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「あったかいもの、どうぞ」
「ありがとう……」
書庫の硬いソファに身体を預けたまま、さくらちゃんが淹れてくれたミルクティーを受け取る。
すぐには口に運ばず、両手でカップを抱いて暖を取る事にする。
手のひら全体にじんわりと伝わる熱が、心をゆっくりほどいていってくれる……。

「毒なんて入っていませんよ」
私の様子を立ったまま見つめていたさくらちゃんが、珍しくおどけた声をかけてくれる。
その心遣いも、やっぱりあったかい。

「くすっ…。
そっか。安心した」

たくさんのぬくもりが包んでくれるおかげで、琥珀の湖面に映る人形みたいな貌に少しずつ表情が戻ってきた。
やっぱり『友達』ってすごいな……。

「いただきます。
ん……おいしい……」

ミルクとお砂糖たっぷりの紅茶が、優しく身体に染みこんで行くのをはっきり感じる。
こうやって私の事を自然に慮ってくれるのが、そんな誰かが傍に居てくれる事が、すごく、すごく嬉しい。

「それは僥倖。
こっちにも一式用意しておいてよかった。やはり文学少女は偉大だね」
私の空気が柔らかくなったことに安心したんだろう、さくらちゃんも声音をいつものキザな色に戻して、カップを右手に窓際の本棚に腰掛けた。
自然、窓から差込む茜色によって、モデルみたいにスラッと伸びた手足の輪郭がますますはっきりと浮かび上がる。
誘われるように流線に沿って目線を上らせると、ミルクティーで塗れた唇と輝く白い歯に彩られた微笑に辿り着く。
その余りの美しさに、私の胸はギュッと締め付けられちゃう。

……もちろん私にそんな趣味はない。
けどさっきみたいな事があった後じゃ、やっぱり女の子はいいなって思ってしまう部分があるのも確かで…。

「ふぅ………」
「どうしたの?」
「あっ…ごめん。
さくらちゃんが綺麗だから、見とれちゃってたよ……っ」
メガネの奥に輝く黒曜石のような瞳のせいで、本音がそのまま引き出されてしまう。
ひと呼吸遅れて自分の台詞の恥ずかしさに気付いた私は、ドギマギしながらカップの中身に視線を逃がす。

うあぁ…顔が熱い……。
でもでも、あんな優しくて綺麗な微笑みを見せられたら、どんな女の子もイチコロに決まってるよ……。

「そりゃどうもって言いたいけれど……クククッ!
かび臭い書庫の一角を、神話の舞台に塗り替えてるような美少女に言われても、皮肉としかねぇ。
ま、姫様のユーモアって事にしておくかな」
笑い声は心底愉快そうだ。
だけどその中身には抗議せざるを得ないよ。
私は唇をミルクティーで軽く濡らしてから再度顔を上げる。

「さくらちゃん、そういうのもうやめてくれないかな……。
さ…さっきみたいな事の後じゃ、やっぱりい…嫌、だよ……」

『さっき』。
自分で口にした言葉のせいで二の腕に硬い手の感触が甦って、また声を震わせてしまう。
さくらちゃんがこんなに暖めてくれてるっていうのに、情けない……。

「いい加減、三女とこいう会話するのは不毛なんだけど……ううん、そうだよね。ごめん……」
「ん……」

ワーワー カキーン!

私たちが黙ると、それを待っていたかのようにグラウンドから活発な声が駆け込んできた。
部活以外の用事で残ってるのは、もう私たちくらいかな……。
そういえば……
「どうしてこっちの校舎に?」
「うん?
……うん……ちょっとまぁ、図書委員長らしく整理でもしようかなって……。
本が好きなもんでね……という感じかな……」
またさくらちゃんの声色が変わっていく。言い訳を探す『迷い』に。情けない嘘を返した自分への『嫌悪』に。
それに合わせて、美しい黒曜石も濁って炭へと堕ちてしまった。
しまった……私の馬鹿。わかってるでしょう。

「ごめん……」
ダメだ、想いを伝えるのにふさわしい言葉が何ひとつ浮かばない。
こんな薄っぺらいひと言でしか謝れないなんて、本当に情けない。
穴があったら飛び込みたいよ……。

「なんで謝るのさ。当然の疑問だよ。
……塾の無い日は帰ってもやる事ないっていうか…母さんを心配させるだけだしさぁ。
どうも、時間の使い方が下手なんだよね。
……だけど今日はそのおかげで友達のピンチに駆けつけられたんだし、悪いことばっかりでもないか」
「ごめん……」
声にすぐ明かりを灯し直してくれた優しさが余計に辛くて、ふたたび不恰好な謝罪を口にしてしまう。
そしてまた、さくらちゃんの戸惑いが生まれる……どうして私は悪循環しか生めないんだろう。情けない。くやしい。

「ええい、だから謝るなって言ってるのに。
……いや、でもあえてキツイ事を言わせてもらうと、今日みたいな迂闊さはちょっと反省して欲しいかな。
あんな猿どもの呼び出しなんて、いちいち相手にしちゃダメだって」
「猿って…そんな言い方……。
それに、せっかく勇気を出して手紙を出してくれたんだし……。
無視するなんて、絶対できないよ」
怖い目にあったけど、ロリコン趣味であったとしても、それでも強くそう思う。
『好き』っていう、とっても大事な想いを向けてくれたんだから、って。

けれど片隅には『そうだよ。甘いよ』と、せせら笑う自分が居るのも確かで……。

「やれやれ。
そんなに無理して優しい髪長姫様にならなくてもいいんだよ。
今時佐藤のバカや千葉みたいなのはむしろ希少種なんだから、そんな無防備じゃ危ないって。
男子だけじゃない、教師だって何考えてるんだか。
数学の里中の嫌らしい目つき、気付いてるだろ?」
「……それは、えっと………」

『視線』を感じられる私が気付かないわけが無い。
もっと直接的に、不自然な居残りを命じたり、携帯番号を訊いてきた教師までいた。
そして結局今日と同じく、さくらちゃんや杉ちゃん、柳さんに助けられて……結局私は、誰かの背に隠れることしかできていない。

いつまでも、誰かに手を引いてもらわなきゃ何もできない小さな女の子のまま。

「まあ呼び出しに応えるにしても、本来の三女ならもっと聡い会い方をしてるはずだ。
こうも行動を制限されるようじゃ、あの王子様はやっぱりキミにとって負担になってるんだよ。
きっとキミの中では宝石みたいに美しい想い出なんだろうけど、ソレにいつまでも引っ張られてちゃ………ごめん」
言葉を並べていく中、苛立ちすら混じり始めた声が、また沈んでいく。
そしてひと呼吸置いて、ガリガリと頭を掻き、視線を宙に舞わせながらさくらちゃんがもう一度同じ言葉を口にする。
「ごめん。
最後のは完全に余計だった。ダメだな、私は……。
自分で時間を無駄にしてるだけのくせに、勝手にイライラして、友達に八つ当たりするなんてさ……」

違うよ、さくらちゃんは悪くない。さくらちゃんが言ってる事は全部本当のことなんだから。
悪いのはいつまでもぐずってる私なんだよ。
本当はわかってるんだ。

グラウンドを寂しそうに見つめる横顔へ、そう伝えなくちゃいけないのに、私の心は頑なに拒否をする。
自分で夢を壊したくないって、我がままを言う。

「「……………」」

俯く私とさくらちゃんの間に、寒々しい沈黙が横たわる。
せっかく友達が一生懸命あたたかな空気を呼び込んでくれたっていうのに……。

ワーワー...

…何か話題……さくらちゃんの好きなもので……そうだ。

「ねえ、昨日の準備室での話だけど……」
「…なんだい?」
弱々しく首を動かし、眉の下がった作り笑顔を向けるさくらちゃんを、いつもの姿に戻せる話題といえば、

「さくらちゃんに先生のことを教えたのって、みっちゃんでしょう?」


みっちゃんの話題だ。


「……どうして?」
「『お教えいただいて』って…あなたがあんなに嬉しそうに敬語を使うのは、みっちゃん以外にいないから。
すぐに気がついたよ」
「…なるほど。
うん。ちょっと黄昏屋でケーキセットをご馳走させていただきながら、ね」
少しずつ張りの戻ってきた声に手ごたえを感じた私は、空になったカップを置き、この話題を本格的に進めることにした。
聞き捨てならない単語も聞こえたし。

「あの雌豚……」
いくら相手がさくらちゃんだとはいえ、スイーツにつられて重要機密を漏らすとは……!

「そう怒らないで。誤解無きよう言わせてもらうと、元々誘われたのは私の方だったから。
みつばさんは最近キミに元気が無いことを、とても心配してらしたよ。
それで私に事情を話してくださったんだ。学校の生活でできる事があれば協力してあげて欲しい、って」
「だからって奢らせるなんて……。
さくらちゃんもあんまりみっちゃんを甘やかさないで」
「あははっ。
ごめんごめん。久しぶりに憧れの女性とお茶出来て、ちょっと舞い上がっちゃってた」
過日の幸福を思い出し、味わってるんだろう。花のような笑顔を浮かべるさくらちゃんの姿は、恋する乙女そのものだ。

う~ん、狙った引き出したものとはいえ、ここまで来られるとちょっと……。
杉ちゃんよりストレートだけど、だからこそ余計に心配になっちゃう部分があるよ。
いやまぁ、もちろんふたりに本気でそんな趣味があるわけじゃ無い……よね?信じてるよ、さくらちゃん。杉ちゃん。

「そんな冗談言ってるから、百合説とか流れるんじゃない?」
「人の純粋な敬意を貶めるとは、下種な連中がいたもんだ」
「敬意、ねぇ……」
「うん。
今だって想ってる。出来る事ならあの人のような女の子になりたかった。
嘘偽り無い、私の本音さ。
心の底から憧れてるんだ。
もちろんもし私が男だったら、出会って即、告白してたけどね。
そしたらきっと、こんなかっこつけの根暗は即ふってくれただろうな。そうに決まってる。
それでこそみつばさんだ……!」
語るうちに恋する乙女は加速して行き、瞳に星を浮かべながら大仰な身振り手振りさえ交えて、中空に夢物語を描き始める。
あえてそこはスルーしとくけど……何故ふられるところまで嬉しそうに語れるのかが、全く理解できないよ…。

などとこめかみに汗を流している私の前で、さくらちゃんは完全に調子を取り戻し、お得意の肩すくめのポーズを取る。
「あぁ……!
私の想いはこんなに純粋なのに、みつばさんの態度はイマイチ冷たいんだよなぁ。
それもこれも、おかしな噂を立てる連中のせいだ。まったく、腹が立つ」
「……そうじゃなくて、さくらちゃんがふたばをいじめるから……っ」

しまった!!!

ああもう!何なんだ今日の私は!!不注意にも程があるよ!!

「…………」
どすんと、壁が降りてくる。
さくらちゃんの周りに、目に見えない、けれど鋼鉄よりも硬く冷たい壁が現れたのをはっきり感じる。

「あ…ちがっ……。ごめっ……。
そうじゃなくて、単に私は……みっちゃんが…あのっ!」
「ふん…イジメ、か。イジメね。
そうだね、私は一方的に次女をイジメるからねぇ。ホント根暗な女だよ。
次女がやり返さないのをいい事に、貶し、なじり、厚意を目の前で踏み躙ることすらやってのける。
ひどい女だね、まったく」

壁の向こうで私が言葉を探しまわる間にも、さくらちゃんの声はどんどん凍えていく。
まるで合成音みたいに無機質なのに、小さな女の子みたいにか弱く、痛々しいものへと変わってしまう。
いつも私を助けてくれる強くて優しいさくらちゃんが、縋るものを求めて彷徨っているっていうのに。
なのに私は分厚い壁に阻まれて、近づくことすらできない。
何も言えなくとも、せめて声を張り上げなきゃ。声だけでも友達の傍に行かなきゃ。
……けれどこんなに弱い私では、こんなに高い壁を越えることなんてできるわけがない。

「だけどさぁ、しょうがないじゃないか。
私だって人間なんだ…ただの凡人だもの。天才様に嫉妬くらいするって。
いいじゃないか、あいつはなんだって持ってるんだ。こんな小さな私がつついたからって、何が減るっていうんだよ。
実際私が何やったって、あの女は能天気に笑ってるだけだろう。
いやはや、さすがは陸上界のアイドル。器が大きくてらっしゃる」

違う。違うよ、さくらちゃん。ふたばはただの女の子なんだよ。友達と…好きな人とまた笑いあいたいって、一生懸命頑張ってるんだよ!
「ち…ぅ………っ」
「そうだ!小さな私はあっさり居場所を奪われたっていうのにさ!
覚えてるだろ、中学の陸上部!どいつもこいつもふたばちゃん、ふたばちゃん、ふたばちゃん!!
……顧問はまだいいさ、あの輝かしい戦歴だもの。
中体連もインハイも国体も、みんなあいつのひとり舞台だったんだから。
だけど部の連中までなんであんなあっさり手のひら返すよ!」

築き上げられた凍土の裡から、今度は熱いマグマがドロドロとあふれ出す。
三つ子のお前も同罪だというかのように、激情を私へぶつけてくる。
弱い私は傍に近づくどころか、ただぎゅっと目を瞑って身をすくませている事しかできない。

痛い、痛い、痛い。

ドクドクと心臓が狂ったように激しく脈打ち、無理やり押し流される血液があらゆる血管を押し破ろうとする。
神経が皮膚へと押し上げられ、叩きつけられる高熱をますます鋭敏に感じ取ってしまう。

「おかしいだろう!次女がお前らになにしてやったよ!
溢れるほどの才能を自分のためだけに使って、それでも足りないって欲しがって!
チヤホヤしてくれる相手と毎日遊びまわってるだけじゃないか!
どいつもこいつも騙されやがって!
変態佐藤を見て気づけよ、滑稽さに!
おっぱいに騙されて、血反吐を吐きながら擦り寄ってるヤりたがりの猿と同類になりたいのか!?
男を囲ってゲラゲラ笑うあんな女の何がいい!?

強けりゃなんでも許されるってのか!!」

違うんだよ。ふたばは、しんちゃんは、みんなはそうじゃないんだよ!
……呪文のようにただ頭の中で繰り返すことに、なんの意味があるっていうんだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……っく、は…ぁ……」


頭を抱え、奥歯を噛み締めて涙を堪えながら嵐が過ぎ去るのを待つ私の耳に、さくらちゃんの荒い息がくっきりと響く。
もう行ってしまったかな……だめだ、まだ怖い。まだ顔を上げられないよ……。

「はぁ……ふっ…。は、ぁ………っ。
………………………」

段々と、波が静かになっていく。冷たくなっていく。
友達が本当は凍えていたことをやっと思い出した私は、なのに無意味に床の木目を数えて恐怖を紛らわせている。
あんなに助けてもらっておいて、何やってるの……!!

「…………………………………………」
ぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼたぼた。

水滴が床を叩く音が、うるさいくらい書庫に響き渡る。
俯く私の視線の先で、すごい速さで床に水溜りができていく。
……いったい…?

騒音と疑問が恐怖よりも大きくなったせいで、やっと顔を上げられた私を待っていたのは……

「…………………………………………」
一切の嗚咽をあげずに泣いている、さくらちゃんだった。

声も、表情も無く虚空を見つめながらも、滂沱の涙で顔中を濡らしている友達の痛々しい姿に、
私は心臓を握りつぶされて、結局何もできない。
何も、してあげられない。

どうすればいいのか、こんなにはっきりわかっているのに。

「ち…がうんだ……」
焦点の合わない目のまま、さくらちゃんがかすれた声を絞り出す。

「こん、な…事がっ、言いたかったんじゃ……ない……。
わかってるんだ、次女が頑張ってる事は……。
あの恐がりがテレビに出るなんて、どんなに辛いだろうって、そんなのわかってるんだよ。
みんな、あのまっすぐな姿に…笑顔に力づけられてるんだって、知ってるんだよぉ……ひっく…ぁ…あぁ……」

いつも凛々しく、まぶしいくらいに輝いているさくらちゃんは此処には居ない。
道に迷って、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした小さな女の子が私のすぐ傍にいる。

「誰だって…知ってる……んだ…。
次女がみんなのために…頑張ってること……うぅ~、ふぅ……。佐藤っ…がっ、あんなに綺麗で、すごいこと……。
手のひらを返したのは、私じゃ…ないか……っ。
背についてきてる間は……チヤホヤしてくれてる間は、走り方を教えて、妹みたいに可愛がってたくせに…はあっ……ぅぐっ……。
追い抜かれた途端……っ。
こんな嫌な女の子に、誰が味方するんだよぉ……。あたり…まえ………。
なのに次女は、ずっと私に優しくて……から、惨めで……。
も…消えて、しまい…たいぃ……」

どうすればいいのか、わかってる。
誰だってわかってるんだ。私も、さくらちゃんも。

わかってるから、難しい。
目の前の壁があまりにも高くて、分厚い事がわかっているから。
壁にぶつかって、これ以上傷つくのが恐くて、踏み出すことができなくなっちゃうんだ。
無意味に痛い思いをするのが嫌なのは、誰だって同じだよ。

「みっ…つば、さん…に、怒られたばかりだったのに……ぐずっ…。
せっ…かくみつばさんが、私の代わりに、泣いてくれたばっかりだった、のに………」
深い茜色の中、友達は塗れた左頬を撫でながら彷徨い続ける。

……『今』の私は、思う。
自分に迷う子ほど、高い理想を見つめる子ほど、みっちゃんに惹かれるんだって。

誰かと一緒に笑って、誰かのために怒って、誰かの代わりに泣く私の姉さんが、1番魅力的な女の子なんだって。

「う……うぐっ……。うぅ~~……」

もし私がみっちゃんだったら、こんな壁今すぐ越えて行けるのに。

もし私がみっちゃんだったら、先生に胸を張って告白できるのに………。



沈み行くお日様が、それでも暖かく照らしてくれていたのに、私は頭で想って足を止めているだけだった。


――――――――――


先生……。

昨日と同じに、路地の暗がりに身を隠し、先生の部屋の様子を確認する。
窓には光がない。今日はまだ帰ってきてないんだ……。
せめてカーテン越しに影だけでも…先生の生活の雰囲気だけでも見たいって、息も絶え絶えになりながら何とか辿りついたのに、
はたして待っていたのは空虚でしかなくて。
圧し掛かってきた残酷な現実に耐え切れず、私は膝から崩れ落ちそうになる。

先生に会いたい。

『辛かったね。沢山頑張ったんだね』って、優しい声に慰めてもらいたい。
先生のあったかい腕に抱かれて、大きな手でいっぱい頭を撫でてもらいたい。
先生の身体全部をゆりかごにして、ずっとずっとまどろんでいたい。
そしたらこの嫌な気持ち全部、すぐに溶けて消えてしまうのに。

「う…うぐっ……。
う、ふぅ~……」

脳裏に描いた甘美な幻想は、夜風のひと吹きで千々に吹き飛び、
とりまく温度の落差にどすんとお腹全部を揺さぶられて、ついに私は嗚咽を抑えられなくなる。

「ぐ……ふぐぅ……」
鞄を抱く私の袖口は、とめどなく溢れる涙ですぐにびしょびしょになっていく。
寒風に、塗れた手から容赦なく熱を奪われ、私はますます追い詰められる。

苦しい。痛い。怖い。
もう嫌だよ。

いっぱい頑張ったけど、やっぱり私には、上手に友達と付き合うなんて難しすぎるんだよ。
みんなに沢山あったかいものをもらったのに、私には何ひとつお返しできない。
こんなんじゃ、せっかく出来た友達が、せっかく見つけた大好きな人達が、離れていってしまう。
みんなに嫌われちゃう。またひとりになっちゃう。

あの楽しい毎日を失わないために、もっと頑張らなくちゃって思っても、足元の薄氷が割れるのが怖くて、一歩も動けない。
壁が目の前も背中も、頭からつま先まで私を覆って、押し潰そうとずんずん迫ってくる。

先生、助けて。

喉元までせり上がって来た悲鳴を、抱えた鞄を力いっぱい噛み締める事でなんとか我慢する。
「ふーっ……ふーっ…ふぐっ」

これ以上先生に迷惑をかけて、もし嫌われちゃったら……。

可能性を想像するだけで、身体中に鳥肌が立ち、足がガクガクと震える。ダメだ。それだけは絶対ダメだ。
もっと声を殺さなきゃ。誰かに見つかったら大変だ。
そもそも今日は、先生に会いに来ちゃいけない日なんだよ、ひとは。
先生と約束したじゃない。

高校生になってすぐ、先生と交わした大事な約束。
先生に会いに行けるのは、木曜日と日曜日だけ。その日以外は部屋にも入っちゃダメ。
私を縛る絶対のルール。
だからどんなに嫌な事のあった日でも、こうやって誰にも気付かれないよう遠くから眺めるだけで我慢しなきゃいけない。
……けど、今日はそれすら出来ない……。
左手の時計は、刻々と夕食の準備…『仕事』が迫っていることを伝えてくる。

「……せ…んせぇ……っ、んぐっ。
何があったんですか?どうして帰ってきてくれないんですか?
会議ですか?学校で何かあったんですか?……またあの人ですか?」

か弱い泣き声は、空しく星空に消えていく。

こんなとき携帯を持ってれば。そう何度も思った。電話やメールでいつだって先生の事を確認できるのに。
でも、あんなに沢山頑張ってるふたばが我慢してるんだ。なんのアルバイトもしていない私が、そんな我がまま口にできるわけがない。
……それに、学校での事だってある。
日直で、委員会で、学校行事で、男子たちは事有るごとに私の番号を聞いてくる。
あんまり親しくない男の子に、いきなり電話やメールをされるなんて心臓に悪いし、上手く返すなんて私には絶対無理に決まってる。
『私は持ってないんだ』って答えるのが1番楽で確実だ。

「…………やっぱり私は、ひとりが1番楽な子なんだよね……」

まぶしいけど、あったかいけど、嬉しいけれど、ふと気付くと片隅に『ほっといて』と拒絶する小さな私が居る。
壁に隠れてひとりで哂う女の子を見つけるたび、結局私はみんなみたいになれないんだって思い知らされる。

「ずっ…ふっ……。
…帰らなきゃ……」
涙と鼻水をハンカチで拭い、なんとか足をアスファルトから引き剥がす。
みんながお腹を空かせて待ってるんだから……。


男の子も、友達も、家族も。
みんなもっと私をほっといて。

私は、先生が居てくれればいいんだよ。