酷く疲れていた。
ここは、そう、あぁ、そうだ、家の前だ。もう、帰らないと…。
「ギャッ、ひとは、あんたどうしたの!」
みっちゃんが何か言っている。私がどうしたのというのだろう。
何も無いハズなのに…。無言の私に更に声をかけてくる。
「ちょっと、ホントどうしたのよ」
「何でもないよ、何も、なかったよ」
「何でもないワケないじゃない!」
ごめんみっちゃん、私、疲れて――――

「ひとは、ちょっと、ひとは!」


――――――――――――

気がつくと私は布団の中だった。
「あ、ひと!良かった、気がついたっスね!」
ふたばが私を覗き込んでいる。あぁそうか、私は倒れて…。
「みっちゃーん、ひとは、目を覚ましたっスよー!」
そういえばみっちゃんは何をしているんだろう。

「もー、やっと起きたのね。ほら、これでも飲みなさいよ」
そう言って出してくれたのは暖かいお茶。
そのあまりの温かさに、私は泣いていた。

「ちょ、ちょっと。どーしたっていうのよ、ホント」
「みっちゃん、ありがとう。でも、言えない」
「言えないってどういうことよ」
「ごめん、ほんとにごめん…」
折角の優しさに触れながら、思い出すだけでも苦しい現実を言葉にできない。
あの光景を思い出すだけでも私は、また―――。

「はぁ…」
みっちゃんは大きくため息をついたあと。
優しく私を抱きしめた。

「もういいわよ、落ち着くまで横になりなさい」
「…ありがとうみっちゃん」
「ひと、ほんとに大丈夫っスか…?」
「ありがとう、ふたば…今は、一人にして」
「…じゃあ小生、ちょっと外に出てるっス…」
そして私は世界から目を閉じる。


――――――――――――

ひとはちゃん、来ないな…。
いつまで経ってもこないひとはちゃんを気にしながら、それでも僕はただ待っていた。
もしかして―――最悪の現実を考えながら、それでも都合のいい現実を信じていた。

ドンドンドン!
「ちょっと、開けなさいよ!」
「どぅわっ!?」
いつもと違う声が部屋の外から聞こえる。

「ど、どうしたの、みつばちゃん」
「どーしたもこーしたもないわよ!矢部っち、アンタひとはに何したのよ!」
みつばちゃんが血相を変えて怒鳴っている。

「何もしてないよ」
そう、何もしていない。僕は何もしていないんだ。

「嘘つかないでよ!あの子、酷い顔で帰ってきたんだから!どれだけ心配したと思ってるのよ!」
ひとはちゃん、やっぱり君はアレを見たんだね…。でも、それよりも
「ひとはちゃんは大丈夫なの?」
「大丈夫なワケないでしょ!あの子泣いていたのよ!」

―――え

「ボロボロで帰ってきて!倒れて!泣いて!ここで何かあったと思うでしょ!」

―――え

「ちょっと!何かいいなさいよ!」
僕は何もしなかった。ひとはちゃんが来るのを分かっていながら、何もしなかった。
自分に言い訳をしながら、それでも快楽に負けて。
そして、僕の家に来てくれる女の子を、ひとはちゃんを泣かせた。
そんな現実すらも考えていなかった。

「ごめん、みつばちゃん」
「私に言ってどーすんのよ!」
その通りだった。この言葉は、僕の家にくるはずだった女の子に言うべき言葉だ。

「ていうか何があったか教えなさいよ!私はひとはが泣いた理由を知りたいのよ!」
「ゴメン、それは絶対に言えない」
「何よ、言えないようなことをしたワケ!?」
「違う、違うよ!」

何もしていないからこうなったんだ。だから。
「ひとはちゃんに会いに行くよ」
僕は話すことはできる。伝えることもできる。
「何言ってんのよ!元凶に会わせられるワケないでしょ!?」
それはそうだろう。でも、引くわけにはいかない。
「それでも、言わなければならないんだ」
「――――。普段の矢部っちを信じて聞くわ。ひとはに乱暴はしていないのね?」
絶対にそんなことはしない。
「してないよ」
「そう、じゃあ行くわよ」


――――――――――

みっちゃんたちが出ていってからどれくらいの時間が経ったのだろう。
私はあの部屋の合鍵を取り出し、見つめる。
私とチクビと…先生だけの部屋。チクビに会うためだけに作った鍵。
先生と会うこともできる鍵。先生と、私だけが持っている鍵。
その大切な鍵は、今はひたすらあの幻影を私に見せ付ける。
私はチクビに会っている、ただそれだけだったのに。
今朝見た現実は、私のそんな言い訳を剥がすのに十分だった。
『受け入れていた』
横になっていただけ。それでも何もしないということは…そういうこと…。
それでも―――本当に寝ていただけなのかも知れない。
そして先生が私に会いにきて、事実は違うんだ、また来てと言ってくれる、そんな幻想を夢見ていた。
私は自分が思っているよりも、乙女なのかもしれない。そんな考えに少し自嘲する。
それもこれもこんな鍵を持っているせいだ。
そんな自分に嫌気が差し、そして私はそれを放り投げた。
部屋の扉にあたり力なく転がる、鍵。今はもう見たくもない。私はそれに背を向けた。

ドタドタドタ…ガチャ
少し騒がしく部屋の扉が開く。ふたばだろうか。
「――――ひとはちゃん」
現実は、私が思っている以上に乙女チックなのかもしれない。


――――――――――
「ひとはちゃん」
そこには臥しているひとはちゃんがいた。そして、転がっている僕の部屋の合鍵。
それを見た僕は、自分のやらなかった事の重さを理解する。そしてその重みを拾い上げる。

「何しに来たんですか、節操なし」
ひとはちゃんはつっけんどんだ。当然だ、あんなのを見て普通に返せる子なんていないだろう。
「ひとはちゃん、聞いて欲しいことがあるんだ」
「何をですか、今朝の言い訳ですか」
「そうだよ」
ひとはちゃんが凄い目で見てくる。そりゃそうだ、誰だって言い訳などと言われて納得などしない。
それでも今から僕が言うことはどうしようもなく言い訳で、それでもひとはちゃんに伝えたいことだった。
だから僕は、そんな目で睨んでくるひとはちゃんを、真剣に見つめ返した。
「聞いてよ、ひとはちゃん」
そして僕は松岡さんから聞いた、コトに及んだ原因と、自分が何もしなかったことの言い訳を話す。


――――――――――

「…松岡さんらしい、ですね」
「…うん」
「先生…」
「ごめんね、ひとはちゃん。僕は現実が受け入れられなくて何もしなかったんだ。
君が来るって分かっていたのに。僕は止められなかったんだ」

先生が謝っている。私に悪いことをしたと、そう伝えてくる。
けれど、そうじゃない。私はご都合主義という言葉に感謝さえしていた。
先生は少なくとも望んでいない。それだけで今の私に起き上がるだけの元気をくれる。

「先生はほんとにダメダメですね。何ですか、鍵をかけ忘れるって」
「申し開きのしようもない…」
「大体、生徒がおかしなことしていたら止めるのが先生でしょう?」
「はい…」
ほんとに情けない先生だ。いつもの先生だ。私の先生だ。

「また同じことがあったときはどうする気ですか」
「止めるよ!絶対止める。
それでひとはちゃんを泣かして、ひとはちゃんが来なくなるなんて今更考えたくもないから」
そう言って先生は拾い上げた鍵を私の手に置く。
「都合のいい事を言っているのは分かってるよ。それでもまた、来てくれないかな」
だったら――――

「先生、私はこの鍵を見るたび、あの光景を思い出すんです」
そう、あれはどうしようもなくこみ上げてくる光景だ。きっと合鍵を見るたびに思い出す。
「それについては本当にごめん」
「謝ってもどうしようもないんです。私はあの光景を忘れたいんです」
それでも忘れたい、できるなら無かったことにしてしまいたい。でも、それは叶わないから。
「えっと……どうすれば」
「私にも、同じことを」
叶わないのならば、それ以上の思い出で上書きすればいい。
「え…えぇっ!?」
先生が動揺している。きっと、先生は真面目だから。けれど、もう事実は変わらないから。
だから、どうしても。
「私に見せた光景。あの光景を、私にしてください」


―――――――――
…ありのまま今起こったことを話すわ!
妹を泣かせた原因を謝罪に向かわせたら、愛し合っていた。
何を言ってるか分からないと思うけど、私にも何が起こっているのか分からないわ!

っていうかほんとに分かんないわよ!なんでこんなことになってんのよ!
一緒に帰ってた矢部っちは、私がひとはがまだ泣いてるかもって言ったら、勝手に走り出して!
それで何があったらこんなことになるのよ!単なる痴話喧嘩だったわけ!?
必死に心配した私の立場はどーなるのよ!
はぁ…もういいわ、杉崎でも誘って遊びに行こ…。


―――――――――

みっちゃん、ありがとう…。みっちゃんはほんとは止めたかったんだと思う。
けれど、私が真剣に喜んでいたから。だから、きっと何も言わないでいてくれた。
私はみっちゃんの優しさに感謝しながら、それでも先生を求めるの止めない。
そして、先生に求められるのを拒まない。
求め合っている、そんな事実がどこまでも私と先生とを一つにしてくれた。


―――――――――
「先生…」
コトの終わった私は、何度繰り返したか分からない口付けをもう一度先生と交わす。
私と先生はもうほとんど動けそうになかった。

私は、近くに置いていた合鍵をもう一度見つめる。
胸は疼く。まだあの光景は残っている。それでも、それは霞んで見えた―――。


おしまい

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最終更新:2011年02月25日 21:40