今できる、精いっぱいのことを

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mioazu

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こんな形で悪夢が現実になるなんて。

風邪でダウンしていた唯が奇跡的に復活し、ほっと安心したのもつかの間。
大事なギターを家に忘れてきたことがわかり、彼女はそれを取りに戻ることに。
私たちはその間、唯抜きで二度目の学祭ライブを決行することになった。
万が一のことを考えてあらかじめ準備していた編成で。
つまり、さわ子先生がサイド、梓がリード、そして私がヴォーカルというわけだ。

正直、動揺はある。しかも、かなり。

一度は唯が顔を見せてくれたから、これで今回はヴォーカルをやらないですむ、とすっかり油断してしまっていた。
だからこの状況は半ば不意打ちにも等しい。
いやでも思い出してしまう。一年前の学祭ライブの大失態。
とっくに覚悟を決めていたつもりだったのに、おじけ虫がもぞもぞと動き出す。
ひざが笑う。身体の震えがとまらない。

なんでこんなことに。怖い。もういやだ。逃げ出したい。
この期に及んで、それでもぐずぐずと考えてしまう。わかっているはずなのに。
すでに舞台に立ってしまったというのに。私の代わりなんかいるはずもないのに。

それでも配置を確認するふりをして、そっと全員の顔色をうかがってしまう。
万に一つの可能性にすがりつきたくて。
『もういいよ、無理して歌わなくてもいいんだよ』と誰かに言ってもらいたくて。

右横のさわ子先生、右後のムギ、左後の律へと順番に視線を向けていく。
さすがに先生は落ち着いたものだが、ムギや律は不安と緊張を隠し切れていない。
無理もないだろう。バンドの中心であるヴォーカルとリードギター、そのどちらもが失われた状態なのだから。

そして最後に左横の梓が視界に入ったところで、どういうわけか私の身体は凍りついた。
なぜだか理由はわからない。だけど彼女の顔を見た瞬間、そのまま目をそらせなくなってしまったのだ。

しばらくの間、梓はそんな私を硬い表情で見つめていた。
それから意を決したように愛用のギター、フェンダー・ムスタングを抱えたまま歩み寄ってくる。
もうすぐ幕が上がるという、このタイミングで。

本当なら先輩である私のほうから何か言わなければいけないのだろう。
けれど、まるで金縛りにでもあったように、すっかり身体中がこわばってしまっている。
ろくに口を開くこともできない自分が情けない。

「唯先輩のこと、心配ですか?」
「うん」私は小さくうなずく
「大丈夫です。唯先輩は必ず間に合います。ギターを……ギー太を連れて戻ってきます」

ああ、そういえば……和も言ってたな。

 ──あの子はね、好きなものを見つけると、それしか目に入らなくなるのよ。

それに憂ちゃんだって。

 ──お姉ちゃんはやる時はやる人ですっ

ひょっとして似たようなことを考えていたのだろうか、梓も薄く笑顔を浮かべる。
「何日か前に澪先輩も、リードの練習を渋る私に言いましたよね。『今の私たちにできる……』」

そこで梓は何かをうながすように口を閉ざす。仕方がないので私が後を続けた。




「『……私たちにできる、精いっぱいのことをやろう』か」
「じゃあ、今の私たちにできることって、いったいなんだと思いますか」
「唯が戻ってくるまでの間、このライブを続けること、終わらせてしまわないこと」

私のセリフを耳にして、悪戯っぽい笑顔を浮かべる梓。
なんだ、ちゃんとわかってるじゃないですか、とでも言いたいのだろう。
だがそれもすぐに生真面目なものに代わる。

「私が支えますから」
「え……?」
「唯先輩が戻ってくるまでの間、私が力の限り支えて見せますから。だから、澪先輩もがんばってください」

彼女の透明な瞳が、私の姿を映し出した瞳が。
まっすぐに、ただひたすらにまっすぐに、私のことを見つめていた。

ああ、くそっ。私はどうしようもない大バカ野郎だ。

大勢の観客の前で歌うという恐怖と、梓の信頼を裏切るという恐怖。
どっちの方がより恐ろしいかなんて、今さら考えるまでもないじゃないか。

私のせいで梓が悲しむ。そんなの絶対イヤ。
はじけるような笑顔がこの子にはよく似合う。
いつでもどこでも笑っていてほしい。

子どもっぽいワガママだとわかっていても。
それを私は、切に願う。

「わかった。まかせとけ。梓もつまんないミスなんかするなよ」
「そうですね、気をつけます」

胸を張る。口元には小さな笑み。獲物を狙うネコ科みたいな目。
口調とはまるっきり反対の、自信に満ちあふれた態度。

 ──誰に向かってモノを言ってるですか。

そんな声が聞こえたような気がした。もちろん空耳に違いない。
彼女の唇は硬く閉ざされたままなのだから。

梓の背後で何かが動いた。反射的に目を向ける。舞台の端に切迫した表情を浮かべた和がいた。
自分の手首を何度もせわしなく指差している。

「時間だ。自分のポジションに戻って」
「はい、先輩」

一瞬だけ梓が満面の笑みを浮かべ、すぐに表情を引きしめると、再び自分の立ち位置へと戻っていく。
その背中に”恥ずかしい”と書いてある気がして、場違いなおかしさがこみ上げてくる。

いつの間にか、身体の震えやこわばりはウソのように消え去っていた。

 ──ありがとう、梓。




『これより、軽音楽部”放課後ティータイム”による、ライブを開始します』
開幕を告げる構内放送に、幕の向こうの観客席がざわめいたのがわかった。

低い機械音とともに、ゆっくりと幕が上がっていく。うす暗い講堂の観客席はほぼ満員。
立ち見の人までいるようだ。そこから熱気と拍手と歓声が舞台へとなだれ込み、私の頬をチリチリと焦がしていく。

念のため梓の様子を見ようと視線を走らせる。
これがあの子にとって軽音部での初めてのライブだし。
それに気づいた彼女は大きな瞳だけをこちらに向ける。
しかし顔はまっすぐ前に向けたまま。
そして目元と口元だけでニコリと笑みを浮かべて答えてくれた。

やれやれ。ほんとお前は大したヤツだよ。
私なんか未だに自分のことだけでいっぱいなのに、この状況で他人のことまで思いやれる余裕があるなんて。

でも、もう大丈夫。私は大丈夫。
今度はもっと、うまくやれる。間違いなく、うまくやれる。
だって私のすぐ左隣には、こんなにも頼りになる小さな後輩が立っていてくれるのだから。

さあ、いっしょにやろう。

梓が代役のリードで。
私が代役のヴォーカルで。
唯が戻ってくるまでの間、このライブを支え切ってみせような。
私たちの『ふでペン ~ボールペン~』で。

「ワン、ツー、スリー!」背後で律がスティックを打ち鳴らしながら叫ぶ。

それに梓が応える。ムスタングの強烈なサウンドが講堂の空気を揺さぶる。
私の心をつかんで離さない、入部初日に軽音部の全員を絶句させた華麗なテクニック。
ワンテンポ遅れて観客たちの間にも驚きの波が広がっていく。

そうとも。彼女こそ中野梓。
小さく可愛らしい、私の最強の後輩。

もちろん私だって負けてはいられない。曲のリズムに呼吸をあわせる。
歌声のために全身全霊を注ぎこむ。これ以上は無理と肺が無言の悲鳴を上げる。

ねえ、梓。
わりといい感じだって思わない?

たとえ代役ばかりのバンドだとしても。
みんながみんな、今できる精いっぱいのことをやっている、この感じが。

(おしまい)
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