『アフターテイスト(エピローグ)』



ゴメン、霧切さん……

本当は分かっていたんだ。
君がボクを裏切ったりするハズがない――。
君はボクの事を忘れたりなんかしない――。
そんなの、最初から分かっていた。

あの学園で君と出会って、ボクたちはずっと一緒にいたから。
長いようで短い間だったけれど、少なくともボクは誰よりも君の近くにいたから。
君がそんな人間じゃないことくらい、ボクには分かっていた。
分かっていたハズなのに……ボクは霧切さんの事を疑ってしまった。

君はずっと、ボクの事を信用してくれていたのに。
それなのに、ボクは君を信じてあげられなかった。

君がいなくなってから、何もかも分からなくなってしまった。
今まで一緒に過ごしてきた時間を否定されたようで……苦しかった。
君が何を考えていたのか。ボクの事をどう思っていたのか。
君の心が見えなくて、ボクは疑心暗鬼に陥ってしまった。

君にとって、ボクは只のクラスメイトだったのかな――。
別れを惜しむ必要もないような人間だったのかな――。
友達だとか仲間だとか思われて、本当は迷惑してたのかな――。
本当はボクの事が、嫌いだったのかな――。
ボクの事なんて、忘れてしまいたかったのかな――。

そんなありもしない――嘘みたいな話を、ボクは本気で考えてしまった。

小さな疑念が黒ずんだ染みのように広がっていくみたいだった。
君の事を信じたくて……否定すればするほど、おかしな不安ばかりが募って……
一度考えてしまったら、怖くて、怖くて……落ち着かなかった。

――それからはもう、必死だった。

『バカね』と笑い飛ばしてほしかった。
『そんな訳ない』と否定してほしかった。
『ずっと忘れない』と《約束》してほしかった。

――霧切さんに会いたい。会って、話がしたい。

それだけを考えて、ただひたすらもがいてた。
周りも見えなかった。心配してくれる声も、同情するような視線も全部無視してきた。
なりふり構っていられなかった。クラスの皆を傷付けて、裏切ってきた。
皆といると、君のいない教室を当たり前のように受け入れてしまいそうだったから。

でも、そうやって誰もボクの傍から居なくなって――ようやく気付いた。

ボクは君の事を考えているつもりで、結局自分の事しか考えてなかった。
君に会う為だから、なんて言い訳をして……何もかも君の所為にしていた。
ボクは自分勝手で、卑怯で、臆病で……最低の人間だった。

ボクは皆と――霧切さんと過ごしたあの頃とは違う自分に気付いてしまった。
あの頃と比べて、今のボクは誰にも――ボク自身にすら受け入れられなくなってしまった。
ずっと君を追いかけていたつもりで、ボクは引き返せない所まで離れてしまっていた。


……本当は、君に会いに来てもいいような人間じゃないんだ。
会ってしまえば、霧切さんの事も傷付けてしまうから。
皆にしてきたように、君の心も踏みにじってしまうから。

だからボクは……これで最後にしようと思った。
君に会って、話をして、《約束》だって果たせたから。
今までずっと、みっともなく引きずってきたこの気持ちを終わらせるよ。
今度こそちゃんとお別れして、君の事、諦めさせてほしい。


だけど、その前に……お願いがあるんだ。



……



「……ボクの事を、忘れないで」

声の震えを押さえ込むように。

「今日会ったボクじゃない。君と過ごした――君の知ってるボクを、どうか忘れないで」

彼は、はっきりとそう言った。

「そうしてもらえたら、きっとボクも救われると思うから……」

彼のいう《ボク》とは、いったい誰を指しているのか。
まるで故人を惜しむような沈みきった口調がその意味を物語っていた。

「…………ちょっと待って、苗木君」

だけどそれは、私には到底認められない話だった。

「今私の前にいる貴方が、まるで私の知ってる苗木君とは別人みたいに話してるけど……」
「貴方は確かに、私の知ってる苗木君よ。あの日からずっと変わらない、苗木君のまま……」

私の言葉に、彼は俯いていた顔を上げた。

「何……言ってるの……?」

驚きと戸惑いに満ちた表情が、次の瞬間には怒りの薄膜によって覆われた。

「霧切さん……ボクは言ったよね? 同情なんかしてほしくないって」
「同情なんかじゃないわ。だって、それが紛れも無い真実だから」
「真実って……じゃあ、ボクの言いたい事、ちゃんと伝わらなかった?」
「いいえ、そうじゃない。貴方の話を聞いた上で、私からも貴方に話したい事があるの」
「ボクに話したい事……?」
「……ねえ、苗木君。この際だから言ってしまうわ」

私は真剣な眼差しで彼の目をじっと捉えた。
隠し切れない動揺が彼の怒りの下から顔を覗かせる。

「今伝えないと……私はこの先ずっと、後悔し続けると思うから……」

びくり、と彼の肩が揺れた。
表情から怒りは消え失せて、今では怯えるような眼差しで私の言葉に身構えていた。

「私は貴方が――――苗木君が好きよ」

途端に、彼の目が大きく見開かれた。

「……ずっと貴方の事が好きだった。その気持ちは今でも変わってない」
「あの日、苗木君が告白してくれた時も、本当は凄く嬉しかった……」
「私も貴方と一緒にいたかった。お別れなんて、したくなかった……」

床に座り込んだ彼に、私は膝立ちのまま一歩詰め寄った。
感情の入り乱れた瞳が私を捉えて離さない。

「……貴方を傷付けてしまった事、許してくれなくてもいい」
「だけど……それでも私は、苗木君と一緒にいたいから……」

彼の背中に両腕を回して、強張らせたその身体に抱きついた。
右肩に頭を預け、鼓動が感じられるようにぴったりと胸を合わせる。

「だから……お別れだなんて、言わないで……」

――言った。

私がずっと心の奥底に閉じ込めてきた想い。
壊れてしまう事を恐れ、一度は逃げ出し、忘れようとさえしたこの気持ちを――
私は今になって、ようやく彼に伝えられた。

離れたくなかった。
もう二度と彼に会えないだなんて――そんなの、私は嫌だった。

「だ……駄目だよ、霧切さん……」

だけど、彼は小さく首を振った。
彼の髪が私の額や瞼を撫でていく。

「ボクはもう……君の知ってるボクじゃないんだ……」
「君を傷付けてしまうから……一緒にいたら、駄目なんだよ……」
「苗木君……」

彼は悲しそうに声を震わせていた。
拒絶する言葉とは裏腹に、彼は深い後悔を前にして嘆いていた。
寂しそうな声で、私を拒もうとしていた。

「……それは違うわ」
「…………え?」

……だから、抱きしめたかった。
彼の冷え切った心ごと全部、抱きしめたいと思った。
かつて、彼が私にそうしてくれたように――。
同情なんかじゃない、本当の温もりで包み込んであげたかった。

「貴方は私の知ってる苗木君よ。優しくてひたむきでバカ正直の……私の大好きな苗木君よ」
「ちがっ、違うんだ、ボクは――!?」
「だって、貴方はまだ失っていないから」

自分を否定する彼の言葉を遮るように、私は反論を突き付けた。

「私に伝えてくれた気持ちを、まだ失っていないから……」


――私は覚えている。

あの日、彼が私に伝えてくれた想い。
その想いを、彼は今も変わらずに持っていてくれたから。

――『ボクは、霧切さんの事が好きだよ……』
――『クラスの皆と違って、ボクには特別な物なんて無かったけれど……』
――『この気持ちだけは、誰にも負けない。負けたくないんだ……』
――『だって、この気持ちは、霧切さんがくれた《特別なもの》だから……』

今でも忘れられない――忘れたくないあの言葉を、私はずっと覚えている。

……彼は私に会いに来てくれた。
私との《約束》を大切に思ってくれていた。
こんな私を、ずっと好きでいてくれた。
誰よりも、私の事を愛してくれていた彼の事を――心から抱きしめたかった。

「……苗木君、ここまで言えばわかるわね?」

彼はあまりにも純粋すぎた。
その所為で自分が傷付くことも、苦しむことさえも厭わずに――

「……それとも苗木君は、それすらも捨ててしまうの?」
「それはっ……!」

ただひたすらに、私の事を想ってくれていた。

「捨てられるわけっ、ないじゃないかっ……!」

彼は不条理を嘆くように吐き捨てた。
抱え込んだ行き場のない怒りや悲しみに苦しんでいた。

「ボクは、君が好きなんだ……。この気持ちは、嘘じゃないんだ……」
「ええ。貴方の気持ち、ちゃんと私に……伝わってるから」
「だけど……分かってよ……」

彼は私の肩に手を添えて優しく引き剥がそうとする。
それでも私は、彼から離れるまいとより強くしがみ付いた。

「ボクはもう、傷付けたくないんだ……」
「誰に嫌われたって構わない。けどボクは……霧切さんにだけは、嫌われたくないから……」
「だから……ちゃんと笑って、お別れしたいんだ……」

引き剥がすのを諦め、駄々を捏ねる子供を諭すように彼は言った。
好きだから一緒にいてほしいのに――。
好きだけど一緒にはいられない――。
私たちの想いは同じハズなのに、どうやっても噛み合わなかった。

「……苗木君は……それで私が傷付かないと思ってるの?」
「……え?」
「もう二度と会えないなんて……貴方はそれで、私が傷付かないと本気で思ってるの……?」

抱きしめていた手を彼の肩に置いて身体を離す。
向かい合うような形で彼の顔を覗き込んだ。

「苗木君と一緒なら……たとえ傷付いても、何度だってやり直せる。私はそう信じてる……」
「でも、会えなくなったら……きっと私も、貴方と同じ傷を抱えて生きていくわ」
「離れてしまったら……その傷は、時間が癒してくれるのかさえも分からない……」

じっと彼の目を見る。
彼の瞳が、大きく揺れた。

「それは、貴方が一番よく知っているハズよ……」

――自分でも卑怯だと思う。
私を傷付けたくないと言った彼の優しさに、私は私自身が刻み付けた傷を引き合いに出した。
こんな脅しみたいな真似をしてまで、私は彼の隣にいる資格があるのだろうか。
私みたいな卑怯者が彼の隣に居座っても、彼を傷付けてしまうだけかもしれない。
それならいっそ、お互いの為にも彼の言う通りにした方が――

「…………嫌よ」
「……え?」
「絶対に、嫌……。お別れなんて、しないから……」

自分でも子供っぽい抵抗だと思った。
だけど、それこそなりふり構っていられなかった。

――私は苗木君と一緒にいたいから。

結局、私はまた自分の都合を彼に押し付けようとしている。
だけど、それでもいい。自分勝手だと思われてもいい。
ここで彼と別れるくらいなら、どんなにみっともなくても構わない。

これは彼が私にくれた最後のチャンスだから……
だから今は――今だけは、私は何処までもワガママになる。
――毒を食らわば皿まで、だ。

「『嘘も誤魔化しも同情も理屈も要らない』……そうでしょう?」
「ぁ……」
「だから、苗木君の本心を聞かせて」

彼が私に向けた言葉。
その言葉のおかげで、私はようやく私の中にある答えに辿り着けたから。
たとえ触れ合えなくても、声が届かなくても、傍にいられなくても関係ない。
……大切な彼との絆を切り捨てる必要なんて、最初から何処にも無かった。

「……ボクは……ボクには……」

そんな障害だって、二人で解決していけばよかった。
私たちが信じ合っていれば、心が繋がっていれば、きっとどんな壁だって乗り越えられた。
そう思えるだけの信頼を築いてきたはずなのに――私は大切なものを壊してしまった。
ひとりで悩むから辛いのだと、ひとりで抱えるから寂しいのだと――。
私ひとりでは辿り着けないその答えを、彼はずっと前から教えてくれていたのに……

「霧切さんといる資格なんて、無いんだ……」

私は今更そんな事を思い出して――後悔していた。
あんな一方的な別れじゃない、もっと他の方法だって沢山あったハズだ。
……だけど、それをどうこう言った所で何も始まらない。

「それを言ったら、私の方こそ苗木君といる資格なんて無い」
「そ、そんな事っ……!」
「だけど……それでも私は、苗木君と一緒にいたい……」

ダメかしら、と聞いてみたけれど、彼は押し黙ったまま何も言わない。
ただ、彼の目には決心を揺さぶられた迷いが色濃く浮かび上がっていた。

その迷いが、私と同じ気持ちであるのなら――。
ほんの少しでも、彼も同じ未来を望んでくれるのなら――。

――やり直したい。もう一度、彼の隣にいたいから。

「私は貴方を受け入れると言ったハズよ。その言葉は嘘でも冗談でもない」
「貴方の孤独も、傷も、後悔も……全部含めて、受け止めたいと思ってる……」

彼は私の言葉を拒むように固く目を閉じた。
……きっと彼は今、自分自身の答えを探している。
だけど、私が欲しいのは『Yes』のたった一言、それだけだ。

「……でも、私がどれだけ言葉を重ねても、貴方は信じてくれないでしょう?」

私は彼の肩から手を離して首筋に腕を回した。
突然の行動に驚いたのか、彼はぱっと目を開いた。

「だから……これで証明するわ」

その瞳を見つめながら、

私は、

彼に、

そっと口付けた。


――これが、私のファーストキス……


触れた瞬間、少し冷たくて柔らかい感触だと思った。
だけど一瞬遅れて、胸の奥からじんと震え上がるような高揚感が私を包み込んだ。
麻酔の類とも異なる、微弱な痺れが全身を駆けずり回るような感覚。
初めて知る感覚に、疼き出した場違いな好奇心をなんとか押しとどめる。
その余韻を引きずるように、私はゆっくりと彼から唇を離した。

「……ねえ、苗木君。まだ信じてくれないの?」
「………………」

至近距離で彼の目を覗き込んだ。
私の問い掛けに、彼は何も答えない。
ただじっと、涙で潤んだ瞳が私を見つめ返してきた。

「……信じてくれるまで……何度だってするから」

髪をかきあげながら、もう一度彼にキスをしようとして――強く抱きしめられた。
今までよりもずっと強く、息苦しささえも覚えるほど、私は彼に抱きしめられていた。
彼は何も言わず、苦しみに耐えるように荒い呼吸を繰り返している。

「…………霧切さん」
「…………苗木君?」
「……好きなんだ。……ずっと、好きだったんだ」

ぽつりぽつり、と彼は言葉を紡ぎ出す。

「ボクは……ボクは――!」

そして、今まで押さえ込んでいた彼の感情が――――爆発した。


「ボクはずっと、霧切さんの事が好きだったんだっ!」
「ボクだって、もっともっと、君と一緒にいたかったっ!」
「なのに君はっ……! 何も言わずにいなくなってっ……!」
「ボクがどれだけ……寂しかったと思ってるのっ……!?」

彼の叫び声は涙に濡れていた。
抱きしめられた肩口が酷く熱い。

「寂しかったんだ……。苦しくて……毎日、君の事ばかり考えてた……」
「ずっと……ずっと、君に会いたかった……君の声が聞きたかった……」
「なんで……どうして、何も言ってくれなかったの……?」
「あんな別れ方……あんまりだよ……酷すぎるよ……」

彼は声を上げて泣き叫んだ。
私の身体を抱きしめながら、まるで母親を見つけた迷子のように。
今まで抱え込んできた孤独や不安をひとつずつ吐き出していった。

「君がいないと駄目なんだ……他に何も要らないから……」
「だから……勝手にいなくならないでよ……」
「お願いだから……ボクを独りにしないでよ……」

私は彼の言葉を聞き逃さないように胸に刻み込んだ。
……この痛みは、彼が見せてくれた心の傷だから。

「…………ごめんなさい、苗木君」
「本当にっ、ごめんなさいっ……!」

目には映らなくても、確かにそこにある――私が犯した罪の証だから。

「もう貴方を、裏切ったりしない」
「もう貴方を、独りになんかしない」

「《約束》するから……だから、お願い……」

……償うことは、決してできない。
私にできるのはただ、同じ過ちを繰り返さないと誓う事だけ。

「苗木君……ずっと、私の傍にいて……」

私は彼に負けないように強く抱き返した。
手離しかけた大切な温もりを、もう二度と離さないように抱きしめた。

「……信じて、いいんだよね?」

私は抱き合った彼の肩越しに頷いた。

「今度こそ、絶対に……《約束》だからね……」

その声は私の知っている、誰よりも優しい声だった。
散々泣き腫らして渇いたと思っていたのに――
彼の優しさに触れて、また涙が溢れ出しそうになる。

「苗木君……」
「……うん」
「私は……貴方の事が好きよ」
「ボクも……霧切さんの事が大好きだよ」

彼の両手が私の肩に掛かる。
一瞬、また拒絶されると思って反射的に身体を強張らせる。
だけど、そうじゃないと思い直して私はゆっくりと両肩の力を抜いた。

「霧切さん……」

身体を離す間際、耳元で囁く吐息にぞくりと背筋が震えた。
向かい合う――。彼の瞳には、もう何処にも迷いは無かった。

「やっぱりボクは……霧切さんとお別れなんて、できないよ……」

彼の手が私の頬に触れる。
温かな手の熱を感じて胸の鼓動がひと際大きく高鳴った。
その先を期待しながら、私もゆっくりと目を閉じようとして――思い止まった。

「……そういえば」

私の声にぴたりと、近付いた彼の顔が止まる。

「まだ、言ってなかったわね……」

無粋だと思うけれど、どうしても今伝えたい事があった。
何を、と問い掛ける彼の眼差しが、少しだけ可笑しく見えた。

「……会いに来てくれて、ありがとう」

温かい気持ちに満たされながら、私は感謝の言葉を口にした。

「――――」

私の言葉に、彼は何か言いかけた。

だけど、結局何も言わず、

ただ嬉しそうに微笑んで、


――そっと、私の唇を塞いだ。



……それから私たちは、ずっと二人でキスの味を堪能していた。

痺れるように甘くて、ほろ苦いほど切なくなる――。

そんな優しい口付けを――何度も、何度も――味わっていた。

夕焼けの明かりが消え、歪な月が夜空に浮かんでも、

私たちは抱き合ったまま、片時も離れなかった。



……



夜も更けた頃。
私たちは小さなベッドの上で、ぴったりと身体を寄せ合っていた。
二人で眠るには些か狭いけれど、今の私たちにとっては寧ろ好都合だった。

すぐ隣にいる彼は、さっきからずっと私の頭を撫でている。
どうやら今日一日で、私の頭を撫でるのが癖になってしまったらしい。
くすぐったいとは思うものの、優しい手の感触と気だるい余韻に振り払う気も起きない。
どちらかと言えば、まどろむような安心感に身を任せてしまいたいと思っていた。

「…………なんだか、夢みたいだ」

唐突に、彼は独り言のように呟いた。
私は頭をずらして彼の顔をじっと覗き込む。
彼はただ、ぼんやりと天井を眺めていた。

「……本当はずっと、霧切さんの恋人になりたかった」
「君に触れて、思いっきり抱きしめて……キスしたかった」
「君と心から愛し合いたいって……ずっと思ってた」

言葉とは裏腹に、彼の声は望みが叶った喜びとは程遠い浮かないものだった。

「それなのにボクは……霧切さんの恋人になれない、君に受け入れてもらえない……」
「そんな風に、自分の中で決め付けてしまって……」
「君とお別れしないと……終わりにしないとって……そんな事ばかり考えてた」

そう言って、彼は不安げな眼差しで私を見た。

「でもこれは……夢じゃないんだよね?」

だから私は、その不安を拭えるように力強く答えた。

「……夢なんかじゃない。私はちゃんと、此処にいるわ」
「苗木君が会いに来てくれたから……私は今、こうして貴方の傍にいられるの」
「……ありがとう、霧切さん」

私の言葉に、彼は嬉しそうに微笑んだ。

「……こうして君に会えたのも全部、学園長のおかげなんだ」
「えっ……?」

――驚いた。

《学園長》――。私の父『だった』人。
まさか此処でその名前が出てくるとは思いもしなかった。

「……どういう事?」
「えっとね――」

そうして彼は、学園長との間であった出来事を話してくれた。


――私が希望ヶ峰学園を去って間もない頃。

彼は私の行方について、学園長に直接話を聞こうとしたらしい。
だけど、当の学園長も、私が退学した後の行き先までは知らなかった。

それも当然だ。私自身、あの人に何も話していないのだから。
新しい学園への編入手続きもお爺様の方で全て準備してくれていた。
だから私もお爺様の言いつけ通りに、学園側には一切の情報を残さないようにしていた。

――手掛かりを残せば、きっと彼は追い掛けてくる。
今思い返せば、私はその事を何処か予感していたのかもしれない。
……あの時、私は彼との関係を断ち切ろうとしていた。
それが彼にとってどれだけ残酷な事だったか、今では痛いほど分かる。

それでも、彼は諦めなかった。
――もう一度、彼女に会いたい。会って、話がしたい。
その為に、彼は私を探し出す事を考えた。
だけど、手掛かりも無い状況で探すには彼ひとりの力では最初から限界が見えていた。

それを感じ取った彼が協力を申し込んだ、その相手が――


「――――学園長、という訳ね」
「うん。最初は断られると思ってたけど、すぐに了承してくれたよ」

当事者である彼がそう言うのなら間違いないだろう。
ただ私の中では、その言葉を素直に信じられない思いが強かった。
……あの人がそんな事に加担する姿が、私の持つ印象とどうしても結びつかなかったからだ。

「ねえ、どうして学園長がボクに協力してくれたのか……霧切さんには分かる?」
「…………さっぱりね。見当もつかないわ」

考えもせずにそう返すと、彼は困ったように苦笑いを浮かべた。
なんだか馬鹿にされているようでむっときた。

「ボクもね、最初は全然分からなかった。……というより、考えもしなかった」
「こんな言い方、自分から頼んでおいて失礼だけど……正直、学園長じゃなくてもよかったんだ」
「霧切さんに会えるなら誰だっていいって……そう思ってたから……」

寂しそうな目をした彼を見ると、その言葉の何処までが本心なのか分からなくなる。
けれど、確かにそれは彼らしくもない不誠実な言葉だった。
そこまで想ってくれた事に喜びを覚える反面、そうさせてしまった自分に強い罪悪感が心に滲んだ。

「でもね、君と話をして、いろいろ考えて……ボクなりに推理してみたんだ」
「……そう。なら聞かせてもらえる? 貴方の推理を」
「うん」

正直、話題そのものにそれほど興味は無かった。
けれど、彼が口にした『推理』という言葉に、私の探偵としての好奇心が刺激された。

「多分だけどね、学園長は霧切さんが退学の件で悩んでいた事に気付いてたんだよ」
「……どうしてそう言い切れるの?」
「……親子だから、かな?」

……早くも溜め息を吐きたくなった。
彼の言葉があまりにも予想外で、私は呆れを通り越して落胆さえも覚えていた。
露骨に顔に表れていたのか、彼は戸惑いながら私の顔を窺っていた。

「……根拠になってないわ。第一、私とあの人はもう――」
「それだよ」「え?」

私の言葉を遮るように彼は話を続けた。

「霧切さんはさ、幼い頃に自分を置いていったお父さんが許せなかったんだよね?」
「……勘違いしないで。私は別に、あの人の事はどうとも思ってない」
「それでずっと辛い思いをしてきて……だから絶縁だなんて言い出した」
「あのねっ……!」
「……霧切さん。落ち着いて聞いてほしいんだ」

急に冷めた彼の口調に、私は思わず反論の言葉を失った。

「多分、学園長は……ちゃんと、君の事を愛してた」

私は彼の言葉をすぐには理解できなかった。

「ボクには、なんとなく学園長の気持ちが分かった気がするよ。多分、霧切さんの気持ちもね」
「私の気持ち……?」

うん、と彼は意味ありげに頷いた。

「君に『親子の縁を切りたい』と言われた時、学園長は相当辛かったんだと思うよ」
「だから学園長は、霧切さんに自分と同じ思いをさせたくなかった……」
「君を置いていったお父さんから、君の心が離れてしまったように……」
「一方的にいなくなった君から、ボクの心が離れてしまう前に……」
「ボクたちに……ちゃんと向かい合って、話し合ってほしかったんじゃないかな?」

これがボクの答えだよ、と彼はそう結論付けた。
どうしてそんな推理とも呼べないような思い込みを堂々と話せるのだろう。
論理的じゃない、と頭の中で否定するけれど、何故か私はその言葉を言い出せずにいた。

「そんな推理……的外れにも程があるわ」
「そうかな?」
「……そうよ」

根拠のない否定を返しても、彼の表情はちっとも変わらなかった。
すると彼は、反論できずにいる私の右手を握った。
戸惑う私を他所に、彼は私の手をそっと両手で包み込む。
優しい手の温もりが手袋越しにも伝わってくる。

「……でも、おかげでボクたちは、こうして一緒にいられる」
「学園長がいなかったら、ボクは君に会えないまま……何もかも諦めてた」
「だからボクは、学園長に……心から感謝してる」

私の手を握ったまま、彼は包み込んだ両手に額を押し当てた。
その姿はまるで何かに祈りを捧げているようにも見える。

「……でもね、ボクは君に『お父さんの事、許してあげて』とは言わないよ」
「え……?」
「言ったでしょ? 霧切さんの気持ちも分かった気がするって」

私の声と同時に彼は顔を上げた。
彼のその目は、さっきの不安げなそれとは違って真剣そのものだった。

「だって、今まで辛かった気持ちは……そう簡単に割り切れるものじゃないから」
「……君が黙っていなくなった時、ボクだって裏切られたと思ったよ」
「でも、それ以上に辛かった。寂しくて、苦しくて……何もかもが悲しかった」
「この辛さを……ボクはきっと、一生忘れないから……」
「でもね、だからこそ――」

包み込まれた右手が握り締められた。
離さないと言わんばかりに強く力が込められる。

「こうして、また君といられる事が……ボクは本当に、嬉しいんだ」
「ボクは君を好きになって、本当に良かったって思えるよ」

そう言って――彼は笑った。
私の大好きな、優しくて温かい彼の笑顔。
その笑顔に魅せられて、急に胸の奥が熱くなった。

「ねえ、霧切さん。お父さんの事、無理に許そうとしなくてもいいよ」
「だけど、もし君が許してあげられる日が来たら……」
「その時は……ちゃんと向かい合って、話をしてほしいんだ」

私を見つめる優しい眼差しに、ふと妙な既視感を覚えた。
記憶を探ってみても曖昧な像のように不確かで……
結局私は、その正体を掴む事はできなかった。

「……やっぱり貴方、変わってないわ」
「え?」
「何処までもお人よしな……私の知ってる苗木君よ」
「そうかな?」
「そうよ」
「……うん。霧切さんがそう言うなら、そうなのかも」

納得したように頷くと、彼はまた私の頭を撫で始めた。
今度ばかりは子ども扱いされているようで抗議の視線を彼に向ける。

そこで気付いた。
ついさっき見せてくれた彼の笑顔が寂しそうに曇っていることに。

「……霧切さん。ひとつだけ、ボクの勝手なワガママを聞いてほしいんだ」

表情の寂しさを隠しきれない声に、私は直感的に耳を塞ぎたくなった。
探偵の観察眼でも彼のバカ正直さでもない、もっと根幹の部分で――
私が最も聞きたくない台詞を、彼が言おうとしていると理解した。



「やっぱりボクは、日本に帰ろうと思うんだ」



……



翌朝。

街中を照らす朝日の眩しさが街行く人々の足並みを急かし始める頃。
私たちはアパートの玄関先で向かい合うようにして立っていた。

――この後、日本へ帰っていく彼を見送る為に。

「……どうしても行ってしまうの?」
「……うん。学園長にも改めて御礼を言いたいしね」

――これが、昨晩話し合って出した、私たちの答え。

「……ずっと一緒にいてくれるんじゃなかったの?」

拗ねたように咎めると、彼はぎくりと肩を揺らした。

「いや、そうだけど……でもほら、いろいろと準備が……」
「……あんなに恥ずかしい思いをして告白したのに」
「そ……それは、その……」
「……昨日はあんなに好きだって言ってくれたのに」
「だ、だから……」
「……もしかして、飽きられちゃったのかしら?」
「ち、違うってば、もう!」

冗談めかした私の言葉を真に受けて、彼はあたふたと弁解し出した。
……気を緩めると、すぐにでも彼に縋り付いて引き止めたくなってしまう。
だから私は軽い冗談で誤魔化しつつ、カーディガンの裾を握っては本心を押し殺していた。

――行かないで……

――私を置いて行かないで……

頭では理解しているのに、沸き立つような心の叫びが押さえきれない。
だけど、彼に悟られてはいけない。彼の決意を鈍らせてはいけないから。

――『皆に迷惑掛けた事、謝りたいんだ……』

昨夜、彼は私にそう言った。

……彼はずっと、後悔していた。
私を追い掛けるあまり、周囲との関係を蔑ろにしてきた事を――。
彼を心配して差し伸べてきた手を振り払ってきた事を――。
その所為で周囲を傷付け、あまつさえ裏切ってしまった事を――。
彼はその事に後悔し、自分自身を責め続けてきた。
その自責は、学園を卒業した今も尚、彼の心に重く圧し掛かっている。

――『ボクは、本当の意味で霧切さんと向かい合いたいから……』

だけど、彼は今、自分の過去と向き合おうとしている。
そのきっかけが私だと言ってくれた事は嬉しかった。
けれど同時に、私には彼の決意の眩しさに後ろめたさを感じていた。

……私は自分の過去と向き合えるのだろうか。
私はまだ、彼にさえも自分の過去の全てを話せずにいるのに。
頭に浮かぶ人の顔に、私は無意識の内に唇を噛み締めていた。
答えを焦る必要はない、と彼は言ってくれた。
今の私にはまだ、その優しい言葉に甘える事しか出来なかった。

不意に、私の身体が彼の腕に抱きしめられた。
急に静かになった私が、彼には不安そうに見えたのかもしれない。

「……ボクも霧切さんと一緒にいたい。君が傍にいないと、きっとまたすぐ不安になる……」
「でも、決めたんだ。君と正面から向き合う為にも、ボクは皆とも向き合わなくちゃいけないから」
「だから……ボクを信じて待っていてほしい。ボクももう一度、君の事を信じるから」

……彼の前向きな心の強さが、本当に羨ましくなる。
あれほど自分自身に絶望していた彼が、今は真剣に私との未来を見据えている。
だったら、私のするべき事は彼を引き止める事じゃない。

「……ねえ、苗木君。私は此処で、貴方の帰りを待ってるわ」


――これは最後の別れじゃない。
もう一度、私たちが手を取り合って歩き出す――始まりの為の別れだから。

「だから……一日でも早く、私の許に帰ってきて」

私が不安そうにしていても仕方が無い。
そんな調子では、彼をもっと不安にさせてしまうだけだ。
彼は私を信じると言ってくれた。
だったら、私も彼を信じてあげなければ。

そうしなければ、私も彼も前に進めないから。

「……うん。絶対に、君の許へ帰るから」

どちらともなく近付いて、私たちはキスを交わした。
触れるだけの、儚くて物足りないくらいのキス。
唇が離れる瞬間の切なさが印象強くて、ますます別れを惜しませる。

だけど――これでいい。

待ち焦がれている方が、私の中にある彼への想いを実感できるから。
このキスの続きは、彼が帰ってきた時の楽しみに取っておこう。

「……浮気なんてしたら承知しないから」
「ええっ!? そんなの絶対しないよっ!!」
「言っておくけど、私は貴方以上に嫉妬深いし執念深いわよ」
「それは、なんというか……その…………凄そうだね……」

私だって彼の事は信用している。彼に限って浮気なんてするハズがない。
だけど、釘を刺しておくに越した事は無い。それとこれとは別問題だ。

「……帰ってきたら、またコーヒーを淹れてくれる?」
「……またいなくなったりしないよね?」
「し・な・い・か・ら」

さっきの仕返しだろうか。
苗木君のクセに生意気よ――と視線で訴えた。

「……ぷっ! あは、あははっ!」

なのに、彼は可笑しそうに笑い出した。
馬鹿みたいな笑顔を見たら怒る気力も失せてしまって、

「……ぷっ! うふ、うふふっ!」

私も同じように笑い出していた。

これから離れ離れになるというのに、私たちは笑い合っていた。
さっきまで抱えていた不安が嘘のように、私たちは笑い合えていた。
……こうして笑い合えるのなら、何も心配は要らない。

「《約束》する。次はもっと美味しいのをご馳走するから」
「《約束》よ。……ふふ、ちなみに合格ラインは70点以上だから」
「……本当に厳しいよね」
「ええ。楽しみにしているわ」

……彼がいなくなった後、私は寂しさに泣いてしまうかもしれない。
けれど、そう遠くない未来、彼は私の許へ帰ってきてくれる。
そう信じられるだけの安心感が、私たちの間には確かにあるから――。


だから――


「いってらっしゃい、苗木君」
「いってきます、霧切さん」


たとえ離れていても、手を繋げなくても――私たちの心は繋がっている。

未来はすぐそこに――私たちの手の届く場所にあるハズだから。

彼の背中を見送りながら、私は早くも彼の淹れるコーヒーに思いを馳せていた。



END
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。