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知人に勧められて読んでみた。
冒頭で日本国憲法はすでに『死んでいる』と宣言し、その理由を西洋近代史から説き起こす。
カルヴァンの予定説から『神の前の平等』の観念が生まれ、民主主義を生み出す。
また、『行動的禁欲』観念が資本主義を生み出す。
ロックの社会契約説は、両者を元に近代社会の理念を生み出すが、そこには聖書由来の契約概念が影響している。
日本の明治政府は、近代文明の基軸たるキリスト教に、あらたに『天皇教』の創設をもって対峙する。
それはある程度成功して、立憲君主制、大正デモクラシーを生み出すが、最後は日中戦争の中で議会は自殺してしまう。
戦後、GHQは善意から『天皇教』を排除するが、結果として日本人はアノミー状態から金儲けに走るようになる。

骨太の議論が、読みやすくまた興味深くまとめられていて、500ページ近くを一気に読み切ってしまった。
歴史上の印象深い出来事をいろいろ教えられ、それだけでも読む価値はある。
とはいえ本領は、現代日本の精神的空洞化を憲法をキーワードに分析し、宗教的基軸の不在がいかに大きな意味を持つかを論証した点にあろう。
最後に、亡国の瀬戸際にいる我々は、明治維新の時と同じように、新たな文明の基軸をこれから打ち立てる必要があると宣言する。

著者の分析はおおむね的を射ている気はするが、何点か違和感ないし疑問を覚えないでもない。

ウェーバーの『行動的禁欲』説は、資本主義の起源に関する定説的位置にあるようだが、以前から釈然としていない。
ゾンバルトのいうように、ユダヤ人の影響をもっと考慮すべきだ。

明治維新における尊皇思想の役割も過大評価しすぎではないか。
廃藩置県が無事行われたのは、江戸期における国替え、改易等の延長上にとらえられるべきだろう。

『天皇教』なくして、大正デモクラシーがあり得なかったどうかは、議論の余地がある。
『天皇の前の平等』を持ち出さなくとも、それなりの平等観なり平等意識なりは伝統社会の中にもあったのではないか。
明治維新を高く評価するあまり、伝統社会の可能性を過小評価しているように思える。
ただ、著作中に言及はなかったが、ナショナリズムまで視野に入れた場合の『天皇教』の有効性は大きなものがあったろう。

ナショナリズムは、『天皇教』にとって両刃の剣であったろう。
海外進出時に『天皇教』を広めるのは、現地からの反発も大きく、また欧米列強との対話も難しくなったろう。
戦後、『天皇教』が排除された必然性は、それなりにあると思われる。
そのためもあってか、著者も『天皇教』の復活に類する主張は何もしていない。

GHQの指示で『天皇教』は倒れたのか?
それ以前に、国家総力戦の中で、特攻や玉砕を続ける中で、あるいは多くの都市が焼き尽くされる中で、その命脈をすり減らしていたのではないのか。
であればこそ、抵抗らしい抵抗もなく倒れ、復活の試みもほとんどなされなかった。
『天皇教』は、真の国家伝統とは違うところで、人工的に接ぎ木されたものであったがゆえに、しぶとい生命力を持ち得ないのではないか。


戦後のアノミーは、日本人特有の問題とは必ずしも言えない。
程度は違えど、文明国全体が同じ問題を共有しているようにも思える。
マーケット至上主義を思想史上どう位置づけるのか。
『マーケットの前の平等』をどうとらえるか。
マーケットこそが、国家をしのぐ真のリヴァイアサンではないか。
この著作にはこういった観点が全く存在しないが、結果として、読者を読後五里霧中の中に置き去りにしているような観がある。




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