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自然のささやきは、とても小さく控え目である。
だからこそ常に心を研ぎ澄ませ耳を傾けていなければならない。

    ◇  ◆  ◇

真冬の声を聴いてみたかった。

休みの日の早朝に自転車でこの公園にやってくるのが、いつの間にか私の日課になっていた。
なにより空気が澄んでいて、しかもめったに人に出会うこともない。
自然の音にそっと耳を傾けるには絶好の時間帯だ。

人気のない公園の入り口に自転車を置き、きちんと鍵をかけてることを確認してから、なるべく足音を殺して手近なベンチにそろそろと歩み寄る。
使い捨てカイロを2個、左右のジーパンのポケットに押し込んでから、さらに途中で買ったホットココアのプルタブを引き、ゴクリと一口。
焼けるような感触が舌や喉の奥にまで広がり、寒さと眠気が一気に吹き飛ばされていくのを感じる。

ここまで走ってきた道路は薄明の光によってうっすらと明るくなり始めていた。
だけど、取り巻くように植えられている木々や広場で作られている、この公園の内部空間は未だ暗闇の中に沈んでいる。
ところどころに申し訳程度に置かれているいる水銀灯の周りだけが、かろうじて冷たい光に照らされ浮かび上がっているくらい。

秋の終わり近く、澪先輩に誘われてやってきたときに目撃した、突き刺さるような鮮烈な色の紅葉は、もうその欠けらさえ残っていない。
この時間帯では黒一色なのはあたりまえだけど、たとえ陽がのぼりあたり一面を明るく照らし出したとしても、あたりはすっかりモノトーンの世界だ。
あるものは枯れ果て、またあるものは固く殻を閉ざして引きこもり、さらにあるものは別の世界を目指して旅立っていったのだろう。
次の春が訪れるまで、ここは墓場同然の静けさに包まれることになる。

とても街中とは思えない、清らかで張り詰めた冷たい空気を吸い込みながら、冷え切ったベンチにそっと腰を降ろす。
今のところは身体を動かしてきたおかげで、まだそれほど寒く感じない。
もっとも使い捨てカイロとダウンジャケットがなければ、ものの5分と経たずに凍えてしまうだろう。
たとえ日本といえども、氷点下になろうかというこの気候では、ちゃんと準備しとかないと長くはもたない。

ココアを飲み終えると、改めて私はゆっくりと目を閉じ呼吸を整え、そっと聞き耳を立てる。
ごーっという低いのは街の音。
ときおり聞こえるざわざわというのは風にゆすられる木立の音。
たまに聞こえる甲高いのは鳥の鳴き声。
残念ながら名前まではわからないけど。
あ、でも、あのカアカアというのはきっとカラスだよね。
そして背後から規則正しく聞こえてくるのは……。

え……まさか、人間の足音!?




「こんな時間に何やってるんだ?」

足音の主が、わずかに戸惑いの感情を交えながら、私に話しかけてくる。
聞きなれた声で。誰もがあこがれる声で。何度聞いても飽きることのない声で。

「み、澪先輩!?」

あわてて振り返る。
すでに手が届くほどの背後に、うすぼんやりとした光に照らし出された、トレーニングウェアに身を包んだ澪先輩の姿が浮かんで見えた。
まさかと思ってほっぺたをつねってみたら、ちゃんと痛みがある。
少なくとも夢ではないらしい。

「どうして、ここへ?」
「ちょうどロードワークしながら通りかかったら、なんか見覚えのある自転車が止めてあったから、もしやと思って」
「あー、なるほど」

ダイエットですか、という言葉を危うく飲み込む。
そういえばこの間も、お正月休みで体重がって落ち込んでたもんなあ。
この話題だけは絶対に触れちゃいけない。

「でもこんな時間に一人で走ったりして大丈夫なんですか?」
「そのセリフはそっくり梓に返したいんだけどな」

苦笑いを浮かべながら澪先輩はそんなことを言った。

「それで改めて聞くけど、こんなところで何やってるの。しかもこんな朝早くから」
「そ、それは……」

果たして正直に理由を話していいものか。
かなり恥ずかしいことをしてる、という自覚くらいはちゃんとある。
私が迷っていると、先輩の表情がわずかに陰った。

「まさか家出とか、じゃないだろうな」
「いえ、そんなんじゃないんです。ただ……」
「ただ……?」

観念する。
心配してくれてる先輩の心遣いを思えば、恥ずかしいなんて言ってられない。

「その……冬の音を聴いてみたくて」
「は……?」
「あのほら、以前に澪先輩が、公園のど真ん中で立ち止まって、いつもと風の音が違うって言ってたじゃないですか」
「そうだっけ? うーん、そういえばそんなこともあったような……」

どこか遠くを見つめているような澪先輩。
おそらく記憶の糸をたどっているのだろうか。
私にとっては衝撃的な出来事だったんだけどなあ。

「でもあの時、私には全然違いがわからなかったんです。それが……悔しくて。それで時々──」
「──こうやってわざわざ音を聞きにくるようになった。そういうこと?」
「……そうです」
「変わってるな、梓は。別にそんなの聞き分けられなくてもかまわないじゃないか」
「そ、そんなことないですっ! 私は──」




ととっ。いきおい余って危うく口を滑らせるところだった。
さすがに澪先輩に近づきたいから、とは言えない。言えるわけ、ない。

「──えっとその、音楽以外の音もちゃんと聞き取れた方が、もっと世界が広がるんじゃないかって」
「まあそういうことなら、一理なくもないな」

苦しまぎれの言いわけに、どうやら先輩は納得してくれたようだった。
もっともまるっきりのウソというワケでもない。
今まで音楽という、人の手による音ばかり追いかけてきたけど、
それがいかに狭い物の見方なのかと思い知らされてしまったから。

「たとえば風の音は空気の妖精のうわさ話とか。
それに、あの鳥たちは『おはよう。お腹空いたね。ほらほら、急がないと他の連中にご飯取られちゃうよ』なんて会話かな。
あと街の喧騒なんか、まるで街そのものの息吹みたいだって思わない?」

どこか彼方を見つめ、うっとりとした表情を浮かべながら、先輩はさらに続ける。

「聴いてると頭の中にいろんなイメージが浮かんでくるんだ。自分だけじゃないんだって。
この世界には人間以外にもいろんな生き物が息づいてたり、いろんな出来事があるんだって」
「そういうものですか……」

こっちはそれらを聞き分けるのがやっとなのに。

やっぱ私の耳に漠然と聞こえてくる音と、先輩が明確に意識して聴いてる音って、全然別物のような気がする。
おなじ音のはずなのに。悔しいけど。

私には見えない聞こえない感じられない世界。
澪先輩には見えて聞こえて感じられる世界。

どうして見えないんだろう。
どうやったら見えるんだろう。

私も見たい、聞きたい、感じてみたい。

先輩の世界を。
先輩の眼前に広がる光景を。

私は、知りたい。




そんなことを考えていると、不意に何かを思いついたように澪先輩が口を開いた。

「そうだ、梓。今度の15日の朝8時くらいに、少し時間取れない?」
「いいですけど。なんですか、ずいぶん早くに。それにその日はお昼から先輩の家にみんなで集まる約束じゃないですか」
「それはまあ、そうなんだけど。せっかくだから梓に見せたいものがあって」
「見せたいものって、いったい何ですか?」
「それは……まあ、当日のお楽しみにしておこう」

さわやかな笑顔で、さらりとかわされてしまった。まったく卑怯ですよ、そういうの。

「それじゃ15日の朝8時に、この公園で。いいね?」
「は、はあ……」

1月15日。今さら言うまでもない。澪先輩の17回目の誕生日。

その日の朝、ここで何が見られるんだろう。いったい何が起こるんだろう。
くすくすといたずらっぽい笑みを浮かべる澪先輩に半ば心奪われながら、
私は喜びと当惑が混ぜこぜになったような不思議な高揚感を味わっていた。

 (おしまい)