◇ ◆ ◇
定期試験直前といった特別の理由でもない限り、放課後になると私たち軽音部の部員は誰からともなく部室へと集まってくる。もちろんそれは今日も例外じゃない。バレンタインデーに女子ばかりで集まっているというのがちょっと悲しいが、裏を返せば今年も抜け駆けした子がいないという意味でもあるから、まったく悪いことばかりとは言えない。
私が部室に顔を出したときには、すでに他の二年生部員が全員そろっていた。つまりリードギター担当の平沢唯とキーボード担当の琴吹紬、そして我が不肖の幼なじみにしてパワーに溢れすぎなオデコのドラマー、部長の田井中律である。するとそれまで唯とバカ話で盛り上がっていた律が、急に私の方を振り返った。
「澪。なんか今、ものすごく失礼なこと考えてただろ」
「……別に」
「……別に」
平静を装いながらも内心で舌を巻く。ほんと、こういうところだけは鋭い。さすがは小学校時代からの長い付き合いを誇るだけのことはある。ひょっとしてほんとに超能力者か何かじゃないだろうか。
いや待てよ。超能力者が実在するというのなら、宇宙人や未来人もここに混ざっている可能性も否定できない。たとえば、どこか感覚がずれている唯が宇宙人で、ムギがドジっ子の未来人だとか。とすると、軽音部でただ一人の一年生……。
だがその半ば現実逃避にも等しい妄想は、部室のドアを開くノイズによって唐突に中断された。その方向に視線を向けると、見慣れたツインテールの少女と目があう。だがどういうわけか彼女は、いつものようにすんなりと中に入ってこようとしない。部室のドアを半分ほど開けたまま中の様子をこそこそとうかがっている。
「あ、あずにゃん、やっほー」
「こ、こんにちは」
「こ、こんにちは」
気配に気づいた唯が声をかけると、ようやく梓はあいさつを返しながら部室に入ってきた。だがやはり様子がおかしい。ギターとスクールバックに加えて、ずいぶんと大事そうに紙製の手提げ袋を抱えている。何か壊れやすいモノでも入っているのだろうか。まあ私も鞄の中にこっそりチョコを忍ばせてるわけだから、あまり他人のことは言えない。
「あれ、ムギ。今日はお菓子用意してないの?」
「ごめんなさい 私は用意してないんだけど……」
「ごめんなさい 私は用意してないんだけど……」
あからさまに挙動不審な梓に注目している私の背後で、律とムギが何ごとか話し合っている。
「……代わりに梓ちゃんが用意してくれたみたいよ?」
「にゃっ!?」
「にゃっ!?」
ひょっとしてムギの発言が図星だったのだろうか。もともと大きめの梓の目が、驚愕によってさらに大きく見開かれている。今にも目玉がこぼれ落ちるのではないかと心配になるくらい。そして彼女の顔にはこう書いてあった。
『何でバレてるのー!?』
しかしそれに対してムギはニコニコと謎めいた微笑で答えるだけだった。どうやら彼女にも超能力が使えるらしい。それとも梓がお菓子を持ってくることは、すでに確定された未来だったのだろうか。となるとムギ=未来人説の線も捨てきれない。いやいや、ひょっとすると……。
「澪、帰ってこーい」
「……うるさい」
「……うるさい」
耳元で律がささやくので、しかたなく私も現実と向き合うことにした。
「えっと、日ごろの感謝をこめてチョコケーキ作ってきたんですけど……」
などと言いながら、梓がケーキを切り分けていく。
「わー、すごーい!!」
「結構本格的だなっ」
「結構本格的だなっ」
などと興奮気味に唯や律が感想を口にする。もちろん私も全面的に同意せざるを得ない。それはまるでプロの仕業のようだった。チョコのコーティングからして細やかな気配りが感じられる。普通はどうしてもむらがあったりするものだが、一見したところ完璧に処理されていて、まるで隙を感じさせない。
これほどの出来栄えだ。はたして味の方はどんな具合だろう。ムギのお茶を待ち切れず、さっそくフォークで小さく切って一口いただいてみた。
「わ、おいしい」
柔らかいけどしっとりとした口当たりだった。ほんのりとした上品な甘みが広がっていく。隠し味にラム酒を使ってるようだけど、それも決して邪魔にならず、むしろ甘みを引き立てている。
「おいしーっ!! あずにゃん天才!!」
甘いものに目がない唯の言葉を待つまでもない。驚きの逸品だった。「天は二物を与えず」というフレーズが私の中で急速に色あせていく。意外といっては失礼かもしれないが、どうやら梓にはギターのほかにも天与の才が宿っているらしい。
「とっても美味しかったよ、梓」
「あ、ありがとうございます、澪先輩」
「あ、ありがとうございます、澪先輩」
ほっとしたような表情を浮かべながら梓が答えた。そしてさらに何か言いたそうに、わずかに上目づかいで私のことを見つめている。まるで瞳が水晶のかけらでもはめこんだようにキラキラと輝いていた。それにしてもなんだろう。まるで何かを期待しているかのような。
「え、と、」
私が梓の意図を測りかねていると、しだいに彼女の雰囲気が戸惑いから気落ちしたものへと変わっていく。な、なにか気まずい。私が何か言わなくちゃいけないんだろうか。とその時。
「よし! お返しにこれをあげよう!」
まるで私をフォローするかのように、唯が梓に何かを押し付けた。
「何ですか、これ?」
「あめちゃん! ホワイトデーのお返しね!」
「あめちゃん! ホワイトデーのお返しね!」
けげんそうな梓に向かって、両手を腰にあてて偉そうに胸を張りながら唯が答える。
「早っ!!」
すかさず梓が突っ込む。すっかりいつもの軽音部だった。気まずい空気はたちまちどこかへ消え去っている。
そんなやり取りを横目に見ながら、律が私の方に身体を伸ばすと、小声でささやいてきた。
「あのな澪、梓はご褒美が欲しいんだよ。ほめ言葉だけじゃなくてさ」
「ご褒美って、なんだよ」
「バーカ。2月14日に女子が贈るものっていったら、チョコ以外に何があるんだよ」
「ご褒美って、なんだよ」
「バーカ。2月14日に女子が贈るものっていったら、チョコ以外に何があるんだよ」
呆れかえったと言わんばかりの表情を律が浮かべる。
「いちいち聞くなよ、そんなこと」
その横ではムギが微笑みを浮かべながら、うんうんと小さくうなずいていた。なんだよ、私だけか。わかってないのは。
しかしこれだけのモノに見合うご褒美となると、とてもじゃないけど既製品じゃ釣り合いそうにない。せっかく梓用に買ってきたチョコだけど、こいつは黙って持って帰ることにしよう。よしっ、できるだけ早く家に戻ってリベンジだ。
◇ ◆ ◇
闇と冷気と沈黙に包まれた街並みを、青白い街路灯が申し訳程度に照らし出している。鉛のように重い両足をひきずりながら、ロクな収穫もないまま、ようやく自宅の玄関が見えるところまで戻ってきた。まとわりつくような徒労感がいっそう募ってくるのを感じる。
製菓用チョコが手に入らない。
ラブラブなカップルたちが世界をおう歌するのを横目に見ながら、夕方から今までそれこそ心当たりをかたっぱしから探し回ったけど、もうどこもかしこも売り切れだった。かりにも手作りのモノを贈られたのに既製品で返すなんて私のプライドが許さない。そう思っていたのだけど。こうなったら最悪のことを考えて買ってきた、安物のプレーンチョコを溶かして作ろう。味は落ちるけど仕方がない。
なんて考え事をしながら玄関のカギを開けようとしたら、脇の暗闇で何かがうごめく気配を感じた。
「ひっ……!!」
ま、まさか泥棒、強盗、いやひょっとしてお化けとか!?
「残念ながら私だよん。ご期待に添えず申し訳ない」
聞きなれた声と共に姿をあらわしたのは、我が不肖の幼なじみだった。
「脅かすなよ。どうしたんだ、こんな夜遅くに。っていうか、電話してくれればいいのに」
「いや、携帯に何度かけても出てくれないから、ここで待ってたんだけど」
「いや、携帯に何度かけても出てくれないから、ここで待ってたんだけど」
すっかり強ばってしまった手で、ふところから自分の携帯を取り出して履歴を確認する。確かに彼女からの着信でびっしりと埋まっていた。
「ごめん、気づかなかった。マナーモードにしたまま走り回ってたから」
どうやら悪いのは私の方らしい。いちおう頭を下げておく。
「それで。こんな夜遅くに何の用? 悪いけど明日にして。今、余裕ないんだ」
「なんだよ、そんな言い方ないだろ。せっかく澪が必死に探し回ってるもの持ってきたのに」
「まさか……」
「なんだよ、そんな言い方ないだろ。せっかく澪が必死に探し回ってるもの持ってきたのに」
「まさか……」
不満そうに口を尖らせる彼女の手元を見ると、そこにはスーパーの買い物袋がぶら下がっていた。中から製菓用チョコのパックがちょこんと顔をのぞかせている。
「家族用に作ったヤツで余ったの、持ってきた。きっと見つけられなくてめそめそ泣いてるんだろうなあと思って」
「泣いてないっ。……途方に暮れてはいたけど」
「なんでもいいから、さっさとこれで作っちゃえ。梓のヤツ、きっと待ってるぞ」
「泣いてないっ。……途方に暮れてはいたけど」
「なんでもいいから、さっさとこれで作っちゃえ。梓のヤツ、きっと待ってるぞ」
そう言って、私の胸元に勢いよく袋を押し付けてきた。
「ありがとう」
急に罪悪感がこみ上げてくる。ここまでしてくれたのに、何もしないで帰すわけにはいかない。
「寒かっただろ。中に入って暖まっていってよ」
「別にいいよ。私が勝手にしたことだし、気にすんな」
「それじゃ……」
「何だよ。まだ足りないものがあるとか?」
「別にいいよ。私が勝手にしたことだし、気にすんな」
「それじゃ……」
「何だよ。まだ足りないものがあるとか?」
でもどうしよう。なんて迷っているうちに、勝手に言葉が飛び出した。
「……せっかくだから、ちょっと味見していかないか。そんなに時間、かからないし」
「バーカ。いらねーよ、梓のおこぼれなんて」
「バーカ。いらねーよ、梓のおこぼれなんて」
くるりときびすを返し、そのまま軽く片手を上げる。
「じゃあな。せいぜい頑張れ。もう余裕ないんだろ」
そう言い残して、彼女の姿は街の暗闇の中へ溶けるように消えた。
「ごめん。いっつもフォローされてばっかりだな」
そうひとり言をつぶやいてから、改めて時間を確認する。あと一時間ちょっとで日が変わってしまう。手早く作り上げてラッピングして梓の家までひとっ走り。そう考えると、泣きたくなるくらいギリギリのタイミングだった。
◇ ◆ ◇
走る、走る、走る。
身を切られそうな寒気につつまれた無人の住宅街を、私は梓の家へ向かってひた走る。
世界は重苦しい静寂と暗闇に呑み込まれていた。弱々しい街路灯といくつかの家の窓からこぼれ出した光だけが冷ややかに道を照らしている。規則正しい乾いた足音だけが虚空へと吸い込まれていく。おそらくここの住人たちの大半は屋内で暖かなひと時をすごしているか、さもなければ眠りへとついているのだろう。
もちろん私には、そんなささやかな幸せをかみ締める資格も権利も余裕もない。
たとえ倒れようが。
たとえ血を吐こうが。
たとえ何者が邪魔をしようが。
たとえ血を吐こうが。
たとえ何者が邪魔をしようが。
止まらない。
絶対止まれない。
今の私は誰にも止められない。
絶対止まれない。
今の私は誰にも止められない。
ただ突き動かされるだけ。
この身体の奥底から湧き上がる衝動に。
この身体の奥底から湧き上がる衝動に。
だけど現実は残酷だった。走りながら腕時計にちらりと視線を走らせる。間に合わない。ほんの数分だけど、間に合わない。夕方から走りっぱなしだった足が再び重くなっていく。絶望感が私の心に広がっていく。
痛くなるほどに唇をかみ締める。もう少しなのに。もうちょっとだったのに。これで終わってしまうのか。
その時だった。道の向こう側に小さな人影が見えたのは。まるで転がるような勢いでこちらに向かって突進してくる。決して見間違えることのないツインテールを風になびかせながら。
「澪先輩ーっ!!」
「あ、ずさっ。梓っ!!」
「あ、ずさっ。梓っ!!」
私が叫ぶと、彼女はさらにスピードをあげて、あっという間に私の所へ駆けてくる。はあはあと苦しそうに肩を上下させ、この寒空だというのに汗だくという姿だった。
「どうしてここへ」
「それが、よく……わかんないです。なんとなく、先輩に……会えそうな、気がして」
「超能力者か……」
「それが、よく……わかんないです。なんとなく、先輩に……会えそうな、気がして」
「超能力者か……」
息も絶え絶えな梓に思わず突っ込んでしまった。すると彼女は眼を輝かせながらこう言った。
「今の私だったら、空だって……飛べそうな気がします」
薄暗い街路灯のもとでもはっきりわかるくらい、梓の顔は上気していた。きっと必死に走ってきたせいだろう、そうに違いない。しかし彼女の瞳は再び水晶のかけらのような煌めきを取り戻していた。決して疲れ果てているようには見えない。
「それで先輩は、どうしてここに」
「そうだった。はいこれ、ハッピーバレンタイン」
「これを、私に?」
「そうだった。はいこれ、ハッピーバレンタイン」
「これを、私に?」
彼女の表情にいちだんと輝きが増した。まるで辺りまでほのかに明るくなったような錯覚すら感じてしまう。
「ありがとうございますっ」
両手で胸にいだきながら、梓はぴょこんと頭を下げた。そしてまたもや期待に満ちた表情を浮かべて私のことを見つめてきた。
「え、と、梓……?」
困ってしまった。部活の時から感じていたけど、私には梓が何を期待してるのかがさっぱりわからない。さっき律は『ご褒美が欲しいんだよ』と言ってたけど、どうやらそれとも違うみたいだし。
しばらく梓の顔を見つめていると、ようやく柔らかな笑みを浮かべながら彼女がつぶやいた。
「いいんです、今日は。これ以上望んだら、バチが当たっちゃいそうですから」
そんな彼女の顔が一転して不安に曇る。
「ただあの……来年もチョコ作ったら、食べてくれますか?」
呆れた。そんな心配してたのか。
「いちいち聞くなよ、そんなこと」
「は、はいっ!!」
「は、はいっ!!」
そこに花開いていたのは、これ以上ないというくらいの満面の笑顔だった。そんな彼女を幸せな気分で眺めているうちに、唐突にいくつか言葉が思い浮かんだ。恋愛関係にある男女のことを言い表す言葉が。
……はは、まさか、ね。
「星が奇麗ですね、今夜は」
私のことを見上げていた梓が、ふとそんなことをつぶやいた。私もそれにつられて空をふり仰ぐ。月が出ていないこともあって、いくつもの星がキラキラと瞬いているのが目に入った。
あまりの美しさに思わず息を呑む。まるで気づかなかった。この子たちも私のことを見守ってくれていたというのに。それにしてもまるで、無数の水晶のかけらを夜空にむかって放り投げたみたいだ。
「水晶の、夜」
私のつぶやきに、梓がけげんそうな表情を浮かべる。
「……はい?」
「あ、いや。なんでもない」
「あ、いや。なんでもない」
言葉なんかいらない。ただこうしているだけで充分。
来年も、再来年も。
そのあとも。
ずっと。
そのあとも。
ずっと。
ふたりで肩を寄せ合うようにして、夜空を見上げていたい。
私は絶対に忘れない。
高校二年の二月十四日を。
梓といっしょに眺めたこの光景を。
高校二年の二月十四日を。
梓といっしょに眺めたこの光景を。
真っ暗な空いっぱいに数えきれないほどの煌めきを散りばめた、
この水晶の夜のことを──。
この水晶の夜のことを──。
(つづく)