手を左肩にやり、そのままゆっくりと腕をなでおろす。
大きなおっぱいが腕に押されて自在に形を変え、その柔らかな存在感をアピールしてくる。
…いつも通り、走ってるときのサラシを外してブラに替えているんだ。

こうやって『女』をアピールするようになってから、ふたばの人気は一気に上がった。
今じゃ鴨テレみたいな地方局だけじゃなく、全国局からもちょこちょこ取材が来るほどだ。

「………結局、男はそうなんだよね……」
呆れるくらい薄っぺらい現実だよ。笑いが乾いちゃう。

[それにつかれてくるとどうしてもうでのふりへのいしきがさんまんになるので――…」
本当に薄っぺらな言葉たち。

当たり前だ。
具体的な『目標』『抱負』『勝因』『戦略』『好敵手』『仕上がり』…そんなもの、ふたばにとっての陸上には存在しないんだろう。
もちろんそれらの言葉の意味自体は分かってるし、指導内容だって理解してる。もう高校生なんだから当然だよ。
でも、走ること対して抱く必要の無い概念だから、全く悩む必要が無いから全然結びつかないんだ。
受けた指導を飛びぬけたセンスですぐに習得して、それを使って自分の全力で走る。それでもう誰も追いつけない。

[もちろんいんたーはいにれんぱをねらってます!]

………中学生のとき、私たちの友達は言った。

『目標も理由も積み重ねる事なく、『強い』にいきなり手が届く。
そんな奴がいる。いる事が許されてる。……現実がこんなに残酷だなんて思わなかった』、と。

そしてそのとき私は、友達に何も言ってあげられなかった。……今も、何も言う事ができていない。
三つ子の私ですら否定できない現実が確かにあるから。

……あるけど、


[はいっ!頑張ります!!]
1番大きな現実は、ふたばが今、私たちのために頑張ってくれてる事なんだよ。


大好きなちょんまげをやめて、時枝さん達からみたいな誤解を受けて、自分でも嫌悪する姿を晒して、
それでもふたばが頑張ってくれてる現実があるんだよ。

それを言おうと思い続けて、だけど弱い私はいつも声を出せないまま…。

[ありがとうございました!]

「…本当にありがとう、ふたば」
『せめて今は』、そう思ってお礼をつぶやきながら、液晶から消え行く笑顔に触れてみる。
すると、思わずもうひとつつぶやきが漏れてしまった。

「もう十分なのに、どうしてそんなに無理するの……?」

疑問。
今のままで十分我が家は潤ってる。こうやって高校生活を続ける事に何の不安も無いんだよって、何度も伝えた。
なのに、ふたばはますます積極的にテレビに出ようとしてる。お金を家に入れてくれようとしてる。
無理してまで頑張っている。

「どうして…?」

だんだんとわかなくなっていく姉の考え。
変わっていく三つ子の姉たち。
当たり前の事だってわかっているけど、やっぱりたまらなく寂しい……。

「……ううん、誰だって変わらなきゃいけないんだよね…」
明日の天気に切り替わった画面から手を離す。いちいち名残惜しんでなんていられないんだよ、ひとは。
ふたばが変わったのは、当たり前の事なんだ。

……当たり前に、ふたばですら変わったのに………。

ふと、玄関を振り向く。
今朝もそこに立っていた、何があっても変わらず毎日そこに立つ男の子を思い浮かべる。
毎日変わって行く現実があるのに、変わらない。
ふたばですら変わってしまったというのに、しんちゃんは変わらない。これからも絶対に変わらない。

しんちゃんはすごい。本当にすごい。

[それでは今日のニュースは、丸井ふたばさんの練習風景を見ながらお別れしましょう。また明日]
思った事がある。
ひょっとしたらしんちゃんには、最初からこの姿が見えていたのかもしれないって。

小さな男の子が『きれいな花がさくから』と、全部の恵みを注いで、全部の害から守って育てた『ふたば』。
そして今私たちの目に映るのは、華どころかまるで輝く……「なわけないって」

浮かんできた、我ながらあんまりにもくだらない考えのおかげで、少しだけ笑いが戻ってくる。

「ふたばは、ただ家族のために頑張ってくれてる私の姉だよ。そんなのじゃない。
しんちゃんなんてもっとそんなのじゃないよ。絶対何も考えてないんだから。
最初からなにも無いから変わりようが無いだけだって」

ザー

部屋に最後のひとり言が溶けたのと同時に、外で雨音が鳴り出した。
みっちゃんは間に合わなかったか。可哀相に。

ガシャン!

なんて思ったところで、今度は自転車を停める音が耳に届いた。
このタッチの差がみっちゃんらしいな。
笑いを大きくしてくれた御礼も兼ねて、私はバスタオルを持って玄関へ迎えに行く。
そしたらちょうど、濡れたセーラー服がドアから入ってきたところだった。

「あーもー!!この私の帰りが待てないなんて空気の読めない空ね!!
ひとは、バスタオ……あら、気が利くわね」
胸元まで伸ばした色味の薄い髪から雨粒を滴らせながら、みっちゃんが顔を上げる。

「はい。
今は3枚しかないんだけど、足りるかな?」
「ギリギリねぇ。私って面積広いから…って1枚で十分に決まってるでしょ!」
目を三角にして、ワシッと1枚掴み取るみっちゃん。
相変わらず微妙なノリツッコミだなぁ。

「んも~っ!ほんっといい度胸してる天候ね!!
この私に風邪を引かせたりなんてしたら、どんな目にあうのかわかってるのかしら!!」ゴシゴシ
バスタオルから零れ落ちる、伸ばされた髪。昔は両側で結んでたけど、今は真っ直ぐ垂らしてる。
日に透かすと金色に輝く、綺麗な色合い。少しうらやましい。

「……1番小さいタオル取っちゃったわ。やっぱもう1枚ちょうだい」
高校生になってから、髪形を変えた私の姉さんたち。

「ちょっと!聞いてんの!?
……なによ、ぼーっとして?」
「……別に」

そうだ、誰だって変わらなきゃいけないんだよ。しんちゃんが『特別』なだけ。
みんないつまでも昔のままじゃない。
『今』もいつかは『昔』になっていく。
わかってる。


なのに私は……。