或る二人の夜:12スレ目806

 俺は勉強をしていた。
 参考書を片手に、頭を悩ませながら一つ一つ、難題を解いていく。
 わざわざ幼馴染に聞かなくても、殆どの問題が解けるようになっていた。

 ……別に誇るようなものでない事ぐらい、分かっている。
 寧ろこの時期に全然問題が解けないようじゃ、アウトなんだから。
 しかし、あの一人暮らしを経て、俺は確かに成長したんだと思う。

 以前の俺なら、直ぐに勉強に飽きて雑誌を片手にベッドで転がっていても可笑しくない。
 A判定を取った事に調子乗って、サボり始めている頃合いだっただろう。

 だが、今の俺は違う。
 ごくごく自然に勉強しなきゃと思い、特にスケジュールを組んでる訳でもないのにこうやって勉強をし続けている。
 俺の中に、勉強という習慣が確かに根付いているのだ。

 ふぉおおおおおお! 神ゲーキタコレ!!

 勉強というのは分からないとただの困難でしかないが、分かるようになってくると割と面白くなってくるものだ。
 昨日まで分からなかった場所が、今日は分かるようになっていたりする。

 ふひひ、カナちゃあん。ほらほら、照れないでよぉ。

 そういう点じゃ、勉強もゲームと似てるかも知れないな。

 あ、そういう事言っちゃう? もう、カワイイんだからっ。

 そう、実に可愛くて……

「っておい!」

 参考書から顔を上げて、桐乃の部屋の方へと向く。

「何騒いでんだ、桐乃! おまえ、俺が戻ってきた事忘れてんじゃねえだろうな!」

 俺が居ない間はさぞかし、楽園の様に人目憚らず過ごせただろうが、今はそうは行かねえぞ。

『あ、そうか。あんた居たんだった』

 本気で忘れてたのかよ! おい、泣くぞ! 俺泣くからな!
 くそ、必死こいて勉強して戻ってきたと思えばこれだ。
 勝手に部屋は改造されてたりするし、戻ってこない方が良かったんじゃねえの?

 ……まあ、いい。これで桐乃も少しは静かになるだろう。
 再び参考書に目を落とし、次の問題へと取り掛かる。

『お、お兄ちゃん。だ、駄目だよそんなことっ!』

「いや、駄目なのはてめえだっ!! つか、俺が要望したのは静かにしろって事であって、ゲームのボリュームを上げろって事じゃねえ!」

 近所に聞こえてたらどうすんだよ! 真っ先に疑われんの俺なんだぞ。

 はぁ……。ったく、ホント、なんで帰ってきたんだろうな、俺。



 何だかんだで邪魔が入りつつも、受験生として3時間程勉強をしていた所で、外からする音に気付いた。
 そういや、今日は暴風雨だとか言ってたな。台風よりは酷くねえんだろうけど。

 チラと窓から外の様子を見てみる。
 …………。
 台風さながらの荒れ模様だった。

「げげ……不味いかもな」

 今日は、親父もお袋も親戚の法事だとかで二人とも留守をしている。
 恐らく妹は外の様子に気付いてないだろう。
 あいつはあれで結構怖がりだから、外の荒れ模様を知ったらあんな騒がしくゲームに没頭なんて出来ないだろうからだ。

 つまり、この家の安全は俺に掛かっているという事だ。
 仕方ねえ。雨戸でも閉めに行くか。
 そう考えて参考書を閉じて、立ち上がろうとした所で、ゴウッ、と家を揺らすような突風が外を吹き抜ける。
 そして、プツ、と視界が闇に染まる。

「……またかよ」

 停電だ。そして、この家の停電はそう珍しくない。確か、一、二年ぐらい前も停電があった。
 あの時も確か、桐乃と俺の二人きりだった。
 あの頃は今よりずっと仲が悪く、無視しあってる関係だった。
 あれから、大分変わったよな、関係。

『ちょっと、ロード長くない?』
「おまえは現実に帰って来いっ!」
『あれ、なんでこんな暗いの?』

 今頃気付きやがった。どんだけ集中してゲームやってんだよ。

『ちょ、ちょっとあんた! い、居るんでしょ?』

 …………。
 少し悪戯心が働き、黙ってみる。

『な、何黙ってんのよ』

 …………。

『め、眼鏡を掛けたまま――』
「うおおおおおおお! 居る、俺はここに居るぞ!」

 ま、まだ覚えてやがったかこの女! いい加減忘れろよ!

『ね、ねえ、これ停電?』
「ああ、そうだろうな」
『そ、そうだろうな、じゃなくて何とかしなさいよっ!』 

 イラッ、おまえが質問してきたから答えてやったんだろうが。
 ったく。

「わーってるよ。今から下に降りてブレーカーとか見てくっから待ってろ」

 こういう時に備えて机の中に常に懐中電灯が入ってるのだ。
 どうよ、この俺の防災意識。偉くね?

 懐中電灯の明かりをつけて、早速下に向かう事にする。
 部屋を出ようと扉に手を掛けた所で、声がした。

『あ、あんた、行っちゃうわけ?』
「そりゃ行かねえと見れねえだろ」

 まさかこの場に居ながら見ろなんて言わねえよな。
 黒猫みたいな闇の力なんざ俺にはねえからな。

『あ、あたしも行く!』
「? なんで?」

 せっかく俺が見に行ってやるって言ってるのになんで付いてこようとすんだ?
 いつもみたいに偉そうに待ってりゃいいのに。

『うっさい! いいから! あたしも行くの!』
「へいへい。じゃあ勝手に付いて来いよ」

 まあ、どっちでもいいしな。俺の行動は変わらねえし。

『む、迎えに来てよ!』

 ……。どうやら、行動を変えざるを得ないようだ。


 桐乃を迎えに行ってやり、そして下へ。
 途中、階段で桐乃に突き飛ばされそうになりながらも、無事降り切り、ベランダの雨戸を下ろす。

「なんで俺を突き落とそうとすんだよ。俺、何かしたか?」
「ちがっ! あたしはその、掴もうとしただけで……」
「掴もうとしただけでなんで突き落とす事になるんだ?」
「ちょっとイラッときて」
「なんでだよ! 意味分からねえよ!」

 こいつの兄貴をもう何年もやっているが、相変わらず思考が読めねえ。

「うっさい! と、とにかく次はブレーカーでしょ。ほら、先進んで!」

 …………。
 いらっと来たから桐乃に仕返ししてもいいよな。
 カチ、と懐中電灯の電源を切ってやる。
 途端、辺りは完全な闇に包まれた。

「……ッ!!」

 桐乃が慌てる様子が分かる。ふっふっふ、懐中電灯を持っているのは俺ひとり。
 この部屋を暗くするも明るくするのも俺次第という訳だ――

 ガスッ!

「がっ!」

 こ、こいつ、暗闇の中で正確に俺の足を蹴ってきやがった!
 いや、違う、これは金的狙い。恐ろしい奴、あと数センチずれていたら、死んでたぜ……。

「あ、あんたねぇ……!」

 暗闇の中で聞く桐乃の怒声は中々どうして迫力があった。

「わ、悪かったって。そこまで怖がるって思わなくてよ」
「こ、怖がってなんかないしっ!」

 ……どこが?
 さっきから俺の服の裾をしっかりと掴んでるし、不安げな表情を浮かべてたし、つまりは怖がっているって事だろ。
 部屋で一人で残リたがらなかったのも、一人で居るのが怖かったからだろうし。

 しかし、ここで追求しても面倒臭いだけだ。適当に納得してやる。

「へいへい、分かったよ。おまえは、怖がってない。俺なんて居なくても一人で解決出来ただろうよ」
「…………」

 俺がせっかく納得してやったのに、桐乃は黙り込んだままだ。
 ったくまだ不満があるってのか?

「…………から」
「あん? 何か言ったか?」
「……何でもないし」

 相変わらずよく分からねえ妹様だ。
 まあ、いい。そろそろ懐中電灯の電源を入れてやる事にしよう。

 カチ。
 あれ?
 カチカチ。

「……何してんの?」
「いや、懐中電灯つけよーとしてんだが点かねえんだよ」
「ど、どうして?」
「んー、電池でも切れたのかね?」

 もしそうだとすると、少々厄介だ。
 なんせ、全くの暗闇。この中で新品の電池を探しだす事は困難だ。

「どうすんのよ?」
「と言われても……どうしよう」

 どうしたものか。
 何か接触不良を起こしてる可能性を考えて、懐中電灯を振ったり、軽く叩いてみる。
 だが、一向に電源が入る様子がない。

「さっきまで普通に点いてたじゃん。電池が切れてって、いきなり消えるもんなの?」
「うーん、どうだろうな。懐中電灯が消えるシーンなんてそんな遭遇しねえしな」
「ちっ……使えない奴」

 うっせえな。
 そもそも今回の停電において、おまえの方が全く役に立ってないからな。

 しかし、こんな真っ暗闇で桐乃と喧嘩をしてもメリットがあるとは思えない。
 寧ろデメリットだらけだ。ここは、協力して事にあたる必要があるだろう。

「そんで、おまえは何か良い案はねえのか?」
「はっ? ここで妹を頼る、フツー」

 いや頼るだろう。何、トラブルは兄が全て解決しなくてはいけないみたいなルールがあんの?
 悪いが、おまえの兄はそこまですげえ奴じゃねえぞ。

 ぶつくさ文句を言いながら、しかし桐乃は何か良い案がないかを考えているようである。

「……あ、そうだ。ふふん、いいこと思いついたから感謝しなさいよね」
「感謝するかはそのいいことってのを聞かせて貰ってから決める事にするぜ」
「あんたって面倒くさいよねー」

 おまえに言われたくねえよ!

「で、どんなことを思いついたっての?」
「聞きたい?」
「……聞かせろよ」
「もうしかたないなー。そんなに聞きたいってなら、教えてあげなくもないケド」

 うざっ!
 しかし、耐えろ俺。ここで怒ったりした方が事態がややこしくなる事を学べ。

「聞きたいです。いいから早く教えろっての」
「ちっ、なによその態度。まあ、イイケド。教えてあげる」

 暗闇で表情は見えないが、どんな表情をしているかは分かる。
 ムカツク表情だ。

「こんな時の為に、あたし、ケータイにライトのアプリインストールしておいたのよね」

 用意周到でしょ、と桐乃がふんぞり返っているのが気配で分かる。
 ライトのアプリというのがよく分からないが、懐中電灯代わりになる機能があるって事だろう。

 つか、考えてみればそんなアプリが無くても携帯つければそれなりの光源になるんじゃね?
 くそ、安易に光源イコール電球と考えてしまっていたぜ。こいつは桐乃を馬鹿に出来ないな。
 ま、するんだけどな。

「なるほど、桐乃。実に素晴らしい意見だ。さて、そういうからには今手元にはおまえのiPhoneがあるんだよな? さあ、出してくれ」
「え、あるのあたしの部屋だけど」

 ……さて質問です。
 今、俺達はどこにいるでしょうか。
 そう、一階のリビング。ベランダの辺り。

 ここから光源もなしに桐乃の部屋まで戻るってのはちょっと厳しいよな。
 勝手知ったる我が家とはいえよ。

「いいアイデアではあるけどよ、そもそも部屋に戻る事自体が難しいだろ。
 それするぐらいなら、ここでおとなしく電気が点くまで待っておいた方が良くねえか?」

 慎重に進んでいけば、部屋まで辿り着く事は可能だろう。
 しかし、リスクは高い。誤って花瓶とかを落としてしまいかねないし。
 こういう時の行動が新たな二次災害を生む事というのは往々にしてあるのだ。

「て、停電が直るとは限らないじゃん。そしたらどうするわけ?」
「そんときは、朝まで待てばいいだろ。朝になりゃ明るくなんだからさ」
「あ、あんたと一緒に一晩過ごせって?」

 そんなに嫌そうな声で言うなよ。俺だって別に望んじゃいねえんだしよ。
 つか、前に一緒にエロゲーやって一晩過ごさなかったか?

「嫌だってなら、頑張って一人で自分の部屋まで戻ってみせるんだな」
「…………」

 俺の言葉に、桐乃は黙りこむ。
 実際、怖がりだから桐乃が一人で行くなんて事はしないとは思うが、同時に負けず嫌いなので、行くとか言い出す可能性はある。
 その時は覚悟を決めて、俺が取りに行くしか無い。

「……わかった」

 しかし予想に反して、桐乃は素直に頷いた。

「良いのか?」

 自分で言っておいてなんだが、余り名案とも思えないぞ。他にもいい手がある気がするんだが。

「……別に、あんたと一晩過ごすの、嫌じゃないし」
「…………」

 桐乃の言葉に、少し俺の頬が赤くなっているのが分かる。
 暗闇で良かった。これなら俺が照れてるのが見られる事は無いだろう。

 しかし、桐乃からこんな言葉が聞けるなんてな。前の停電の時とは大違いだぜ。

「そんじゃ、取り敢えず座るか」

 大体の位置は分かっている。先ほどまで見えていた訳だしな。
 あたりをつけて、その部分に手を伸ばすと思い通りの手応え。ソファはここにある。

「ほれ、桐乃。ここにおまえがいつも座ってるソファがあんぜ? 座れよ」
「……あんたはどこに座るわけ?」
「俺もいつも座ってる一人がけのソファに座るよ」

 兄妹とはいえ、余り密着されたくもないだろうしな。
 最悪、一晩過ごすとなるとここで眠る可能性もある。
 その時、二人がけのソファで一人の方が桐乃も眠りやすいだろうという考慮だった。

「あ、あんたも」
「あん?」
「あんたも一緒に座りなさいよ、このソファーで」

 しかし俺の気遣いに反し、桐乃はそんな事を言ってくる。

「いや、でもな?」

 俺が仕方なしに気遣った部分を説明してやろうとする前に、桐乃の言葉が割り込んでくる。

「あんたが何を考えているか、それは分かってる。その事には感謝してるケド。でも、あんた、決定的な事を忘れてない?」
「決定的な事?」

 つか俺の気遣いに気付いてたのか。

「……今の季節を考えなさいよ。そして停電って事は、暖房も使えないわけ。
 さっきまで暖房つけっぱだったから、今はここまだ温かいケドさ。これからどんどん冷えてくんでしょ?
 それだったら、例えあんたでも近くに居たほうが暖房代わりになるってワケ。分かった?」

 ……なるほど。
 考えてみればその通りで、寧ろそんな単純な事すら思いつかなかった自分が恥ずかしくなる。

 となると、この案ももう一度一考してみた方が良さそうだな。
 確かに近くに人がいればそれなりに温かいが、冬の厳しさを乗りきれる程ではない。
 桐乃はそれを覚悟しているようだが、それで風邪を引かれても困る。

 去年も桐乃、風邪引いちゃってたしな……。

「悪い、考えが足りなかった。確かに、寒くなっちまうな。やっぱ俺、2階行ってくるわ。
 おまえの部屋のiPhoneじゃなくても、俺の携帯でもそれなりの光源にはなるだろうしな」
「はぁ? なんでそうなんのよ。あ、あたしが大丈夫って言ってんじゃん。いいからここに居なさいって」
「いやけどよ、絶対寒いって。風邪引いちゃ溜まったもんじゃないだろ」
「…………」

 桐乃は黙りこむ。納得した、という事か。

「とりあえず桐乃は、ここで座って待ってな。ちゃんと戻ってくるから安心しろ」

 何か起こるか分からない。花瓶とか食器とか落とした時、怪我するのは一人で充分だ。
 また桐乃が置いていかれたとか不安がる可能性も考えて、戻ってくる事も強調した。
 これで桐乃が俺を止める事は無いだろう。

 ソファに桐乃が座った事を確認した後、大体の目星をつけて、リビングのドアを目指そうとした所、俺を止める手があった。

「桐乃……、裾を掴まれてると行けないんだが?」
「あ……ご、ごめん」

 桐乃は謝るものの、裾を離そうとしない。
 なんだ、まだ納得してないってのか?

「どうした、まだ何か不安なのか?」
「…………」

 俺の質問に対し、桐乃は応えない。真っ暗で見えないが、恐らく俯いているのだろう。
 暫し待ってみるが、黙りを決め込んでしまっているようで、言葉が発される事がない。
 いっそシャツだけ脱いで行ってやろうか、だなんて考えていたところ、漸く声が聞こえた。

「…………さいよ」
「あん? なんだって?」

 小さすぎて、桐乃の声が聞き取れない。ただ俺の返答にムカっと来たのか、桐乃が顔を上げている気配がする。

「あんたがあたしを温めればいいでしょ、って言ったの!」
「……温めるって、どうやって?」

 なんだ、俺には実は手から炎でも出せる能力でも備わってるとでも言うのか?

「……ッ! ~ッ! あ、あんたってホント……ッ!」

 俺の疑問が桐乃は気に食わなかったらしく、声に怒気がはらむ。
 しかし怒られたって分からないものは分からないんだから仕方がなくね?

「あ、あんたが、あたしをその……、だ、抱きしめたりすればいい、でしょっ!」

 …………。
 今、なんつった?

「わ、悪い。桐乃、よく聞こえなかった。なんか、俺が桐乃を抱きしめろ、なんて事が聞こえた気がするがああ分かってる、これは俺がシスコンだからだな。悪い悪い、でもう一回言ってくれ」

 そんな提案を桐乃がする筈がない。幾ら兄妹って言ったって、流石にそういう事はNGだろう。
 しかし、桐乃は暗闇の中で俺の胸ぐらを正確に掴むと、恐らくは至近距離でこう言った。

「あ、あたしを抱けって言ってんのっ! 
 ほ、ほら、冬山で遭難した人が、お互いの体温で乗り切ったりするの映画とかで良くあるでしょ!?
 あれよ、アレ!」

 ……言わんとする事は分かったが、桐乃、それニュアンス変わってるからっ!
 まるで性的な要求をしているように聞こえるぞ、それ。

 そうだったら、断るけどな。
 つか、抱け……抱きしめろって、それもかなりどうかと思うぜ?
 普段から兄妹だから、と連呼している俺だが、流石に抱き合うのはどうなんよ?

 いや、でも海外では結構家族で抱き合ってたりするし、そんな問題行為じゃないのか?
 海外に留学してた桐乃にとっては、そこまで問題じゃない提案なのか?

 そうだとすると、ここで俺が狼狽するのは違うか。つかまるで俺が意識しているようになってしまう。
 ここは、兄として毅然とした態度で答えるべきだろう。

「分かった。
 あれだな、肌と肌で暖めあう、人肌って温かいね、的なああいう温め方をすればいいんだろ?
 ふっ、俺に任せろ!」
「な、なんか嫌らしい想像してない?
 間違えてないけど、あんたの表現だとまるでエロゲのワンシーンみたいなんだけど……」

 心外だな。超絶クールに答えたつもりだったんだが。
 そんな妹の不満を聞きながらも、俺は桐乃の座るソファにどかっと腰を落とす。
 今でもまだ2階に行ったほうが賢明な気がしている。
 でも妹が裾を離してくれないんだから、選択の余地なんてないのだ。

 隣に座る桐乃に、腕を広げながら言ってやる。

「ほら……、来いよ」
「…………キモ」

 うん、俺も思った。
 し、仕方ないだろ、いい台詞が思いつかなかったんだからよ。
 兄が妹を抱きしめる時に、どんな台詞を言えばいいんだよ。

 桐乃が長く息を吐き、頬をぱちぱちと叩いている音がする。
 なんかこれから試合にでも挑むかの様な気合の入れ方だ。
 そして、

「お、おじゃまします」
「ど、どうぞ」

 恐る恐るといった感じで俺の腕の中に入ってくる桐乃。

 うあ……、なんか知らねえがすげえ緊張する。
 相手の姿が真っ暗で見えねえけど、体温が空気を通して伝わってくんだよ。
 そして息遣いで、お互いの近さが分かる。

「い、行くぞ?」
「ど、どうぞ」

 そしてゆっくりと腕を桐乃の背中に回していく。

「ひゃ、へ、変なとこ触んないでよっ!」
「わ、悪い」

 背中にある変なところってなんだよ……?
 羽根でも生えてんのか?

 そんな感じで慎重に桐乃の背中に腕を回す。
 ぎこちない感じは残るが、これで抱きしめた形にはなるだろう。

 ……、なるほど、これは温かいわ。
 まだ部屋の温度がそこまで下がってないので確信は持てないが、このまま部屋が冷えきっても充分暖かさを確保できそうである。

 それで俺的にはもう目的を達した気がしていたのだが、腕の中の妹様から不満気な声があがる。

「ちょ、ちょっと。もっと、力を入れなさいよ。まだ……寒いんだから」

 ち、力と言ってもな。確かに現状だと腕は添えるだけ、みたいな力の入れ加減なのは認める。
 けど、なあ?
 桐乃の身体が余りに細かったんで、これ以上力を篭めると折れてしまいそうだったから、なんて言えねえよな。
 なんかエロゲっぽい台詞だしさ。

「ち、ちっ、仕方ねえな。こ、これでいいか?」
「う、うん。いい感じ、カナ?」

 妹にご納得頂けて、心の中で息を吐く。
 これ以上に力を篭めろと言われたらどうしようかと思ったぜ。

 俺の胸に、その、柔らかな膨らみを感じて、こうなあ?
 べ、別に意識してる訳じゃないけどさ。その、まあ、そういう感じでさ。

「…………」
「…………」

 お互いが沈黙。
 目的は達した訳だし、確かにこれ以上に会話を続ける必要はない訳だが。
 何だか非常に気まずい。
 真っ暗闇でお互いの息遣いの音しか聞こえないなんて……。
 否が応にも色々と意識してしまう。

 くそ、なんでこいつ、こんないい匂いすんだよ……。

「……ねえ?」
「は、はいっ!」

 そんな事を考えていたタイミングで、声を掛けられたので少し声が上擦ってしまう。
 やべえ、桐乃に文句言われちまう、と覚悟したが、続いた言葉は俺への文句じゃなかった。

「この体制だと、その、眠りにくくない?」
「……ま、あ、そうかも、な?」

 確かに暖かくはあるが、お互いが座った状態で抱きあうというのは、どうしても不自然な態勢になってしまう。
 この状態で寝れるかと言われると中々厳しいものがあった。

「……じゃあ、やっぱ違う手を考えるか」

 正直に言うと、少し、本当に少しだけ名残惜しくはあったが、この体制で一晩は厳しいしな。
 俺がそう言うと、桐乃は俺のシャツを掴んで、

「そ、そうじゃなくて。その、あんた、後ろに倒れられない?」

 と要望してきた。
 後ろに? ソファで仰向けになる感じにか?
 そりゃ、出来なくはない。このソファ、横に長いしな。
 桐乃だって普段はこのソファの上で横になってたりする。

 しかし、それじゃあ桐乃がソファに乗れなくなってしまうだろ。

「大丈夫。とにかく、ほら、倒れて」

 そんな俺の疑問を察したのか、桐乃はそう返すと俺に倒れる事を要求した。

 やれやれ、とりあえず倒れてみるか。……無理だと思うんだがな。
 後ろに倒れてみせると、体勢の関係上、下半身もソファに載せないとその位置を維持できなくなる。
 それを読んでか、桐乃が俺から離れてソファから立ち上がる。

 ほら、やっぱり駄目じゃねえか、と思い、倒れきる前に行動を止める。

「いいからほら、続けて」

 しかし桐乃は俺の行動を止めさせない。
 何を考えてるんだ? まさか自分は違うソファに行くって事か?
 それじゃ寒くなるってさっき言ったばかりじゃねえか。

 そう考えながらも、行動を続ける。ソファに足も載せて、ソファの上で完全に寝転ぶ。

 ……やっぱ俺の身長じゃ、完全にソファを占領しちまうな。
 これじゃ、普通に座るどころか足一本載せる隙間がねえぞ。

 と、俺が考えていると、桐乃が恐る恐る声を掛けてきた。

「し、失礼します」

 どうぞ、とはいえなかった。脳裏に浮かんだのはどこに、だ。
 だって座る場所なんてもうねえぞ、と考えた矢先。

 桐乃が、俺の上に乗ってきた。
 足で、とか、尻で、とかじゃなく、全身で。
 言うなれば、まるで布団のように。俺に覆いかぶさってきた。

「ちょ、おまっ!」
「い、いいから。動かないで。あたしが落ちちゃうでしょっ!」

 思いの外近くから桐乃の声が聞こえる。
 つか、耳元だ。つまり、桐乃は俺の方を向いた状態で、今、俺の上に乗っている。
 さっきの密着度を大きく超える体勢。
 なるほど、確かに温かい。
 それに体勢としては寝やすい。
 桐乃も痩せてるだけあって、そんなに重くないし、眠れない事はない重量感だ。

 ……ただ、この体勢は余計に眠れねえよ。

「き、桐乃。こ、この体勢はやめようぜ? なあ?」
「……うるさい。あんたは、あたしの布団なんだから黙ってなさい」

 布団だったんだ。兄だと思ってたんだがな。
 とはいえ、先ほど頭の中とは言え桐乃を布団のようだと例えたのも自分なので、強く文句は言えない。

 ……敷布団が俺で、掛け布団が桐乃か。

「…………」
「…………」

 ……くそ、全然眠れない。つか、さっきの体勢でもそれなりに意識しちゃってたのに。
 この体勢はないわ。さっきのがレベル1ぐらいなら、これは一気にレベル10ぐらいだろ。
 抱き寄せるも何も、桐乃の体重だけの密着度が強制的に発動している訳で。

 否が応にも桐乃の身体の柔らかさとか、身体の匂いとかそういうのを意識してしまう。
 大体、桐乃はどうなんだよ。兄とこんな密着しちゃって。
 セクハラとかそういうレベルじゃねえぞ、これは。

「…………」

 しかし桐乃から文句の言葉が出てくる事はなかった。
 ま、まさか本当に俺を布団だと思ってんのか?
 なんて適応力だ。

 それから暫く時間が経って、俺が只管に悶々としていると、まだ起きてたらしい桐乃が声を掛けてきた。

「……ねえ?」
「……んだよ」
「あんたさ……、い、いい匂いするよね」

 こ、こいつは……!
 そ、そんな事をこの状況で言うなよ! 人がせっかく意識しないようにしてんのによっ!

「そ、そうか。自分ではよく分からねえけど。……そういうおまえだって」
「……?」
「おまえだって……いい匂い、してる、ぜ」

 びく、と桐乃の身体が震えるのが分かる。
 かああああ、俺も自身が赤くなっているのが分かる。
 うわ、俺なんて事を妹相手にほざいているワケ、キモい、キモすぎる。

「そ、そう」
「あ、ああ」

 先ほどの気まずさが更に加速しているのが分かる。
 俺はなんで妹とこんな雰囲気になってんだよ……っ!

「あ、あたしの匂いで良ければ……も、もっと嗅いでもいいから」
「…………」

 いや、そんな変態的な願望はねえよ!?
 な、何を言っちゃってんだ、こいつは……!

「あ、あんたの匂い……もっと嗅いでもいい?」

 ちょ、そんな変態的な願望があったのかよ!?
 そ、そんなの聞かれてもどう答えりゃいいのか、分からねえよ!?

「す、好きにすりゃ、いいんじゃね?」

 とりあえず無難な返事をしてみる。
 つかそういう返事しか出来なかった。

 だってよ、いいぜ俺の匂い、存分に嗅げ……!なんて言えないし、だからって拒否る程のものでもないように思えるしさあ?!

「う、うん」

 俺からの許可が出たからなのか、桐乃は俺の胸もとに顔を近づけてくんくんしているようだ。

 うわ、うあああ、す、すげえ恥ずかしい。なにこれ、なんなの。

「えへへっ」

 俺の匂いを嗅ぎながら、どうやら笑みを浮べているようだ。
 お、俺の妹がこんなに変態なわけがない…!
 なに、匂いフェチだったワケ? まさか、あの時の黒猫の漫画は的を射ていた!?

 く、くそ。駄目だ、今日の桐乃は何かオカシイし、このままこいつと会話を続けていると、何かが弾けそうで恐ろしい。
 寝る、俺はもう寝る! こんな精神状態で眠れるわけがないって? んなのなるようになるっ!

「……ねえ、あんた」
「…………」

 寝たふり、寝たふりだ京介。何も聞こえない、何も答えない。

「なに……黙ってんの?」
「…………」

 寝てんだよ、察しろ!

「……言っておくけど、起きてるの分かってんからね?」
「…………」

 は、ハッタリに決まってる。

「寝てる奴が……こんなに心臓バクバクしてるハズ、無いじゃん」
「…………!」

 そうだった、今、桐乃は俺の胸元で匂い嗅いでて、となると俺の心臓の音も聞こえてる可能性がある訳で。

「意識、しちゃってんの?」
「…………」

 それでも、俺は答えるわけにいかない。会話を続けたくない。黙っていれば、桐乃もいい加減諦めるだろう。

「……あたしは、意識しちゃってるよ?」
「…………!」

 こ、こいつ……!

「ねえ、京介……。あた、あたしね?」

 やめろ、何を言い出すつもりか知らねえが、ろくでもない事を言う気だろ!
 聞きたくない、だって、聞いちゃったら俺は、俺は…………ッ!

 ごうっ! と外から強い音が響いた。

 それと同時、ブォンという独特の音を立てて、部屋の灯りが点いていく。

「…………」
「…………」

 て、停電が直ったのだ。
 俺は心底安堵して、明るくなった部屋を見渡す。

 いつもの、リビングだ。
 違和感があるとすれば、俺の上に桐乃が乗っている事だが、その内、文句を言いながら身体を起こして俺から離れるだろう。
 そんときに蹴りの一つでも入れてくるかもしれないが、今の俺はそれを甘んじて受け入れるつもりだ。
 あの変な桐乃より、いつもの桐乃の方が安心するからな。

「…………」

 しかし、桐乃はどかなかった。も、もしかして停電直ったの、気付いてないのか?

「き、桐乃……? ほら、停電直ったみたいだから、離れろって。もうこんな体勢してなくて大丈夫だぞ」

 そう声を掛けてやる。
 しかし桐乃は、動かない。

 まさかと思うが、寝てるのか? さっきまで寝ぼけてたとか?
 俺がそんな懸念をしていると、その懸念を破るように、桐乃が口を開いた。

「……ってない」
「あん?」
「まだ……停電は直って、ないって、言ったの」

 は? 何を言ってんだ。蛍光灯もついたし、暖房の駆動音も聞こえる。
 実はこれが俺の幻覚だっていうなら直ぐに病院に行く必要があるよな。

「あたしは……、まだ……真っ暗で、寒くて……だから、その……」

 桐乃がもぞもぞと動いて、俺の見える位置に顔を持ってくる。
 近い、お互いの息が掛かる距離。

「その……、だから……、あ、あたしは……」

 正直、桐乃が何を言っていて、何を伝えようとしてるのか分からない。
 しかし、何かを必死で伝えようとしているのだけは分かった。

 ……全く。よく分からない、妹様だな。

「わかった。わかったぜ、桐乃。まだ、停電は続いている。辺りは真っ暗だ」

 俺はそう言いながら、桐乃の頭を撫でてやる。
 よく分からないが、そうであって欲しいと願うなら、そんぐらい要望を聞いてやる。

「だから……、停電が直るまで、俺が側にいてやる。心配すんな、ちゃんと一緒に居てやるから」
「……べ、別に……あ、ありがとう」

 桐乃の態度に、くくっ、と笑ってしまう。素直じゃないのか、素直なのか。
 そんな俺の笑いにむっとしたような表情を浮かべたが、直ぐに素直な、まるで幼い頃のような、純粋な笑顔を浮かべると、また俺の胸元へ頭を落とした。

 やれやれ。
 桐乃の頭を撫でてやりながら、俺は天井を見上げる。

 よく分からないけどさ。
 たぶん、この先もこの妹が何を考えているかなんて、分からないんだろうけどさ。

 それで良いんじゃないかと、今は思える。
 もちろん、これからもさ、桐乃は何を考えてんだーって頭を抱えてる事はあるだろうがさ。
 分からないからこそ、続けていける関係ってのもあるんじゃないか。
 分からないからこそ、分かろうと歩み寄る事が出来るんじゃないだろうか。

 だから今はいい。俺はこうやって、妹の頭を撫でて。
 それで妹がおとなしくなるのであれば。
 それは、きっと間違えてはないことなのだろうから。

 これが、答えの先延ばしであるとしても。
 先延ばしをする事で、答えまでの時間を伸ばす事ができるのであれば――。

 おわり

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最終更新:2012年12月05日 15:35
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