※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

静まり返った廊下に出て、自室のドアをそっと閉める。
蝶番が軋むわずかな音さえ気になって辺りを見回してしまう。
誰かの部屋から小さな咳払いが聞こえた。

忍び足で階下まで降りる。薄暗いロビーは少し怖い。
玄関脇の、警備員室の小窓から漏れる灯りに誘われるように近づいて
少し背を丸めて覗き込んだ。

「おはようございます」

「ああはい、おはようございます。はいはい秋山さんね」

初老の警備員さんは右耳からラジオ用のイヤフォンを引き抜くと
時間外の外出許可リストと私の顔を交互に見比べながら何度か頷いて、
気をつけて行ってらっしゃい、と目尻に深い皺を作った。



玄関のガラス扉を押し開けると、ひんやりとした外気が頬を撫でた。
5月といってもこの時間帯はまだ肌寒いはずなのだけれど、
前もって言われていた通りに厚着をしてきたのでかえって暑いくらいだ。

「上着はコンビニに行ってからでもよかったかな……」

少し汗ばんだ首筋をてのひらで拭って、ジーンズの左ポケットから携帯を抜き出す。
ディスプレイに表示されている時間は、午前1時55分。

寮の正門を出て、待ち合わせ場所にと指定されたコンビニまで急ぐ。
点滅信号を小走りで渡って幹線道路に出ると、目的地はもう目の前だ。

店の前の歩道に黄色いビッグスクーターが停まっている。
買い物中かと思いながら近づいたら、車体の影から持ち主がひょっこり顔を覗かせた。



「おはよ」

「おはよう。何してたの?」

「ん、走る前に足回りの点検をね」

頭のてっぺんで結んだ髪を揺らして、スクーターの持ち主がニカッと笑う。
普段は身につけていない大振りな腕時計にちらりと視線を落として、
さすが澪、時間ぴったりだ、ともう一度笑みを浮かべた。

「よしよし、ちゃんと暖かい格好もしてきたみたいだな」

「うん、ちょっと暑いくらい」

「走り出したら結構冷えるから、そのくらいでいいよ」

「でも律、なんでコンビニで待ち合わせなんだ?」

「この時間に寮の駐輪場でエンジン掛けたら、結構響いちゃうからな」

ガムとかおやつも買っておきたかったし、と彼女は付け足して
スクーターのシートをぽんと叩いた。






…………


律は高校を卒業する少し前からこっそりと自動車学校に通い始め、
大学の寮に入る直前に普通二輪免許を取得した。

どうして車ではなくバイクの免許なのかと訊ねた私に
前々から乗りたいと思っていたと彼女は答えたけれど、
バイクに興味があるなんて話、それまで一度も聞いたことはなかった。

そして大学入学とほぼ同時にアルバイトを始めた律は、
同じ年の秋に中古のビッグスクーターを買った。

車種とか足回りとかカスタムがどうのとか色々と説明されたものの、
なんだか工事現場が似合いそうな面白いデザインだなということ以外、
私にはよくわからなかった。

ただ、黄色いフレームを選んだ辺りが律らしいなと思ったことは、
今もよく覚えている。



「じゃ、そろそろ行くか」

「うん」

手渡されたヘルメットをぎこちなく被る私に気付いて、
律があごひもの具合をチェックしてくれた。
OKマークが目の前に差し出され、ほっと息を吐く。

グローブも着けて、スクーターに乗る前に律から簡単なレクチャーを受ける。

「走ってる時は両膝で私の腰を挟んで、手はその上か、シート横のグリップ握って」

「うん」

「強くしがみつくと運転しづらくて危ないからダメだぞ」

「うん」

「カーブで車体が傾いた時は変に逆らったりせずに流れに任せとけよ、大丈夫だから」

「う、うん」

「それと走ってる時は声ほとんど聞こえないから、停めて欲しい時は背中を2回叩いて」

「わかった」

「最初はゆっくり走るから、怖かったらすぐ合図な。OK?」

「OK」



タンデムステップに足を掛けて、恐る恐るシートに跨がる。
私が落ち着いたのを確認して、律が跨がり車体がまっすぐ起こされる。
カション、と左下のほうでサイドスタンドが跳ねる音が聞こえた。

言われた通りに膝の内側で律の腰をホールドして、手はその少し上に添える。
グローブを着けた律の指先がコツコツと左側のミラーを弾いて、
ミラー越しに小首を傾げてみせた彼女に頷く。


ウインカーがカチカチと音を立てて点滅し、
ふたりを乗せたスクーターはふわりと弧を描くように車道へ出た。
体が後ろにのけぞって、思わず律の上着をぎゅっと掴む。

ゆっくり走ると言っていたし、実際ゆっくり走ってくれているのだろうけれど、
風を切る音のせいか、視界がままならない夜のせいか、思ったよりも速く感じる。
やばい、ちょっと怖いかも……。



「……ん?」

律のヘルメットの、後ろ側。
クリアホワイトの地色に目立たない銀色のマジックで、何か文字が書かれている。
小さくてよく見えない。上体を少し前に倒して目を細めてみる。

「……ぶっ」

その文字を読み取れた瞬間、噴き出してしまった。
ヘルメット同士がこつんとぶつかる。

視線を感じて斜め前方を見ると、
してやったりと言いたげに笑っている律とミラー越しに目が合った。






----------



「どう?大丈夫そう?」

広い国道沿いのコンビニで、律がミルクティーの缶を放ってよこす。

「うん、なんとか。……ていうか、なんだよそのメットの文字」

「いやぁ、澪気付くかなーと思って」

「メットにリコピンて……ばかじゃないの」

盛大に溜息を吐いてやったのに、
書いた本人は、懐かしいだろ?と言いながら何食わぬ顔でコーヒーを啜っている。

「まあ、除光液で拭けば落ちるし。それに、」

「うん?」

「リラックスできたっしょ?」

…………ああ。






休憩は早々に切り上げて、片側2車線の左側を法定速度で走る。
遠い県名が記されたナンバーのトラックが轟音を立てて追い抜いて行くたびに、
ふたりを乗せた小さな車体が風にあおられて揺れる。

ミラーには少し緊張気味の律の顔が映り込んでいる。
グリップを握り直す彼女の手につられて、ジャケットを掴む手に力が入る。

そんな調子で何十キロか走り続けて、大きな交差点の前でスクーターが減速した。
ウインカーを光らせてゆっくりと左に折れる。
追い抜くトラックどころか、前後にほとんど車もいないゆるやかな片側1車線。
見上げた空に星が増えていて、都心を離れたんだなあと実感する。

シールドの下から入り込んでくる風はまだひんやりとしているものの、
厚着をしているお陰で寒さはほとんど感じない。

道の先に、煌煌と灯るコンビニの看板が見えた。
律の背中をぽんぽんと叩いてから、左手を伸ばして看板を指差す。
私の指先を追うように看板を目視して、律は左手でOKマークを作った。



「澪、疲れたか?」

シールドを上げた律が、グローブを外しながら訊ねる。

「私じゃなくて律が疲れたかなと思って。結構走ったし」

「ああ……そっか。ありがと。乗ってるの馴れてきた?」

「うん。ちょっと楽しくなってきた」

「そか、良かった」

ほっと息を吐いた律に笑みを返す。

「何か飲む?」

「いや大丈夫。あ、トイレ行っとこうかな。澪どうする?」

「ん、私も行っとく」

ヘルメットを脱いで、ぺったり張り付いた髪を手櫛でわしわしと整える。

律は手首に引っ掛けたヘアゴムで前髪を結びながら、
徐々に色を持ち始めた空に視線を投げ、夜明けが近いな、と呟いた。






----------



どこにでもありそうな地方都市の駅前通りを走り抜ける。
浅い色をした早朝の空気に、わずかに潮の香りが混ざっているのを感じる。

いくつかの交差点を抜け、シャッターの降りた商店街を走り、
電車のレールが交差する三叉路を右折してゆるい左カーブを越えたところで、
きらきらと光る海が視界の先に広がった。

「海だ」

見れば分かると笑われそうだなと思いながら、それでも言わずにいられなかった。
海だ、ともう一度声に出してみる。

私の声が聞こえるはずはないのに、律がミラー越しにこちらを見て笑っていた。





「なあ澪」

「何?」

観光地として有名な小島の駐輪場にスクーターを停めて、
まだ土産物屋も開いていない静かな路地を並んで歩く。
人慣れした様子の猫が足元をすり抜けて、建物の隙間に入り込んで行くのを目で追う。

「さっき、海だーって言っただろ」

「えっ……聞こえた?」

「いや、聞こえはしなかったんだけど、多分言っただろうなと思って」

「なんで分かったの?」

「私も初めてあの景色見たとき、海だーって叫んだから」

「……」

「言いたくなるよな?なんでかわかんないけど」

「うん、」

わかると応えて頷いたら、律は満足そうに口角を上げた。

小一時間ほど島内を歩いて、再びスクーターに跨がる。
海と線路に挟まれた直線道路を潮風に吹かれながらのんびりと走る。
寄せてくる波間にウェットスーツ姿のサーファーが点在しているのが見える。






4人揃って2年生に上がって、梓たちも無事大学生になった4月の終わり。
律から突然ツーリングに誘われた。

どこに行きたい?と聞かれて、
以前律が綺麗だったと話してくれた海沿いの風景を見たいと答えた。

スクーターを手に入れてから律はたびたびツーリングに出掛けていたけれど、
これまで私を誘ってくれることは一度もなかった。

「律」

小さな声で名前を呼んでみる。
お互いのヘルメットと風の音に遮られて彼女の耳には届かないけれど。

ヘルメットに書かれたくだらない落書きに視線を移して、また少し笑った。






----------



寺社仏閣が立ち並ぶ観光エリアはパスして、
太平洋に迫り出した半島の海岸線をトレースするように走る。

日が徐々に高くなり少し暑さを感じ始めた。上着のジッパーをちょっとだけ下げる。
首筋を撫でる風がくすぐったい。


漁港の脇にある産直市場に立ち寄って、朝ご飯を食べることにした。
威勢の良い声がアチコチで響く市場の中を冷やかしながら歩く。

カラリとした油の香りが鼻孔をかすめてお腹の虫が鳴いた。
おばちゃんのほがらかな笑顔にも誘われて、コロッケを2つ買って外に出る。
船着き場に面した東屋に並んで座って、買っておいたコンビニのおにぎりを取り出す。

「いただきます」

「いただきまーす」

ふたり一緒に、揚げたてのコロッケにかぶりつく。






「はふっ、ん、おいし……」

「だろー?ここのマグロコロッケ、すごく美味しいんだよ」

「うん、ほんと美味しい」

「よかった。澪にも食べさせたくてさ」

「……そっか。ありがと」

「……うん。あっ、梅おにぎりもーらいっ」

「がっついたら喉に詰まらせるぞ」

「らいひょーふらいひょーふ」

「ほら、ご飯粒飛んでる。食べながら喋るなって」

律にお茶のペットボトルを手渡して、辺りの風景に視線を投げる。

休日の漁港は軽装の釣り人たちでにぎわい、
その頭上ではトンビが高い声で鳴きながら旋回している。
……あ、ここから富士山が見えるんだ。



「ねえ律」

「んー?」

「このあとのルートはどんな感じ?」

お茶でおにぎりを流し込んで、そうだなあと律が応える。

「海岸沿いをぐるっと走って、反対側にある灯台まで行く予定」

「灯台かぁ……」

「何か歌詞浮かびそう?灯台的な」

「なんだよ灯台的って……。ん、なんかちょっと演歌っぽいイメージが……」

「はは、確かに。……ふう、美味しかった」

満足げにお腹をさする律を見て、美味しかったなと相槌を打つ。
一緒に手を合わせて、ごちそうさまでした、とふたりの声が重なった。






----------



キキーッ!

突然甲高い音がして、身体が律の背中に強く押し付けられた。
ふたりのヘルメットが激しくぶつかって鈍い音を立てる。

スクーターはよろよろと危うげに揺れながら、車道脇に停車した。

「……ッ!!」

律が何か叫んだ。
顔を上げると、黒い軽自動車が行く手を遮るように中途半端な向きで停まっていた。

「澪、大丈夫か?」

シールドを上げて振り返った律の表情に、どくんと心臓が鳴る。
咄嗟に声が出ず、なんとか頷いて応える。

律は少しほっとしたように息を吐くと、降りて、と手振りで私に指示を出した。






「あーっ!むかつく!」

両手を大きく振り上げて律が吐き捨てる。
軽自動車は、近づこうとした律の身体をかすめるように急発進して走り去ってしまった。
慌てて飛び退いた彼女の姿に、生きた心地がしなかった。

「なんだよあいつ、ウインカーも出さないで強引に曲がってきたくせに!」

「びっくり、したな……」

「ああもう、くそっ」

「でも……でも、事故にならなくてよかったよ」

「そうだけどさ」

「だから、律も興奮しないで。ね?」

まだ少しふるえていることを悟られないように、律の袖を掴む。
袖を掴んだ手から私の顔に視線を移して、律は振り上げていた両手をゆっくりと下ろした。





「……ごめん。澪のほうが怖かったよな」

「律のせいじゃないし、大丈夫だから」

「……」

「そこの自販機で、落ち着くまで休んでく?」

そう提案すると律は少しばつの悪そうな顔をして、
私が指差した先を目で追いながら、そうだなと頷いた。



「ごめんな」

お茶のペットボトルを両手で弄びながら、律がまた謝罪の言葉を口にする。

「謝らなくていいって」

「澪を危ない目に遭わせたと思ったら、なんかスコーンと飛んじゃって」

「……」

「ホントごめん」

「……」

沈黙に耐えられなくなったのか、律は黙ったままペットボトルを口元に運んだ。
こくりこくりと喉が動く。



「…………リコピン」

「ぶっ?! げほげほっ」

お茶を盛大に噴き出して咳き込んだ彼女の背中を、笑いながらさする。

「げほっ……、澪、おまっ、何をいきなり」

「ごめんごめん」

「はぁ……くるし……。勘弁してよもう」

「ごめんって。でも、なんで可笑しいのか未だに分からないんだけど」

「え? あー……うん、それは私も」

なんでだろうねと少し考えて、
そういうお年頃?と首を傾げた律と目を合わせ、同時に噴き出す。


2/2